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共鳴獣と耳の聞こえない俺 世界を救ったのは“静寂”でした  作者: 妙原奇天


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後編

第十一話 結衣の疑念と、秘密の距離

 最近の御影蓮斗は、明らかにおかしい。

 それを一番最初に感じ取ったのは、クラスでも剣道部でもなく、幼馴染の桐谷結衣だった。

 きっかけは、何でもない授業中のことだった。

「じゃあ、この問題、御影」

 数学教師に名指しされ、蓮斗は立ち上がる。

 黒板の前に歩いていく背中は、いつも通りだった。姿勢は少し猫背で、教科書はわりとボロボロ。難聴ゆえに先生の口元をよく見る癖も、昔から変わらない。

 でも――

(今、明らかに一拍遅れた)

 結衣は、教室の後ろの席からじっと見ていた。

 先生に呼ばれた瞬間、いつもならすぐに顔を上げるはずの蓮斗が、ほんの一瞬だけ固まったのだ。聞き逃したという感じではない。何か別のことを考えていて、この教室に戻ってくるまでにタイムラグがあった、そんな感じ。

 ここ数週間、そういう瞬間が何度もあった。

 それだけではない。

 音楽室の前を通るとき、彼はさりげなく歩く速度を上げる。ブラスバンド部の練習の音が漏れてくるのを避けるみたいに、視線をやや下に落とす。

 体育館から吹奏楽の合奏が聞こえてくると、無意識に耳のあたりに手をやる。補聴器を直す動きに紛れているけれど、結衣には分かった。

(レン、音が怖いんだ)

 昔は、そんなことなかったのに。

 小さい頃から、蓮斗は「聞こえないから」と音楽の授業で歌うのをあまり好きではなかった。それでも、みんながカラオケに行くときは必ずついてきて、マイクを握った結衣や友だちの声を、隣のソファで楽しそうに聞いていた。

 それが今は、まるで音そのものを避けているみたいに見える。

 そして。

「今日、放課後どうする?」

 掃除時間が終わったあと、結衣が机に突っ伏している蓮斗の背中をコン、と軽く叩いた。

「この前言ってた新作クレープ、冬矢先輩も誘って三人で行かない? 期間限定のイチゴのやつ、絶対レン好きだよ」

「あー……ごめん。今日は用事ある」

「用事?」

「ちょっと、親父のノート見返したくてさ」

 その言い方は、嘘ではないのだろう。ただ、本当にそれだけなのかどうかは分からない。

 何より、結衣が引っかかったのは、その次の瞬間だった。

 彼女はわざと冗談っぽく言った。

「なにそれ、モテモテ男子みたいな断り方。『ごめん、世界を救いに行くから』みたいな」

 軽口のつもりだった。

 いつものレンなら「せめて宿題くらいにしとけ」と笑って返してくれるはずだった。

 けれど、この日の蓮斗は違った。

「……本気じゃないだろ、それ」

 顔も向けずに、ぽつりと言ったのだ。

 結衣は、一瞬だけ呼吸が止まった。

(何それ)

 胸の奥が、ざわりと波打つ。

 これは、別に大したことじゃない。軽い冗談に対して「本気じゃないだろ」と返されただけ。友だち同士の会話でよくある、他愛のないやりとり。

 なのに。

 最近の蓮斗は、そういう「本気ではない部分」を、妙に的確に拾いすぎる。

 クラスの女子が「勉強なんて意味ないよねー」と笑いながら言ったときも、「それ、本気で言ってないよな」と真顔で返していた。

 男子が「マジでテスト赤点だったわ」と盛って話したとき、「実際はギリ三十点台だろ」と当てて、場を微妙な空気にした。

 笑い話ですむならいい。

 けれど、ときどき、笑えないところまで踏み込んでしまう。

 結衣は、そんなレンを見るたびに、じわじわと距離の変化を感じていた。

     ◇

 放課後。

 中庭を抜けて、駅へ続く坂道を歩く。

 今日は冬矢が部活で遅くなるらしく、二人だけだ。

 空はうっすらと曇っていて、太陽は薄いフィルム越しに見える。

 風は涼しいはずなのに、胸の奥は妙に熱かった。

「……ねえレン」

 信号待ちの横断歩道の前で、結衣は意を決して口を開いた。

「最近さ、ちょっと変じゃない?」

「何が」

「全部」

 食い気味にそう言ってしまってから、「しまった」と心の中で頭を抱える。

 こういうときは、一つずつ具体例を挙げるべきなのに。いきなり「全部」とか言ったら、ケンカを売っているように聞こえる。

 案の定、蓮斗は少し眉をひそめた。

「雑だな」

「雑じゃないもん。本気で言ってるから」

 自分でも、声が少し上ずっているのが分かった。

 信号が青に変わる。車のエンジン音、ブレーキのきしむ音、遠くの踏切の警報音。世界が一斉に動き出す中で、二人の会話だけが浮いていた。

 横断歩道を渡りきったところで、結衣は立ち止まる。

「ねえ、レン」

 もう一度、真正面から名前を呼ぶ。

「隠してること、あるよね」

 心臓が、嫌になるくらい大きな音を立てた。

 自分の鼓動が、耳の奥でドクンドクンと響く。

 こういうときは、いつもなら「気のせいだって」と笑ってごまかすところだ。でも、今日はどうしても、それを言えなかった。

「……なんで、そう思う」

 蓮斗の声は、少しだけ低かった。

「目が合わないから」

 結衣は、あえてシンプルに言った。

「前は、こっちが名前呼んだら、ちゃんと目を見て返事してくれてた。最近は、なんかさ。二回くらい呼ばないと戻ってこないときあるじゃん」

「そんなことないだろ」

「ある」

 即答だった。

 蓮斗が、ほんのわずかに言葉に詰まる。

 その様子を見て、結衣は言葉を足した。

「あと、音楽室の前、通るとき。絶対、耳に触ってる」

「それは……」

「ブラスバンド部の音がうるさいからでしょ、って言うんだろうけど。前はそんなことなかったじゃん。私たち、音楽室の前を通るたびに『あの曲、誰のだっけ』って話してたの覚えてる?」

 あのときは、まだ小学生だった。

 放課後の音楽室から漏れてくる合唱曲のメロディーを、二人で口ずさんだこともある。

 蓮斗は歌がうまいわけじゃない。でも、結衣の隣で、少し遅れて歌詞をなぞる声が、結衣は好きだった。

「最近のレンは、音を避けてるように見える」

 言葉にしてしまうと、余計に胸が締め付けられた。

「私、音楽大好きだよ。ライブも、路上ライブも、地下アイドルも。でも、レンはいつも一緒にいてくれた。音が好きじゃないくせに、私が好きって言うから付き合ってくれてた」

 それなのに。

「こないだの、ハコ・エコーのときからだよね」

 あのライブハウスの名前を出した瞬間、蓮斗の肩がぴくりと揺れた。

「エリカちゃん、死んじゃって。私、今も信じられないけど……」

 喉の奥が、熱くなる。

 あの日、ライブハウスから救急車で運び出された誰かの姿を、結衣は遠くから見ることしかできなかった。

 あの夜のことを思い出すと、今でも脚が震える。

「それから、レンは変わった」

 結衣は、ぎゅっとスカートの裾をつかんだ。

「授業中、たまにどっか見てる。放課後、誘っても断ることが増えた。他人の嘘とか本音は妙に見抜くくせに、自分のことになると全然喋ってくれない」

「……お前、観察力高すぎだろ」

 蓮斗が、自嘲気味に笑った。

「それ、褒め言葉?」

「さあな」

 彼は、視線を道端の植え込みに落とした。

 白い小さな花が咲いている。通り過ぎる人たちの笑い声や、車の走行音が、遠く感じられた。

 蓮斗の耳には、結衣の心音が、はっきりと聞こえていた。

 ドクン、ドクン、と。

 いつもより、少しだけ速い。

 声の震え。呼吸の浅さ。喉を鳴らす小さな音。

 全部が、「勇気を振り絞っている」という事実を物語っていた。

『言ってもいいんじゃない?』

 頭の奥で、ソノが軽く言う。

『共鳴獣とか、父さんのノートとか、どこまで話すかはともかくさ。全部抱え込んでると、君まで潰れちゃうよ』

「潰れない」

 心の中でだけ、即答する。

 口には出さない。

 喉まで出かけた本音を、ぎりぎりのところで飲み込む。

 共鳴獣。エリカの死。父のノート。共鳴都市。

 そのどれも、結衣の世界を壊すには十分すぎる。

 結衣が大事にしてきた「音楽」を、汚しかねない。

「……レン?」

 沈黙に耐えきれず、結衣が問いかける。

「隠してること、あるよね」

 もう一度、同じ言葉。

 それは責めるような声ではなく、縋るような響きだった。

 蓮斗は、ゆっくりと息を吐いた。

「あるよ」

 否定しなかった。

 結衣の体が、びくりと揺れる。

「でも」

 蓮斗は、言葉を続ける。

「今はまだ言えない」

「……どうして」

「お前に関係ないことだから、とか、綺麗事は言わない」

 自分で言っていて、胸が痛くなる。

「ただ」

 結衣の目を見る。しっかりと。

 瞳の中に、自分の顔が映っていた。

「お前だけは、絶対に巻き込みたくないんだ」

 それが、今言える精一杯の本音だった。

 結衣は、一拍置いてから、泣きそうな顔で笑った。

「それが一番ズルいよ」

「ズルい?」

「うん」

 結衣は、唇を噛みしめる。

「守りたいって言いながら、一番大事なところで信用してくれないの?」

「信用してないわけじゃ――」

「じゃあ、言えばいいじゃん」

 結衣の声が、一瞬だけ鋭くなった。

 道行く人たちが、ちらりとこちらを見る。

 それでも、結衣は一歩も引かなかった。

「私さ」

 彼女は、ふと目線を遠くに投げる。

「小学生の頃、覚えてる?」

「どの話だよ」

「レンの補聴器を、クラスの男子がバカにしたとき」

 遠い記憶が、鮮明に蘇る。

 体育の時間。教室に置いていた補聴器を、誰かが勝手に触った。

『これ付けたらロボットみたいじゃね?』

『御影ー、おーい聞こえてますかー?』

 ふざけた声。笑い声。教室の隅で、補聴器が机の上を転がされていた。

「私、あのとき、マジでキレたんだからね」

 結衣は、少し誇らしげに言った。

「机ひっくり返して、『返せ』って叫んで。先生にも怒られたけど」

「覚えてるよ」

 蓮斗は、思わず笑いそうになった。

「あんとき、お前、マジで怖かった」

「だって、ムカついたんだもん」

 結衣は、頬をふくらませる。

「レンの補聴器はさ、レンの耳みたいなものでしょ。それをおもちゃみたいに扱われるの、どうしても嫌だった」

 小さな身体でクラスメイトに立ち向かった、あの日の結衣。

 震える膝を隠しながら、机を押し倒した。

 その瞬間の音は、今でも耳に残っている。

「あとさ」

 結衣は、声を少し落とした。

「レンのお父さんの葬式の日」

 ――あの日。

 黒い喪服。線香の匂い。大人たちの押し殺した声。

 棺の前で、蓮斗は泣きじゃくっていた。

 世界が音を失ったような感覚の中で、何も聞こえず、ただ喉がひくひくと震えるだけだった。

「私、何もできなかった」

 結衣は、ぎゅっと拳を握る。

「レンの背中をさすって、『大丈夫だよ』って言うことしかできなかった。全然大丈夫じゃないのに」

 あのときの自分の無力さが、ずっと胸に残っていた。

「だからね」

 結衣は、まっすぐ蓮斗を見つめた。

「あの時からずっと、レンを守りたいって思ってた」

「……」

「補聴器のことを笑うやつがいたら、私がぶん殴る。レンが泣いてたら、一緒に泣く。そういうの、勝手に自分の中で決めてたの」

 それなのに、と結衣は続ける。

「最近は、逆に置いていかれてる気がするんだ」

 声が震える。

「レンの中で何が起きてるのか、私だけ知らない。エリカちゃんのことも、ハコ・エコーのことも、父さんのノートのことも……きっと何かあるんだろうなって分かるのに、教えてくれない」

「お前に危ないことをさせたくないからだよ」

「それもズルい」

 結衣は、笑った。

 笑っているのに、目元が少し赤い。

「危ないことをさせたくないっていうのは、レンの優しさだと思う。でも、それを理由に何も話してくれないのは、ただの“独り占め”だよ」

「独り占め?」

「レンの世界を、レンだけで抱え込んでる」

 結衣は、自分の胸を軽く叩いた。

「私さ、レンのこと、ちゃんと見てきたつもりなんだ。補聴器のことも、父さんのことも、難聴のことも。全部ひっくるめて、『レンが好きだな』って思ってきた」

 不意に出た「好き」という言葉に、蓮斗の心臓が跳ねた。

 結衣自身も、一瞬だけ言葉に詰まり、それから慌てて付け足す。

「幼馴染として、ね! 変な意味じゃなく!」

「変な意味って何だよ」

「自分で考えなさい!」

 赤くなった頬を隠すように、結衣は視線をそらした。

 少しだけ空気が和らぐ。

 けれど、その後に続いた言葉は、やはり重かった。

「だからね、レン」

 結衣は、再び真剣な目で見つめてくる。

「私を守りたいって言ってくれるのは嬉しいよ。でも、それと同じくらい、『信用してるよ』って言ってほしい」

「信用してる」

 即答だった。

「だったら」

「けど」

 蓮斗は、言葉を重ねた。

「本当に信用してるからこそ、今は言えない」

「……」

「お前が、音楽を好きでいられる世界を、できるだけ長く守りたい」

 それが、彼の本心だった。

 共鳴獣や共鳴都市の真実を知れば、結衣はライブハウスの音を、心から楽しめなくなるかもしれない。

 人を壊す音。人を喰う音。

 そういう現実を知ったうえで、それでも歌を愛せるかどうか。

 そんな残酷な問いを、今の結衣に突きつけたくなかった。

「……ほら」

 結衣が、小さく笑った。

「やっぱりズルい」

「そうか?」

「そうだよ」

 彼女は、少しだけ上を向く。

 涙がこぼれないように。

「『守りたいから、言えない』っていうのは、聞こえはいいよ。すっごく優しい言葉に聞こえる」

 耳の奥で、ソノがぽつりと漏らした。

『人間って、嘘をつくときのほうが、綺麗な音を出すんだね』

 蓮斗は、心の中で「黙ってろ」と返した。

 自分の言葉が全部嘘だとは思っていない。守りたいという気持ちは、本物だ。

 でも、その本物の中に、きっと自分のエゴも混ざっている。

 誰にも知られずに、「特別な耳を持った自分」と「父の残した謎」を抱え込んでいるほうが、どこかで心地いいのかもしれない。

 そういう醜さを、ソノは容赦なく指摘してくる。

「……分かった」

 結衣が、ふっと息を吐いた。

「今、ここで全部教えてって言ったら、レン困るでしょ」

「まあ」

「だから、やめとく」

 少しだけ肩をすくめる。

「私、そんなに鬼じゃないし」

「助かる」

「でも、ひとつだけ」

 結衣は、人差し指を立てた。

「約束して」

「約束?」

「いつか」

 真剣な目で、言葉を紡ぐ。

「レンが『もう大丈夫だ』って思えたときでいいから。そのときは、ちゃんと話して。隠してたこと全部」

「……」

「聞いて、嫌になるかもしれないし、怖くなるかもしれない。でも、それでも、ちゃんと聞きたいから」

 その眼差しは、逃げ道を塞ぐものではなかった。

 ただ、「一緒に背負わせて」と言っているように見えた。

 蓮斗は、しばらく黙ってから、ゆっくりと頷いた。

「ああ」

 短く。

「約束する」

 それが、今の自分にできる、唯一の誠意だった。

 結衣は、「じゃあ信じてあげる」と小さく笑った。

「疑ってばかりじゃ、幼馴染失格だしね」

「いや、さっきまでだいぶ疑ってたけどな」

「それはそれ、これはこれ!」

 結衣が、軽く肩を小突いてくる。

 その力加減が、少しだけ弱いことに気付いて、蓮斗は胸の奥が痛んだ。

 今までみたいに、何でもない顔で笑い合える日常は、もう戻ってこないのかもしれない。

 それでも――

 約束した。

 いつか必ず、全部話すと。

 その「いつか」が来るころには、この街の音も、自分たちの関係も、きっと今とは違う形に変わっている。

 その変化が、良いものなのか、悪いものなのかは分からない。

 ただひとつだけ言えるのは。

 この日を境に、二人の間に初めて生まれた「秘密の距離」は、簡単には埋まらないということだった。

 帰り道。

 結衣は、いつもより半歩だけ前を歩いた。

 蓮斗は、その背中を追いかけるように歩く。

 耳には、彼女の心音が、少しずつ落ち着いていくのが聞こえていた。

 その音は、混じりけのない、綺麗なリズムだった。


第十二話 共鳴庁の地下ホール

 そのメールは、何の前触れもなく届いた。

「ハコ・エコーの件について、お話ししたい。共鳴対策庁・九条」

 本文はそれだけ。添付されたPDFには、簡単な案内図と来庁時間の指定、そして「任意同行」であることが強調されていた。

『任意って書いてあるときほど、実質強制なんだよね、人間の世界って』

 ソノが、メール画面を覗き込むみたいに言った。

『断ったら断ったで、“協力しない共鳴体”ってタグ付けされそう』

「分かってる」

 スマホを伏せる。

 行きたくない。正直、関わりたくない。

 けれど、ハコ・エコーの件を完全に隠し通せるとは思っていなかった。あれだけ派手に共鳴獣を暴れさせ、エリカが死に、客も倒れた。

 共鳴対策庁が動かないはずがない。

 断れば、もっと面倒な形で迎えに来るだけだろう。

 俺は、まず本田刑事の番号をタップした。

「……で、共鳴庁から呼び出しか」

 事情をざっと話すと、電話の向こうで本田が渋い声を出す。

「九条って名前、出たか?」

「はい。メールの署名も九条でした」

「やっぱりな」

 本田は、ため息まじりに言った。

「まあ、完全に無視するって選択肢はないな。逃げ回っても、向こうは“音”を辿ってくる」

「ですよね」

「ただ、一人で行くのは危ない。こっちからも一応話は通しておく。少なくとも、すぐに解剖室行きってことにはならねえようにな」

「物騒な冗談やめてください」

「冗談だよ」

 お前がもっと軽い性格ならな、と本田が苦笑する気配が伝わってくる。

「いいか、蓮斗。あいつらは“守る”って言葉と“利用する”って言葉を、ほとんど同じ意味で使う連中だ。何を聞かれても、全部正直にペラペラしゃべるなよ」

「分かってます」

「それから」

 本田の声が、少しだけ低くなった。

「“お前と一緒にいるやつ”のことは、くれぐれも慎重にな。今はまだ、カードとして隠しておけ」

 ソノのことだ。

 俺の頭の中で、黒い煙がふわりと揺れる。

『ほらほら。俺ってレアカードらしいよ』

「レアすぎて、コレクターに狙われそうなんだよ」

『お、それは困る』

 本田との通話を切る。

 結衣に行き先をどうごまかすか、冬矢には何て言うか――そんなことを考える前に、心臓の鼓動が早くなっていくのが分かった。

     ◇

 共鳴対策庁のビルは、想像していたよりもずっと「普通の」外観をしていた。

 駅から少し離れたオフィス街の一角。ガラス張りの高層ビルがいくつも並ぶ中のひとつに、控えめなプレートで名前が記されている。

「共鳴対策庁」

 通り過ぎる人たちは、特に気にしている様子もない。

 近くにはカフェチェーンやコンビニもあり、スーツ姿の会社員たちが行き交っていた。

「もっと、いかにも“秘密機関です”みたいな見た目かと思ってた」

『表から見えるところはね』

 ソノが、くすりと笑う。

『音は、もうちょっと面白いことになってるよ』

 言われて、意識を集中させる。

 車の走行音。信号機の電子音。人の足音。スマホのバイブ音。街のざわめき。

 それらが、ビルの前の歩道までは普通に聞こえていたのに、一歩中へ足を踏み入れた瞬間――

 すっと、消えた。

「……静か」

 自動ドアが閉まる。

 ロビーは天井が高く、白を基調とした内装。受付カウンターと、来客用のソファが並んでいる。

 人の気配はある。受付の女性がキーボードを打つ音、どこかの部屋でコピー機が動く音、誰かのスーツの袖が擦れる音。

 それでも、外の騒音がまるで別世界の出来事みたいに遠い。

『見えない壁で、街の音を切ってる』

 ソノが、感心したように言った。

『このビル自体が、ひとつの“サイレントボックス”になってるね』

「録音スタジオじゃなくて、悪役のアジトに使われてるのが残念だな」

『君、たまに毒舌だよね』

 受付で名前を告げると、すぐに警備員らしき男性が現れた。

「御影蓮斗さんですね。九条が、お待ちしております」

 簡単な手荷物検査と金属探知ゲートを通され、エレベーターホールまで案内される。

 上へ向かうかと思いきや、案内されたのは、地下行きのエレベーターだった。

 ドアの上に小さな表示板がある。

 B1、B2、B3――その下に、さらに「BH」という見慣れない表示があった。

「BH?」

 小声でつぶやくと、隣に立ったスーツ姿の男が口を開いた。

「地下ホールのフロアです」

 振り向くと、そこには九条が立っていた。

 四十代半ば。痩せ型。いつ見てもシワひとつないスーツを着こなし、ネクタイの位置も寸分の狂いもない。

 声は相変わらず穏やかで、温度がない。

 そして、その胸の奥からは、今日も何ひとつ音が聞こえない。

「お時間いただいてありがとうございます、御影くん」

「……どうも」

 エレベーターの扉が開き、三人で中に乗り込む。

 ドアが閉まると同時に、ふわりと体が浮くような感覚があった。地上の浅い階層とは違う、深く沈んでいく感じ。

 B1、B2、B3と数字が流れていき、やがて「BH」で止まる。

 扉が開いた。

 そこは、白い。

 病院のような廊下が伸びていた。

 床も壁も天井も、光沢の少ない白。間接照明が柔らかく光を落としている。

 左右の壁には、ガラス張りの小部屋が並んでいた。

 その一つひとつに、人がいる。

 ベッドに横になっている者。椅子に座って、窓の外をぼんやりと見つめている者。イヤーマフやヘッドホンを付けている子ども。

 みんな、静かだった。

 でも、耳を澄ますと――

「……」

 色んな音が、聞こえた。

 小さな鼻歌のような音。誰も口を開いていないのに鳴る、不規則なリズム。

 人間の心音が、二重に聞こえる者もいる。

 一つは、普通の鼓動。

 もう一つは、その裏側で、少し遅れて響く「別の心臓」の音。

 共鳴獣のリズムと、人間のリズムが、同じ胸の中で重なり合っている感じ。

『うわあ』

 ソノが、珍しく嫌そうな声を出した。

『ここ、音がごちゃごちゃしすぎて気持ち悪い』

「同類がたくさんだからか?」

『似てるようで、あんまり似てない。どれも、人間の側が壊れかけてる。こっちから言うと、ノイズ混じりのラジオみたいな感じ』

 九条は、そんな俺たちのやりとりなどお構いなしに、淡々と歩いていく。

「ここは、共鳴症候群の患者や、特殊な“耳”を持った人間を保護するための施設です」

 説明口調で言うその声にも、やはり心音は乗っていない。

「保護、ねえ」

 思わず漏れた言葉は、小さくてもはっきり廊下に響いた。

「何か?」

「いえ」

 誤魔化す。

 ガラス越しに、一人の少年と目が合った。

 年齢は、小学生くらいだろうか。大きなイヤーマフをつけ、膝を抱えてベッドの上に座っている。

 視線が合った瞬間、少年の目がわずかに見開かれた。

 その胸の奥から、微かな旋律が聞こえる。

 ……眠れない夜に あなたの隣で――

『あ』

 ソノが、小さく息を呑んだ。

『この子の中にも、少し入ってる』

 エリカの歌。

 あの夜、ソノが取り込んだはずの断片が、別の場所からも微かに聞こえてきた。

 少年はすぐに視線を逸らし、膝に顔を埋めた。

 ガラス越しの部屋からは、誰かの叫び声も笑い声も聞こえない。

 代わりに、漏れ出た共鳴のノイズが、廊下全体に薄く霧のように漂っていた。

「このフロアには、様々なタイプの共鳴体が収容されています」

 九条が、何でもないことのように言った。

「都市部で突然倒れたり、無意識のうちに歌い出した人々。あなたのように、何らかのきっかけで“耳”が変質した人間もいる」

「……みんな、ここから出られないんですか」

「治療の必要があるうちは」

 即答だった。

「ここでは、音響療法や薬物療法によって共鳴レベルを管理し、暴走を防いでいます。同時に、彼らから得られるデータは、今後の対策に役立てられる」

 実験材料とも言えるその言い方に、悪気は感じられない。

 ただ、事実を述べているだけ、という響き。

 足を進めるほど、空気が少しずつ重くなっていく気がした。

 最奥の自動ドアの前で、九条が立ち止まる。

「こちらです」

 扉の上には、「BH-H」の表示。

 九条がカードキーをタッチすると、重たい音を立ててドアが開いた。

 中に足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。

 そこは、ホールだった。

 地下に広がる巨大な空間。

 円形のステージが中央にあり、周囲をぐるりと観客席のような段差が囲んでいる。

 壁一面にはスピーカーがずらりと並び、天井には巨大な反響板が幾重にも吊るされている。

 照明は最低限で、無人のライブ会場のようだった。

『……なんだここ』

 ソノが、素直な驚きを漏らす。

『音を鳴らす前から、音の形が見えてる』

 確かに、このホール自体が、ひとつの「楽器」のように感じられた。

 まだ何も鳴っていないのに、わずかな空気の流れや、人の足音だけで、音の反射パターンが頭の中に浮かぶ。

 ステージ、壁、天井、床。そのすべてが、音を集めて中央へと導くように設計されている。

「ここが、“共鳴スタジアム”の試作です」

 九条が、ステージを見下ろしながら言った。

「共鳴スタジアム……」

「将来的には、都市全体をこうしたホールとして機能させるつもりだ」

 その一言に、背筋が冷たくなった。

「都市全体を……?」

「あなたの父上も、似たような表現を使っていましたね。『誰かが、この街を巨大なライブハウスにしようとしている』」

 九条は、わずかに口元だけで笑った。

「啓司さんは、観察眼に優れた人でした。警察という枠組みの中では扱いづらいほどに」

「父さんと、会ったことがあるんですか」

「何度もね」

 九条は、ステージ脇のモニターの前に歩み寄る。

 そこには、波形や数値が並んだグラフが表示されていた。

「彼は最後まで、共鳴獣の“殲滅”にこだわっていた。人を喰うような存在は排除すべきだと」

「当たり前だろ」

 思わず言葉が荒くなる。

「人を喰う存在を、どう扱うかなんて、議論の余地ないじゃないですか」

「そうでしょうか?」

 九条は、モニターから目を離さない。

「完全な殲滅は不可能です。共鳴獣は、人類が生み出した“音の影”ですから」

「音の……影」

「高度な音響技術、都市の構造、ネットワーク化された音楽配信。人類はここ数十年で、かつてないほど多くの“音”を世界にばらまいてきた」

 九条の声は、淡々としているのに、どこか熱を帯びていた。

「その結果として生じた副産物が、共鳴獣。過剰な音の蓄積が、自律的なパターンとなって現れた存在です」

『ふうん。まあ、半分くらいは当たり』

 ソノが、肩をすくめる。

『でも、“人類のせい”ってだけにするのも、ずいぶん都合がいいね』

「音の影だろうと何だろうと、被害が出てるなら止めるしかないだろ」

 俺は、九条の横顔を睨んだ。

「それに、“音の影”だからって、好きに利用していいって話にはならない」

「その点については、見解が分かれるところでしょう」

 ようやく九条がこちらを向く。

「あなたと、その中にいる“それ”は、きわめて安定した共鳴体だ」

 視線が、俺の頭の中のソノを見透かすように向けられる。

「恐怖と憎悪だけで動く共鳴獣と違い、人間の倫理を部分的に保ったまま力を行使できる。理想的な“兵器”です」

「兵器、ねえ」

 怒りが、じわじわとこみ上げてきた。

「人を喰うような存在を、兵器にしていいわけがないだろ」

「あなたは、すでにそれを行使した」

 九条は、静かに言う。

「ハコ・エコーで。あなたは共鳴獣を切り裂き、数人の命を救った」

「エリカは、死んだ」

 自分でも驚くくらい、低い声が出た。

「救えなかった命もある」

「それでも、あなたがいなければ被害はもっと拡大していたでしょう」

 九条は、一瞬だけ黙り、そして続けた。

「兵器という言い方が気に入らないなら、“ツール”と言い換えてもいい。重要なのは、あなたと“それ”が、制御可能な力だということです」

『制御可能ねえ』

 ソノが、鼻で笑う。

『都合のいいときだけ手袋はめて、その気になったら捨てられるツールって感じかな』

「あなたたちのような共鳴体を、“排除すべき異物”と見る向きもあります」

 九条が、淡々と言う。

「しかし、私は違う。適切な制御と環境さえ整えれば、共鳴獣は人類の防衛線になり得る」

「防衛線?」

「共鳴獣は、音の影として世界に広がっています。都市を離れた山間部や、海上での事例も増えつつある。完全な殲滅が不可能なら――利用するしかない」

「そんな理屈、父さんが納得すると思ってるんですか」

「最初は反対していましたよ」

 九条は、初めてわずかに眉を動かした。

「啓司さんは、人間を喰う存在を“正義の味方”に仕立て上げることに、強い嫌悪感を示していた。あなたと同じようにね」

 父の顔が、脳裏に浮かぶ。

 頑固で、不器用で、でも優しい目をした人。

「けれど、彼は最後にはこう言った」

 九条は、モニターの一つを操作しながら言葉を続けた。

「『俺は、この街の音を全部止めることはできない。なら、せめて鳴らされる側の人間に、選ぶ権利を残したい』と」

「……」

 その言葉が、本当に父のものかどうか、確かめようがない。

 でも、妙にそれっぽいのが腹立たしい。

 九条は、別のモニターの前に立った。

 そこには、波形が表示されている。

「あなたのライブハウスの件で得られたデータです」

 波形が、再生ボタンとともに動き出す。

 空気が、わずかに揺れる。

「眠れない夜に、あなたの隣で歌わせて――」

 聞き慣れたフレーズ。

 エリカの曲の一節。

 あの夜、彼女がステージで歌っていたフレーズが、スピーカーから微かに流れてきた。

 ただし、それは生の歌声ではない。

 加工されたサンプル。音色だけを抽出し、機械的に再現された「断片」だった。

「優れた声は、優れた共鳴源となる」

 九条は、何でもないことのように言う。

「残念ながら肉体は失われましたが、音の断片はこうして再利用できる」

 その一言で、頭の中で何かが切れた。

「……再利用」

 口の中が、カラカラに乾く。

 喉の奥が熱くなり、視界の端がじんじんと痛んだ。

「エリカは、人間だったんだぞ」

 あのライブハウスで、必死に歌っていた少女。

 客の拍手と歓声を浴びて、嬉しそうに笑っていた顔。

 楽屋裏で、緊張を誤魔化すみたいに早口で喋っていた姿。

 あのとき俺の手を握って、「私、もっと歌いたいんだ」と言った声。

 それが今、無機質な波形として、モニター上のデータとして、ホールの空気を震わせている。

「彼女は、共鳴獣に利用されていただけの被害者です」

 九条は、変わらない調子で言った。

「だからこそ、彼女の歌声から得られるデータは、今後の被害を防ぐために活用されるべきだ」

「それを、“再利用”って言うのかよ」

 胸の奥から、怒りがどろりと湧き出る。

 ソノもまた、珍しく感情を露わにした。

『こいつ、本気でボクらを“素材”だと思ってる』

『音さえ残ってれば、人間はいらないって顔してる』

 九条は、こちらの怒りを正面から受け止めても、特に動じた様子もない。

「感情的には理解します。しかし、感情だけでは世界は守れない」

「世界の守り方を、人を切り刻んで決めるな!」

 叫んでから、自分でも驚いた。

 声が、ホールの反響板にぶつかり、少し遅れて戻ってくる。

 それを聞きながら、九条は静かにまばたきをした。

「……啓司さんも、似たようなことを言っていた」

 その名前を出された瞬間、喉の奥がひゅっと詰まる。

「彼は最後まで、“人間側に立つ”ことにこだわった。その結果として、彼はこの場所には来なかった」

 来なかった。

 つまり、ここには「来られなかった」のだろう。

「あなたは、違う選択ができる」

 九条の視線が、再びこちらを刺す。

「あなたと“それ”が、自分たちの意思でどこに立つのか。前線に立つのか、観客席に座るのか、それとも――」

「兵器としてステージに立て、って言いたいんだろ」

「選び方次第です」

 九条は、ほんのわずかに口元を動かした。

「あなたが自分で選び、自分で歩くなら、それは兵器ではなく“協力者”です」

『言い方変えただけだね』

 ソノが、呆れたように言う。

『でもまあ、こういう論理展開、嫌いじゃないよ。分かりやすくて』

「……帰ります」

 それ以上話していたら、本当に何をしでかすか分からなかった。

 こんな場所で暴れたところで、状況は悪くなるだけだと頭では分かっている。

 それでも、拳を握る力が抜けない。

 九条は、少しだけ間を置いてから、警備員に目配せした。

「今日はこれで帰っていい」

 警備員が、「こちらへ」とホールの出口を指し示す。

 背を向けた瞬間、九条の声が、背中に刺さった。

「いずれ、君はここへ戻ってくる」

 足が、一瞬止まりそうになる。

「自分の意思でね」

 その言葉が、ホール全体に反響した。

 俺は振り向かなかった。

 振り向いたら、何かが壊れそうだったから。

 エレベーターに乗り込み、地上へと戻る。

 扉が閉まる直前、地下ホールの空気が、ほんのわずかに耳を撫でた。

 エリカの歌声の断片が、まだホールのどこかで鳴り続けている。

 それは悲鳴みたいで、祈りみたいで――

『レン』

 ソノが、静かに呼びかける。

『ムカつくよな』

「ああ」

 喉の奥から絞り出すように答える。

「ムカつくに決まってる」

『でも、やっぱり面白かった』

「は?」

『あそこまで露骨に“利用する側”の理屈を聞かされるとさ。逆に、どうやってぶっ壊してやろうか考えたくなる』

 ソノの声は、怒りと興奮が混じった、危うい音をしていた。

『君はどうする? 九条の言う通り、こっち側のステージに立つ? それとも――』

「俺は」

 エレベーターが地上に到着する。

 ドアが開き、外の喧騒が一気に押し寄せてきた。

 車の音。人々の話し声。駅のアナウンス。信号の電子音。

 それら全部が、さっきの地下ホールの静寂と対照的で、妙に眩しく感じられた。

「俺は、父さんが見たかった場所まで行く」

 自分でも驚くくらい、はっきりと言えた。

「そのうえで、九条たちの“スタジアム”をぶっ壊すかどうか決める」

『いいね、それ』

 ソノが、愉快そうに笑う。

『なら、とりあえず今は――』

「帰る」

 ポケットからスマホを取り出す。

 通知の欄には、結衣からのメッセージが来ていた。

『今日の放課後、ちゃんと帰ってくる? 帰ってきたら、話、聞かせてね』

 すぐには返事を打てなかった。

 地下のホールで聞いたエリカの声が、まだ耳の奥に残っている。

 共鳴庁の地下ホール。

 あの場所は、俺たちがいつか避けて通れない場所になる。

 それでも、今はまだ。

 俺には帰る場所がある。

 家と、学校と、うるさい幼馴染と、剣道馬鹿な先輩と――

 そして、父のノートと、エリカの残響と、頭の中の共鳴獣。

 全部を抱えたまま、俺は地上の音の中へと歩き出した。


第3章 終の曲と、無音の証明

第十三話 街に響く予兆

 最初は、ただの「不具合」だと思われていた。

「只今、電車が……」

 朝の駅のホームで、いつものアナウンスが途中でぷつりと途切れた。

 続くはずの「遅れております」が来ない。代わりに、スピーカーの奥で何かが擦れるような音がした。

 きし、きし、と。

 金属同士が無理やりこすり合わされているみたいな、嫌な音。

 次の瞬間には、何事もなかったかのようにアナウンスが再開される。

「……まことに申し訳ございません」

 周りの人間は、ほとんど気にしていない。通勤客たちはスマホを見つめ、眠そうな高校生たちは欠伸を噛み殺す。

 俺だけが、あの一瞬に挟まった「ノイズ」の正体を聞き取っていた。

『今の、覚えてる?』

 頭の奥で、ソノが問いかける。

「ああ」

 ホームの天井、柱、線路のレール。そこに溜まった過去のアナウンスの残響が、一瞬だけ同じリズムで揺れた。

 まるで、誰かが見えない指揮棒で一斉に叩いたみたいに。

 揺れが引いたあとも、骨の奥にざらつきが残る。

 それは、ここ数日ずっと続いている違和感だった。

     ◇

「イヤホン、また壊れたんだけど!」

 昼休み、教室の後ろのほうから女子の叫び声が上がる。

「昨日買い替えたばっかなのに!」

「マジ? それ、ただの呪いじゃない?」

「今朝さ、地下鉄の中で一斉に音出なくなったってツイート見たよ。なんか“イヤホン死ぬウイルス”とか言われてた」

「何それ怖い」

 クラスのあちこちで、そんな会話が飛び交っていた。

 SNSを覗けば、「また三秒無音が来た」「最近耳鳴りがひどい」といった投稿がタイムラインを流れていく。

 誰かが動画を上げていた。深夜のリビング、誰もテレビをつけていないはずなのに、真っ暗な画面から雑音とともにかすかな歌声が漏れているもの。

 コメント欄には、「こわ」「フェイクじゃないの」「これも三秒無音?」「幽霊案件」と、好き勝手な言葉が並んでいた。

 けれど、俺の耳には分かる。

「……これ、幽霊の仕業じゃないな」

『そうだね』

 ソノが、窓の外を眺めるみたいに呟く。

『街全体が、楽器になりかけてる』

 その言葉を聞いて、背筋に冷たいものが走った。

 意識を広げる。

 校舎の壁。廊下の床板。グラウンドのフェンス。遠くに見えるオフィスビルのガラス。

 それら全部が、ある一定のテンポでかすかに振動していた。

 トン、トン、トン。

 完全に同じではない。けれど、それぞれが微妙に揺れながら、一つの大きなリズムを形作っている。

 ビルの壁は低音。橋の欄干は中音。地下水路は、もっと深い低周波。

 世界そのものが、「カウントダウン」を始めているみたいだった。

『九条たち、準備を始めたね』

 ソノの声が、いつになく真面目になる。

『都市全体を“共鳴スタジアム”に変えるつもりだ』

 父さんのノートの中に描かれていた、都市の円形構造。

 ライブハウス、スタジオ、クラブ、駅前ビジョン。それらを線で結んだ巨大な円。

 あれは単なる絵ではなく、「設計図」だった。

 今、その線が現実の街の中で光り始めている。

     ◇

 異変は、学校の中にも入り込んでいた。

「はい、そこ、もっと腹から声出して!」

 放課後、音楽室の前を通りかかったときのことだ。

 合唱コンクールに向けて、クラスメイトたちが練習している。ピアノの伴奏と、十数人分の声。

 俺は、いつもなら少し足を止めて、その音の重なりを耳で楽しむ。

 けれど、この日は違った。

 音楽室のドアノブに手をかけた瞬間――

 ぴん、と何かが弾ける音がした。

 次の瞬間、音楽室の中から悲鳴が上がる。

「きゃっ!」

「うわ、何だこれ!」

 ピアノの音が、鍵盤を叩いた覚えのないタイミングで鳴り始めた。

 同じ和音が、滲んだ残響になって何度も何度も重なる。強くも弱くもない、中途半端な音量のまま、鍵盤が勝手に沈んでいく。

 伴奏をしていた音楽教師が顔を歪めて立ち上がる。

「おい、誰だ、ふざけるな――」

 怒鳴りかけたその瞬間、彼の膝ががくりと折れた。

 教師が倒れる。

 生徒たちが一斉に声を上げる。

「先生!?」

「大丈夫ですか!」

 俺は思わずドアを開けて、中に飛び込んだ。

 音楽室の空気が、ぬるい水みたいにまとわりついてくる。

 ピアノの弦が、誰も触っていないのに震えていた。

 同じ和音が、一定の間隔で鳴らされている。まるで、目に見えない指が鍵盤を押しているみたいに。

「御影!」

 クラスメイトの一人が、倒れた教師の肩を揺さぶりながら俺を見た。

「保健室、呼んでくる!」

「俺が行く!」

 とっさにそう言って、廊下へ飛び出す。

 ただ走りながらも、耳は勝手に音楽室の音を追いかけていた。

 あの和音。

 エリカの曲のサビ前で使われていたコードと、同じ響き。

 ぞくりとする。

『システムの試運転だね』

 ソノが、冷静に言う。

『学校の音響設備を通して、試しに少しだけ“鳴らしてる」』

「やめさせる方法は」

『今は無理。ここの音楽室だけの問題じゃないから』

 廊下の蛍光灯、校内放送のスピーカー、視聴覚室のプロジェクター。学校中の「音の出口」が、同じリズムで呼吸している。

 その中心に、音楽室がある。

 保健室に教師を呼びに行きながら、全身の汗が冷たくなっていくのを感じていた。

     ◇

 異変は、校庭にも及んでいた。

「おい、どうした!」

 剣道部の練習中、冬矢の声が上ずる。

 グラウンドの端で部活をしていたサッカー部の何人かが、一斉に頭を押さえてうずくまった。

「頭が……」

「耳、キーンって……!」

 近くにいた顧問が慌てて駆け寄る。

 風はそこまで強くないのに、校庭のフェンスががしゃがしゃと鳴った。

 その音に混じって、無線機のようなノイズが聞こえる。

「……眠れない夜に、あなたの隣で――」

 聞き慣れたフレーズ。

 エリカの曲。

 それが、校内放送からも流れてきた。

「え、何これ」

「誰かBGM入れてんの?」

 クラスメイトたちがきょろきょろと天井のスピーカーを見上げる。

 放送室に誰もいないはずなのに、勝手にBGMが流れている。

 俺には分かった。

 これは、人が流しているわけじゃない。

 「共鳴スタジアム」の中核システムが、都市全体の音響ネットワークを通して、試験的に音を鳴らしている。

 その一端が、学校にも届いているだけだ。

『間違いないね』

 ソノが、不安げに言う。

『九条たち、本格的に“開演準備”を始めた』

「開演、ねえ」

 笑えない冗談だった。

 これはライブでもショーでもない。都市規模の「発作」の予告だ。

 机の上で拳を握りしめたときだった。

「御影!」

 教室のドアが乱暴に開く。

 立っていたのは、本田刑事だった。

 安物のスーツ。乱れたネクタイ。汗で額が光っている。

「本田さん?」

 教室中の視線が、一斉にこちらを向く。

「あー、悪い。こいつ、ちょっと借りてくな」

 本田は、教室の空気などお構いなしに俺の腕を掴んだ。

「え、あの、ちょっと――」

「大丈夫、事件の事情聴取とかじゃないから。すぐ返す」

 そう言って、顧問の先生には軽く頭を下げるだけで、俺を廊下に引っ張り出した。

 教室のざわめきが背中に刺さる。

「何があったんですか」

 廊下に出た途端、俺は問いただした。

 本田の心音が、いつもより速い。

「市内で同時多発的に発作が起きてる」

 短く、荒い息の合間に言葉を挟む。

「今朝からだけでも、十件以上。場所も時間もバラバラだ。庁は“原因不明のノイズ”としか言いやがらねえ」

「原因不明って、そんな」

「だが俺は知ってる」

 本田は、ポケットから何かを取り出した。

 折り畳まれた紙の束。

 その端には、「極秘」と赤字でスタンプが押されている。

「これは、さっき庁の端末からこっそりコピーしてきたもんだ」

「堂々と犯罪ですよね、それ」

「うるせえ」

 本田は周囲を確認し、誰もいないのを確かめると、小さな会議室に俺を押し込んだ。

 扉を閉め、ブラインドを下ろす。

 狭い部屋に、本田と俺の呼吸音だけが響く。

 彼は机の上に資料を広げた。

 そこには、都市の地図が印刷されていた。

 見覚えのある円形構造。

 ライブハウス、クラブ、スタジオ、駅前ビジョン。各所に赤い丸が付けられている。

 その丸を線で結ぶと、巨大な円環になる。

 父さんのノートに描かれていたものと、ほとんど同じ。

 ただ一つ違うのは。

「これ……」

 地図の中心に、大きく赤いマーキングがされている。

 その場所には、見覚えのありすぎる文字があった。

「共鳴対策庁 本部ビル」

「そうだ」

 本田が、低く言う。

「これは、“共鳴都市計画”の資料だ」

 そう書かれていた。

 共鳴都市計画。

 そのタイトルの下には、いくつもの図表と文章が並んでいる。

 都市全域をカバーするスピーカー網の設計図。

 既存の放送設備、公共施設の音響システム、地下鉄のアナウンス、ビルの館内放送。それらを一括で制御するためのネットワーク図。

 ハコ・エコーのようなライブハウスや、レコーディングスタジオを含む「音源ポイント」の一覧。

 そこには、エリカが最後に歌ったライブハウスの名前も載っていた。

「街の音を、全部つなぐつもりかよ……」

「そうだ」

 本田の声には怒りが滲んでいた。

「共鳴庁は、都市全体をひとつの“スタジアム”として鳴らすために、ここ数年かけてインフラを整えてきた。共鳴獣を抑え込む名目で、実際には“音の兵器化”を進めてたってわけだ」

「兵器化」

 九条の言葉が、頭の中で蘇る。

 君と“それ”は、理想的な兵器だ。

 都市全体をライブホールにし、共鳴体を前線に立たせる。

「……父さんは、これを追ってたんですか」

「そうだろうな」

 本田は、資料の端を指で叩いた。

「啓司は、庁ができる前から、この都市で起きてる“音にまつわる不審死”を追ってた。共鳴庁の立ち上げに関わる話も聞いてたはずだ」

「だったら、最初から止められたんじゃ」

「止めようとしたんだろうよ」

 本田の声が、わずかに震える。

「でも、結果として、啓司は“自殺”って形で片付けられた。詳しいことは分からねえ。でも、少なくとも、奴らにとって邪魔だったことだけは確かだ」

 沈黙が落ちる。

 資料の紙が、エアコンの風でわずかにめくれた。

 そこには、見慣れた言葉があった。

「……共鳴スタジアム」

「九条が言っていたやつだ」

 都市全体を共鳴体として機能させる大型システム。

 庁舎地下ホールを「心臓部」とし、各音源ポイントを通して住民の心音を同期させ、暴走する共鳴獣を「上書き」する。

「表向きの説明は“共鳴症候群の収束”だ」

 本田が皮肉を込めて言う。

「だが、実際には、街中の人間の感情や行動を、特定のリズムに揃えることも可能になる。怖いだろ?」

「そんなこと、許されるわけない」

 拳が、机の上で震えた。

 ソノが、ゆっくりと呟く。

『共鳴獣は、人間の音の影。人間の感情が生んだノイズだってのは、まあ当たってる』

 その声は、珍しく低かった。

『でも、こんなやり方で押さえ込まれたら、ボクらまで“管理された音”にされる』

「お前も嫌なんだな、あいつらのやり方」

『当然でしょ』

 ふっと、ソノが笑う。

『ボクは、自由に鳴ってる音のほうが好きだよ。人間の叫び声も、笑い声も、下手くそな歌も、そのままのほうが美味しい』

 本田は、俺が黙り込んでいるのを見て、小さく息をついた。

「なあ、御影」

「はい」

「啓司は、最後まで“人間側”に立とうとした」

 本田は、真っ直ぐに俺を見た。

「庁のやり方には最後まで反対だった。共鳴獣を兵器にすることも、この都市をスタジアムにすることも」

「……」

「でも、あいつは途中でいなくなった。今、この街に立ってるのは、お前だ」

 その言葉が、重くのしかかる。

「警察も、庁の中にも、抵抗してるやつはいる。だけど、九条みたいな連中は、そんなの気にせず計画を進めるだろう。だから――」

 本田は、資料の地図の中心を指さした。

 赤いマーク。

 共鳴庁の地下ホール。

 父さんが立てなかった場所。

「お前の“耳”と、“そいつ”の力が必要になる」

「また兵器扱いですか」

「違う」

 本田は、きっぱりと首を振った。

「俺は、お前を兵器としてじゃなく、“啓司の息子”として頼ってる」

 その言葉に、胸の奥がぐらりと揺れる。

「怖いなら逃げてもいい。高校生一人に背負わせる話じゃない。でも――」

 言葉を区切り、俺の肩を軽く叩く。

「それでも立つなら、そのときは俺も一緒に前に出る。たぶん、すげえ無力だろうけどな」

「……本田さん」

 笑ってしまいそうになる。

 この人はいつも、自分の無力さを先に口に出す。

 でも、その無力さを自覚したうえで、前に出ようとしてくれる。

 父さんの友だちだと聞かされずとも、なんとなく分かる気がした。

『レン』

 ソノが、静かにささやく。

『街の音、だんだん大きくなってる。カウントダウンのテンポも、少しずつ上がってる』

「分かってる」

 息を吸う。

 父さんのノート。エリカの残響。共鳴庁の地下ホール。

 そして、結衣や冬矢が笑っている日常。

 全部が、同じ街の中にある。

「俺は」

 机の上の地図を見つめながら、口を開いた。

「この都市を、スタジアムにはさせない」

 本田が、一瞬だけ目を見開く。

「父さんが見ていた“終わりの曲”がどんなものか、自分の耳で確かめてから――」

 言いながら、拳を握りしめる。

「その上で、無音にしてやる」

 街全体を鳴らそうとする奴らの計画を、音ごと止めてやる。

 それができるかどうかなんて、今の俺には分からない。

 それでも。

『いいね』

 ソノが、愉快そうに笑った。

『鳴らそうとする連中と、全部止めようとする君。どっちの音が強いか、試してやろう』

「やるしかないだろ」

 窓の外では、校庭の騒ぎがおさまりつつあった。

 けれど、街全体のざわめきは、確実に大きくなっていく。

 予兆は、もう始まっている。

 カウントダウンが終わる前に。

 俺たちは、自分の「終の曲」を探し出さなければならない。


第十四話 さらわれた友と、地下への扉

 共鳴暴走が、本格的に始まったのは、その日の放課後だった。

「面、行きます!」

 剣道場に、冬矢の声が響く。

 体育館の片隅に仕切られた道場は、いつものように竹刀の音と掛け声で満ちていた。床板のきしみ、息を吸う音、足さばきが擦れる音。全部が、俺の耳の中で立体地図みたいに組み上がっていく。

 今日は、見学だけのつもりだった。共鳴都市計画の資料を見てからというもの、俺は頭の中がずっとざわついていて、とても稽古に集中できる気がしなかった。

「御影、見てるならちゃんと見とけよ」

 面越しに冬矢が笑う。

「お前の超耳で、俺の悪いとこ全部拾ってくれ」

「そんな便利ツールじゃねえよ」

 口ではそう返しながらも、耳は勝手に冬矢の音を追う。

 一歩目の踏み込みの重さ。竹刀を握る指の震え。呼吸のリズム。その全部が、ここ数日で少しずつ変わっていた。

 特に気になるのは、右肩だ。

 例の刻印がある場所。

 そこから、かすかなノイズが漏れている。

 最初は耳鳴りかと思った。でも、意識を集中すると、それが「外から貼られた音」だと分かる。

 別の誰かの呼吸、別の心臓の音が、冬矢の鼓動に遅れて重なっている。

 共鳴獣の残り香。

 そのことを伝えようとして、俺は何度も口を開いては閉じた。

「まあ、あとでいいか」

 そう思っていた。

 その「あと」が、永遠に来ないかもしれないなんて、考えもしなかった。

     ◇

 異変は、本当に唐突に訪れた。

「面!」

 冬矢が一本を決め、相手の面をきれいに打ち抜いた瞬間。

 肩の刻印が、黒く光った。

 それまで薄いアザみたいに見えていた紋様が、まるで焼きゴテを押し付けられたみたいに赤黒く浮かび上がる。

「……っ」

 冬矢の息が、ぴたりと止まった。

「冬矢先輩?」

 近くにいた一年が、不安そうに声をかける。

 次の瞬間。

 刻印の中心から、黒い煙が噴き出した。

「うわっ!」

「な、なんだよこれ!」

 道場中がざわめく。

 黒い煙は、普通の煙と違って、床や天井には広がらない。まるで意思を持っているみたいに、ゆっくりと冬矢の体の周りを旋回し、やがて肩口から胸へ、首へと這い上がっていく。

「冬矢!」

 俺は思わず駆け寄った。

 耳の中で、冬矢の心音が暴れ回る。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 鼓動のテンポが、さっきまでの稽古中とは明らかに違っていた。

 そこに混じって、もう一つ別の鼓動が重なってくる。

 ゆっくりとした、冷たいリズム。

 人間のリズムじゃない。

『やばい』

 ソノが、短く言った。

『刻印から“本体”が出てきてる』

「止められないのか!」

『今のボクじゃ無理。ここ、音が多すぎて座標がブレる』

 冬矢の足が、がくんと折れた。

「おい、しっかりしろ!」

「誰か、保健の先生呼べ!」

 部員たちが半分パニックになりながら叫ぶ。

 俺は冬矢の肩を支え、その顔を覗き込んだ。

 面の中の目が、かすかに俺を捉える。

「……レン、か」

 かすれた声。

「肩、やばい。昨日から変な夢ばっか見て……」

「喋るな! 今救急車――」

 言いかけたとき。

 道場の扉が、勢いよく開いた。

「こちらですか」

 スーツ姿の男たちが、二人入ってきた。

 腕には、青い腕章。

 共鳴対策庁。

「失礼します。学校側から連絡を受けましてね」

 前に立つ男が、にこやかに言う。

「最近、この学校でもいくつか“発作”が起きていると聞きました。早期対応が必要なので」

「あなたたち、誰ですか」

 顧問の教師が、眉をひそめる。

「共鳴対策庁の者です。こちらをご覧ください」

 男は身分証を見せると、そのまま躊躇なく冬矢に近づいた。

「状態は?」

「肩のアザが、急に……」

「共鳴刻印ですね」

 男は、さらりと言った。

「このまま放置すれば、周囲に被害が出る恐れがあります。特別な医療措置が必要ですので、我々が責任を持って病院へ搬送します」

「病院?」

 その言い方が、妙に引っかかった。

 俺には、彼らの声に緊張の小さな揺らぎが聞こえた。

 顧問は、迷いながらも頷く。

「お願いします。救急車は――」

「こちらで手配済みです」

 男たちは慣れた手つきで冬矢を担架に乗せる。

 その腕章に刻まれた「共鳴対策庁」の文字だけが、やけに目に刺さる。

「冬矢!」

 俺は思わず担架にしがみついた。

「どこの病院ですか。俺も――」

「ご家族以外の同行はご遠慮ください」

 男の声が、ぴしゃりと遮る。

 その声には、不自然なほど揺らぎがなかった。

 九条と同じ。感情の波が、ほとんどない。

「ですが――」

「御影」

 冬矢が、弱々しく俺の腕を掴んだ。

 目だけは、はっきりと俺を見ている。

「大丈夫だ。ちょっと、寝てくるだけだって」

「何言って――」

「結衣ちゃんも、心配すんなって伝えといてくれ」

 苦笑みが、面の中に浮かぶ。

「約束、まだ果たしてねえからな」

「約束?」

「団体戦の県大会、三人で見に行くって話」

 そういえば、そんな話をしていた。

 エリカのライブから帰る途中に、冬矢が言い出したのだ。

『来年はさ、俺がインターハイ行くから。そんで、結衣とレンは観客席で大声で応援しろよ』

「……バカ」

 喉の奥が熱くなる。

「さっさと帰ってこいよ。応援する相手いなくなったら、時間余るだろ」

「おう」

 冬矢は、力なく笑った。

「約束な」

 その手が、すっと力を失う。

 共鳴庁の男が、俺の腕をそっと外す。

「ご協力、感謝します」

 淡々とした声。

 担架が運ばれていく。

 黒い煙はいつの間にか消えていた。

 ただ、冬矢の肩の刻印だけが、まだうっすらと熱を持っているのが耳で分かった。

     ◇

 その頃、結衣は別の場所で、別の「共鳴」に巻き込まれていた。

「桐谷さん?」

 校門の近くで、背の高い女の職員に声をかけられた。

 濃紺のスーツ。髪をひとつにまとめ、眼鏡をかけている。校務の人かと思ったが、胸元には見慣れないバッジが付いていた。

「はい?」

「少し、お時間いいかしら」

 柔らかい声だった。

「御影蓮斗くんと、仲がいいそうね」

「……レンが何かしました?」

 思わず警戒してしまう。

 職員は、穏やかに微笑んだ。

「いいえ。ただ、彼のことで少し話を聞かせてほしくて」

 その笑顔の裏に、薄い膜のような無機質さがあった。

 結衣の耳には、彼女の靴音や衣擦れは聞こえるのに、心臓の音が聞こえない。普段なら気づかない違和感。

 けれど、最近の結衣は、蓮斗の影響で少しだけ「音」に敏感になっていた。

「ごめんなさい。今日はちょっと……」

 とっさに口から言葉が出る。

「バイトもあるし、家の用事もあるし」

「そう。残念ね」

 職員は、特に食い下がってはこなかった。

 ただ、「また今度、お願いするかもしれないわ」とだけ言って、その場を離れる。

 結衣は、背筋に小さな寒気を覚えながら、駅へ向かった。

 この街の空気は、ここ数日ずっと重い。

 イヤホンから流れるはずの音楽が途切れる。電車のドアの開閉音が半音ずれて聞こえる。コンビニの入店音が、なぜかエリカの曲のイントロに似たリズムに変わっている。

(レン、大丈夫かな)

 スマホを取り出し、メッセージ画面を開く。

『今日、部活? クレープ行く?』

 打ちかけて、送信をやめた。

 さっきまで、能力のことを聞き出そうとしていた自分が、少し恥ずかしくなる。

(約束したんだし、信じなきゃ)

 レンが「いつか全部話す」と言ってくれた。

 その「いつか」がいつになるかは分からない。

 でも、その約束を信じたいと思った。

 信じたかった。

 だから、今日は、普通に帰ろうとした。

 駅へ続く商店街を抜け、裏道の細い路地に入る。

 夕方の光が、ビルの隙間からこぼれている。

 そのときだった。

 ふわり、と。

 甘い匂いがした。

(……シロップ?)

 クレープ屋の前を通り過ぎたわけでもない。

 もっと、薬品じみた甘さ。

 次の瞬間、視界の端が揺れた。

「え――」

 足元がふらつく。

 周囲の音が、一瞬で遠のく。誰かの笑い声も、車のエンジン音も、全部が薄い膜の向こう側に行ってしまったみたいに。

 代わりに、鼻の奥を刺すような匂いが充満する。

(麻酔……?)

 誰かの腕が、後ろから口元を覆った。

 布の感触。

 そこに染み込んだ薬品の匂いが、一気に肺へと流れ込む。

「んっ――」

 声を出そうとしても、喉が動かない。

 手足に力が入らない。

 視界の端で、誰かのスーツの袖が揺れた。

 さっき校門で見た職員の胸元のバッジが、ほんの一瞬だけ目に入る。

 共鳴対策庁。

(レン……)

 名前を呼ぼうとした瞬間、世界が暗転した。

     ◇

 目を覚ましたとき、最初に見えたのは、真っ白な天井だった。

「……ここ、どこ」

 喉が乾いている。身体が重い。

 ゆっくりと首を動かすと、周りは白い壁に囲まれた小さな部屋だった。病室のようでもあり、収容施設のようでもある。

 ベッド。簡素な机と椅子。ドアには小さなのぞき窓。

 耳には、低く不気味なノイズが流れ続けている。

 エアコンの音とは違う。機械のファンが回る音とも違う。

 もっと、粘ついた音。

 低い唸り声みたいで、時々、人のささやきが混じる。

「眠れない夜に――」

 聞き慣れたフレーズが、ノイズの中から浮かび上がる。

「エリカちゃん……?」

 思わず口をつく。

 壁のどこかに、小さなスピーカーが埋め込まれているのだろう。そこから、エリカの曲の断片が、途切れ途切れに流れている。

 結衣は、腕に点滴の針が刺さっているのに気付いた。

「何これ」

 抜こうとして、指先が震える。

 頭がはっきりしない。

 ドアの向こうから、足音が聞こえた。

 規則正しい靴音。二人分。

 やがて、のぞき窓から誰かが覗き込む気配がする。

「起きましたか、桐谷結衣さん」

 女性の声。

 さっき校門で話しかけてきた職員の声だった。

「ここはどこですか」

 結衣は、かすれた声で言った。

「御影は?」

「ここは、共鳴対策庁の保護施設です」

 職員は、淡々と説明し始めた。

「あなたは、路上で倒れていたところを保護されました。少し強めの麻酔を使ったので、しばらくはだるさが残るかもしれません」

「麻酔って……」

 怒りが込み上げる。

「勝手に、そんな……」

「必要な措置でした」

 職員の声に、感情はほとんどなかった。

「あなたは御影蓮斗くんの“近く”にいる。彼の行動パターンを把握するには、あなたの協力が必要です」

「協力なんてしません」

 結衣は、はっきりと言った。

「レンに近づかないで。あの子は、何も悪いことしてない」

「共鳴症のことを、どこまで知っていますか」

 質問が、するりとすり替えられる。

 答えるつもりはなかった。

 けれど、頭がぼんやりしていて、うまく言葉が出てこない。

 職員は、「今日はこれくらいにしましょう」とだけ言って、ドアから離れた。

 ノイズだけが、部屋の中に残る。

 結衣はシーツを握りしめながら、目を閉じた。

(レン……)

 その名前を、何度も心の中で呼んだ。

     ◇

 冬矢と結衣が同じ日に姿を消したと知ったとき、俺は本気で膝から崩れ落ちそうになった。

「御影、ちょっと来い」

 職員室前の廊下で、本田が俺を呼び止める。

 顔色は悪く、目の下にクマができていた。

「冬矢先輩、共鳴庁に連れていかれたって聞きました」

「ああ。病院に運ぶって言ってたがな。行き先、誰も教えてくれねえ」

 本田は、苛立ちを隠さず言った。

「庁の内部システムを当たっても、“搬送中”ってステータスのまま止まってやがる」

「それって……」

「嫌な予感しかしねえ」

 胸の奥が冷たくなっていく。

「結衣は?」

 その名前を出すだけで、喉が震えた。

 本田は、ほんの一瞬視線をそらし、そして言った。

「校門の近くで、庁の職員と話してるところまでは目撃者がいる。だが、そのあと行方が分からなくなった」

「拉致、ってことですか」

「“保護”って言葉を使うだろうな、あいつらは」

 本田の声には、怒りと無力感が混じっていた。

『レン』

 ソノが、静かに囁く。

『二人とも、“器”として狙われた』

 冬矢は刻印付き。共鳴獣にとって、次の器として育てられていた。

 結衣は、俺の弱点として。

『君を動かすのに、一番都合のいいカードだよね』

 ソノの言葉に、背筋が寒くなる。

 九条の顔が、頭の中に浮かんだ。

 無音の男。

 心音のない声。

「庁舎に行きます」

 気づいたら、口が勝手に言っていた。

「九条のところに行って、二人を返せって言います」

「お前……」

 本田が、目を見開く。

「正面から行ったら、確実に囲まれるぞ」

「だから何ですか」

 自分でも驚くくらい、声が低かった。

「冬矢は、約束したんです。団体戦、一緒に見に行くって。結衣は、俺を信じるって言ってくれた。俺だけ何もせずにいるなんて、そんなの――」

『落ち着け』

 ソノが、珍しく強い調子で遮った。

『九条の本拠地に真正面から突っ込んでどうする。玄関ホールで即拘束、地下ホール行きだよ』

「じゃあ、どうしろって言うんだ!」

 声を荒げた瞬間、廊下の端にいた生徒たちがびくりと肩を震わせた。

 本田は、ため息をつきながら俺の肩をぐっと掴む。

「気持ちは分かる。俺だって、あいつらぶん殴りたい」

「なら――」

「だからこそ、頭を使え」

 本田の声が低くなる。

「庁舎は敵地のど真ん中だ。しかも、あそこは“音の壁”で守られてる。お前の耳でも、外から地下の様子は拾えねえ」

 確かに、以前行ったとき、ビルの中は不自然なほど静かだった。

 街の雑音を遮断するサイレントボックス。

「だが、あいつらは、庁舎だけを拠点にしてるわけじゃない」

 本田が、ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。

 例の共鳴都市計画の地図。

 俺は、その中心ではなく、周囲の赤い丸を見た。

 ライブハウス、スタジオ、クラブ。地下鉄の換気塔。廃ビル。

 そのうちの一つが、他よりも濃い印で囲まれている。

「これ、なんですか」

「庁の内部資料には“補助出入口B-03”って書いてあった」

 本田は、地図の端を指で叩いた。

「庁舎地下ホールにつながってる、裏口の一つだ」

「裏口……」

『レン』

 ソノが、嬉しそうに声を上ずらせる。

『いいじゃない、それ』

「でも、場所が分かっても、物理的に入れなきゃ」

『そこはボクの出番でしょ』

 ソノは、軽く笑う。

『君の耳で“音の流れ”を追えば、地下への通路は見える。街中に張り巡らされたスピーカーと配管、地下鉄のトンネル。それらを伝って、裏口まで行けるはずだ』

「そんなゲームみたいに」

『ゲームより簡単だよ。これは現実だから』

 本田は、俺たちのやりとりを見ていないふりをしながら、地図を畳んだ。

「俺ができるのは、ここまでだ」

「本田さんは?」

「庁の内部で、少しでも足止めしてくる。九条の動きが派手になればなるほど、庁の中でも反発は出るはずだ」

 無力だなんて言いながら、相変わらず危ない橋を渡ろうとしている。

 俺は、地図を握りしめた。

「行ってきます」

「御影」

 本田が、真剣な目で言う。

「戻ってこい」

「……はい」

 短く答えて、職員室を後にした。

     ◇

 夜の街は、いつもより騒がしかった。

 いや、騒音の量自体は変わらないのかもしれない。

 ただ、俺の耳には、その全部が「同じ方向」に流れているように聞こえた。

 車のエンジン音。信号のピピッという音。コンビニの自動ドア。マンションの給水ポンプ。

 小さな音の粒が、地下へ、地下へと吸い込まれていく。

『感じる?』

 ソノが、楽しそうに言う。

『音は、決して消えない。どこかに溜まって、どこかへ流れていく』

「地下鉄のトンネルか」

『それもある。でも、本命はこっち』

 ソノが、意識の向きを変える。

 俺は目を閉じて、耳の感覚だけを頼りに歩き始めた。

 駅前のロータリーを抜け、細い路地へ。

 薄暗いビルの谷間を縫うように進む。

 そこに、地下鉄の換気塔があった。

 無機質なコンクリートの柱。金属の格子。その内部で、巨大なファンがゆっくりと回っている。

 ファンの回転音に混じって、低い唸り声のような音が聞こえた。

 エリカの曲のフレーズが、かすかに流れている。

「……眠れない夜に」

 口の中で繰り返す。

 その歌声は、地下のどこかから這い上がってきている。

『ここからでも行けるけど、もっと近道があるよ』

 ソノが、さらに意識を深く潜らせる。

 街中の配管を伝う水の音。ビルの地下にあるボイラーの振動。

 それら全部が、どこか一点に向かって集まっていく。

 俺の頭の中に、街の立体図が浮かんだ。

 ビルの輪郭。道路。地下鉄の線路。

 その下に、もう一つの層がある。

 音だけでできた都市の裏側。

 そこを、細い糸みたいな低音が走っている。

 その先に――

「あった」

 口から言葉が漏れた。

 地図で示されていたポイント。

 駅から少し離れた場所にある、古い雑居ビル。

 看板はほとんど消えかけていて、一階にはシャッターの閉まったテナントが並ぶ。

 二階より上は、窓ガラスが割れているところも多い。誰も使っていない、廃ビル。

 入り口には、「立入禁止」の看板と黄色いロープ。

「ここかよ」

『いい感じに怪しいね』

 ソノが、わくわくした声を出す。

『庁舎みたいなピカピカのビルより、こっちのほうが落ち着く』

「趣味悪いぞ」

 ロープをまたぎ、薄暗いエントランスに足を踏み入れる。

 埃っぽい匂い。割れたガラスの破片。落書きだらけの壁。

 足音が、異様に響く。

 耳を澄ますと、床下から、かすかな振動が伝わってきた。

 一定のテンポで刻まれる低音。

 地下に何かがある。

 廊下の奥には、地下駐車場へ続くらしいスロープが口を開けていた。

 地面に矢印が残っている。「B1 PARKING」と、かすれた文字。

『降りよう』

 ソノが言う。

 俺は懐中電灯を取り出し、スロープをゆっくりと下っていった。

 地下の空気は、ひんやりとして、湿っている。

 懐中電灯の光に、古い駐車枠のラインや、朽ちた案内板が浮かび上がる。

 駐車場自体は、見た目通りの廃墟だ。

 車は一台もない。天井の蛍光灯は、ほとんどが割れている。

 ただ――

「不自然だな」

 駐車場の一番奥。

 他の壁と違って、そこだけ新しいコンクリートで塗り固められていた。

 色が違う。質感も違う。

 まるで、あとから「何か」を埋めるために作られた壁。

 耳を当てる。

 低い振動が、壁の向こうから響いてきた。

 エアコンの室外機みたいな音。機械が動く音。人の話し声。

 その中に、聞き慣れた二つの音が混じっていた。

 一つは、荒い呼吸。

 慣れ親しんだ竹刀の音とセットで耳に残っている、冬矢の呼吸。

 もう一つは、か細い心音。

 胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。

「……結衣」

 名前が、自然と口をついた。

 壁の向こう側で、誰かがもぞりと動いた気配がした。

 錯覚かもしれない。

 それでも、耳の中の音は確かだった。

 冬矢の荒い呼吸と、結衣の心音。

 俺の両手が、勝手に壁を叩いていた。

「聞こえるか!」

 声が、地下駐車場に反響する。

「冬矢! 結衣!」

 返事はない。

 でも、心音のテンポが、少しだけ変わった気がした。

『ここだ』

 ソノが、低く言う。

『ここが裏口だ。共鳴スタジアムの“サービスエントランス”』

 俺は、壁から手を離した。

 拳を握りしめる。

「行く」

『一応聞くけど、戻れないかもしれないよ』

「知ってる」

 今さら引き返す理由なんて、どこにもない。

「戻れなくなってもいい。二人を取り戻せるなら、それでいい」

『はあ』

 ソノが、大げさにため息をついた。

『本当にさ、人間って、たまにすごく馬鹿で、すごくかっこいい』

「褒めてんのか、貶してんのかどっちだよ」

『両方』

 壁の向こうから、エリカの歌声の断片が聞こえてきた。

 眠れない夜に、あなたの隣で――

 そのフレーズが、俺の背中を押す。

『じゃあ、レン』

 ソノが、静かに言った。

『始めようか。終の曲の、前奏を』


第十五話 共鳴の訓練と、犠牲の提案

 地下駐車場のコンクリートの壁を殴りつけたあと、俺とソノはいったん引き返した。

 壁の向こうに、冬矢と結衣の心音が確かにあった。

 だからこそ、勢いだけで突っ込んで全部台無しにするわけにはいかなかった。

『ねえレン。行く前に、一つだけちゃんとやっときたいことがある』

 帰り道、人気のなくなった校舎の裏手で、ソノがそう切り出してきた。

「ちゃんとって?」

『共鳴スタジアムに突っ込むならさ、今の君の“耳”じゃ正直、持たない』

 ソノの声は、珍しく軽口が混じっていなかった。

『あそこは、街中の音が全部集まってくる場所だよ。音を視る力、嘘を聞き分ける耳、立体マップ。バラバラに使ってるうちはいい。でも、全部一度にぶつかったら、君の脳、ショートする』

「要するに、練習不足ってことか」

『そう』

 はっきり言われて、苦笑いするしかなかった。

 ここ数週間で、俺の耳はとんでもない力を手に入れた。

 でも、その使い方はずっと“ぶっつけ本番”だ。

 ハコ・エコーでも、共鳴庁の地下ホールでも、行き当たりばったりで何とかしてきただけ。

 このまま、街全体が楽器になるような場所に突っ込んだら、さすがに死ぬ。

『だからさ、最後の訓練をしよう』

 ソノが、少しだけ楽しそうな音を混ぜて言う。

『音の視覚化、嘘見抜き、三次元マップ。それを“同時に”使いこなす練習。ついでに、ボクからも一個、お願い』

「お願い?」

『うん。まあ、それはあとで』

 ろくな予感がしなかった。

     ◇

 その夜、俺は母さんには「テスト前だから学校で勉強してくる」と言い残し、夜の校舎に忍び込んだ。

 試験前でも何でもないくせに、我ながら分かりやすい嘘だったが、今はそこを気にしている場合じゃない。

 鍵のかかっていない裏門から入り、真っ暗な廊下を進む。

 昼間はうるさいくらいの学校も、夜になると別の建物みたいだ。

 蛍光灯は必要最低限しか点いていなくて、足音がやたらと響く。

『緊張してる?』

「そりゃな」

『大丈夫。ボクの指導は、庁の連中より優しいよ』

 絶対嘘だと思った。

 剣道場の裏手から、体育館の横の勝手口へ回る。

 非常灯の緑の明かりだけが、ぼんやりとドアを照らしていた。

 古びた鉄の取っ手に手をかけ、そっと開ける。

 ぎい、ときしむ音が、夜の体育館に広がった。

 そこは、がらんとしていた。

 バスケットゴール。ステージ。たたまれたままのバレーボールネット。

 昼間は体育の授業や部活でぎっしり埋まっている空間が、今はただの大きな空洞だ。

 でも、音は残っている。

 ドリブルの音。歓声。笛の音。転んだときの悲鳴。

 それら全部が、薄い残像みたいになって空中に漂っていた。

『いいね。ここなら練習にちょうどいい』

 ソノが、体育館の真ん中にふわりと浮かんだ。

 黒い煙の輪郭。

 その中心で、きしむ音が微かに鳴る。

『じゃ、まずはブラインド訓練』

「ブラインド?」

『目隠しして、音だけで体育館の中を歩き回る。途中でボクが、わざとノイズ混ぜたり幻聴流したりするから、その中から“本物”だけ聞き分けなよ』

「本物って?」

『冬矢の声や、結衣の声。今まで君が聞いてきた音』

 胸が少し痛くなる。

「……やってみる」

 俺はジャージのポケットからハチマキを取り出した。

 合唱コンクールの練習で使ったやつを、そのまま持ち帰っていた。

「こんな使い方になるとはな」

 苦笑しながら、それを目に巻く。

 視界が真っ暗になる。

 体育館の床板の冷たさだけが、足の裏にリアルだ。

『じゃあ、スタート』

 ソノの声が、真横から聞こえたと思ったら、次の瞬間には天井近くから聞こえてきた。

『まずは、入り口からステージまで歩いてみて』

「こけたらどうすんだ」

『膝くらいなら擦りむいてもらって大丈夫』

「指導が鬼軍曹なんだよ」

 ぶつぶつ言いながら、一歩踏み出す。

 ギシ、という床板の鳴き方で、自分の足の位置が分かる。

 体育館の壁に取り付けられた非常灯の電源の「ブーン」という音。

 それを頼りに、大まかな方向が見えてくる。

 耳の中で、体育館の立体図がゆっくりと浮かび上がる。

 壁。天井。バスケットゴール。ステージまでの距離。

 その途中で――

「おい、御影。そっち柱だぞ」

 冬矢の声が聞こえた。

 本当にそこにいるみたいに、すぐ近くで。

 思わず身体がそちらに向かいかける。

『ダメ』

 ソノの声が、ぴしゃりと飛んできた。

『それ、全部ボクが流した“録音”だよ』

「は?」

『ほら』

 さっきと同じフレーズが、少しだけテンポをずらして聞こえてくる。

「おい、御影。そっち柱だぞ」

「おい、御影。そっち柱だぞ」

 二重に重なった声。

 どちらも冬矢の声だ。息遣いも、喉の鳴り方も、全く同じ。

 でも、その奥にある心音だけが違っていた。

 一つは、懐かしいリズム。

 あの日、剣道場で何度も聞いた鼓動。

 もう一つは、空っぽな、ただの音のコピー。

「……右のほうが偽物だな」

『正解』

 ソノが、少し嬉しそうな音を出す。

『本物のほうは、君の記憶から引っ張り出したやつ。偽物はボクが勝手に作ったやつ。心臓の音までコピーするのは、さすがにまだ難しい』

「今のもトラップかよ」

『これからもっと増やすよ?』

 やっぱり鬼軍曹だった。

 そのあとも、俺は体育館の中を何度も歩かされた。

 結衣の笑い声が、あちこちから聞こえる。

「レン、今日の宿題やった?」

「レン、また寝坊したでしょ」

「レン、ちゃんと聞いてる?」

 どれも聞き慣れた声。

 でも、本物の結衣の声には、いつもほんの少しだけ呼吸の音が混じる。

 言葉と言葉の間に、小さな溜めがある。

 そういう細かい“癖”を頼りに、偽物を排除していく。

 ソノはわざと、男女混ざった笑い声や、ニュースキャスターの声、通りすがりの人の会話を混ぜてくる。

『共鳴スタジアムの中では、こんなもんじゃ済まない』

 足音の合間に、ソノが言う。

『観客全員分の声、心音、息遣い。それに共鳴獣の悲鳴や、庁のスピーカーから流れる誘導音。君の耳は、その全部をいっぺんに拾っちゃう』

「聞こえたもの全部に反応してたら、頭が爆発するな」

『だから、“捨てる音”を見つける練習』

 捨てる音。

 今までの俺は、聞こえる音の多さに圧倒されていた。

 世界が一気に色づいたのが嬉しくて、拾えるだけ拾ってきた。

 でも、これからは違う。

 守りたい音だけを選んで、それ以外は全部ノイズとして切り捨てなきゃならない。

 それが、どれだけ残酷なことかも分かっていた。

 けれど、それでも。

『次は三次元マップね』

 ソノが言う。

『体育館だけじゃなくて、その外の校舎もいっぺんに思い浮かべて』

「外まで?」

『君の耳ならいけるよ』

 耳を、さらに広げる。

 体育館の窓の外から、夜の風の音が聞こえる。

 校庭の砂を舞い上げる音。フェンスがわずかに揺れる音。

 校舎の中では、掃除用具入れのモップが壁にもたれかかっている。保健室の冷蔵庫が低い唸りを上げている。

 その全部が、頭の中で線になり、面になり、立体になっていく。

 瞬間的に、学校全体の“音の模型”が形成される。

 そこに、ソノがさらにノイズを流し込んできた。

 サイレン。爆発音。ガラスが割れる音。

「うるさい!」

『うるさくしてるんだよ』

 笑っているのか真顔なのか分からない調子で、ソノは言う。

『恐怖の音は、共鳴獣が一番好きなエサ。スタジアムの中で、君はこういう音を山ほど聞くことになる。怖い音に耳を持っていかれたら、その瞬間に飲み込まれる』

「じゃあ、何を聞けばいい」

『決まってるでしょ』

 ソノが、少しだけ優しい音を込める。

『守りたい音だよ』

 結衣の心音。

 冬矢の荒い呼吸。

 母さんのため息まじりの「おかえり」。

 エリカの歌声。

 それらを、頭の中のマップの中心に置く。

 周りの騒がしい音が、一瞬だけ遠ざかる。

「……なるほど」

『ね?』

 そうやって、俺は何時間も体育館を歩き回った。

 足は棒になり、喉はカラカラだった。

 それでも、目隠しを外したくなかった。

 視界に頼らない感覚は、怖いけれど、どこか心地よくもあった。

 暗闇の中で、音だけが世界を形づくっている。

 それは昔、補聴器を外して過ごしていた家の中の静けさとは、まるで違う種類の“世界”だった。

     ◇

 何周目か分からなくなったころ、ソノがふいに言った。

『レン』

「なんだよ」

『一旦休憩』

 言われて初めて、自分が息を切らしていることに気づいた。

 体育館の中央に座り込み、ハチマキを外す。

 視界に、薄暗い天井が広がる。

 汗が額から滴り落ちた。

 喉が、ひどく渇いている。

 スポーツドリンクを一口飲むと、炭酸でもないのに胸の奥が少しだけ弾けた。

『お疲れ』

 ソノが、俺の目の前にふわりと現れる。

『だいぶマシになったよ。最初よりずっと』

「褒められた気がしねえんだよな、その言い方」

『褒めてる褒めてる』

 くすくす笑いながら、ソノは体育館の天井を見上げた。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 体育館の静けさの中に、俺の心音だけがはっきりと響いている。

 そのリズムに耳を澄ましていたとき、ソノがぽつりと言った。

『レン』

「ん」

『ボクさ、本当はもっと喰いたいんだよね』

 さらっと、物騒なことを言ってきた。

「……は?」

『人間の肉とか、悲鳴とか』

 ソノは、自分の体を包む黒い煙を指でつつくような仕草をする。

『共鳴獣って、だいたいそういうもんでしょ。恐怖とか絶望とか、そういう“濃い音”が大好物』

「知りたくなかった事実だな」

『でも』

 ソノは、小さく肩をすくめた。

『君が嫌がるから、ずっと我慢してる』

 その言い方が、妙にさらっとしていて、逆にこたえた。

「……悪い」

『なんで謝るの』

「俺が嫌がるからって、我慢させてるんだろ」

『ボクらの本能ってさ、“雨は上から落ちるもの”くらいの固定仕様なんだ』

 ソノは、体育館の床に寝転がる形になって、天井を見上げた。

『それをねじ曲げてまで、“人間側”に立ってるのは、別に君のためだけじゃない。自分でも、この生き方がけっこう気に入ってるから』

「変わり者だな、お前」

『よく言われる』

 笑い声は軽いけれど、その奥に少しだけ寂しさみたいな音が混じっている。

『でさ』

 ソノが、体を起こして俺のほうを見た。

『肉とか悲鳴は我慢するから、代わりに一個お願い』

「……さっき言ってた“お願い”ってやつか」

『うん』

 ソノは、珍しく真剣な響きを帯びた。

『ボクに、“音”をちょうだい』

「音?」

『君の記憶とか、感情とか。人間が生きてきた“音の履歴”』

 ソノは、自分の胸のあたりを軽く叩く。

『ここ、中から空っぽになりかけてる。共鳴庁に狙われる前に、もっと“人間寄り”の音で満たしときたい』

「人間寄り……」

『ボクが君の側にい続けるには、人間の音を喰って、自分の“核”を少しずつ変えていく必要があるんだ』

 そんな話、初めて聞いた。

「早く言えよ、そういう大事なことは」

『だって、君、絶対“やるな”って言うでしょ』

「まあ、言ってたかもな」

 他人の記憶とか感情とかを「喰う」って言われて、怖くないわけがない。

 でも。

『ねえレン。ボク、一つ学んだことがある』

 ソノは、体育館のステージのほうを見ながら言った。

『人間の涙の音って、けっこううまい』

「食レポみたいに言うな」

『しょっぱくて、熱くて、でも最後にちょっとだけ甘い感じ』

 妙に具体的だった。

『君が今まで流してきた涙。父さんの葬式の日とか、補聴器をからかわれた日とか』

「勝手に覗くなよ、そういうの」

『ごめん。でも、そういう音をちょっと分けてくれたら、ボクはそれでしばらく生きていける』

 ソノの目は真剣だった。

 人間の肉や悲鳴じゃなくて、俺の記憶や感情で満たす。

 それが、ソノなりの「妥協点」なんだと分かった。

「……どうすればいい」

 俺は、深く息を吸った。

『簡単だよ。思い出して、それをボクに投げるイメージをするだけ』

「イメージでいいのかよ」

『君とボクの耳は、もう共鳴してる。音のイメージも、ちゃんと届く』

 試しに、目を閉じた。

 雨の音を思い出す。

 父さんの葬式の日。

 黒い傘の群れ。冷たい雨。線香の匂い。

 周りの大人たちが小声で話す声。母さんのすすり泣き。

 棺の蓋が閉まるときの、鈍い音。

 あのとき、俺は補聴器を外していた。

 音がぼやけて、言葉はほとんど聞き取れなかった。

 それでも、雨の音だけはやたらと鮮明だった。

 ぽつ、ぽつ、と。

 墓石に当たる音。傘に当たる音。

 それと一緒に、父さんの笑い声の記憶が蘇る。

『お前、また風呂で寝てただろ』

 低くて、優しい声。

 それら全部を、一つの“音”にまとめて、ソノのほうへ押し出す。

 胸の奥から、何か温かいものが流れ出ていく感覚があった。

『……うわ』

 ソノが、目を見開く。

『これ、すごいね』

「気持ち悪い例えすんなよ、頼むから」

『いや、ほんとに。人間の記憶の音って、こんなに濃かったんだ』

 ソノの体を包む黒い煙が、わずかに色を変えた。

 さっきまで真っ黒だったのが、灰色に近づく。

 それは、エリカの歌声を取り込んだときにも少し起きた変化だ。

『次は、エリカのやつちょうだい』

「お前、遠慮って言葉知らないのか」

『今さらでしょ』

 やれやれと思いながらも、俺はエリカの最後の笑みを思い出した。

 ライブハウスのステージ。

 壊れたマイク。焦げた匂い。倒れた客。

 その中で、エリカが俺の手を握っていた。

『……ありがとう。いつか、また歌わせてね』

 かすれた声。

 そのすぐあとに、心音が消えた感触。

 悔しさと、悲しさと、どうしようもない無力感。

 それら全部を、音にしてソノへ渡す。

 黒い煙が、さらに淡くなる。

『不思議だね』

 ソノは、自分の体を見下ろしながら言った。

『人間の涙の音って、共鳴獣の“黒”を薄めるんだ』

「ポエムみたいにまとめるな」

『でも、ほんとに。ボク、今ちょっとだけ人間に寄った』

 そう言うソノの声には、ほんの少しだけ、鼓動の音が混じっていた。

 まるで、心臓ができかけているみたいに。

     ◇

 しばらく、俺たちはそうやって記憶のやり取りを続けた。

 補聴器を初めて付けた日の戸惑い。

 クラスメイトにからかわれて、教室を飛び出した日の足音。

 それを追いかけてきた結衣の息切れ。

 冬矢に初めて面を打ち抜かれて、悔しくて笑った日の竹刀の音。

 その全部が、ソノの中に吸い込まれていく。

 黒い煙は、相変わらず黒いけれど、その奥に微かな光が見えるようになった。

『……ありがと』

 ソノが、ぽつりと言った。

『君の音、うまかった』

「食レポはいいっつってんだろ」

『これでしばらく、肉とか喰わなくても平気』

 少しだけ、安心した。

 俺が嫌がることを無理に抑え込ませて、どこかで爆発されるのが一番怖かったから。

 代わりに、自分の一部を分け与える。

 それが正しいのかどうかは分からない。

 それでも、今はそれしか方法がない。

「で」

 息を整えながら、俺は言った。

「お前の“本題”は、まだ別にあるんだろ」

『うん』

 ソノは、体育館の中心にゆっくりと浮かぶ。

『共鳴都市計画を止める方法について、話さなきゃいけない』

 胸の奥が、きゅっと縮まる。

「……聞く」

『九条たちがやろうとしてる“共鳴都市起動”は、街全体の音を同じリズムに揃えることで成立する』

 ソノの声は、冷静だった。

『スピーカー網を通して、共通のテンポを流す。人間の心音も、共鳴獣のノイズも、そのリズムに飲み込まれていく』

「洗脳みたいなもんか」

『そうだね。厳密には少し違うけど、だいたい合ってる』

 俺は、学年集会のときの体育館の様子を思い出した。

 校長の話に合わせて、みんなのため息が同じリズムになっていくあの感じ。

 あれを、街全体でやられるのだとしたら。

『それを止めるには、街全体の音を“逆位相”で打ち消す必要がある』

「ぎゃくいそう?」

『簡単に言うと、プラスとマイナスをぶつけてゼロにするってこと』

 ソノは、手を叩く真似をする。

『同じ大きさで、反対向きの波をぶつければ、音は消える。共鳴獣のノイズも、人間の心音も、一瞬だけ“無音”になる』

「……一瞬?」

『ずっとやったら、街そのものが壊れちゃうからね』

 さらっと怖いことを言う。

『だから、“起動”の瞬間を狙って一撃で止めるしかない』

「それができるのかよ」

『できなくもない』

 ソノは、静かに言った。

『君の耳で一度全部“受け止めて”、ボクの体で“ひっくり返す”』

 言っている意味は分かる。

 分かるからこそ、背筋が冷たくなる。

「全部って……街中の音を、一回俺の耳に通すってことか」

『そう』

「そんなことしたら」

『君の耳は壊れる』

 ソノは、はっきりと言った。

『鼓膜とかのレベルじゃなくて、脳のほう。聴覚を司ってる部分が、過負荷で焼き切れる』

「……」

『もう二度と音は聞こえない』

 体育館の静けさが、急に重く感じられた。

 さっきまで、練習の成果に少しだけ手応えを感じていた耳が、一瞬で自分の身体じゃないみたいに思えた。

「そんなの、嫌に決まってるだろ」

 絞り出すように言った。

「せっかく、やっと世界がちゃんと聞こえるようになったのに。結衣の笑い声も、冬矢の掛け声も、母さんのため息も、エリカの歌も。全部、また失うってことだろ」

『うん』

 ソノは、ごまかさなかった。

『だから、“犠牲の提案”』

「提案って言うなよ、そんな軽く」

『軽くなんて言ってない』

 ソノの声には、少しだけ震えがあった。

『ボクだって、本当は嫌だよ。君の耳のおかげで、こんなに面白い世界を見てきたのに。それを自分から壊すなんて』

「じゃあ――」

『でも』

 ソノが遮る。

『この力を得たからこそ、君は救えた命がある。ハコ・エコーの客。学校で倒れた教師。共鳴庁の地下で、暴走しかけた共鳴体』

 思い出したくない景色が、次々と浮かんでくる。

 ライブハウスでの黒い煙。地下ホールの子どもたちの空っぽな目。

 あのとき、俺は確かに「耳」を武器にして誰かを守った。

『この耳は、マジで人を救えるんだよ、レン』

 ソノの声は、珍しく熱を帯びていた。

『だからこそ、最後に一度だけ、その全部を賭ける価値がある』

「街を救うために、俺の耳を捨てろってか」

『そういう言い方もできる』

 少しだけ言い淀んでから、ソノは続けた。

『でも、ボクからしたら、それは“君が選べる贅沢な犠牲”だと思う』

「贅沢?」

『君には、帰る家がある。守りたい友達がいる。怒ってくれる刑事がいる。君が耳を失っても、君を支えてくれる人たちがいる』

 結衣の顔が浮かんだ。

 泣きながら笑うあの顔。

『街のどこかには、最初から誰にも守られてない子たちがいる。さっきの地下ホールの子供たちみたいに』

 あの、イヤーマフを付けた少年の目。

 言葉の代わりに歌声だけが胸の中で響いていた子供。

『彼らは、選べなかった。勝手に共鳴体にされて、勝手に実験材料にされた』

 九条の顔が浮かぶ。

 無音の男。

『だから、選べる立場にいる君が、もし“失う役”を引き受けてくれたら。ボクはそれを誇りに思う』

「……きれいにまとめようとしてんじゃねえよ」

 喉の奥が痛くなった。

「失うのは俺だろ」

『うん』

「痛いのも、怖いのも、全部俺だろ」

『そうだね』

「なのに、“街が救えるから”って理由で納得しろってか」

『納得しなくていいよ』

 ソノは、ふっと笑った。

『ただ、“選べる”ってことだけ覚えておいて』

 体育館の時計の針が、カチカチと鳴る。

 その音が、やけに大きく響いた。

 俺は、耳を塞ぎたくなった。

 でも、塞げなかった。

 耳を塞いだところで、この耳はもう“世界の全部”を拾ってしまうから。

「……正直に言うとさ」

 しばらく黙ったあと、俺はぽつりと言った。

「怖い」

『うん』

「耳が聞こえなくなるのも怖いし、二度と結衣の声が聞けなくなるのも嫌だ」

『うん』

「冬矢の掛け声とか、母さんのため息とか、何もかもさ。やっと分かるようになったのに、また失いたくない」

『うん』

「だから、“はい分かりました”なんて言えない」

『言わなくていい』

 ソノの声は、静かだった。

『今答えを出さなくていい。どうせ、結論はスタジアムの中でしか出せない』

「どういう意味だよ」

『起動の瞬間になってみないと、君の耳がどこまで耐えられるか分からない。ギリギリのところで踏みとどまれるかもしれないし、本当に焼き切れるかもしれない』

 実験も試算もできない、一度きりの賭け。

『でも、少なくとも、“可能性”だけは知っておいてほしかったんだ』

 ソノは、すっと俺の手の上に浮かんだ。

 黒い煙の表面が、ほんの少しだけ震えている。

『ボクは、君にそれを強制しない。共鳴獣としての本能より、共鳴体としてのプライドのほうが今は勝ってるから』

「プライドとか言い出したぞこいつ」

『ただし』

 ソノが、にやっと笑う。

『もし君が“やる”って決めたら、その瞬間は全力で乗る。ボクの体がバラバラになるまで、全部ひっくり返してやる』

 それは、共鳴獣なりの覚悟の示し方なんだろう。

 俺は、体育館の天井を見上げた。

 さっきまでの訓練の疲れが、一気に押し寄せてくる。

 頭の中で、これまで聞いてきたすべての音が駆け巡った。

 結衣の笑い声。

 冬矢の「面!」という掛け声。

 母さんの「おかえり、レン」と「また遅くまで起きてるでしょ」というため息まじりの声。

 エリカの歌声。

 ソノの、最初に聞いたときのざらついた声と、今の少しだけ柔らかくなった声。

 それら全部を手放す可能性。

 こんなの、簡単に答えを出せるわけがない。

 体育館の窓の外が、少しずつ白んできていた。

「……夜明けか」

『そうだね』

 ソノが、窓の外をちらりと見る。

『答え、出た?』

「出てたら苦労してねえよ」

 自分でも驚くくらい、情けない声が出た。

「でも、一つだけ決めた」

『うん?』

「どっちを選んでも、後悔する」

 そう言うと、ソノが一瞬黙った。

「耳を捨てても後悔するし、捨てなくても誰かが死んだら、それも後悔する」

『……だね』

「だから、後悔すること前提で選ぶしかない」

 笑えてくる。

 こんな最悪な選択肢の並べ方、他にあるかってくらいだ。

『それでも、選ぶんだ』

 ソノが、ぽつりと言う。

『君は、そういうやつだしね』

「勝手に決めつけんな」

『決めつけじゃなくて、観測結果』

 夜明け前の体育館に、二人だけの笑い声が小さく響いた。

 窓から差し込む光が、床の上に細い帯を作る。

 その光の中で、俺はゆっくりと立ち上がった。

 体のあちこちが軋む。

 でも、不思議と足取りは軽かった。

「とりあえず」

 伸びをしながら言う。

「今できるのは、耳を鍛えることと、地下への道順を頭に叩き込むことだけだ」

『そうだね』

「犠牲の話は、それが全部終わってからだ」

『了解』

 ソノが、軽く敬礼するみたいに頭を下げた。

『じゃ、行こうか。レン』

「ああ」

 体育館の扉を開ける。

 冷たい朝の空気が、肌を刺した。

 鳥の鳴き声。遠くの車のエンジン音。新聞配達のバイク。

 世界は、まだ今日もちゃんと音を鳴らしている。

 その音を守るために、俺はこの耳をどう使うのか。

 答えを胸のどこかに押し込めたまま、俺は朝焼けの校舎を後にした。


第十六話 共鳴スタジアムの開演

 廃ビルの地下駐車場に響いたのは、コンクリートが軋む、不吉な音だった。

「……いくよ」

 ソノがそう言った次の瞬間、俺の右腕に絡みついていた黒い煙が、形を変えた。

 薄い刃のように細く伸びたかと思うと、そのままコンクリートの壁に突き刺さる。

 ザラザラとした嫌な手触りまで、腕を通して伝わってきた。

『ここ、ただの壁じゃない』

 ソノが低く呟く。

『音の反射が変だ。向こう側、空洞になってる』

「なら、開けるしかないだろ」

 俺は息を詰める。

 ソノは、俺の腕と一体化したまま、ゆっくりと左右に動いた。

 それは、切断機みたいに滑らかで、容赦なかった。

 コンクリートが、音を立ててひび割れていく。

 ミシミシミシ、と。

 目に見えない「音の線」が、ひびに沿って走るのが分かった。

 最後に、ソノが一気に力を込める。

『せーの』

 ドン、と鈍い音を立てて、壁の一部が内側へ倒れた。

 粉塵が舞い上がる。

 冷たい空気が、穴の向こうから吹き込んできた。

 その風には、聞き覚えのある匂いが混じっていた。

 鉄と薬品と、汗と、そして――

「……ライブハウスと、同じ匂いだ」

『ようこそ、共鳴スタジアムへ』

 ソノの声が、いつもより少しだけ震えていた。

     ◇

 穴をくぐった先は、細い通路だった。

 コンクリートの壁に、無数のケーブルが這っている。

 床は金属のグレーチングで、下からは低い振動が伝わってくる。

 心臓の鼓動みたいな、一定のリズム。

 それが、地の奥から響いていた。

「……音が、下から上がってきてる」

『うん。都市全体の音だよ』

 ソノの言う通り、耳を澄まさなくても分かった。

 車の走行音。信号機の電子音。誰かの笑い声。テレビのニュース。鍵盤を叩く音。走る靴音。

 街のあらゆる音が、細い線になって、この通路の下を流れている。

 それらは、ある一点に向かって収束していた。

 通路の先にある、巨大な空洞へ。

 階段を上がる。

 足音が、途中から急に変わった。

 金属から、柔らかい素材へ。

 最後の一段を登りきったとき、視界が一気に開けた。

「……これが、スタジアム……」

 言葉が、喉の奥で消えた。

 そこは、庁舎の地下ホールを何倍にも拡張したような空間だった。

 円形のアリーナ。

 四方を取り囲む巨大なスピーカー群。

 壁面にはびっしりとパネルと配線が張り巡らされている。

 天井からは無数の反響板が、銀色の鱗のように吊り下がっていた。

 音を集め、増幅し、どこへでも飛ばせるように。

 スタジアム全体が、一つの巨大な楽器になっていた。

 そして、その中心――

 ステージの上には、黒い塊があった。

 どろどろに溶けたアスファルトを山のように積み上げたみたいな塊。

 表面は絶えず脈動していて、光を吸い込むように真っ黒だ。

 よく見ると、その黒の中に、何かが浮かんでは沈んでいた。

 顔。

 目。

 手。

 誰かの口元が、痛みに歪んだまま凍りついた表情で浮かび上がり、すぐに黒に飲まれる。

 腕が伸びかけて、途中でちぎれて消える。

 それは、ホラー映画の特撮みたいにリアルで、それでいてどこか作り物じみてもいた。

 けれど、耳だけはごまかせない。

 あの塊からは、何百もの心音が聞こえた。

 泣き声。叫び声。ささやき声。

 全部がごちゃ混ぜになって、低い唸り声になっている。

『……巣だ』

 ソノが、震える声で言う。

『複数の共鳴獣が融合して、自分たちの“本能”を守るために作った巣。ボクらの“帰る場所”』

「帰る場所って顔じゃねえだろ、どう見ても地獄だ」

『ボクにだって、あんなとこ帰りたくないよ』

 ソノの煙が、わずかに逆立つ。

『あれが完成したら、個々の意識なんて全部溶けて、ただのノイズになる。ボクも、君も』

 つまり、あそこに飲まれるってことは、「ソノ」も「御影蓮斗」も消えて、一つの塊になるということだ。

 想像しただけで、背筋が寒くなった。

 そして、その巣のすぐ脇には――

「……冬矢!」

「結衣!」

 ステージ脇に、二つの椅子が並んでいた。

 どちらも重そうな金属製で、腕と足には拘束具が付いている。

 その椅子に、冬矢と結衣が縛り付けられていた。

 冬矢は、上半身裸にされていた。

 右肩の刻印が、はっきりと露出している。

 その紋様は、もうアザなんかじゃなかった。

 黒い線が皮膚に食い込み、そこから絶えず煙のようなものが立ち上っていた。

 煙は細い糸になって、中央の巣へと吸い込まれていく。

 冬矢の心音は乱れていた。

 ドクン、ドクン、と。

 普段の力強いリズムじゃない。何かに引きずられるような、ずるずるしたテンポだ。

「……くそ」

 奥歯を噛みしめる。

 結衣は、制服姿のまま椅子に座らされていた。

 両手両足を固定され、耳には大きなヘッドホンをつけられている。

 そのヘッドホンからは、低く一定の振動音が流れていた。

 耳で聞けば、ただの低周波。

 でも、俺の耳には、その奥に薄くエリカのフレーズが混じっているのが分かった。

「眠れない夜に――」

 かつて何度も聞いたイントロ。

 それが、無機質なノイズに細切れにされて、結衣の耳に流し込まれている。

 結衣の心音は、ひどく弱かった。

 でも、まだ消えてはいない。

 辛うじて、薄く、震えている。

『レン』

 ソノがささやく。

『あのヘッドホン、外したいけど……今は動いちゃダメ』

「分かってる」

 ステージ上には、すでに「観客」がいた。

 黒いスーツを着た職員たちが、円形に配置されたコンソールの前に座り、忙しなく端末を操作している。

 耳にはワイヤレスイヤホン。

 どの顔も無表情で、心音も薄い。

 そして、その中心に――

「ようこそ。御影蓮斗くん」

 静かな声が、スタジアム全体に響いた。

 九条が、ステージ中央に立っていた。

 以前の白衣は脱ぎ、黒いロングコートを羽織っている。

 スーツの上から纏ったそのコートは、まるで喪服のようにも見えた。

 照明を浴びても、彼の体からはほとんど熱が感じられない。

 相変わらず、その声には揺らぎがなかった。

 心音も、聞こえない。

 世界の音が、この広大なスタジアムで鳴り響いているのに、その中心に立つ男だけが「無音」のままだ。

「……招待された覚えはないんですけど」

 皮肉の一つでも言わなきゃ、立っていられない気がした。

 九条の口元が、ほんのわずかに笑みの形を作る。

「招待状は、すでに渡してあるつもりだよ。学校での健康診断、ハコ・エコーでの事故、それから君の父上のノート」

「父のノートまで“招待状”ですか」

「啓司は、この場所の存在に限りなく近づいていた」

 九条は、静かにステージの中央――黒い巣を指さした。

「彼が調べていた“特定のライブハウス周辺で起きる原因不明の発作”。そのデータのほとんどが、この巣の“原型”に関わるものだ」

 父のノートのページが、脳裏に浮かぶ。

 雑な線で描かれた都市の地図。

 ライブハウスやクラブに引かれた赤い丸。

 「音が集められている」と震える字で書かれたメモ。

 その中心に赤く描かれた×印。

 それが、今、目の前にある。

 黒い塊が、低く唸り声を上げた。

 耳の奥が、痛む。

 あの波形。

 あのノイズ。

 七年前、父の死亡現場で録音された音と、酷似していた。

『レン』

 ソノが、小さく震える。

『あれ……七年前の“無音”のときに生まれたやつだ』

「七年前……」

 俺が、あの日、耳の奥で聞いた「カチ」という異様な音。

 銃声がしなかったはずなのに鳴った、あの一回きりの音。

 それと、今の巣の波形が、ぴたりと重なった。

 あの日から、全ては始まっていたのだ。

 父の死も、俺の耳も、ソノの存在も。

「紹介しよう」

 九条が、観客席のように並ぶスピーカー群を見回す。

「これが、“共鳴都市計画”の心臓部だ」

 職員たちの手元の端末が、一斉に光る。

 スタジアムの壁に埋め込まれたスクリーンが起動し、都市の地図が表示された。

 ライブハウス。駅。ショッピングモール。学校。病院。

 そこに点在する「音源ポイント」が、赤く点滅する。

「都市全体の音を集約し、ここで増幅し、再び街へと流し返す」

 九条の声は、相変わらず穏やかだった。

「人々の心拍、声、足音。その全てを、一つの“曲”にする。世界は、バラバラなノイズの集まりではない。調律されるべき“楽曲”だ」

「勝手に楽譜にすんなよ」

 思わず口を挟む。

「人の心拍も、声も、本来バラバラだから面白いんだろ。勝手に同じテンポに揃えられて、何が楽しい」

「楽しいかどうかは、問題ではない」

 九条は、首を傾げた。

「これは、生き残りの問題だよ」

「生き残り?」

「共鳴獣は、人類が生み出した“音の影”だと前に言ったね」

 九条は、黒い巣に近づき、その表面にそっと手を触れた。

 黒い塊が、その手を飲み込むかのように波紋を広げる。

 けれど、九条の声に揺らぎはなかった。

「文明が進めば進むほど、世界は音に満ちる。工場、交通網、情報端末。人間の脳は、その負荷に耐えきれない。だからこそ、影は濃くなる。共鳴獣は、その過程で自然と生まれてしまった“副産物”だ」

『言い方が腹立つな』

 ソノが、ぼそっと文句を言う。

 俺も同意だった。

「影を消すことはできない。ならば、どうする」

 九条は、ゆっくりとこちらへ向き直る。

「光を強くするか、影を飼い慣らすか、そのどちらかだ」

「あなたは、“飼い慣らす”ほうを選んだってわけですか」

「そう」

 九条は、あっさりと頷く。

「共鳴獣を排除しようとする勢力もいる。だが、それは不可能だ。影は形を変えて何度でも現れる。だったら、人類の手で“音の流れ”を制御し、影ごと共存できるシステムを組むほうが合理的だろう」

「共存?」

 思わず笑ってしまった。

「それが、“人を椅子に縛りつけて、巣のエサにする”やり方かよ」

 冬矢の肩から、また煙が立ち上る。

 刻印から絞り取られるようにして巣に吸い込まれていく。

 結衣の耳には、相変わらずノイズが流れ続けている。

 九条は、かすかに眉を動かしただけだった。

「彼らは、都市を守るための大切な“核”だよ」

「核?」

「冬矢くんの刻印は、共鳴獣との接続点として非常に安定している。彼を介して、巣は都市全体の音とつながることができる。結衣さんの聴覚パターンは、君のそれと近い。彼女を通すことで、一般市民の“共鳴耐性”を高めることができる」

「勝手に解析してんじゃねえよ!」

 怒鳴った瞬間、スタジアムの空気が少し震えた。

 壁に取り付けられたスピーカーが、一斉に微かにうなり声を上げる。

 九条は、その震えを楽しむように目を細めた。

「やはり君の声は、良い響きをしている」

「お前の褒め言葉が一番ムカつく」

「だからこそ、君が必要だ」

 九条は、一歩前に出た。

「御影蓮斗。君と、その中にいる“それ”は、きわめて安定した共鳴体だ。恐怖と憎悪だけで動く共鳴獣と違い、人間の倫理を部分的に保ったまま力を行使できる。理想的な“兵器”だよ」

『兵器って言葉、ほんと好きだよねこの人』

 ソノが、呆れた声を出す。

 俺は、正面から九条を睨んだ。

「兵器なんか、やるつもりはない」

「選択肢は二つだ」

 九条は、こちらの言葉をさらりと受け流す。

「こちら側につき、共鳴体として人類の進化に協力するか。それともここで、彼らと一緒に音の海に沈むか」

 九条の視線が、ステージ脇の二人に向かう。

 俺も、そちらを見る。

 冬矢は、意識が朦朧としながらも、かすかに目を開けた。

 視線が俺を捉える。

 その目は、「勝手なことをするな」と訴えていた。

 あの、いつもの、竹刀を構える前の目だ。

 俺が無茶な構えをしようとすると、必ず「バカ、怪我するだろ」と言ってきたときの目。

「……うるせえよ」

 小さく笑ってしまった。

 結衣は、ヘッドホンの下で、唇を震わせていた。

 声は外には漏れてこない。

 でも、俺の耳には、その震えがはっきり届いていた。

 ノイズの向こう側で、細い声が必死に何かを紡いでいる。

『レン……』

 かすれた自分の名前。

 それだけで、胸が締め付けられる。

『ひとりで、全部背負わないで……』

 昔、補聴器を外して俯いていた俺の背中に、結衣が置いた手の重み。

『守りたいって言いながら、一番大事なところで信用してくれないの?』

 あの日の言葉が、耳の奥で重なる。

 今、彼女が何を言おうとしているか、耳を澄まさなくても分かった。

 勝手に終わらせるな。

 勝手に消えるな。

 ――俺だけ、全部抱えて死ぬなんて許さない。

 そんな、結衣らしいわがままが、確かに聞こえた気がした。

 九条の声が、静かに割り込んでくる。

「どうする?」

 スタジアムのどこかで、巨大なスイッチが入る音がした。

 カチリ。

 同時に、スタジアム全体の照明が落ちる。

 暗闇。

 数秒後、一つ、また一つと、スピーカーのインジケーターランプが点灯していく。

 緑、青、赤。

 その光が、闇の中で星座みたいな模様を描く。

 上空では、都市のあちこちでスピーカーがオンになっていくのが耳で分かった。

 駅前の大型ビジョン。

 ショッピングモールのBGMスピーカー。

 電車の車内放送。

 コンビニの店内音楽。

 街全体の音響システムが、一斉に「準備完了」の合図を出している。

『レン』

 ソノが、耳元で小さく囁く。

『始まるよ』

「……ああ」

 もう逃げ道はない。

 ここから先は、誰かに責任を押し付けて「知らなかった」と言い張ることもできない。

 第十五話の夜に聞いた、犠牲の提案。

 街全体の音を逆位相で打ち消すために、俺の耳を捧げろという話。

 あれが、現実として目の前に迫ってきている。

「御影蓮斗」

 九条の声が、暗闇に滑り込む。

「君は、どちらの音を選ぶ?」

 協力か、沈没か。

 進化か、拒絶か。

 街の心音が、スタジアムの床を震わせる。

 アリーナの中央、黒い巣が、ゆっくりと膨らんだ。

 七年前の無音の記憶と、今ここにある音の奔流が、頭の中でぶつかり合う。

 結衣の笑い声。

 冬矢の「面!」という掛け声。

 母さんの「おかえり」。

 エリカの歌。

 ソノの、「人間の涙の音って、結構うまい」という、ふざけた感想。

 全部、失いたくない。

 全部、守りたい。

「……選択肢、二つだけって言いましたよね」

 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

「どっちも、クソみたいなんですけど」

 九条は、少しだけ目を細める。

「人類史において、まともな選択肢などほとんど存在しない。いつだって、マシなほうを選び取ってきた」

「だったら、俺は俺なりに、“マシなクソ”を選びます」

 九条の眉が、わずかに動いた。

「どういう意味だい」

「簡単ですよ」

 俺は、暗闇の中で視線を上に向けた。

 天井の反響板の向こうに、都市の夜空がある。

 ネオンと、ビルと、人の声がある。

「共鳴都市を止めて、巣も壊して、二人も助ける」

 自分で言っておいて、無茶苦茶だと思う。

「ついでに、あなたのそのムカつく無音も、ぶっ壊してやる」

 ソノが、一瞬沈黙した。

 次の瞬間、小さく笑う。

『やっぱりそう来ると思った』

「レンらしいな」と、聞こえないはずの冬矢の声まで、頭の中で笑っている気がした。

「そんなことが可能だと、本気で思っているのか」

 九条の声に、初めて「嘲り」に近い揺らぎが混じった。

「分かりませんよ」

 正直に言う。

「でも、試さないで諦めるのは……一番、後悔する選択だってだけは、分かってるんで」

 暗闇の中で、ソノが俺の耳元に顔を寄せる。

『レン』

「なんだ」

『やるなら、派手にやろう』

 黒い煙が、俺の体に絡みついた。

 右腕から肩へ、背中へ、胸へ。

 耳の奥まで、ソノの音が満ちる。

『共鳴スタジアムの“開演”に、本物のアンコールをぶつけてやるんだ』

「……上等だ」

 拳を握る。

 暗闇の中で、スタジアム全体の音が、いっせいに立ち上がった。

 都市の心拍。人々のざわめき。共鳴獣の唸り。スピーカーのうねり。

 それら全部が、一つの巨大な波になって押し寄せてくる。

 共鳴スタジアムの開演。

 その第一音が、今まさに鳴り始めようとしていた。


第十七話 逆位相の曲と、最後のライブ

 世界が、一度、ひっくり返った。

 共鳴スタジアムのスピーカー群が一斉に唸り、都市全体の音が渦を巻いて押し寄せてきた瞬間、俺の鼓膜は役に立つのをやめた。

 代わりに、頭の奥――ソノと繋がっている場所が、真っ白に焼ける。

『フェーズ一、起動』

 九条の声が、やけに遠く聞こえた。

 なのに、共鳴スタジアム全体の音は、やけに近い。

 車のクラクション、叫び声、駅のアナウンス、スマホの着信音。全部が一つの波になって、スタジアムの床を震わせている。

 都市の心臓が、過呼吸を起こしているみたいだった。

『レン』

 ソノの声だけは、ちゃんと聞こえる。

『行くなら今』

「分かってる!」

 答えるより早く、俺はステージに駆け出していた。

 足裏から伝わる振動が、走るたびに強くなる。

 呼吸が浅くなる。

 でも、怖さより先に体が動いた。

 ソノが全身を纏う。

 右腕だけじゃなく、脚にも背中にも、黒い煙が絡みついた。

 筋肉の一本一本に、音の線が巻き付く。

 それだけで、世界がスローになる。

 九条の部下たちがコンソール席から立ち上がり、こちらへ向かってくる。

 耳にイヤホンを付けたまま、無表情で。

「侵入者を排除しろ!」

 誰かが叫ぶ。

 その声が命令として飛ぶより早く、彼らの足音のリズムが俺には見えた。

 右足、左足、右足。

 重心の位置。靴底の滑り。

 全部が、音になって頭の中に描かれる。

『右から二人、左から一人。全部まとめて飛び越えよっか』

「了解」

 ソノが脚に力を込める。

 俺のふくらはぎが、爆発するみたいに弾けた。

 床板を蹴る音が、自分のものとは思えないくらい鋭い。

 視界が一気に高くなる。

 部下たちの肩の上を、俺は飛び越えた。

「なっ――」

 驚きの声が、背中の方で上がる。

 そのまま空中で体をひねり、ステージの縁に片手を掛けて、転がるように着地した。

 膝に軽い衝撃が走る。

 けれど、痛みはほとんどない。

 ソノが、衝撃の音を分散させてくれている。

『はい、一曲目。ステージイン、成功』

「実況してる場合か!」

 息を吐きながら、ステージ奥――冬矢と結衣のいるほうへ走る。

 先に目に飛び込んできたのは、冬矢だった。

 拘束具で椅子に縛られたまま、右肩の刻印から黒いパイプが伸びている。

 パイプの先は、巣の側面に繋がっていた。

 そのパイプの中を、冬矢の心音に似たリズムのノイズが流れている。

 巣が、それを美味しそうに啜っている。

「……気持ち悪いな」

『うん。正直、見た目も趣味悪い』

 ソノが、あからさまに嫌そうな声を出した。

『でも、先にやることは一つ』

「分かってる」

 椅子の前に飛び込む。

 間近で見ると、冬矢の顔はひどかった。

 汗で髪が張り付き、目の下にはくっきりと隈がある。

 けれど、目そのものはまだ死んでなかった。

 濁りきる一歩手前で、踏みとどまっている。

「……御影、かよ」

 かすれた声が、喉の奥から漏れた。

 その声と一緒に、刻印からノイズが噴き出す。

 巣に送られるはずのノイズが、俺のほうに逆流してきた。

『レン、急いで切るよ』

「来い、ソノ!」

 右腕に力を込める。

 ソノが、腕に絡みついていた煙を一気に凝縮させた。

 黒い刃が、音を立てて形になる。

 過去に聞いたことのあるあらゆる“切断音”が、グシャグシャに混ざり合ったような感触だった。

 紙を裂く音。木を割る音。ガラスがヒビ割れる音。

 それら全部をまとめて刃にした感じ。

 一瞬だけ、耳の奥が痛んだ。

「……っ!」

 歯を食いしばって、パイプに刃を叩きつける。

 金属とも、ゴムとも、骨ともつかない音が鳴った。

 ギャリン、と。

 世界の音の一部が、妙な方向へねじ曲がる感覚。

 パイプの中を通っていたノイズが、途切れた。

 同時に、冬矢の肩の刻印が真っ黒に染まり、そこから爆発するみたいにノイズが噴き出した。

「っぐ……!」

 冬矢が、喉を押さえてうめく。

 刻印から溢れた黒い霧が、彼の周りに渦を巻いた。

 その霧は、明らかに共鳴獣の匂いだ。

 ハコ・エコーで嗅いだ、あの嫌な匂い。

『レン、離れて』

「お前が言うな!」

 それでも、俺は一歩も下がらなかった。

 冬矢の心音が、滅茶苦茶なリズムで跳ねている。

 このままじゃ、心臓が持たない。

『しょうがないなあ』

 ソノがため息をついた。

 次の瞬間、黒い霧に向かって飛び込んだ。

 俺の体から、煙の一部が抜け、冬矢の肩の上で渦を巻く。

『――いただきます』

 冗談みたいな一言と一緒に、ソノがノイズだけを吸い上げ始めた。

 冬矢の中から溢れ出ていた共鳴獣の鳴き声が、ソノの体の中に吸い込まれていく。

 悲鳴、罵声、爆発音。

 そういう音ばかりが、ソノの中でぐちゃぐちゃに混ざる。

『肉じゃなくて音だけ食べるの、めちゃくちゃ我慢いるんだからね……』

 ソノが、苦笑まじりに言う。

 黒い煙の色が、一瞬だけ濃くなる。

 けれど、すぐにまた灰色に戻った。

『ふー……オーケー。大きいのは取った』

 冬矢の心音が、少しずつ落ち着いていく。

 さっきまで不規則だった鼓動が、人間本来のリズムに戻っていくのが分かる。

 肩の刻印も、色を薄めていった。

 完全には消えないけれど、さっきまでの「穴」みたいな感じは薄れた。

「……っは、あ……」

 冬矢が、大きく息を吐いた。

 目が、ほんの少しだけ焦点を取り戻す。

「御影……なんだよ、お前……」

「こっちのセリフだ」

 思わず笑ってしまう。

「お前、勝手に“巣の核”になろうとするなよ」

「……は? 知らねえし……」

 冬矢が、かすかに眉をしかめて笑った。

「お前のトラブル体質、昔からだけどさ……巻き込みすぎだろ……」

「悪かったな」

 拘束具を外しながら、軽口を叩く。

 手首を固定していた金属を、ソノの刃で切り裂いていく。

 ジャラリ、とチェーンが床に落ちた。

「動けるか?」

「……まあ、竹刀よりは軽い椅子だったしな」

 無茶を言う。

「御影」

 冬矢が、俺を見上げる。

 声が真剣になった。

「行ってこいよ」

 それだけ言って、口元を歪める。

「お前が何やろうとしてるか大体分かるからさ。いつも通り、バカやってこい」

「……勝手に察すんな」

「お前の顔、分かりやすいんだよ」

 そう言って、冬矢は自分の足で立ち上がろうとする。

 ふらつきながらも、膝に力を入れる。

 大丈夫だ。

 冬矢は、もう「巣」に繋がれてない。

 俺は、彼の肩を一度だけ叩いて、次の椅子に向かった。

 結衣。

 ヘッドホンで耳を塞がれたまま、瞼を震わせている。

 顔色は悪い。

 指先が、細かく震えている。

 ヘッドホンからは、低い振動が止むことなく流れ続けていた。

 耳を澄ませなくても分かる。

 あの中には、エリカの曲が細切れにされて混ぜられている。

 都市全体へ流すための「テンプレート」として。

「……レン?」

 俺が彼女の前に立った瞬間、結衣の唇が微かに動いた。

 ヘッドホンの隙間から漏れた声が、ノイズと一緒に耳に飛び込んでくる。

 それでも、俺には聞き分けられた。

 この声は、何度も俺の名前を呼んできた声だ。

「来たよ」

 少しだけ笑って、ヘッドホンに手をかける。

 ソノが、その動きに合わせてノイズを遮断してくれた。

 ヘッドホンを外した瞬間、スタジアム全体の音が雪崩のように押し寄せてくる。

 けれど、その中心にある結衣の声だけは、はっきりと聞こえた。

「……レン、聞こえる?」

「聞こえてる」

 即答する。

「当然だろ」

 結衣が、かすかに笑った。

 その笑い声は、いつものよりずっと弱々しかったけれど、間違いなく結衣のものだった。

「よかった……」

 安堵の息が漏れる。

 同時に、結衣の心音が、ほんの少しだけ強くなる。

 まだ不安定だが、ゼロになっていない。

「私さ……途中から、全部分かってたんだよ」

 結衣が、目を閉じたまま呟く。

「庁の人に声かけられたときも、このヘッドホンつけられたときも、“ああ、きっとレンはここまで来る”って」

「信頼のされ方が重いんだよ」

「当たり前でしょ」

 結衣が、薄く笑う。

「小学校からずっと、あんたの一番近くで一番うるさくしてきたの、誰だと思ってんの」

「それは、まあ……」

 否定できない。

 結衣は、俺の手首を、拘束具の隙間から掴んだ。

 その手には、信じられないくらい力がこもっていた。

「レン」

「なんだよ」

「まだ、聞こえてる? 私の声」

「しつこいな。聞こえてるって言ってんだろ」

「……そっか」

 安心したような息。

「じゃあさ」

 結衣が、少しだけ声を強めた。

「行って」

「……え?」

「あんたが守りたいって思ったもの、守ってきて」

 それは、完全に意識が飛ぶ前に絞り出したみたいな言葉だった。

 それでも、一言一言が、俺の耳に深く突き刺さる。

「昔ね」

 結衣は、目を閉じたまま続ける。

「レンの補聴器、クラスで馬鹿にされたとき。あんた、めちゃくちゃ悔しそうな顔してたくせに、“別に慣れてるから”って笑ったでしょ」

「そんなこともあったな」

「そのとき思ったの。あ、この人、守られ慣れてないくせに、人のことばっか守ろうとするんだって」

 あの頃のことが、鮮明に蘇る。

 机の上に投げ出された補聴器。

 クラスメイトの笑い声。

 それを前にして、どうしていいのか分からず、ただ笑うしかなかった自分。

「だからさ」

 結衣が、俺の手を強く握る。

「今回くらい、本気で守りたいもの、全部守るって顔しなよ」

「……」

「その代わり、あとでちゃんと怒らせて。勝手に何か捨てようとしたら、私、本気でぶん殴るから」

 それは、たぶん、今の結衣にできる最大限の「お願い」だった。

 耳を捨てるかもしれないって話を、結衣にちゃんと伝えたことはない。

 けれど、この子はきっと分かっていた。

 俺がそういう顔をしていることに。

 そして、その上でこう言っている。

 「行って」と。

「……分かった」

 喉の奥が焼けるように痛い。

「ちゃんと戻ってきたら、好きなだけ殴らせてやるよ」

「約束だからね」

 結衣が、小さく笑った。

 心音が、少しだけ落ち着く。

 拘束具を外すと、彼女の体が前に倒れかけた。

 慌てて受け止める。

 軽かった。

 いつの間にか、こんなに痩せていたんだと思う。

「冬矢のところに行ける?」

「……あいつの肩、さっきからうるさい音してるからね」

 結衣が、うっすら目を開けて冬矢のほうを見る。

「文句の一つでも言わなきゃ」

「頼んだ」

 冬矢と結衣を、ステージの端へと運ぶ。

 その途中で、本田刑事の声がスタジアムの上のほうから聞こえてきた。

「御影! そこまでだ!」

「うわ、本田さんまで来てんのかよ!」

 見上げると、スタジアムの観客席部分――本来なら観客を入れるはずだったエリアに、本田が立っていた。

 いつもの安物スーツ姿のまま、庁の職員相手にわけの分からない説教をしている。

「だから言ったろうが! 未成年を実験場にするなって!」

「本田刑事、ここは庁の管轄で……」

「うるせえ! 俺の“教え子”に手ぇ出した時点で、これはもう事件だ!」

 勝手に教え子にされていた。

 でも、その叫び声は、少しだけ心強かった。

『いいね、本田。ナイス乱入』

 ソノが、嬉しそうに言う。

『でも、時間稼ぎとしては上出来だけど……』

「向こうも、そろそろ本気出すよな」

 コンソール席では、九条の部下たちが一斉に端末を操作し始めていた。

 九条は、ステージ中央に立ったまま、静かに手を掲げる。

「第ニフェーズに移行する」

 その一言で、スタジアムの音が一段階、色を変えた。

 低周波と高周波が複雑に絡み合い、巣の表面が嬉々としたように震え出す。

 都市全体で、さらに多くの悲鳴と衝突音が上がる。

 電車がレールの上で立ち往生し、車が交差点で止まったまま動かなくなる。

 イヤホンを付けていた人たちの多くが、それを引きちぎるように外し、その場にうずくまる。

 共鳴症候群の発作が、街中で爆発的に増えていた。

 巣が、それを「美味い」と言わんばかりに波打つ。

『レン』

 ソノが、俺の耳元でささやく。

『ここから先が、本当の“曲”だ』

「……だろうな」

 スタジアム全体の音が、ひとつのテンポに揃えられていくのが分かった。

 心音。足音。地下鉄のレール音。空調の唸り。

 それら全部が、一つのリズムに巻き取られていく。

 九条の指揮棒代わりの手が、空中でテンポを刻む。

「これが、“共鳴都市”の序曲だ」

 九条の声が、静かに響く。

「無数の個別のノイズが、ひとつの楽曲になる瞬間だよ」

『レン』

 ソノの声が、今度はほんの少しだけ震えた。

『本当にやるの?』

 問い直し。

 あの夜、体育館で聞いたのと同じ言葉。

「やる」

 俺は、もう迷わなかった。

「さっき決めただろ。後悔すること前提で選ぶって」

『分かってるけどさ』

 ソノが、苦笑する。

『言葉にして確認しないと、ボクのほうが怖くなる』

「珍しいな。お前が怖がるなんて」

『そりゃあね。ボクだって、“耳”を失うってのがどれくらいヤバいことか、君よりよく知ってる』

 ソノの声には、確かに怖さと、それ以上の覚悟が混じっていた。

『でも――しょうがないな、相棒』

 ニコ、と音で笑った。

『最後のライブ、派手にやろう』

「……ああ」

 俺は、ステージの中央に向き直った。

 黒い巣が、呼吸するみたいに膨らんだり縮んだりしている。

 その表面から伸びた触手が、スピーカーや配線に絡みついていた。

 都市全体の音が、そこに吸い込まれていく。

 九条が、俺を見る。

 その目の奥に、初めて「焦り」に似た揺らぎが見えた。

「まさか、お前は……」

「まさか、だよ」

 俺は、自分の胸に手を当てた。

 心音が、うるさいくらいに響いている。

 そのリズムを、スタジアム全体のリズムに重ねる。

 そして、ほんの少しだけ、ずらす。

『レン』

 ソノが囁く。

『覚悟はいい?』

「とっくに」

『じゃ、始めよっか――逆位相の曲』

 ソノが、俺の体に完全に同期した。

 耳の奥に、都市全体の音が雪崩れ込む。

 悲鳴。笑い声。雨音。電車のブレーキ。スマホのバイブ。テレビのニュース。子供の泣き声。

 それら全部が、ひとつの巨大な波になって、俺の中に押し寄せてきた。

 頭が裂ける。

 視界が白くなる。

 吐き気が込み上げる。

 それでも、俺は歯を食いしばった。

「……ソノ!」

『分かってる!』

 ソノが、俺の中で音を掴む。

 押し寄せてきた波を、一つ一つ分解していく。

 低音。中音。高音。

 心音。呼吸音。機械音。

 それら全部を、線にして並べる。

『これを……全部、ひっくり返す』

 逆位相。

 プラスとマイナスをぶつけて、ゼロにする技。

 教科書で見た簡単な波形図が、今は最悪の現場マニュアルになっていた。

『レン、君の耳で受け止めて、ボクの体で反転させる。二人で一曲』

「……最後のライブには、ちょっと重い選曲だな」

『アンコールだからね』

 ソノが笑う。

 その笑い声が、俺の鼓動に重なった。

 スタジアムのスピーカーが、さらに音量を上げる。

 街では、人々が耳を塞ぎ、地面にうずくまっている。

 本田刑事が、観客席で必死に庁の職員と揉み合っていた。

 冬矢が、結衣の肩を支えながらこちらを睨んでいる。

 俺はその全部を、音として受け止めた。

 そして、ひっくり返す。

 俺とソノの共鳴が、スタジアムの中心で爆ぜた。

 逆位相の波が、共鳴スタジアムのスピーカー群に逆流していく。

 スピーカーの膜が悲鳴を上げる。

 壁の反響板が震え、ひび割れ始める。

 黒い巣が、初めて痛みに似たうねりを見せた。

『もう少し!』

 ソノの声が遠くなる。

 耳の奥が、焼けるように熱い。

 鼓膜がもはや役に立っているのかどうかも分からない。

 ただ、頭の中で鳴っている音だけが全てだった。

 街の心音と、俺の心音と、ソノの笑い声。

 それらが、ごちゃまぜになって渦を巻く。

 九条の叫び声が、どこかで聞こえた。

「やめろ! そんなことをしたら――」

 何を言おうとしていたのかは、もう聞き取れなかった。

 音が、一瞬で消えたからだ。

 スタジアム全体から、都市全体から、音という音がごっそりと抜け落ちた。

 三秒。

 世界が、完全な無音になった。

 七年前と同じ、あの三秒。

 ただし今回は、俺がその中心にいた。

 そして――その代償として、俺の耳もまた、静かになり始めていた。


第十八話 無音の証と、続いていく残響

 世界から、音が抜け落ちた。

 暴力みたいな轟音のあとにやってきたのは、信じられないほど澄み切った静寂だった。

 七年前に一度だけ味わった「三秒無音」。

 今度は、それよりずっと深くて、長い。

 何も聞こえないくせに、耳の奥がじんじんと痛い。

 痛みの感触だけが、「さっきまでここで音が暴れていた」という証拠みたいに残っていた。

 ――やりきったんだな。

 ぼんやりとそう思う。

 次の瞬間、世界がスローモーションの映像みたいに動き出した。

 黒い巣の中心に埋もれていたものが、軋むようにひび割れる。

 ギチ、ギチ、と、あまりにも乾いた「音」が、俺の頭の中だけに響いた気がした。

 完全な無音のはずなのに、それだけははっきりと分かる。

 共鳴獣たちの本能が固まってできた核。

 あれを中心に、都市中の音が集められていた。

 その黒い結晶が、蜘蛛の巣状にひび割れ、細かい破片になって弾け飛ぶ。

 破片が空中でしばらく漂い、それから光に溶けるみたいに消えていった。

 同時に、スタジアムのスピーカー群が次々とショートする。

 赤や青や白の火花が、暗い空間のあちこちで咲いた。

 高い周波数のキーンという悲鳴が、きっと鳴り響いていたはずだ。

 俺の耳には、もう届かない。

 ただ、振動だけが皮膚を通して伝わってくる。

 床が揺れた。

 天井の反響板が一枚、二枚と落ちていく。

 視界の端で、九条が膝をつくのが見えた。

 口を開き、何か叫んでいる。

 その喉は激しく震えているのに、音はまるで届かない。

 ……ああ、これが皮肉ってやつか。

 ずっと「無音の男」だった九条の心音が、今になって初めて俺の耳に届いた――ような気がした。

 どんなリズムだったのかは、もう思い出せない。

 ほんの刹那。

 無音の膜がひび割れた一瞬だけ、彼もまた「普通の人間」に戻っていたのかもしれない。

 手元の端末に伸びた指先が、震えた。

 データだけでも守ろうとしている。

 でも、その腕を乱暴に掴む手があった。

 上の通路から、数人の影が飛び込んでくる。

 本田刑事率いる、警察の突入部隊だった。

 無骨な防音ヘッドホンをつけた男たちが、九条とその部下を次々と押さえつけていく。

 本田が何か怒鳴っている。

 たぶん、「未成年をこんな場所に連れてきやがって」だの、「啓司の息子を何だと思ってる」だの、そんな言葉だ。

 口の動きで、何となく分かる。

 九条の目には、まだ消えていない炎があった。

 拘束されながらも、スタジアムを見回す表情は、どこか静かで、諦めていない。

 ――あんたみたいなのは、きっと何度でも立ち上がるんだろうな。

 そう冷めたことを考えたところで、俺の足から力が抜けた。

 世界が、ぐにゃりと傾ぐ。

 床が近づいてくる。

 誰かが駆け寄ってくるのが見えた。

 結衣。

 冬矢。

 本田。

 口々に何かを叫んでいる。

 けれど、その声もすぐに遠ざかっていく。

 視界の端で、ソノが揺らめいた。

 黒い煙は、もうほとんど透明な波のように薄くなっている。

『……レン』

 声は、聞こえなかった。

 それでも、何を言いたいかは分かった。

 俺は、かすかに笑って、唇だけ動かした。

「こっから先は、お前のほうが“耳がいい”かもな」

 そのまま、意識は底なしの静寂の中に落ちていった。

     ◇

 目を覚ましたとき、天井が白かった。

 見慣れた蛍光灯と、白いクロス。

 鼻をつく消毒液の匂い。

 病院だ、と理解するまでに、数秒かかった。

 横になっている体が重い。

 腕には点滴。

 口の中はひどく乾いていた。

 ゆっくりと視線を動かすと、ベッドの横に三つの影があった。

 女の人がひとり。

 男がひとり。

 女の子がひとり。

 全員、目の下にくっきりと隈を作っている。

 今にも泣き出しそうな顔で、俺を見ていた。

「……おはよう」

 口だけでそう言ってみる。

 三人とも、同時に大きく肩を震わせた。

 母さんが、俺の手を両手で包み込む。

 結衣が、両手を胸の前で握りしめる。

 冬矢が、頬をかきながら目を逸らす。

 何か言っている。

 でも、音はない。

 口の動きだけが、ぱくぱくと金魚のように見えた。

 ……そうだ。

 俺は、耳を差し出したんだった。

 静かなのは、スタジアムじゃなくて、俺自身だ。

「……聞こえない、か」

 自分の声も、ちゃんとは分からない。

 喉が震えた感覚と、胸に響く振動だけが、自分の発音を教えてくれる。

 ひどくたどたどしい、自分じゃないみたいな声だった。

 母さんが、慌ててベッドの横のテーブルからホワイトボードとペンを取る。

 それを結衣に押しつける。

 結衣は、半分泣きながらも素早くペンを走らせた。

 『耳、どう?』

 差し出されたボードの文字を見て、俺は少しだけ笑う。

 相変わらず字が丸い。

 小学生の頃から変わらない。

 俺は、片手を上げて、ゆっくりと首を横に振った。

 聞こえない。

 そう伝えると、結衣の肩がびくりと震えた。

 母さんは、唇を噛みしめる。

 冬矢は、きつく目を閉じて拳を握った。

 代わりに、俺は右手でマジックを受け取り、ボードに字を書いた。

 『聞こえない。でも、大丈夫』

 書いてから、自分で少し笑ってしまう。

 どのあたりが大丈夫なんだ、って話だ。

 でも、三人の顔を見ていたら、それ以外の言葉が浮かばなかった。

 母さんが、堪えきれないという顔でうつむく。

 肩が細かく揺れる。

 その背中を、結衣がそっとさする。

 冬矢は、ふいと顔を背けたまま、自分の肩のあたりを指さした。

 視線を向けると、冬矢が制服の袖口をまくる。

 そこには、あの刻印があった場所――今は、うっすらとした痣の跡さえ残っていない、きれいな皮膚だけが広がっていた。

 冬矢は、口を動かす。

『剣道、また一からやり直しだな』

 声は聞こえない。

 けれど、口の形と、あいつの性格と、タイミングで、だいたい分かる。

 はいはい、と言いたくなって、俺はボードに書いた。

 『どうせまたすぐレギュラー戻るだろ』

 見せると、冬矢は一瞬だけ目を丸くし、それから噛み殺したような笑い方をした。

 長い付き合いだ。

 文字でも、これくらいの掛け合いはできる。

 母さんが、ようやく顔を上げる。

 目の周りは真っ赤だった。

 それでも、俺のほうをしっかり見て言葉を紡ぐ。

 『あんたは本当に、父さんに似てる』

 唇の動きと、そのときの表情で、そう言ったと分かった。

 ぎゅっと手を握られる。

 啓司――父の名前が、胸の奥で小さく鳴った。

 父さんは、最後まで音に取り憑かれて、音に殺された人間だ。

 俺は、その後を継ぐみたいに耳を捧げた。

 似ていると言われて、嬉しいような、悔しいような、複雑な気持ちになった。

 それでも、今、母さんが泣きながら笑っているこの顔は、悪くない。

 俺が生きて帰ってきたことを、ちゃんと喜んでくれている顔だった。

     ◇

 退院までには、思ったより時間がかかった。

 聴力検査のグラフは、医師が何度見直しても変わらない。

 完全な「深度難聴」。

 補聴器ではどうにもならないレベル。

 医師がゆっくりと口を動かす。

 「もう、前みたいには戻らないでしょう」と。

 その言葉の意味を、母さんの涙と病室の空気で理解する。

 俺は、うん、と頷いた。

 覚悟はとっくにできていたから。

 共鳴スタジアムのこと、共鳴都市計画のこと、九条のこと。

 全部を説明する本田刑事の口は、熱く動いていた。

 外の世界では、「大規模な音響設備の事故」ということにされているらしい。

 九条は、複数の違法実験の責任を問われて拘束された。

 庁の上層部はごっそり入れ替えになり、「共鳴対策庁」の看板を変えるという話まで出ているそうだ。

 ニュースでは、そんなことはほとんど報じられない。

 俺が知っているのは、病室に来る人たちの表情と、置いていく書類と、口の動きから読み取った断片だけだ。

 共鳴都市計画は、とりあえず止まった。

 巣は壊れた。

 でも、「終わった」とはどうしても思えなかった。

 共鳴獣は、音の影。

 影が完全になくなることなんて、きっとない。

 静かな夜に、ふと浮かぶ不安を、俺はあえて文字にしなかった。

 それを書いてしまったら、母さんや結衣や冬矢の顔が、もっと曇りそうだから。

 代わりに、別のことを書いた。

 退院が決まった日、枕元に置かれていた父のノートを開く。

 本田がこっそり持ってきて、「お前に預ける」と置いていったものだ。

 そこには、啓司の字でびっしりと文字が並んでいる。

 共鳴症候群の事例。

 ライブハウスの地図。

 都市の構造。

 そして、最後のページ。

 「音の源は、都市そのもの。誰かが、ここを巨大なライブハウスにしようとしている」

 震える字で書かれたその一文の下に、俺は自分の字で一行書き足した。

 「一回目のライブは、こっちの勝ちで終わらせた」と。

     ◇

 学校に戻ったのは、季節がひとつ変わりかける頃だった。

 通学路の街路樹には、若い葉がついていた。

 校門をくぐると、やたらと眩しい。

 久しぶりに見るクラスメイトたちは、最初こそ遠巻きに俺を見ていたが、結衣が先頭を切って近づいてきた。

 ホワイトボードを片手に。

 『おかえり、レン』

 大きく書かれたその文字を見て、笑う。

 俺は、ボードの隅に小さく書き足す。

 『ただいま』

 それだけで、教室の空気が少し柔らかくなった。

 授業は、前より少しだけ大変になった。

 先生の口の動きと、黒板の文字と、結衣のメモ。

 そこから情報を拾い集める。

 隣の席からは、冬矢の乱暴な字で書かれた「今の、数学でこういう意味」みたいなノートが飛んでくる。

 体育の授業では、球技で周囲の声が聞こえないぶん、動きの予測に苦労した。

 でも、その代わり、足音やボールの弾む感触だけで、なんとなくプレーの流れが読めるようになった。

 音はなくても、世界は動いている。

 俺は、それを見る側に回っただけだ。

     ◇

 放課後、屋上で夜景を見るのが、最近の習慣になった。

 柵越しに見下ろす街は、あの日と同じように光っている。

 車のライト、ビルの窓、信号機。

 そこに、音はない。

 耳を澄ませても、風の音も、電車の音も、聞こえてこない。

 なのに、不思議と怖くなかった。

 風が頬を撫でていく感覚から、「あ、今たぶん、前みたいなら“サーッ”って音がしてるんだろうな」と想像できる。

 遠くの線路の上を、電車の光が滑っていくのを見れば、「ガタンゴトン」のリズムが頭の中に再生される。

 一度覚えた曲は、そう簡単には忘れない。

 俺の脳には、もう「音のアーカイブ」が詰まっている。

 そんなことを考えていたときだった。

 ふいに、頭の奥で、微かな揺らぎを感じた。

 風とは違う。

 血流とも違う。

 もっと、懐かしい何か。

 耳の奥からではなく、頭蓋の内側から震えが立ち上がる。

 昔、初めてソノの声を聞いたときの感覚に、少し似ていた。

 でも、決定的に違う。

 怖くない。

 むしろ、くすぐったいくらいだ。

 言葉にはなっていない。

 ただの「揺れ」。

 それでも、誰なのかは分かった。

 ソノだ。

 姿も声も、もうここにはない。

 でも、共鳴スタジアムで俺の耳と一緒に「反転」したあいつの残骸は、きっとどこかに残っている。

 俺の脳のどこかに、あいつの「音の癖」だけが焼き付いているのかもしれない。

 もしここで声が聞こえたとしたら、きっとこんな言葉だろう。

『レン。ボクの声、もう聞こえないかもしれないけど……ボクはここにいるよ。キミの音は、全部覚えてる』

 俺は、空に向かって口を開いた。

 声が出ているかどうかは分からない。

 それでも、言葉だけははっきりしていた。

「……ああ、知ってる」

 ソノの揺らぎが、ほんの少しだけ強くなった気がした。

 答えを聞いて笑っているような、そんな気配。

 そのとき、階段のほうから足音がした。

 振り返ると、結衣と冬矢が柵のところまで走ってきた。

 手には、何かを持っている。

 結衣は、新品のノートとペンを掲げて見せた。

 『ねえレン、一緒に歌詞でも書いてみない?』

 大きくそう書かれたページを、にかっと笑いながら突き出してくる。

 俺は、ちょっとだけ目を丸くした。

 「歌詞?」

 口だけで尋ねると、結衣は勢いよく頷く。

 『エリカちゃんの曲みたいなやつ。……いや、あそこまで危ないのは嫌だけど』

 そう書き足して、少しだけ首をすくめた。

 冬矢は、苦笑いしながら肩をすくめる。

 『どうせお前、またどっかのライブハウスに突っ込んでいくだろ』

 その文字を見て、俺は苦笑するしかなかった。

 図星だ。

 きっと俺は、これからも音に関わることから完全には離れられない。

 人の声も、歌も、きっとまた別の形で「共鳴」を生む。

 共鳴獣みたいな影も、どこかでまた生まれるだろう。

 だったら、今度は少しでも「マシな音」の側にいたい。

 誰かをライブハウスで死なせないために。

 誰かの歌を、正しい場所で鳴らすために。

 耳が聞こえなくても、できることはあるはずだ。

 俺は、結衣からノートとペンを受け取った。

 ページの一番上に、ゆっくりと字を書く。

 『第一曲 無音から始まるラブソング』

 書いた瞬間、結衣が顔を真っ赤にする。

 冬矢が、腹を抱えて笑うフリをする。

 「おい、それ俺のいないところで勝手に作るなよ」と口で文句を言っているのが分かる。

 俺は肩をすくめて笑った。

 屋上の風が、三人の間を抜けていく。

 音はない。

 でも、この空気の震えごと全部、俺の中でちゃんと「音」に変換されていた。

     ◇

 その日の夜。

 家のリビングでは、母さんがニュース番組を見ていた。

 テレビの音量は、いつもより小さく設定されている。

 俺にはどうせ聞こえない。

 ただ、画面のテロップだけがはっきりと目に入る。

 「海外の都市で“謎の三秒無音現象” 通信障害か」

 アナウンサーが真面目な顔で何かを読み上げている。

 画面には、見知らぬ国の街の映像。

 一瞬だけすべての音が消え、そのあとざわめきが戻ってきた、という再現CG。

 母さんが、不安そうに俺を見る。

 大丈夫か、と目で問うている。

 俺は、少しだけ笑って首を横に振った。

 「大丈夫かどうかなんて、今はまだ分からないよ」

 そう口だけで言う。

 音の影は、きっと世界のどこにでもある。

 俺たちの街で終わり、なんて都合のいい話じゃない。

 でも。

 俺はもう、無音をただ怖がるだけの子供じゃない。

 耳が聞こえない代わりに、世界の「揺れ方」を覚えた。

 ソノという怪物と一緒に、音の中で暴れて、そして自分から音を手放した。

 この無音は、俺が生きてここにいる証だ。

 この静けさの中に、あの日の歌も、父の足音も、母さんのため息も、結衣の笑い声も、冬矢の掛け声も、全部残っている。

 これから先、別の都市でまた三秒無音が起きるかもしれない。

 別の誰かが、共鳴獣と出会ってしまうかもしれない。

 そのとき、この街でのことが、いつか誰かの手に届くように。

 父のノートの隣に、自分用のノートを置いた。

 一ページ目に、ゆっくりとタイトルを書く。

 『共鳴都市の無音譚 著:御影蓮斗』

 文字は、まだ少し震えている。

 でも、その震えも含めて、俺の「音」だ。

 ペン先が紙を走る感触が、頭の中で軽いスネアの音になる。

 そこに、記憶の中のメロディを重ねていく。

 音がない世界でも、俺の中には、たくさんの残響が続いていた。

 物語はひとまず、ここで幕を下ろす。

 けれど、どこか遠くの街で、また新しい三秒無音が誰かの耳を打つ。

 その瞬間、きっとまた別の誰かが、怪物と、自分の音と、向き合うことになる。

 そのとき、今日ここに書いた「無音の証」が、少しでもその誰かの背中を押せたなら――

 それで十分だ、と俺は思う。




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