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共鳴獣と耳の聞こえない俺 世界を救ったのは“静寂”でした  作者: 妙原奇天


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前編

「本・難聴の剣士は共鳴獣を飼っている」

しげみち

第1章 失われた耳と、拾われた音

第1話「無音の落日」

 チャイムが鳴ったとき、御影蓮斗の世界には、いつものように一瞬だけ“遅れ”が生じた。

 教室の天井スピーカーが震え、金属質な音が空気を揺らす。クラスメイトたちがざわっと立ち上がり、椅子が床を擦る音が重なる。蓮斗は、右耳につけた黒い補聴器越しに、その全部を半歩ずれたところから受け取っていた。

 膜の向こう側で誰かが映画を流していて、自分だけがガラス越しに見ているような感覚。映像はよく見えるのに、音だけがどこか遠い。

「おーい、蓮斗ー。帰るよー」

 後ろから肩を軽く叩かれ、振り向くと、幼馴染の桜庭結衣がそこにいた。短めのポニーテールを揺らして、プリントを抱えたまま、口を大きく動かしている。

「レン、帰る。いこ」

 彼女の唇の形と、補聴器を通したくぐもった声を重ねるようにして、蓮斗は言葉を読み取る。何度も繰り返してきた動作だ。

「ああ、ちょっと待って。鞄」

 蓮斗は立ち上がり、机の横にかけていたスクールバッグを肩にかけた。教室を出る前に、いつもの癖で窓の外を見る。空はすでにオレンジ色に染まり始めていて、校舎の影がグラウンドに長く伸びていた。

 秋の夕方は、音がやわらかくなる。

 体育館から聞こえていたバスケットボールのドリブル音も、運動部の掛け声も、どこか丸くなって耳に届く。世界全体が少しだけボリュームを絞られたみたいで、それが逆に心地よかった。

「今日、部活ないの? 冬矢先輩」

 廊下を歩きながら、結衣が前を向いたまま話しかけてくる。彼女の声が、補聴器越しにざらつく。

「ない。大会終わったばっかだし。自主練はするけど」

「真面目ー。さすが剣道バカ」

「お前が言うなよ。合唱部の練習、毎日残ってたくせに」

「合唱は文化ですー」

 結衣の口元がにやっと歪む。彼女はすぐに笑う。笑い声が、蓮斗にはよく聞こえない。それでも、笑っているのは分かるから、十分だった。

 二人で靴箱まで歩き、上履きをローファーに履き替える。出入口の扉を押し開けると、ひんやりとした外気とともに、校門の向こうから車の走行音が押し寄せてきた。

 ざわめき。遠くの国道を走るトラックの低い唸り。風に揺れる木の葉の擦れ合う音。雀の鳴き声。

 どれも、補聴器が拾いきれない高音や小さな音は抜け落ちていて、穴だらけの音風景。でも、蓮斗はそれに慣れていた。生まれつき、ずっとそうだったから。

「レン、今日さ、コンビニ寄ってかない?」

 校門を出たところで、結衣が少しだけ弾むような声で言う。

「新作のプリンが出ててね。あれ絶対おいしいと思うんだよね。期間限定って書いてあったし」

「お前、この前も限定に釣られて失敗してただろ」

「今日は当たりの予感しかしないから。ほら、蓮斗、甘いの好きでしょ?」

 そう言って覗き込んでくる彼女の顔が、夕焼けに縁取られている。茶色の瞳が、オレンジ色の光を反射してキラキラしていた。

 世界は、いつもこんなふうに、少しぼやけて、少し眩しい。

「あー……今日はやめとく。家で勉強しろって言われてる」

「まじメガネ秀才じゃん」

「メガネかけてないだろ」

「イメージの問題!」

 結衣が肩をすくめて笑う。彼女の声の抑揚は、蓮斗の耳には時々うまく届かない。その代わり、笑ったときの頬や目尻の動きは、ちゃんと見えていた。

「じゃ、プリンはまた今度ね。テスト終わったら打ち上げしよ。冬矢先輩も誘って」

「いや、あいつ甘いの苦手だから」

「そこをなんとか。レンが頼めば来てくれるって。先輩、レンには甘いし」

「そうか?」

 冬矢の顔を思い浮かべる。黒髪を短く刈り、無駄のない動きで竹刀を振るう剣道部のエース。いつも厳しくて、生徒会にも顔を出して、女子に人気があるタイプだ。

 そんな彼が、なぜか蓮斗にはよく構ってくる。たまたま隣の席になったときにプリントの内容を筆談で教えてくれたり、部活に誘ってきたり。

 どこか放っておけない弟分だと思われているのかもしれない。

「そうか、じゃないよ。自覚なさすぎ問題」

「うるさい」

「照れた?」

「照れてない」

「照れたー。かわいいー」

 結衣が、わざとらしく両手を頬に当ててひらひらさせる。その動きが大げさすぎて、通りかかったクラスメイトが振り返り、二人を見て笑った。

 そんな、小さな日常の騒がしさが。

 次の瞬間、すべて消えた。

 車の音も。風の音も。結衣の笑い声も。

 世界から、音だけがごっそり抜き取られたみたいに。

 空気がぴたりと固まったような静寂が、蓮斗の鼓膜と、頭蓋骨と、胸の奥を一気に締めつける。

「……え?」

 自分の声すら、聞こえなかった。

 補聴器の電源が落ちたのかと思って、指先で本体を確かめる。ランプはついている。スイッチも入っている。なのに、何も聞こえない。

 目の前で、結衣の唇が動く。何か言っている。眉をひそめ、心配そうに蓮斗の顔を覗き込んでくる。

 その仕草が、やけにはっきりと見えた。

 音が消えると、世界はやたら鮮明になる。人の瞬きさえ、時間を引き伸ばしたスローモーションみたいに感じる。

 遠くを走っていたはずの車のライトが、静かに滑るように通り過ぎていく。風に揺れる木の葉が、ふわりふわりと形を変えながら落ちていく。そのどれにも、音はない。

 感覚が、ずるりと現実から外れた。

 その静寂は、永遠に続くように思えた。けれど――

 パチン、と指を鳴らしたように、突然世界が戻る。

「……っとに、聞いてる? レン!」

 結衣の声が、いきなり耳の中に流れ込んできた。車の騒音、遠くの踏切の警報音、鳥の鳴き声。すべてが一度に押し寄せてくる。

 世界のボリュームが、一瞬で最大まで上げられたみたいだった。

「っ……!」

 蓮斗は思わず耳を押さえる。補聴器越しの音が、いつも以上にうるさい。頭の奥でキンと高い音が響いた。

「ど、どうしたの? 顔真っ青だよ?」

 結衣の声も、いつもより大きく感じる。息がうまく入ってこない。胸が早鳴りしている。

 三秒。

 体感で、それくらい。時間にすればほんの短い瞬間。でも、あの無音の世界は、三秒以上に長く、自分を深く沈めた。

「今……」

 喉がひりついて、言葉がうまく出ない。

 さっきのは、何だ。

 補聴器の故障か? でも、結衣の様子からすると――

「レン?」

「……なんでもない。ちょっと、めまいしただけ」

 蓮斗は、無理やり笑顔を作った。結衣の表情が、不安から少しだけ安堵に変わる。

「えー、ならいいけど。ほんと、無理しないでよ? 夏風邪とかじゃない?」

「ああ。今日は早く帰る」

「うん。じゃ、私、コンビニ寄ってくから、ここでバイバイね」

 結衣が手を振り、交差点の角を曲がっていく。その背中を見送りながら、蓮斗は立ち尽くした。

 今のは、気のせいじゃない。

 耳の外側じゃなくて、世界そのものから音が消えたみたいに感じた。

 自分は、生まれつきの難聴だ。音がない世界なんて、耳が覚えているはずだ。それでも、さっきの無音は、それとは違う種類のものだった。もっと徹底的で、完璧な静寂。

 まるで「この世界から音という概念だけを一時的に抜き取った」みたいな。

「……ありえないだろ」

 思わず口に出したひと言が、ちゃんと自分の耳に届く。それを確認して、ようやく蓮斗は足を動かし始めた。

 家に帰るまでの道のりが、やけに長く感じられた。

     ◇

「日本各地で、謎の現象が――」

 夕食後。リビングのテレビから、キャスターの声が聞こえてきた。蓮斗は、テーブルで問題集を広げたまま、何となくそちらに視線を向ける。

「本日午後四時三十二分ごろ、全国各地で『急に周囲の音が消えた』という報告が、SNS上で相次ぎました」

 画面の端に、ハッシュタグが表示される。

 #三秒無音

 白い文字が、じわりと視界に滲んだ。

「専門家によりますと、気象レーダーの一時的な障害や、気圧の変化によるものではないかと見られていますが、詳細はまだ分かっていません」

 スマホで撮影された動画が流れる。街中で立ち止まる人々。耳を押さえている人もいる。音は途中でぶつっと途切れ、数秒後に再び賑やかなざわめきが戻ってくる。

 それは、さっき蓮斗が体験した感覚と、ほとんど同じだった。

「なんか、変なのねえ」

 食器を片付けながら、母がテレビに目をやる。

「ほら、今の子たち、すぐ何でも動画撮るじゃない? 変なイタズラじゃないの」

「いや、全国でだってさ」

「全国的なイタズラかも」

 母は冗談めかして笑う。その笑い声が、蓮斗の耳には少し遠く、どこか現実味を欠いて聞こえた。

 父は、ソファに座って新聞を広げたまま、ちらりともテレビを見ない。弟の悠斗は、ゲーム機に夢中で、ニュースなんてどうでもいい様子だ。

 世界全体が一瞬、音を失ったかもしれないという話題でさえ、テレビの中の“よくあるネタ”の一つとして消費されていく。

 でも。

 自分の中のざわつきだけは、少しも収まらなかった。

 あのとき、自分は確かに、何かを感じた。音のない世界の、もっと奥にあるものに触れたような感覚。

 問題集の文字が、目に入ってこない。鉛筆を握る指先に、じわりと汗がにじむ。

 蓮斗は、静かに席を立った。

「どうしたの、レン?」

「ちょっと、もう寝る」

「早いわね。具合悪いの?」

「大丈夫」

 母の問いかけに短く答えて、自室に戻る。補聴器を外し、ベッドの脇の充電器にそっと置いた。世界は、一気に音を失う。

 リビングのテレビの笑い声も、冷蔵庫の低い唸りも、悠斗のゲームの効果音も。すべてが、遠い霧の向こう側に沈んでいく。

 静寂は、慣れ親しんだ友人みたいなものだった。

 小さい頃から、夜寝る前はいつもこんなふうに、無音の中で一日を振り返ってきた。今日の出来事。結衣の笑顔。冬矢に言われた言葉。補聴器を外すと、そういう思い出だけが、音もなく頭の中に浮かび上がってくる。

 だから、静寂そのものは怖くない。

 けれど今夜の静けさは、どこか違っていた。

 何かが潜んでいるような、張り詰めた感じがする。

 蓮斗は、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。天井を見つめる。外の街灯がカーテンの隙間から差し込み、薄い縦の線を作っている。

 目を閉じる。暗闇。いつもの夜。

 それでも、胸の奥のざわつきは消えない。

 そのときだった。

 カサ……カサ……

 頭の奥で、何かが擦れるような音がした。

 蓮斗は、反射的に目を開いた。

 部屋の中は、変わらない。机、本棚、制服をかけたハンガー。カーテン越しの街灯。どこにも異変はない。耳には何もつけていない。補聴器はベッド脇の充電器の上で、じっと光っている。

 なら、この音はどこから聞こえている?

 カサ……カサ……

 もう一度。今度は、少しだけはっきりと。

 耳の外側ではなく、頭蓋骨の内側で鳴っているような感覚。脳のどこかを指で軽く弾かれているみたいな、不快な音。

 幻聴?

 そんな言葉が頭をよぎり、背筋に冷たいものが走る。

 蓮斗は、布団を握りしめた。呼吸が浅くなる。心臓がどくどくと早く打ち始めた。

 カサ……カサ……カサ……

 擦れる音は徐々にリズムを帯び、やがて、それは形を変え始める。

 音の輪郭の外側に、意味のようなものがまとわりつく。さざ波が言葉になる直前の、あの妙な感覚。

「……」

 何かを聞き取りたくて、無意識に息を止める。鼓動の音さえ邪魔に感じた。

 カサ……カサ……カサ……

 擦れる音が、一瞬だけ途切れる。

 代わりに。

『やっと』

 声になった。

 男とも女ともつかない、乾いた声。耳ではなく、頭の中のどこかから、直接響いてくる。

『やっと、見つけた』

 その言葉が、脳の表面を這うようにじわりと広がっていく。身体の奥底で、何かがぎゅっと縮む感覚。

 蓮斗は、喉の奥からひきつったような声を絞り出した。

「だ、誰……」

 自分の声が、無音の部屋の中で震える。補聴器はつけていないのに、自分のかすれた吐息だけは、やけに大きく感じられた。

 視界の端で、何かが動いた。

 黒い、煙のようなもの。

 天井と壁の境目あたりで、影が揺らめいている。最初はただの暗がりかと思った。でも、それはゆっくりと形を変え、細長く伸びたり縮んだりしながら、こちらへ流れてくる。

 心臓が凍りついたような感覚がした。

 幽霊なんて信じていない。怪談も、作り話だと思っていた。それでも今、目の前で、説明のつかない何かがうごめいている。

 息が詰まる。叫ばなきゃ、と思うのに、喉が固まって動かない。

 黒い煙は、まるで水の中を泳ぐ魚のように滑らかに動き、ベッドのすぐ横まで降りてきた。輪郭が揺れながら収束し、どこか人の形に似た“影”をつくり出す。

 頭。肩。腕。脚。

 輪郭だけが人間で、中身はすべて黒いもや。その中心あたりに、ぽつりと二つの光が浮かんだ。瞳のようにも、ただの光点のようにも見える。

『やっと、見つけた』

 同じ言葉が、もう一度、今度ははっきりとした響きで頭に流れ込んでくる。

 蓮斗は、ようやく声をあげた。

「う、うわあああああ!」

 喉が裂けるかと思うほどの叫び声が、無音のはずの世界に飛び出していく。けれど、ドアの向こうから「どうしたの」という声は返ってこない。

 叫びは、自分の内側だけで反響した。

 黒い影は、動じない。むしろ、楽しそうに首をかしげるような動きを見せた。

『聞こえてるね。よかった』

「近づくな!」

 布団を引き寄せ、身体を丸める。影との距離が、息を吸うたびに縮んでいくような錯覚に襲われる。

『近づいてなんかないよ。ぼくはまだ、ここ』

 影の中心の光点が、すっと細くなった。笑っているようにも見えるし、人間の表情とはまるで違うものにも見える。

『落ちてきたんだ。音が消えた三秒のあいだに。世界から、外れて』

「な、にを……言って……」

 膝が震える。声が震える。言葉の意味がうまく頭に入ってこない。

『ぼくは、ソノ』

 影が、静かに名乗った。

『音のない世界から落ちてきた、はぐれもの。君の耳は、ちょっと特別だからね。だから、君だけに聞こえる』

 その瞬間。

 蓮斗は、自分がとんでもないものに“拾われてしまった”ことを、直感した。


第2話 怪物と耳の取引

 息がうまくできなかった。

 喉の奥がひきつり、胸が膨らむのに酸素が足りない。黒い影の中心に浮かぶ二つの光点が、蓮斗をじっと見下ろしている。

 夜の自室。補聴器を外した無音の世界。そのはずなのに、影からはゆっくりと、何か金属質のきしむ音が漏れ出していた。

 ギギ……ギ、ギ……

 耳ではなく、脳に直接流し込まれてくる音。

 蓮斗は布団を握りしめ、限界まで身体を縮めた。

「……くるな……」

『怖がらなくていいよ。ほら、ぼく、悪いやつじゃないから』

 影――ソノが、柔らかい声で言った。だがその柔らかさは、人間のものではない。金属を薄く削ったような、ざらりとした質感が混じる。

『条件付きで、お前の耳を直してやる』

「……は?」

 あまりに突然の言葉に、恐怖よりも困惑が勝った。

 耳を、直す?

 そんな話、信じたくでも信じられない。蓮斗は自嘲混じりに、口の端を震わせる。

「直すって……俺は、生まれつき、だぞ。医者にも言われてる。手術じゃどうにもならないって」

『医者じゃどうにもならないから、ぼくが来たんだよ』

 ソノの声が、くすくすと笑ったように揺れる。

『お前、困ってるだろ? 聞こえなくて。世界が遠くて。みんなと距離があってさ』

 弱いところを、容赦なく突いてくる。

 胸の奥がぎゅっと縮む。たしかに蓮斗は、いつも音に遅れて世界を追いかけていた。結衣の言葉が聞き取れず、冬矢の発言の意味を読み取るのに一瞬遅れ、部活の掛け声がノイズに埋もれる。

 補聴器越しの曖昧な世界。聞こえないことに慣れすぎて、諦めるのが癖になっていた。

 だが、その心の奥底にはずっと――

(聞きたい)

 そう願う自分が確かにいた。

 結衣の笑い声を。冬矢の剣が空気を裂く音を。秋の木々を揺らす風を。父の声を。

 胸の奥が痛む。

 七年前の、あの日。

 刑事だった父が、不可解な死を遂げた日。現場には銃声はなかった。それなのに蓮斗の耳の奥には、ずっと「カチ」という硬質な音だけが残っていた。金属をひねるような、妙な音。

 そして今、目の前の影から漏れる音は――

(同じだ)

 背筋に冷たいものが走る。手足が震えた。

「……これは幻聴だ。疲れて……昔のことが、重なって……」

『幻なんかじゃないよ』

 ソノは、まるで蓮斗の思考を読み取ったように言った。

『じゃあ、これなら信じる?』

 影がふわりと動く。

 黒い煙のような輪郭が揺れ、次の瞬間、ソノは蓮斗の目の前――ほんの数センチまで近づいていた。

 冷たいものが、頬に触れる。

 影の端が指先のように形を変え、蓮斗の頬をなぞった。ぞわりと鳥肌が立つ。

『ぼくは、お前の耳の奥まで届く。幻じゃ、こんなことできないよ』

「や、やめ――」

 その言葉が終わるより早く、ソノは蓮斗の頭蓋へと入り込んだ。

 黒い煙が液体のように形を変え、こめかみのあたりへ吸い込まれる。皮膚の下を何かが走る感触がした。脳の奥に、冷たい針が刺さったような痛みが走る。

「っ……あ、あああああああああ!」

 激痛。

 世界が白く爆ぜた。頭蓋の内側をかきむしられているような痛み。胃が反転するような吐き気。視界が揺れ、ベッドの感触さえ遠のく。

 耳の奥で、無数の細い糸のようなものが絡まり合うのを感じた。

 ソノの声が、直接脳に響く。

『動かないで。いま、お前の内耳と聴覚中枢を、ぼくの“音の細胞”でつないでるんだ』

「何、して……!」

『心配ないって。ちゃんと直してるから』

 その瞬間、痛みが弾けるように消えた。

 代わりに――世界が、音で満たされた。

 布団の繊維が擦れる、かすかな音。

 机の上に置いたシャープペンの芯が震える、ほとんど無音に近い振動。

 壁掛け時計の秒針が、空気を切る音。

 そして、窓の外――夜道をゆっくり走るバイクの排気音。遠く離れた踏切の電子音。家の前のアスファルトを、小動物が駆け抜ける足音。

 全部。

 全部、聞こえる。

 補聴器もつけていないのに。どれか一つが聞こえるんじゃない。すべての音が、幾重にも重なり、立体的に広がっている。

「……な、に、これ……」

 蓮斗は、震える指先で耳を触った。いつもあったはずの“膜”がない。世界が、鮮明すぎるほど鮮明だった。

 さらに――音が、色になって見えた。

 時計の秒針の音は薄い青の線に。布団の擦れる音は淡い黄色の粒に。遠くのバイクの音は深紅の波となって視界の端を揺らす。

『お前とぼくは、今、共鳴したんだよ』

 ソノの声が、至近距離で囁くように響く。

『お前の耳は、人間の限界を越えた』

 胸が強く跳ねた。

 聞こえる。こんなにも。こんな世界が、本来の“音”なのか。

「……すごい……」

 思わず漏れた声に、ソノがぽたんと落ちるように笑う。

『だろ? でも、タダじゃないよ』

 きた。

 蓮斗は、本能的に身構える。

『代償として、ぼくはお前の体を“器”として使う。普段は脳の奥に潜んでるだけ。でも――必要なら、身体の一部を借りるよ』

「借りるって……どういう……」

『こういうこと』

 蓮斗の手の甲が、ぬるりと黒く染まった。

「っ……!」

 皮膚が、影に飲まれる。指先が細長く変形し、爪が黒い刃のように伸びていく。感覚はある。自分の手なのに、自分の意志とは無関係に動き出しそうな気配。

『まあ、今回は見せるだけ。びっくりさせたね』

 影がすっと引き、手の甲は元に戻る。

 だがその一瞬で、蓮斗の全身に冷たい汗がにじんだ。

「そ、そんなの……嫌だ。返せよ。耳も、この……変な契約も。全部返せ」

『無理だよ』

 ソノは淡々と言う。

『一方的な契約で悪いけどさ。ぼくも必死なんだ。生き延びるのに』

 その声は、飢えた動物にも似ていた。どこか哀しげで、それでいて容赦がない。

『お前の耳は、もうぼくの音で満たされてる。切り離せば、たぶん……二度と聞こえなくなる』

「そんな勝手な……!」

『勝手だよ。でも、生き物ってだいたいそうだろ? 自分が死なないために、誰かを利用する。それだけ』

 冷たく、現実的な言葉だった。

 蓮斗は唇を噛んだ。血の味がした。

「……俺の体、勝手に使ったりするな。乗っ取るとか……絶対に、許さないからな」

『約束はできないなあ』

 ソノの声が、くすりと笑う。

『けど、そんなに嫌いじゃないよ。君の耳の鳴り方。ずっと前から、探してた』

 その言葉が、妙に胸に引っかかった。

「……探してたって、どういう意味だよ」

『それを話すのは、まだ先でいい。まずはさ』

 ソノの影が、蓮斗の肩に触れた。

『これから起きる“音の異変”に備えよう。三秒無音は、序章だから』

 異変。

 序章。

 ぞくりと、背骨の奥が冷えた。

 布団の上で起き上がることもできずに、蓮斗はただ、天井を見つめた。

 世界は、静かで、鮮明で、恐ろしく美しかった。

 その耳の中に、ソノが潜んでいる。

 もう、後戻りはできない。

『ねえ、蓮斗』

 ソノが囁く。

『ぼくらはもう、ひとつだよ』

 その声を聞いた瞬間――蓮斗は、自分の人生が二度と元には戻らないことを、はっきり理解した。


第3話 剣道場の残響

 翌朝、目を覚ました瞬間、蓮斗は思わず布団の中で固まった。

 世界が、やっぱりうるさい。

 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の空気をわずかに暖め、その膨張する空気の揺れまでもが耳に届いてくる気がした。エアコンの内部で回転するファンの音。冷蔵庫のコンプレッサーが唸り始める低い振動。二階建ての家のどこかで、誰かが布団から起き上がる気配。

 全部、音になって分かる。

 それでいて、頭が割れそうなほどの騒音ではない。音同士が干渉するぎりぎり手前でまとまり、ひとつの「世界」として脳内に地図のように浮かび上がっていた。

『おはよう』

 頭の奥で、ソノの声がした。

「……夢じゃ、なかったか」

『夢にしようと思えばできたのに。残念だね』

「残念なのはこっちだよ」

 蓮斗は、額を枕にこすりつけながら小さく唸る。こうして会話している事実が、昨夜の出来事すべてが現実だと証明していた。

 耳は、信じられないほどよく聞こえる。

 代わりに、頭の中に怪物が棲みついた。

 割に合っているのか、合っていないのか、判断に困る取引だ。

『で、今日はどうするの? 学校、休む?』

「……行くに決まってるだろ。テスト近いし」

『真面目だねえ。じゃあ、せっかくだから試しておいでよ。新しい耳で』

 挑発するような声。蓮斗は、ため息をつきながら布団から這い出た。

     ◇

 朝練の時間帯の体育館裏は、まだ空気が冷たかった。

 それでも、剣道場の引き戸の向こうからは、熱量のある音があふれてくる。

 竹刀がぶつかる乾いた衝撃音。面布越しの掛け声。踏み込みで床板が軋む音。汗が垂れて畳に落ちる、かすかな水音までもが重なり合い、剣道場全体を一枚の「音の膜」に変えていた。

 引き戸の前に立っただけで、その全部が脳内で立体的に再構成される。

 誰が、どの位置で、どんな体勢で構えているのか。片足に体重を乗せすぎている人間が何人いるか。呼吸が乱れているのはどいつか。

(……すご)

 思わず、口元がゆるむ。

『ね、気持ちいいでしょ?』

 ソノが耳元で囁いた。実際には耳たぶ一つ揺れていないのに、息がかかったような錯覚がする。

『ここは音がよく響く。木と竹と汗の音。ぼく、こういう場所好きだな』

「お前の好みは聞いてない」

 小さく反論してから、蓮斗は引き戸に手をかけた。

 ギイ、と木が擦れる音が、澄んだ線になって視界の端に流れる。

「おはようございまーす」

 道場の空気が、一瞬だけ動いた。

 奥のコートで打ち込みをしていた二年の先輩が振り返り、面布越しに手を上げる。三年の先輩たちは、面を取って水を飲んでいたところらしく、タオルで汗を拭きながら「おう」と軽く返してくる。

 その中で、ひときわ目立つ背中がひとつ。

「よう、御影」

 冬矢だった。

 面をつける前の、額にバンダナだけ巻いた姿。短く刈った髪が汗で少しだけ額に張りついている。道着の胸元からのぞく鎖骨のラインも、竹刀を握る前腕の筋も、無駄がない。

「調子どうだ、御影」

 いつも通りの低く落ち着いた声。その響き方さえ、今日は少し違って聞こえる。胸の奥に、音の余韻が残る感じがした。

「……まあ、普通」

「顔は普通じゃねえけどな。なんか寝不足か?」

 冬矢がじろりと蓮斗の目元を覗き込んでくる。視線が近い。距離が近い。背が高い。圧がある。

 思わず一歩引いた蓮斗の、足袋の裏から床板へと伝わる音まで、鮮明に認識できた。

「ちょっと、夜遅くまで勉強してただけです」

「嘘つけ。昨日のニュース見たろ。“三秒無音”だかなんだか」

 冬矢はタオルを首に引っかけたまま、目を細める。

「耳、変な感じしなかったか?」

「……どう、ですかね。あんまり」

 少しだけ目を逸らしながら答えると、冬矢はふっと口元だけで笑った。

「ま、いいや。倒れそうだったらすぐ言え。今日は軽めにやるつもりだし」

「はい」

 軽めに。そう言いつつ、冬矢の体から伝わってくる気配は、まるで試合前みたいに研ぎ澄まされていた。

 足の裏を通じて床のきしみを聞く。冬矢が一歩踏み出せば、床板はどれくらい沈むか。そのとき竹刀は、どの角度で振り下ろされるのか。

『おー……』

 ソノが、どこか感心したような声を出す。

『いいね、この先輩。音のバランスがいい。無駄が少ない』

「人を楽器みたいに言うなよ」

『実際、楽器みたいなもんだよ。骨と筋肉でできた生きた打楽器』

 あながち間違っていないのが悔しい。

 道着に着替え、面と胴をつける。面金の金属の冷たさが額に触れ、そのときの細かな擦過音さえ耳に届く。

 視界は狭くなるが、代わりに音の世界は広がった。

 面をつけた瞬間、音が一段階、クリアになる。面布の内側で反響する自分の呼吸音。面金に当たった空気の乱れ。道場の隅で誰かが飲み物を飲み干す喉の鳴り。

 すべてが「ここにある」と、はっきり分かる。

「じゃ、アップ終わったら、一本やるぞ」

 冬矢の声が、面越しに響く。

「はい」

 返事をしながらも、蓮斗の心臓は、いつもより速く打っていた。恐怖とも期待ともつかない感情が、胸のあたりで混ざり合っている。

     ◇

 準備運動と素振りを終え、他の部員たちがそれぞれ打ち込みや地稽古に移る中で、冬矢と蓮斗は道場の中央に向き合った。

 ギャラリー代わりに、一年や二年の何人かが壁際に腰を下ろし、二人の様子を見ている。

「うわ、部長と御影がやるってよ」

「また御影さん、フルボッココース?」

「この前もボコボコだったもんなー」

 ひそひそ声も、面の内側に全部届いてくる。

『評判悪いねえ、きみ』

「うるさい」

 心の中でだけ返しつつ、蓮斗は正面に向き直る。

 構えた冬矢が、一歩、床を踏み鳴らした。

 タン。

 その一音で、彼の全身の力の流れが分かる。

 右足に重心。上体はわずかに前傾。吐く息が少しだけ短い。竹刀を握る指の噛み合わせ方に力みはないが、握り直す気配がほんのわずかにある。

 以前の蓮斗なら、見た目のフォームと、気合いの大きさくらいでしか判断できなかった。

 だが今は違う。

 冬矢の身体そのものが、音という形で「次の動き」を教えてくれている。

『さあ、いってみようか』

 ソノが嬉しそうに囁く。

『これは、狩りだよ。音で獲物を追う狩り』

「こっちは獲物になりたくないんだけど」

 苦笑が漏れる。面布の内側で、自分の息がわずかに白く曇る。

「始め!」

 先輩の掛け声と同時に、冬矢が動いた。

 打突の基本のような、教科書どおりの一歩。

 だが、その一歩目の床の沈み方で、全体のスピードが分かる。竹刀が振りかぶられるとき、空気が切り裂かれる微かな音が耳に届く。呼吸の吸い方で、どこまで踏み込むつもりかも予測できた。

 当たる前に、もう「当たる位置」が浮かんでいる。

「……っ」

 蓮斗は、条件反射のように身体を動かした。

 冬矢の踏み込みより、わずかに早く。

 半歩分だけ前へ出る。

 床板がきしむ瞬間、冬矢の足音の波形がずれる。出鼻を、音で捉えた。

「面!」

 叫びと同時に、竹刀を振り下ろす。

 バシィン。

 乾いた破裂音が、道場の空気を震わせた。

 冬矢の面金に竹刀が吸い込まれる感触。手に伝わる手応えで、しっかりと中心を捉えていることが分かった。

 遅れて、冬矢の踏み込みの音が届く。完全に、出だしを潰した形になっていた。

「……は?」

 面布の向こうで、冬矢の身体が一瞬だけ固まる気配がした。

 審判役をしていた先輩が、思わず声を上げる。

「有効! 御影、面!」

 ざわ、と道場の隅が揺れた。

「今の、やばくね?」

「御影さん、あんな速かったっけ」

「いや、今のはガチで出鼻だろ……」

 ひそひそ声が増える。音が色の粒になって視界の端を飛び交う。

 蓮斗自身も、茫然と立ち尽くしていた。

(……当たった)

 狙って出したわけではない。気付いたときには身体が動いていた。

 でも、確かに「見えて」いた。

 冬矢の一歩目の重さ。床板の鳴り方。竹刀が空を切る角度。呼気と心拍のリズム。

 それら全部が音になって、頭の中で線を結び、「ここを打て」と告げていた。

『ふふ』

 ソノの笑い声が、面布の内側で弾ける。

『ね? これが“音で見る”ってことさ』

「……お前、何してくれてんだよ」

『何って、ちょっと手助けしただけ。あとは君の反応速度だよ』

 そう言われても、褒められている気がまるでしない。

 冬矢が面を上げる。面布の下から覗いた顔は、驚きと興奮が混ざった妙な表情をしていた。

「……今の、どうやった?」

「え、いや、その……」

「たまたま、で済ませるつもりなら、部長としてブチ切れるぞ」

 冬矢の目が、真っ直ぐに蓮斗を射抜く。冗談めかした声色なのに、瞳の奥は本気だ。

「感覚が急に良くなるなんてありえねえからな。昨日の三秒無音と関係あるのか?」

 心臓が、ドクンと脈打つ。

 ここで「実は頭の中に怪物が住み着きまして」とか言えるはずもない。

「……分かりません」

 蓮斗は、正直に、でも核心はぼかして答えた。

「昨日の夜から、ちょっと耳の調子が変で。なんていうか、音が……前より聞こえるようになった気がするだけで」

「だけで、あの出鼻はねえよ」

 冬矢は額の汗を拭いながら、ふっと息を吐いた。

「……まあいい。もう一本、やる」

「え」

「次も同じように取れたら、本物だ。お前のその耳、ただごとじゃねえ」

 部長の顔になっていた。普段はちょっとお節介で、面倒見のいい兄貴分みたいな冬矢が、完全に「勝負する側」の目になっていた。

 もう一度構える。

 今度は、さっきよりも冬矢の音が澄んで聞こえた。集中力が増した分、無駄な足運びが消え、呼吸も整えられている。

 音で分かる。

 この人は、自分のことをちゃんと「強くなれる相手」として見てくれている。

 それが、少しだけうれしかった。

     ◇

 稽古が終わるころには、蓮斗の身体は汗でぐっしょりになっていた。

 結局、あのあと何本も冬矢にやられた。最初の一本は、奇跡か、あるいはソノの悪戯だったのかもしれない。それでも、途中からは、以前よりもずっと長く持ちこたえられるようになっていた。

 出鼻をかけるタイミング。フェイントの読み合い。わずかな体重移動の違い。

 音が、それら全部を教えてくれる。

「おつかれ、御影」

 面を外した冬矢が、タオルで乱暴に髪を拭きながら声をかけてきた。

「今日の御影、なんか怖かったな」

「え、そうですか?」

「最初の一本だけな。あとはいつものお前だった」

「ひど」

 軽く笑い合う。その軽口の応酬に、いつもと変わらない日常の匂いがした。

 ただ一つ違うのは――冬矢の声の奥行きが、前よりもっと深く聞こえること。

 喉の振動。胸郭の鳴り方。そこに宿る熱量。

 音だけで、相手の「本気」が伝わってくる。

『青春だねえ』

 ソノが、からかうように言う。

『いいじゃん、こういうの。ぼく、嫌いじゃないよ。人間が真面目に何かに打ち込んでる音』

「お前に趣味があるとは知らなかった」

『なかったよ。こっちに落ちてくるまでは』

 その言葉に、一瞬だけ引っかかりを覚えたが、深く追及する前に冬矢が近寄ってきた。

「午後の授業、寝んなよ」

「部長が言います?」

「俺は寝ても成績落ちないからいいの」

「そういうとこですよ」

 くだらないやりとりを交わしながら、二人で道場を出た。

     ◇

 放課後。

 教室での授業は正直、ほとんど頭に入ってこなかった。先生のチョークが黒板を走る音、クラスメイトがページをめくる音、ボールペンのノック音。全部が立体的に押し寄せてきて、集中を奪っていく。

 なんとか一日を乗り切り、昇降口で靴を履き替えていると、聞き慣れた足音が近づいてきた。

 軽くて、テンポがよくて、少しだけ跳ねるような音。

「レン!」

 振り向くより早く、肩をぽんと叩かれる。

 桜庭結衣だった。今日は髪を高めの位置で結んでいて、ポニーテールが元気よく揺れている。ブレザーのボタンを一つ開けて、リボンも少しだけゆるめていて、全体的に「放課後モード」だ。

「帰り、商店街回り道していい?」

「またコンビニスイーツ?」

「違うもん。今日はもっと尊い話」

 目を輝かせている。こういうときの結衣は、大体ろくでもないことを言い出す。

「……尊いって、食べ物じゃないんだな?」

「人だよ、人。この前からハマってるって言ってたでしょ、地下アイドル」

「ああ、あの、なんだっけ……」

「『ノイズ・ドルチェ』!」

 結衣が胸の前で握りこぶしを作る。声のトーンが一段階上がったのが分かった。

「この街にもさ、小さなライブハウスがあってね。明日、推しの子が出るんだ。一緒に行こうよ」

「ライブハウス?」

 聞き返した瞬間、耳の内側で、何かがざわりと揺れた。

 結衣は構わず続ける。

「そう、『ハコ・エコー』っていうとこ。前から気になってたんだけど、なかなか予定合わなくてさ。やっと推しが出る日に行けそうなんだよね。これはもう運命でしょ」

「ハコ・エコー……」

 その名前が、妙に頭に残った。

 蓮斗の耳の中で、昨日の「三秒無音」の記憶がさざ波のように広がる。あの完璧な静寂。その直後に訪れた異常な聴覚の解放。

『そこ』

 ソノが、低く呟いた。

『きっと“音が濃い”場所だよ』

 鼓膜の裏側をなぞるような声。背筋が少しだけ冷える。

「……なんか、知ってるのか」

『名前からしてそうじゃない? エコー。反響。音が折り重なる箱』

 ソノは、楽しそうに笑った。

『ぼくにとっては、たぶんご馳走みたいな場所』

 ご馳走なんて言い方をされると、不安しかない。

「レン?」

 袖をくい、と引かれ、蓮斗は現実に引き戻された。

「なにボーッとしてんの。もしかして、アイドル興味ない?」

「いや……そういうわけじゃないけど」

 正直、アイドルにそこまで興味があったわけではない。ただ、結衣が話すと何でも少し楽しそうに聞こえてしまうのが、ずるいところだ。

「お前、そういうとこ一人で行けんだろ」

「行けるけど、初ライブはさ、誰かと共有したいんだよねー」

 結衣は、少しだけ頬をふくらませる。

「だって、終わったあと感想語り合いたいじゃん。あそこやばかったねーとか、あの曲エモすぎとかさ。そういうの、一人で抱え込むの、もったいないでしょ?」

「……お前、ほんとにしゃべるの好きだよな」

「うん、自覚ある」

 即答だった。

 結衣の声を聞いていると、昨日よりもずっと細かなニュアンスが拾えることに気付く。

 今の「うん」は、少しだけ照れが混じっていた。自分の欠点だと分かっていながら認めてしまうときの、逃げ場のない肯定のトーン。

 こんなふうに、音から感情を読むなんてこと、以前はできなかった。

(……もし)

 もし、この耳でライブハウスに行ったら。どれだけの音が押し寄せてくるんだろう。

 ギター。ベース。ドラム。ボーカルの声。客席の歓声。床を踏み鳴らす振動。全部が渦になって襲ってきたら、自分は耐えられるのか。

 そして、そこにソノが何を感じるのか。

『行こうよ』

 ソノが囁いた。

『悪くないよ、そういうの。どうせ、音の異変はあちこちで起きる。静かにしてても巻き込まれるなら、こっちから覗きに行った方がいい』

「事故みたいに言うな」

『事故みたいなもんだよ。三秒無音も、ぼくが落ちてきたのも』

 軽く言ってくれる。

「レン?」

 結衣が、じっとこちらを覗き込んでいた。茶色の瞳が、不安と期待の入り混じった色をしている。

「……明日、予定ある?」

 そう聞かれて、蓮斗は一瞬だけ考えた。

 テスト勉強。部活。家の用事。理由を並べて断ることもできる。きっと結衣はそれでも「そっか」と笑ってくれるだろう。

 でも――

 昨日から、世界は変わってしまった。

 耳の中に怪物がいる。音が色になって見える。三秒の無音が、これから何を引き起こすのか分からない。

 どうせ変わってしまったのなら、自分も一歩はみ出してみてもいいんじゃないか。

 それに。

「……別に、空いてるけど」

「ほんと!? やった!」

 結衣が、ぱっと顔を明るくした。ローファーのまま小さくその場で跳ねる。その足音が、やけに軽やかに耳に届く。

「じゃあ決まりね。明日、駅前の改札に五時集合。開演六時だから、ちょっと早めにご飯食べよ。レン、辛いのダメだっけ?」

「普通くらいなら」

「じゃあ、あそこのカレー屋さん行こ! 推しの前に胃袋も満たさないと」

「お前の推し、カレーだったっけ」

「違うわ!」

 笑い合いながら、二人で商店街に足を向ける。

 夕方の商店街は、いろんな音で溢れていた。八百屋の威勢のいい声。揚げ物屋の油が弾ける音。本屋の自動ドアが開く電子音。信号が赤に変わるときのメロディー。

 それらすべてが、薄い膜のように重なり合い、「この街の音」として耳に届く。

 その向こう側に、明日行くことになるライブハウス「ハコ・エコー」のことを思う。

 きっと、今感じている何倍もの音が、あの箱の中に渦巻いている。

『楽しみだね』

 ソノの声が、低く笑った。

『人間たちがどんなふうに音で騒ぐのか。ぼくも、見てみたい』

「……騒ぐのは勝手だけど、変なことするなよ」

『保障はできない』

「お前な」

 小さく毒づきながらも、蓮斗の胸の奥には、ほんの少しだけ高揚感があった。

 剣道場で感じた、音の世界の広がり。

 冬矢の出鼻を捉えた瞬間の、ぞくりとする手応え。

 そして明日、ライブハウスで待っているかもしれない、まだ知らない音の渦。

 世界は、たった三秒の無音から、急にうるさくなった。

 そのうるささが、これから自分をどこへ連れていくのか――それはまだ、誰にも分からなかった。


第4話 ハコ・エコーの歌姫

 翌晩。校門を出たときから、胸のあたりがずっとざわついていた。

「レン、行くよー! 逃がさないからね!」

 右腕をがっちりつかんでくるのは、もちろん桜庭結衣だ。今日はいつもの制服に、ライブ用に買ったらしい缶バッジをいくつもつけている。さっきから「セトリ予想」とか「推しの尊さ」とか、終始テンションが高い。

「本当に行くのか、これ……」

「今さらイヤとか言わせない。チケット取ったって言ったじゃん」

「俺、別にアイドル好きとか言ってないよな」

「関係ない。推しは布教するものです」

 言い切りやがった。

 その横を歩く冬矢は、さすがにライブハウス慣れしていないのか、ネクタイを緩めながら少しだけ居心地悪そうな顔をしていた。

「まあ、一回くらい経験しておくのも悪くねえだろ。音響の勉強にもなるしな」

「部長の頭の中、すぐ剣道に繋がるのやめたほうがいいと思います」

「うるせ。足さばきもリズムだからな」

 剣道とアイドルライブを同列に語るの、絶対この人だけだ。

 そんなくだらない会話を挟みながら歩くうちに、街はだんだんと雑居ビルや飲み屋の多いエリアへ変わっていく。駅前の大通りから一本外れた裏路地。看板の光が上だけやけに明るくて、地面に落ちる影が濃い。

「ここだよ、ここ!」

 結衣が指さしたのは、ビルとビルの隙間にある、狭い階段の入口だった。

 コンクリートの壁に、小さな金属の看板が打ち付けてある。

 LIVE HOUSE

 ハコ・エコー

 英語とカタカナが半分剥げかけている。知らなければ素通りしそうな場所だ。

 地下へ続く階段から、低くうねるベースの音がじわじわと這い上がってきていた。まだ開場前だというのに、もう音響チェックをしているらしい。

『ほら、言ったとおりだろ』

 頭の中で、ソノが嬉しそうに笑う。

『ここ、音が濃い』

 階段の手すりに手をかけると、鉄の冷たさと一緒に、かすかに振動が伝わってきた。壁に染み付いたビールとタバコと汗の匂い。その匂いの奥で、過去に鳴らされた音たちの残りカスみたいなものが、微弱なざわめきとしてうごめいている。

 一段降りるごとに、音が少しずつ立体感を増していく。

 ベース。ドラム。アンプから漏れるハウリング。ステージ上を歩く誰かの足音。スタッフ同士の短いやりとり。

 それら全部が、一つの箱の中で反響し合っている。

「うお、マジで地下なんだな。秘密基地感ある」

「でしょ? こういうの、エモってやつなんだよ」

 結衣が得意げに言う。こいつ、本当にこういう場所が好きなんだな。

 階段を降りきると、正面に重そうな鉄の扉があった。その横には小さな受付カウンター。既に何人かのファンが集まっており、チケットをもぎってもらってドリンクチケットを受け取っている。

「三人で予約してる桜庭です!」

 結衣が財布と一緒にチケットを差し出す。受付のお姉さんが慣れた手つきでもぎり、カラフルなドリンクチケットを渡してきた。

「中、結構音大きいからねー。気分悪くなったらすぐ外出てね」

「はーい」

 扉を押し開けた瞬間、音が一段階弾けた。

 まだ客入りはまばらだが、箱自体が狭いぶん、音がすぐに壁にぶつかってはね返り、耳の中で層を成していく。

 ステージは、思ったよりも低かった。手を伸ばせば届きそうな距離。後ろの壁一面には、色あせたフライヤーが隙間なく貼られている。新しいものもあれば、紙が黄ばんで端がめくれ上がっているものもあった。

 床には、乾ききっていないビールの匂いがこもっている。その匂いに混ざって、何年分もの汗と涙の成分が少しだけ残っているような気がした。

『ふうん』

 ソノが、興味深そうに呟く。

『ここ、何回も“ちょっとおかしい音”が鳴ってるね』

「おかしいって、どんな」

『普通、人間の音ってさ、もう少しザラザラしてるんだよ。ここには時々、やけに滑らかで、冷たい波が混ざってる』

 意味はよく分からないけれど、その「滑らかで冷たい波」という表現に、背筋がわずかに粟立った。

「ね、せっかくだし前のほう行こ」

 結衣に腕を引っぱられ、その波の中心へと連れていかれる。

 ステージの真正面。少し後ろに下がればすぐ後列に押しやられそうな距離だ。

 冬矢が、わずかに眉をひそめていた。

「結構、音デカそうだな。御影、きつかったら耳塞げよ」

「……はい」

 きついかどうか、自分でもまだ分からない。ただ一つ言えるのは、この耳ならどんな音も聞き逃さないということだ。

 だからこそ、怖い。

     ◇

 前座のバンドが一本終わり、転換中のざわめきの中で、結衣はずっとスマホの画面を食い入るように見つめていた。

「エリカちゃん、今日は新曲やるって……やばい、やばくない? どうしよう」

「知らん」

「いや、聞いて? 新曲だよ? 初披露だよ? この瞬間に立ち会えるとか、生きててよかった以外の感情ないんだけど」

「生きるハードル低くて羨ましいな」

 隣で冬矢が呆れたように笑う。

「そんなすごいのか、その七瀬って子」

「すごいよ。動画だとさ、ちょっと不安定かなって思ったりするんだけど、生の声がやばいんだって。音の乗り方? がさー、こう、ハマるとやばいらしい」

「語彙力どこいった」

「エモさの前では語彙力なんて飾りです」

 結衣のテンションに、周りの客たちもつられてか、ざわざわと熱を帯びていく。みんな手にペンライトやタオルを持ち、開演を待ちきれない様子だ。

 やがて、場内の照明がふっと落ちた。

 暗闇の中、ステージ上だけに薄く青いライトが灯る。

 ドクン、と心臓がひとつ大きく鳴った。その鼓動の音が、やけに鮮明に耳に届く。

 マイクがきぃ、とわずかにハウリングを起こす。そのノイズさえ、今は何かの前触れみたいに思えた。

 そして――

「それでは、『シンクロ・ノイズ』の登場です!」

 スタッフの声と同時に、ステージの照明が一気に明るくなる。

 世界の真ん中に、彼女が立っていた。

 センターの少女――七瀬エリカ。

 動画で見たことはある。けれど実物は、その何倍も「ここにいる」感じが強かった。

 肩までの黒髪を、少しだけ巻いている。学校の制服をベースにした衣装は、スカートに光沢のある生地を重ね、リボンを大きめに結んでアレンジされていた。足元はローファーではなく、編み上げのショートブーツ。

 全体的に「普通の女子高生」と「ステージ上の存在」のちょうど真ん中くらい。

 けれど、マイクを握る指先と、前を向いた瞳だけは、迷いがなく真っ直ぐだった。

「……みんな、今日は来てくれてありがとう」

 第一声。

 その瞬間、空気の密度が変わった。

 透き通った高音。声帯の震え方がやけに滑らかで、無駄な雑味が少ない。語尾にほんの少しだけかかるビブラートが、箱の中を柔らかく揺らす。

 でも――

(おかしい)

 蓮斗の耳には、その裏側にもう一つ別の旋律が重なって聞こえていた。

 エリカの声とは少しだけずれた、低い波。人間の声帯では出せない周波数域の、ざらりとした音。

 それは、ソノの声と同じ種類の「異物」だった。

『あー……こりゃ』

 ソノが、舌なめずりするような気配を見せる。

『あの声、ぼくらの波長にチューニングされてる。危ないけど、すごく美味しそう』

「……食べ物みたいに言うな」

『いや、マジで。あれ、音の構造が人間の限界を踏み越えてる。誰がいじったんだろうね』

 いじった?

 その言葉に、胸の奥がざわりと揺れた。

 エリカが自己紹介をし、ユニットの他の二人も簡単に挨拶を済ませる。そのたびに歓声が上がる。ペンライトの光が揺れ、足音が弾む。その全てが背景音として遠のき、エリカの声だけが、やけに鮮明に耳に入ってきた。

「一曲目、『ミラー・ハートビート』」

 曲名を告げたあと、バンドのカウントが始まる。

 ドン、ドン、ドン、ドン。

 ドラムのキックが、まるで巨大な心臓の鼓動みたいに箱の中を支配した。

 ギターとベースが重なり、シンセが入り、サビへ向かってテンポを上げていく。

 そして、エリカの歌声が乗る。

 ――きれい、なんて言葉では足りなかった。

 高音の伸び。息の量。リズムの取り方。全部が曲にぴたりと重なっていて、一音一音が気持ちよく耳に落ちてくる。

 同時に、その裏側で、さっきの「別の旋律」が強くなっていく。

 ざらりとした波が、エリカの声にぴったりと寄り添い、その輪郭をなぞっている。

『ね? すごいでしょ』

 ソノの声が、少しだけ熱を帯びた。

『人間の声を、外から引っ張り上げてる。音程補正とかそういうレベルじゃない。意図的に“上の層”に繋げてる』

「上の……層?」

『音の世界の話は、また今度じっくりね。今はほら』

 ソノがわずかにトーンを変える。

『観客を見てみなよ』

 言われて、周りに目を向けた。

 ペンライトを振り、リズムに合わせて身体を揺らす人たち。その足音、その息遣い。そのひとつひとつが音として視える。

 最初はバラバラだった心臓の鼓動が、曲が進むにつれて少しずつ揃っていくのが分かった。

 ドク、ドク、ドク、ドク。

 ライブハウスの床下に、巨大な心臓がもうひとつ埋まったみたいだった。

「……なんだ、これ」

 思わず、口の中でつぶやいてしまう。

 観客一人ひとりの心音が、エリカの歌声のテンポに合わせて調整されていく。速かった人は少し落ち着き、遅かった人は少しだけ上がる。その結果、みんなの鼓動が同じリズムに揃っていく。

 同期。

 まるで、誰かが上から心臓のつまみを回しているみたいだ。

『シンクロ・ノイズ』

 ソノが、ユニット名を反芻する。

『そのまんまだね。音で心臓をシンクロさせるなんて、人間にしてはまあまあやるじゃん』

「これ、人間の仕業じゃないって意味か」

『さあね』

 言葉を濁したソノの声に、かすかな警戒心が混ざっていた。

 ステージ上のエリカは、そんなことなど何も知らないとでもいうように、ただひたすら楽しそうに歌っているように見える。

 サビで手を伸ばし、観客に向かって指を差す。その指先に合わせるように、フロアのペンライトが一斉に上がる。

 結衣も、その中にいた。

 目を潤ませて、ステージを見上げている。口元で小さく歌詞をなぞりながら、胸に手を当てていた。その鼓動も、他の観客と同じリズムに揺れている。

「……結衣、大丈夫か」

 聞こえないくらいの小声で尋ねると、彼女はちらりとこちらを見て、にっと笑った。

「やばい……好き……」

 語彙力をどこかに置いてきた顔だった。少なくとも、今のところ体調が悪い様子はない。

 だが、全員がそうとは限らない。

 後ろのほうから、かすかなよろめきの音が聞こえた。

 身体が壁にもたれかかる鈍い音。ドリンクカップが床に落ち、液体がこぼれる音。慌てて揺れるペンライトの光。

「大丈夫っすか?」

「ちょっと貧血じゃね?」

 誰かの声が飛ぶ。支える腕の動き。笑いまじりのざわめき。

 音だけ聞けば、よくある「ライブ慣れしてない人がテンション上がりすぎて気分悪くなった」光景だ。

 けれど――

 蓮斗の耳には、その人の心臓の音が、ほとんど聞こえなくなっているように思えた。

『あ、やば』

 ソノが小さく呟く。

『音の波に、うまく乗れなかったんだね』

「どういうことだよ」

『あの子の声、気付かないうちに人間の心の“ノブ”をいじっちゃってる。この箱の中にいると、誰でも少しずつ引きずられる』

 ソノの声が、珍しく真面目な響きを帯びる。

『ほら、見てみ』

 言われるまでもなく、蓮斗は周囲を観察していた。

 立ち位置を変える音。汗を拭うタオルの布擦れ。笑い声の高さ。全部が、さっきより少しだけふらついている。

 特に、フロアの後方にいる何人かの心音は、不規則に跳ねていた。楽曲のテンポに合わせようとして、うまく合わせられずに空回りしている感じ。

 それでも曲は止まらない。盛り上がりは加速していく。

 エリカは、そんな観客たちの異変に気付いているのかいないのか、ただ全力で歌っていた。

 彼女の声は、美しい。

 だからこそ怖い。

 何度か曲間でMCを挟み、ライブはクライマックスへ向けて進んでいった。

「次で最後の曲です!」

 照明が一度落ち、ステージ上に細いスポットライトだけが残る。

 エリカがマイクを両手で握り、ゆっくりと観客席を見渡す。

「……全部、ありがとう」

 囁くようなその一言にも、ちゃんと反響があった。ペンライトの光が揺れ、「えー!」という声と、「アンコール!」という気の早い叫びが交じり合う。

「最後は、新曲を歌います」

 ざわっと空気が波打つ。

 結衣が隣で「きた……!」と小さく悲鳴を上げていた。

「この曲はね、みんなの“音”のことを考えて作ったんだ」

 エリカの瞳が、少しだけ遠くを見ているように揺れる。

「タイトルは、『レゾナンス・リリー』」

 その名前を聞いた瞬間、箱の空気が、一瞬だけ逆流した気がした。

 背後の壁に貼られたフライヤーの中から、一枚だけ音が浮き上がる。

 白地に青い百合のイラスト。大きく描かれたバンド名。

 RESONANCE LILY

 その端っこに、鉛筆で殴り書きされたメモがあった。

 音が、不自然だ

 蓮斗の父、啓司の字だった。

 見間違えるはずがない。あの日、ノートの端に何度も見た筆圧の強い文字。

 七年前のフライヤー。この箱に、父は来ていた。

 しかもそのバンド名は――エリカの新曲と同じ「レゾナンス」という単語を含んでいる。

「……父さん」

 喉の奥から、自然と声がこぼれた。

『へえ』

 ソノが、感心したように唸る。

『なかなか面白くなってきたじゃん』

 心臓の鼓動が早まる。

 エリカが目を閉じた。

 バンドの音は入らない。ドラムも、ギターも、ベースも沈黙したまま。

 真っ暗な中。

 彼女の、アカペラだけが響く。

「もっと、君たちの音を聴かせて」

 囁き。

 耳元で直接ささやかれたみたいな近さ。

 その瞬間――

 フロアの心臓の音が、一斉に跳ね上がった。

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。

 鼓動がテンポを上げ、すぐに同じリズムへと収束していく。エリカの声が描く見えない波の線上に、全員の心音が並べられていく。

 床が震えたような気がした。いや、震えているのは床ではなく、人間たちの足元か。

 ペンライトの光が揺れ、誰かが息を詰める音。誰かが笑う音。誰かが小さくうめく音。

 その全ての上から、エリカの歌声がかぶさる。

 透明で、滑らかで、冷たい。

 その冷たさが、ひとつずつ心臓に触れていく。

『やばい』

 ソノが低く言った。

『これ、もう音楽じゃなくなりかけてる』

「どういう――」

 問いかけようとした瞬間。

 ひとつの音が、消えた。

 誰かの心臓の音が。

 ぷつり、と。

 何かのスイッチを切ったみたいに、完全に。

 鼓動の波形が、そこだけ空白になった。

 空白の中心で、誰かの身体が、静かに崩れ落ちる音がした。


第5話 沈む客席と、壊れたマイク

 誰かの身体が、音もなく崩れ落ちた。

 最前列。エリカの真正面。

 ペンライトを振っていた腕がだらりと下がり、そのまま膝から崩れ、床に倒れる。ドリンクカップがはじかれて転がり、プラスチックが床を叩く軽い音が響いた。

「え……?」

 隣にいた客が、最初は何が起きたか分からないといった顔で覗き込み、それから慌てて叫ぶ。

「ちょ、ちょっと! 誰か!」

 その悲鳴が広がるより早く、ステージ脇からスタッフが飛び込んできた。

 黒いTシャツにタオルを首にかけた細身の男。動きに迷いがない。倒れた客の肩と足を手際よく押さえ、顔色を確かめ、すぐさま腕を抱え上げる。

「大丈夫です、大丈夫ですー!」

 スタッフが、観客に聞こえるように声を張った。

「持病の発作なんで! 慣れてますんで! 慌てないでくださーい!」

 あまりにも慣れた口ぶりだった。

 フロアに、一瞬だけ不穏なざわめきが走る。それでも、「ならしょうがねえか」とでも言いたげに笑う声がすぐに混じる。

「やべ、推し見て倒れたんじゃね?」

「それなー」

「救急車呼ぶ?」「ハコの人がやるっしょ」

 心配と、興奮と、面白がりが全部混ざった声。

 蓮斗は、ただ黙ってその場に立ち尽くしていた。

 さっきまで聞こえていた、その客の心臓の音が――消えていた。

 完全に、ではない。微かに、細い線のように残っている。けれど、他の観客の心音の波に比べれば、今にも途切れそうなほど弱い。

『ギリギリ、だね』

 頭の中で、ソノが低く言う。

『あそこから落ちると、戻ってこれないかも』

「戻るとか落ちるとか、簡単に言うなよ」

 喉の奥が、ひりつくように乾いていた。

 ステージの上で歌っていたエリカが、そこで初めて足を止めた。

 全員の視線が、彼女に集まる。

 エリカは、倒れた客を連れ出すスタッフの背中を見つめ、ほんの一瞬だけ唇を噛んだ。

 その横顔を、蓮斗の耳は「音」で読み取っていた。

 呼吸が浅くなっている。心音のテンポが、観客とは別のリズムで暴れている。罪悪感にも似たざわめきと、それにかぶさるような奇妙な高揚。

 罪悪感と、快感。

 相反する二つの感情が、同じ心臓の鼓動の中でぶつかり合っている。

 それでもエリカは、マイクを握り直した。

「……ごめんね、ちょっとびっくりしたよね」

 震えを押し殺したような笑顔。それでも、客席に向けた声は、いつものように透き通っていた。

「でも、スタッフさんがちゃんと見てくれてるから。最後まで、楽しんでいこう?」

 叫びたいほどの不安の波を、無理やり飲み込んでいる声だった。

 フロアから「おー!」という返事と拍手が起こる。それに安心したように、エリカは再びイントロを合図する。

 バンドが音を鳴らす。照明が点滅する。観客は手を上げ、ペンライトを振る。

 さっき倒れた客のことは、もう「ライブ中のハプニング」の一つとして飲み込まれつつあった。

 それでも、蓮斗の耳には、ステージの真ん中で歌う彼女の心臓の音だけは、異常なほどはっきり聞こえていた。

 乱れている。

 でも、どこか嬉しそうでもあった。

 自分の歌が、誰かの心に、身体に、確かに届いたという確信。

 たとえそれが、危険な形だとしても。

     ◇

 ライブが終わるころには、蓮斗の頭の中も、すっかりぐちゃぐちゃになっていた。

 耳には、まださっきの不自然な静寂の感触が残っている。エリカの「もっと、君たちの音を聴かせて」という囁きが引き金になり、ひとつの心臓音が抜き取られかけた瞬間。

 あれは、絶対にただの貧血なんかじゃない。

 ドリンクチケットを使いに行く列に並びながら、結衣と冬矢がライブの感想をしゃべり倒していた。

「やばかった……今日マジでやばかった……何回死んだか分かんない……」

「お前は元気そうだけどな」

「心拍数的には何回か死んでたよ? あの新曲でさ、もう一生分のドキドキ使ったもん」

「寿命縮んでんじゃねえか」

 冬矢が呆れたように笑い、紙コップのコーラを一気に飲み干す。

「でも、たしかにすごかったな。声、完全に箱の隅々まで届いてた。音響も悪くない」

「でしょでしょ! やっぱ現場来ると全然違うよね!」

 結衣が、完全に「推しを語るモード」に入っている。

 その横で、蓮斗は手にしたオレンジジュースをほとんど口に運べずにいた。

 喉は渇いているのに、何かを飲み込む気になれない。

『顔、真っ青だよ』

 ソノが、からかうでもなく言った。

『きつかったら、さっさと帰るべきだけど』

「……お前、さっき“ご馳走”とか言ってただろ」

『言ったね』

「満足したのかよ」

『うーん、悪くなかったけどさ』

 ソノは少しだけ間を置いて、ぽつりと続けた。

『やっぱり、違う気もする』

「違う?」

『ぼくたちの音とは、ちょっと味が違う。似てるけど、どこか作り物っぽい。誰かが無理やりチューニングしてる感じがする』

 意味が分からない。けれど、その言葉だけは鮮明に脳裏に残った。

 誰かが、七瀬エリカの声をいじっている。

 それが父のメモにあった「音が、不自然だ」と同じ種類の違和感なのかは、まだ分からない。

     ◇

「おーい、御影」

 帰り支度をしていると、背後から名前を呼ばれた。

 振り向くと、さっき倒れた客を運び出していたスタッフが、一枚の紙をひらひらさせながら立っていた。

 黒縁メガネに無精ひげ。Tシャツとパーカーの上からスタッフパスをぶら下げている。

「なにか……?」

「お前、高校一年の剣道部だろ?」

「え。なんでそれを」

「こいつの友達」

 隣から冬矢が顔を出す。

「中学のとき、同じ剣道部だった。杉原。ここでバイトしてんだ」

「あー、やっぱ御影か。噂は聞いてるぞ。“耳のいい一年”って」

「変なあだ名付いてるな、おい」

 冬矢が苦笑する。

 杉原と名乗ったスタッフは、にやっと笑って親指を立てた。

「いやー、ステージからも分かったよ。あの新曲のとき、お前だけ反応違ってたもん」

「反応……?」

「空気が揺れたときの、肩の動きとかさ。ビビり具合が分かりやすかった」

 なんかそれ、すごく失礼じゃないか。

「でさ」

 杉原は、手にしていた紙――いや、よく見ると、それはライブハウスの裏側に通じる通行証だった――を蓮斗に差し出した。

「よかったら、ちょっと楽屋裏来ない? 七瀬ちゃんがさ、お前と話したがってる」

「えっ!?」

 先に悲鳴を上げたのは結衣だった。

「ま、待って、それ本当!? 推しと話せるの!? え、なんで!? レン、いつの間にそんなフラグを……!」

「知らないよ!」

 こっちが聞きたい。なぜそうなる。

 冬矢が、少しだけ感心したように眉を上げた。

「珍しいな。普段、あんまり個別に客と会ったりしないんじゃねえの?」

「だよなー。俺もびびったもん。“さっき、変な耳の子いたでしょ”とか言われてさ」

「言い方」

「いや、褒めてたよ。音の変化に気付いてたって。あの子、自分の歌い方にうるさいから」

 杉原はカウンターの奥を顎で指し示した。

「どうする? 嫌なら断ってもいいけど」

 断る、という選択肢を考える前に、結衣が勢いよく両手を合わせる。

「行け! レン、行け! ここで行かないオタクは一生後悔するやつ!」

「お前はオタクだろ」

「私は門の前で見送るモブだから……せめて親友を推しに届ける役くらいはさせて……」

 勝手にモブを名乗るな。というか、なぜ親友を推しに届ける流れになっている。

「御影。行ってこい」

 冬矢が、軽く背中を押した。

「何かあったらすぐ呼べ。変なことされたら竹刀でぶっ飛ばしてやる」

「ライブハウスの楽屋に竹刀持っていく気ですか」

 くだらないやりとりで、少しだけ緊張がほぐれる。

 ソノが、くすりと笑った。

『行きなよ。あの歌姫は、たぶん鍵を持ってる』

「何の鍵だよ」

『いろんなものを繋ぐ鍵。君の父親の“音”と、この箱の“匂い”と、ぼくたちの世界と』

 分かったような、分からないようなことを言う。

 それでも結局、蓮斗は頷いていた。

「……少しだけなら」

「よしきた。じゃ、こっち」

 杉原に案内され、スタッフ用の通路を抜けていく。ざらついたコンクリートの壁。床にはケーブルやケースが雑然と置かれている。照明は薄暗いが、耳だけはやたらと忙しい。

 ステージの残響。機材の冷却ファンの回転。誰かが缶コーヒーを開ける音。楽屋のドアの向こうから漏れてくる笑い声。

 そのすべてを拾いながら、奥のドアの前で足を止めた。

「入るぞー」

 杉原がノックもそこそこにドアを開ける。

 狭い部屋。壁に貼られたセットリスト。テーブルの上には、飲みかけのペットボトルや、差し入れらしい菓子箱。鏡の前には、ステージ衣装のままのエリカと、同じユニットの二人がいた。

「おつかれー」

「おつかれさまでした」

 杉原が軽く手を振ると、エリカは振り返って微笑んだ。

 さっきステージの上で見たときよりも、ずっと普通の女子高生だった。

 髪は少し乱れていて、さっきまでつけていたキラキラしたアクセサリーも外している。アイラインも汗で少しだけ滲んでいた。

「……さっき、フロアにいた子だよね?」

 エリカは、まっすぐ蓮斗を見た。

 その視線には、ステージ上のような“作り物の輝き”はなく、素の好奇心と、少しの警戒だけが浮かんでいた。

「耳のいい一年、だっけ?」

「その呼び名やめてほしいんですけど」

 思わず素で返してしまい、隣の杉原に肘で小突かれる。

「御影、そういうとこだぞ」

「いや、さっきステージからね」

 エリカは、くすっと笑った。

「音がちょっと変になったところで、あなたの肩がぴくって動いたの、見えたから」

「……音響、トラブってたんですか?」

「トラブルってほどじゃないけど。モニターの返りが一瞬おかしくなったの。たぶん、設定ミスか、箱の癖が出ちゃったか」

 その言い方が、妙に引っかかった。

 箱の癖。

 七年前、この箱で父が残したメモ。「音が、不自然だ」。

「それでね」

 エリカは、少しだけ身を乗り出した。

「あなた、普通じゃない耳してるよね」

 真正面から言われ、思わず息が止まる。

 否定しようとして、喉の奥で言葉が絡まった。

「いえ、そんな……ただの難聴で……」

「難聴なのに、あのタイミングで肩が動く?」

 エリカの目は、意外と鋭かった。

「ここのモニターの位相がぶれたときにさ、普通の人は気付かない。でも、たまにいるんだよね。そういうのに敏感な人。耳がいいっていうより、感覚がいいっていうか」

『……この子』

 ソノが、小さくつぶやいた。

『やっぱり、自覚してるな』

「自覚?」

 思わず言葉に出してしまい、エリカが首をかしげる。

「なにが?」

「あ、いえ……」

 ごまかそうとしたところで、エリカはいたずらっぽく笑った。

「ね。もしよかったらでいいんだけどさ」

 彼女は、テーブルの上に置かれていた一本のマイクを手に取った。

 さっきステージで使っていたものと同じ型。でも、そのグリル部分には細かなひびが入っている。金属が、内側から少しだけ膨らんだように歪んでいた。

「今度、モニターの調整、手伝ってくれない?」

「え?」

「今日、ちょっとだけ壊れちゃってさ。このマイク」

 エリカは、ひび割れたグリルを指先で軽くなぞる。

「歌ってる途中でね、急に音が跳ねたの。自分の声の、上のほうだけ。コントロールできない感じで」

 そのときのことを思い出したのか、彼女の瞳にわずかな恐怖が浮かんだ。

「ここのハコ、昔からクセが強くてさ。普通の人には分かんないんだけど、たぶん、あなたなら気付けると思う。どこが“おかしい音”なのか」

 おかしい音。

 父のメモと同じ言葉だ。

「……どうして俺なんですか」

「勘」

 エリカは、あっさりと答えた。

「それに、今日、あなたの耳の動きが一番面白かったから」

「耳の動きってなんですか」

「比喩だよ。音に対する反応」

 彼女は、マイクを握ったまま、少しだけ真剣な表情になる。

「ここ最近、私のライブで倒れる人、増えてるんだ」

 胸の奥が、ひやりと冷えた。

「今日みたいに“持病です”ってスタッフが言ってくれるけど、本当にそうなのか分かんない。私の歌のせいなのか、ハコのせいなのか、その両方なのか」

 エリカの声は、わずかに震えていた。

「でも、歌うのをやめたくない。だから、知りたいの。何が起きてるのか。あなたの耳、貸してくれない?」

 こちらを見つめる瞳は、逃げ道を見つけようとしているようでもあり、真正面からぶつかろうとしているようでもある。

 自分が歌うことで、誰かが倒れるかもしれない恐怖。

 それでも歌いたいという欲望。

 さっき聞こえた“危険なリズム”の正体が、少しだけ分かった気がした。

『どうする?』

 ソノがささやく。

『乗ってみてもいいと思うけどね』

「……お前、さっき危ないって言ってたくせに」

『危ないからこそ、だろ。ここには君の父親の“残響”もある。逃したら、二度と掴めないかもしれない』

 父のメモ。七年前のフライヤー。「音が、不自然だ」。

 それと同じ箱で、今、七瀬エリカが歌っている。

 偶然にしては、できすぎている。

「……分かりました」

 気付けば、口が勝手に動いていた。

「俺でよければ、手伝います」

 エリカの顔が、ぱっと明るくなった。

「ほんと!? よかった……!」

 思わず両手でマイクをぎゅっと抱きしめる。その仕草が、さっきまでステージの上にいた「歌姫」ではなく、どこにでもいる年相応の女の子に見えて、少しだけ安心した。

「じゃあさ」

 エリカは、テーブルの端に置かれていたスマホを手に取る。

「連絡先、交換してもいい?」

 その一言で、世界が一瞬だけ静止した。

『出たー。青春イベント発生』

「黙れ」

 内心でソノを叩き落としつつ、ポケットから自分のスマホを取り出す。指先が妙に汗ばむ。

 画面越しに、彼女の名前とアイコンが表示される。

 七瀬エリカ。

 フロアで結衣が何度も何度も叫んでいた名前。

 その名前が、自分のスマホの連絡先に追加されていく光景が、現実感と非現実感の境目を揺らした。

     ◇

 その夜遅く。

 家に帰り、風呂を済ませ、ベッドに横になっても、ライブの残響は消えなかった。

 耳の奥では、まだエリカの声が薄く響いている。あの新曲「レゾナンス・リリー」の、サビのフレーズ。

 ソノは、珍しく黙っていた。何かを考えているように、気配だけがゆらゆらと揺れている。

 スマホが、ベッド脇で小さく震えた。

 画面には、見慣れない名前からの通知。

 七瀬エリカ:

 「起きてる?」

 心臓が、変な跳ね方をした。

 返信するかどうか、一秒迷ってから、「はい」とだけ打ち込む。

 すぐに、返事が来た。

 「明日の深夜、ハコに来られる?」

 明日。深夜。

 学校も部活もある普通の平日だ。そんな時間帯にライブハウスなんか行ったら、親どころか生活指導の先生に見つかったら一発でアウトだろう。

 それでも、指は止まらなかった。

 「どうしてですか」

 と返すと、少し間を置いてから、短い文が続いた。

 「音の相談」

 「誰にも聞かれたくない話だから、終電後に来てほしい」

 終電後。

 深夜の街。シャッターの降りた商店街。人通りの少ない裏路地。

 その奥で、あのライブハウスだけが音を鳴らしている光景が、やけに鮮やかに頭の中に浮かんだ。

『匂いが濃すぎる』

 ソノが、ぽつりと言う。

『あのライブハウス、ただの音楽箱じゃない。行ったら、たぶん面白いものが見られるよ』

「……脅してんのか、誘ってんのか、どっちだよ」

『両方』

 どこか楽しそうな声だった。

 このまま何も知らないふりをして、関わらない道だってある。普通の難聴の高校一年生として、結衣と冬矢と、いつも通りの日常を続ける選択肢。

 でも、もう戻れないくらいには、足を踏み入れてしまっている。

 父の死にまとわりついていた、あの「カチ」という異音。

 三秒無音。

 ソノという怪物。

 七瀬エリカの歌声。

 全部が一つの線で繋がっているような気がしてならなかった。

 蓮斗は、短く悩んだ末に、指を動かした。

 「分かりました。行きます」

 送信ボタンを押した瞬間、喉の奥が乾く。

 画面にはすぐ、「ありがとう。また明日」とだけ返ってきた。

     ◇

 翌日の授業は、正直ほとんど覚えていない。

 黒板に書かれる数式も、教師のジョークも、クラスメイトの笑い声も、全部上の空だ。

 結衣に「今日、部活後どうする?」と聞かれ、「ちょっと用事ある」とだけ答えると、「えー、デート? 裏切り?」と騒がれたが、とても説明できる用事ではないので放置した。

 冬矢には、稽古のあとに短く事情をぼかして伝えた。

「昨日のライブハウスの人と、ちょっと音の話することになって」

「あんま変なこと巻き込まれんなよ」

 冬矢は、それ以上追及しなかった。ただ、「何かあったらすぐ連絡しろよ」とだけ言ってきた。

 その一言が、妙に心強かった。

     ◇

 終電が出て、ホームの人影がすっかり途絶えたころ。

 街は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かになっていた。

 商店街のシャッターはほとんど降りていて、自動販売機とコンビニだけが、夜の中に浮かぶ島みたいに明かりを灯している。

 その先に――昨日と同じ雑居ビルの隙間に、半分だけ開いたシャッターがあった。

 ハコ・エコー。

 入口の前には誰もいない。シャッターの隙間から、薄暗い通路が口を開けている。

 その奥から、かすかな歌声が漏れていた。

 七瀬エリカの声。

 ただし、昨日のステージで聞いた声よりも、ずっと“渇いて”いた。

 水分を失った喉で、無理やり高音を出そうとしているみたいな、ひび割れた音。滑らかさが欠けている。それでも、どこかを目指して必死に伸びようとしている。

 蓮斗は、喉をひとつごくりと鳴らした。

『入る?』

「ここまで来て、帰るほうが怖いだろ」

『たしかに』

 シャッターの隙間をくぐり、薄暗い通路を進む。電灯がところどころ切れていて、足元を自分のスマホのライトで照らしながら歩いた。

 地下への階段を降りる。

 一段ごとに、エリカの声が少しずつ大きくなる。上擦っていて、安定しない。それでも必死に何かを掴もうとしているのが分かった。

 扉は、半分だけ開いていた。

 そこから、音と、空気と、何か異様な匂いが漏れている。

 アルコールと汗と機材の熱。それに混ざって、鉄が焼けるような、焦げた電子回路みたいな匂い。

 蓮斗は、息を整えてから、そっと扉を押し開けた。

 中は、客席の照明がほとんど落ちていて、ステージだけがぼんやりと照らされていた。

 昨日は人でぎゅうぎゅう詰めだったフロアが、今は空っぽだ。コンクリートむき出しの床が、やけに広く見える。

 その先のステージに、七瀬エリカがひとり、膝をついていた。

 マイクスタンドの前。マイクを両手で握りしめ、肩を上下させている。喉が悲鳴を上げているのが、音で分かった。

 その足元に――男がひとり、横たわっていた。

 昨日、最前列で倒れた客だ。

 Tシャツの柄も、首に巻いたタオルも、見覚えがある。目は閉じていて、呼吸はしている。けれど、その胸元から、黒い煙のようなものが漏れ出していた。

 ソノと同じ、あの黒。

 ただ、質が違った。もっとざらざらしていて、形が安定しない。焦げたゴムのような匂いがする。

『……これか』

 ソノが、珍しく息を呑んだ。

『この箱の“匂い”の正体』

 エリカは、蓮斗の存在にまだ気付いていない。

 マイクに口を近づけ、かすれた声で歌おうとしては、喉が詰まるように咳き込む。

「っ……う、く……」

 そのたびに、マイクのグリル部分から、バチッ、と小さな火花が散っていた。内部で何かがショートしているような、嫌な音。

 壊れかけのマイク。

 彼女の声と、男の胸から漏れる黒煙と、箱の中にこびりついた異様な音の残響。

 全部が絡まり合って、ライブハウス全体をじわじわと沉ませていく。

 沈む客席。

 歌姫の前に横たわる観客。

 そして、壊れたマイク。

 蓮斗は、その光景を一歩も動けずに見つめていた。胸の奥で、ソノの音がざわめき始める。

『ようこそ』

 ソノが、低く囁いた。

『音が壊れた箱の、深夜のステージへ』


第6話 ライブハウスの共鳴獣

 ステージの照明が、不規則にちらついた。

 蛍光灯が切れる寸前みたいな、いやな明滅。白と闇が交互に視界をかすめ、そのたびに箱の中の影が少しずつ形を変えていく。

 膝をついたままの七瀬エリカは、マイクにすがりつくようにして肩を震わせていた。喉からはかすれた息だけが漏れ、歌にはなっていない。

 その足元では、昨日倒れた客の男が横たわっている。胸元からは黒い煙のようなものが漏れ出し、床を這うように広がっていた。

 黒煙は、音を持っていた。

 ざらざらとした、ノイズじみた音。耳ではなく、骨の髄を擦るような不快な波。

『……ひどいね、これ』

 頭の中で、ソノが低く呟いた。

『人間の“音”を、むりやり引き剥がしてる』

 その言葉の意味を理解する前に、ステージ袖の暗がりから、もう一つの気配が浮かび上がってきた。

 ぬるり、と。

 暗闇が人の形をつくる。

 細身の男。くたびれたシャツ。首からさげたスタッフパス。ハコ・エコーのロゴ。

 昼間、フロアで見かけたことがある。客の整理をしていた、店長らしき人物。

 だが今、その顔は別物になっていた。

 血の気のない肌。開ききった瞳孔。目の奥で、黒い何かが蠢いている。

 男の口元が、ゆっくりと笑みの形に歪んだ。

「……いい器を見つけたよ、エリカ」

 その声は、低音と高音が同時に響く、奇妙な響きだった。

 バリトンとソプラノを重ねたような声なのに、どちらの性質も持っていない。人間の声帯では絶対に出せない音。

「君の声は、たくさんの音を集めてくれる」

 男の背中から、黒い触手のようなものが伸びていた。

 煙より濃く、金属のワイヤーよりしなやかな“線”。それらが、ステージ脇のPA卓や、天井から吊るされたスピーカーへと絡みついている。

 触手が触れた機材から、じりじりと嫌なノイズが漏れた。

『……あれが同類だ』

 ソノが、はっきりとした恐怖を帯びた声で言う。

『共鳴獣に食われた人間』

 共鳴獣。

 聞き慣れない言葉なのに、耳に入った瞬間、妙にしっくりきた。

「お前が……」

 思わず声が出る。

「エリカを、こんなふうにしたのか」

 店長の顔をした何かは、こちらを見た。瞳孔の中心が、わずかに細くなった。

「おや」

 口角が、さらに吊り上がる。

「君が、噂の“耳”か」

 低い声と高い声が混ざっているのに、はっきりと意味が聞き取れてしまう。耳の奥を直接叩かれているみたいだった。

「いいね、その反応。音の形がよく視えてる目だ」

 男の足元に、黒い触手が一つ落ちる。

 床を這うそれは、やがてステージの上に立てられていた一本のマイクスタンドへと伸びていき、ぐるりと絡みついた。

 マイクのグリル部分が、不気味な音を立てて歪む。

「やめ……!」

 エリカが、かすれた声を絞り出した。

「もう、やめて……! これ以上は……!」

 喉が裂けそうなほどの叫び。声帯が悲鳴を上げているのが分かる。

 店長の口から、二重の笑い声が漏れた。

「なにをだい?」

 体を乗っ取った“何か”は、楽しそうに首をかしげる。

「君が望んだんだろう? もっと音が欲しい、と。歓声が、拍手が、自分の声に混ざって、一つになる感覚が」

 エリカの肩が、びくりと跳ねた。

「ちが……私は……」

「欲望に付け込むのが一番手っ取り早いのさ」

 共鳴獣はそう言って、マイクを掴んだ。

 握りしめた拳に、黒い触手が巻き付く。

「やめろ!」

 蓮斗は、反射的にステージへ駆け出していた。

 その手には、さっき入口脇に立てかけてあった木刀が握られている。本当は防犯用に置かれていた飾り物だろう。だが今は、それしか頼れるものがなかった。

『いいね、その選択』

 ソノが、蓮斗の腕に絡みつくように音をまとわせる。

『貸して。少しだけ』

 次の瞬間、木刀の表面が変質した。

 黒い膜が鞘のように覆い、表面が金属質の光沢を帯びる。木であるはずのそれから、キン、と高い倍音が響いた。

「お前、また勝手なこと……!」

『君も勝手に走り出したでしょ。おあいこ』

 軽口を叩く余裕があるのかないのか、よく分からない。

 その間に、共鳴獣はマイクをかき鳴らすように叩きつけた。

 バシュッ、と空気が裂ける音。

 次の瞬間、スピーカーから耳を裂くようなフィードバック音が放たれた。

「っ……!」

 普通なら、その場で両耳を押さえてうずくまってもおかしくない音量だ。鼓膜どころか頭蓋骨全体が震え、視界が白く弾ける。

 だが、蓮斗には“視えた”。

 フィードバック音の波形が。

 超高音の線と、低周波のうねりが、箱の中をどのように走り、どこで反射し、どこに集まっているか。一瞬で立体的な地図が頭の中に描かれた。

 避けるべき「線」が、色付きで浮かび上がる。

「なるほどね」

 ソノが感心したように笑う。

『いいじゃん、その耳。普通なら脳、焼かれてるよ』

「褒めてるのか、それ」

『褒めてる褒めてる。ほら、行くよ。切り裂け』

 ソノの音が、木刀を通じて腕に流れ込んでくる。

 重さが、変わった。

 木刀は確かに手の中にあるのに、質量が軽くなる。持ち上げても筋肉が軋まない。代わりに、空間の中の「音の線」が抵抗を与えてくる感覚があった。

 共鳴獣は、さらにマイクを乱暴に叩きつける。

 高音の悲鳴と、低音の唸りが交互に箱の中を襲った。耳ではなく、内臓を殴られているみたいな圧力。

 エリカが、耳を押さえてうずくまる。その足元で、倒れた男の胸から漏れる黒煙が、フィードバックに共鳴して激しく震えた。

『あいつ、箱ごと鳴らしてきてる』

 ソノが、短く告げる。

『スピーカーもモニターも、全部“体の一部”になってる。音響地獄ってやつ』

「そんなの、笑えないからな」

 蓮斗は、ぐっと歯を食いしばった。

 音の波に乗る。

 フィードバックがピークに達する瞬間、その周囲には必ず“谷間”ができる。音圧が一瞬だけ下がる場所。そこを足場にするイメージで、身体を滑り込ませた。

 スピーカーの前を、ギリギリで駆け抜ける。

 耳の横を、白色のノイズの刃がかすめていった。皮膚がひりつく。髪が逆立つ。

 それでも、鼓膜は破れていない。

 音の地形が、見えているから。

「そこだ!」

 共鳴獣が、マイクを振り上げる仕草で、次のフィードバックの線が読めた。

 蓮斗は、音の波の外側に身を投げるように飛び込み、ステージに飛び乗った。

 床板が鳴る。照明が揺れる。共鳴獣の視線が、じろりとこちらを向いた。

「子どもが、こんな時間に外を歩いちゃいけないよ」

 二重の声が、小馬鹿にするように響く。

「ここは、音の底。大人でも沈む場所だ」

「……だったら、さっさと沈めよ」

 木刀を構える。

 ソノが、その刃を震わせた。

『いいよ、レン。ぼくの音で、切り裂け』

 共鳴獣の背中から伸びる黒い触手が、こちらへと迫る。

 スピーカーから放たれた低周波が、足元から平衡感覚を奪おうとしてくる。床がぐにゃりと歪み、重力が斜めに傾くような錯覚。

 膝が笑う。視界が傾ぐ。

 それでも――蓮斗の耳には、箱の中のあらゆる音が“手がかり”になっていた。

 天井のダクトが鳴る音。裏口の扉が風でわずかに揺れる音。ステージの縁にぶつかったペットボトルが転がる音。

 それらの反射から、空間の立体図が浮かぶ。

 目を閉じても、相手の位置が分かる。

『そう。音を足場にするんだ』

 ソノが、うれしそうに囁く。

『ぼくたちの世界の歩き方、悪くないよ』

 共鳴獣の触手が、床を打つ。

 コン、という乾いた音が、すぐさま蓮斗の耳に届く。その音の位置から、触手の長さと角度が割り出せた。

 ギリギリのところで身をひねり、木刀の刃で触手を薙ぐ。

 キィン、と金属を叩いたような音がして、黒い線の一部が弾け飛んだ。

「……ほう」

 共鳴獣の声が、少しだけ興味を帯びる。

「人間のくせに、なかなかやる」

「うるさい」

 息が切れる。肺が焼けるようだ。膝も笑っている。

 それでも、足を止める気にはなれなかった。

 後ろには、エリカがいる。倒れた男もいる。この箱で、何人もの客が倒れてきた。

 家には、結衣がいて、冬矢がいて。学校には、まだ終わっていない日常がある。

 ここで目を背けたら、多分一生、音を聞くたびに後悔する。

『レン』

 ソノが、ふっと声のトーンを変えた。

『店長の胸の奥、聞いて』

 言われるまま、耳を澄ます。

 箱中のノイズから、ひとつの音だけを抜き出すイメージで集中する。

 共鳴獣に乗っ取られた店長の胸の奥から、細く、鋭い高音が鳴っているのが分かった。

 他の全てのノイズとは質の違う、異様に澄んだ音。ピッチは限界まで高く、それでいて割れていない。

 それが、箱の音を支配していた。

「あれが“核”」

 ソノが囁く。

『共鳴獣の中心の音。あれを壊せば、この箱との接続は切れる』

「……簡単に言うなよ」

『簡単じゃないから、ぼくがいる』

 ソノの音が、蓮斗の鼓膜の裏側を撫でた。

『君の身体と、ぼくの音。今だけ完全に揃えよう』

 瞬間、世界の輪郭が変わった。

 箱の中の全ての音が、色と線と面になって視界に広がる。天井の蛍光灯のチカチカまでもがリズムとして聞こえる。

 自分の心臓の鼓動さえ、メトロノームみたいにきっちり刻まれていた。

 音と身体が、ぴたりと重なる感覚。

 ソノと、自分が、同じ“楽器”の中にいるみたいだった。

「……行くぞ」

 蓮斗は、息を吐いた。

 共鳴獣が、最後の一撃とばかりに、マイクを頭上に掲げる。

 スピーカーから、これまでで一番のフィードバックが放たれた。高音と低音が重なり合い、箱の空気を歪める。

 だが、その波の中心から、さっきの「核の音」が浮き上がっている。

 店長の胸の奥だ。

 そこだけ、異様に静かで、澄んでいる。

 狙いを、そこに絞る。

 音の線を踏み台にするように、床を蹴った。

 足元で低周波がうねる。そのうねりを逆に利用して、身体を前へと弾き出す。

 共鳴獣が、目を見開くのが見えた。

「な――」

 その声が終わる前に。

「うおおおおおおっ!」

 蓮斗は、ソノと完全に同調した腕で、木刀を突き立てた。

 刃が、音の座標を貫く。

 店長の胸の中心。

 “核音”の真上。

 一瞬、何も聞こえなくなった。

 三秒無音。

 あの日と同じ、完璧な静寂。

 時間が止まったかのような感覚の中で、胸の奥で何かが確かに壊れる音がした。

 次の瞬間。

 黒い煙が、弾けた。

 共鳴獣の悲鳴が、箱全体に反響する。

 耳を塞ぎたくなるほどの、甲高い悲鳴。それが、スピーカーから、モニターから、床から、天井から、一斉に吐き出された。

 店長の体が仰け反り、背中から伸びていた黒い触手が、一気にちぎれていく。PA卓に絡みついていた線も、スピーカーに巻きついていた線も、ぱちぱちと火花を散らしながら消えた。

 床に倒れていた男の身体にも、激しい痙攣が走る。

 胸から漏れていた黒煙が、共鳴獣の悲鳴と一緒に吸い上げられていき、やがて空中で霧散した。

 エリカも、同じように全身を震わせた。

 喉を押さえ、咳き込む。声は出ない。心音が、限界ぎりぎりのところで暴れているのが分かった。

「エリカ!」

 蓮斗は、ふらつきながら彼女のもとへ駆け寄った。

 足元がぐにゃぐにゃする。さっきまでの低周波のせいで、まだ平衡感覚が完全には戻っていない。

「大丈夫か!」

 肩を支えると、エリカの身体は驚くほど軽かった。

 彼女は、うっすらと目を開ける。

 瞳の焦点が、まだどこにも合っていない。

「……ごめんね」

 かすれた声が、喉の奥から漏れ出た。

「私……みんなの拍手が、歓声が、もっと欲しかっただけなのに……」

 その声には、悔しさと、自嘲と、どうしようもない欲望への未練が混ざっていた。

「なのに……気付いたら……あいつの言うとおりに、歌ってて……」

 エリカの唇が震える。

 心音が、どんどん弱くなっていく。

 箱に満ちていたノイズが、嘘みたいに引いていく中で、彼女の鼓動だけが頼りなく響いていた。

『……レン』

 ソノが、静かに呼びかける。

『この子の肉体は、もう無理だ』

 喉が、締め付けられたように痛くなる。

「そんなの、勝手に決めるなよ……!」

『心臓の音、聞こえてるだろ』

 言われて、耳を澄ます。

 確かに、エリカの心音は今にも途切れそうだった。叩くたびに、何か大事なものが零れ落ちているような脆さ。

『でも』

 ソノは、少しだけ迷うように間を置いてから続けた。

『声の一部なら……ぼくが“食べて”、残せるかもしれない』

「食べるって、お前……!」

『完全に消えるよりは、マシって話だよ』

 ソノの声が、珍しく真剣だった。

『この子の声は、ぼくらの世界に届いてる。さっき食われかけてた共鳴の線を、少しだけ別の場所に避難させるイメージ』

 避難。

 食べる、なんて言い方をするから最悪に聞こえるだけで、やろうとしていることは、たぶん――

「……どうするか、決めるのは君だよ」

 ソノが、そっと問う。

『ぼくは、どっちでもいい。ただ、完全に何も残らないのは、音にとって一番悲しいことだ』

 エリカの指先が、蓮斗の袖を掴んだ。

 気付けば、彼女はうっすらと笑っていた。

「ねえ」

 ほとんど息だけの声。

「私の、歌……どうだった?」

 それは、ただの女子高生の、当たり前すぎる問いだった。

 褒めてほしくて。認めてほしくて。それで、ちょっと調子に乗って。間違った方向に足を滑らせて。

 気付いたときには、もう戻れない場所まで来てしまっていた。

 そんな顔だった。

「……すごかったよ」

 あれだけ危ない音を聞かされて、恐怖も味わって、それでも。

 それでも、歌そのものは紛れもなく“本物”だった。

「ちゃんと届いてた。結衣も、冬矢先輩も……他の客も。みんな、お前の声で笑ってた」

「そっか……よかった」

 エリカは、少しだけ目を細めた。

「だったら……」

 彼女は、喉に手を当て、自分の声の出る場所を確かめるみたいに押さえた。

「いつか、また……歌わせてね」

 それは、願いとも、約束ともつかない言葉だった。

 けれど、その一言で十分だった。

 蓮斗は、奥歯を噛みしめる。

「……ソノ」

『うん』

「エリカの“音”だけでも、守ってくれ」

 沈黙。

 それから、ソノが短く答えた。

『了解』

 黒い影が、エリカの喉元に顔を寄せた。

 ソノの姿は、低く、小さく、そっとしていた。獲物に飛びかかる獣ではなく、壊れた楽器の音孔に耳を当てる調律師のように。

 最後の歌声の断片が、かすかに漏れ出る。

 息と音の境目みたいな、儚い響き。

 ソノは、それをひとつ残らず吸い込んだ。

 その瞬間。

 エリカの心臓の音が、静かに止まった。

 箱の中のすべての音が、一度だけぴたりと固まる。

 続いて聞こえてきたのは、壊れたアンプの中で回路が冷えていく、小さなノイズだけだった。

     ◇

 翌日。

 ニュースは、淡々とこう報じた。

「昨夜、市内のライブハウスでライブ中に十代の女性が倒れ、搬送先の病院で死亡が確認されました。警察は持病による突然死の可能性が高いと見ており――」

 テレビの画面の隅には、「ライブハウスでの事故死」というテロップが表示されるだけ。

 七瀬エリカの名前は、画面の下に一瞬映ったあと、すぐに別のニュースへと切り替わっていった。

 教室でも、ちらほらと話題にはなった。

「昨日のニュース見た? 地下アイドルの子、死んじゃったやつ」

「マジやばくね? こわ」

「ライブ行ってた人、トラウマもんだろ」

 誰も、あの箱で何が起きていたかなんて知らない。

 結衣は、朝からずっと目を赤くしていた。放課後、屋上で二人きりになったとき、「なんであのとき、もっと止めてあげられなかったんだろう」と泣きながらこぼした。

 蓮斗は、何も言えなかった。

 冬矢は、「御影、無理はすんなよ」とだけ言ってくれた。

 ソノは、しばらくのあいだ黙っていた。

 耳の奥で、ただ小さな音だけが鳴っている。

 ――エリカの声の断片。

 ソノの中に残った、その響き。

 それは、今もかすかに揺れていた。

 いつかまた、この声を“どこか”で鳴らすために。


第2章 共鳴都市と、父の残響

第7話 死んだ歌姫のリフレイン

 葬儀は、本当に、驚くほど静かだった。

 白い花で飾られた小さな祭壇。その中央に、ステージ衣装ではなく、制服姿の七瀬エリカが写真の中で笑っている。髪を耳の後ろでまとめ、少し照れたように目を細めた、その表情。

 いつものライブ映像で見る「歌姫」じゃない。ただの、どこにでもいる女子高生の顔だった。

 参列しているのは、家族と、ごく少数の関係者だけ。ユニットメンバーの二人は、泣き腫らした目で遺影を見つめている。マネージャーらしき女性は、周囲に頭を下げて回りながらも、ときどき肩を震わせていた。

 ファンの姿はない。

 「持病による突然死」とだけ発表され、詳しいことは何ひとつ語られなかったからだ。

 香の匂いが、薄く漂っている。

 その中で、蓮斗は、祭壇の前で固く拳を握りしめていた。

 耳の奥では、ずっと同じフレーズがループしている。

 レゾナンス・リリーのサビ。あの夜、最後に聞いたエリカの歌声。息が途切れかけた声で、それでも必死に伸ばそうとしていた高音。

 それを、ソノが食べた。

 食べた、という言い方は最悪かもしれないけれど、事実だ。

 ソノの内部で、エリカの残響が「小さな光」として揺れているのが、なぜか分かる。

 胸の奥。心臓と耳のあいだくらいの場所に、音の粒のようなものがひとつ、ずっと回り続けている感覚。

『落ち着け』

 頭の中で、ソノの声がした。

『あんまり力入りすぎると、手の血が止まるよ』

「うるさい」

 小声で返すと、隣で結衣がびくっと肩を揺らした。

「な、なに……?」

「いや、なんでもない」

 思わず誤魔化す。

 結衣は、黒いワンピースに同じ色のカーディガンを羽織っていた。普段の派手な缶バッジもリボンもない。代わりに、胸元には白い小さな花が一輪だけ挿してある。

 目は、真っ赤だった。

「……ほんとに、死んじゃったんだね」

 結衣が、ぽつりと言う。

「テレビでニュース見たときさ、本気で意味分かんなくて。なんで、どうして、ってずっと頭の中でぐるぐるしてて。今も、実感ないんだけど」

「……そうだな」

 実感があるかと言われれば、蓮斗にも自信はなかった。

 昨夜まで、一緒に歌の話をしていた。

 連絡先を交換して、「今度、モニターの調整手伝って」と笑われた。

 あのライブハウスで、最後に聞いた「いつか、また歌わせてね」という声。

 全部が、誰かの作り話みたいに遠く感じる瞬間もあった。

 でも、祭壇の前で手を合わせる人たちの泣き声が、現実を否応なく耳に叩き込んでくる。

 エリカは、もう生きていない。

 そういうことだった。

 僧侶の読経が終わり、焼香の列がゆっくりと進んでいく。結衣が花を一輪手向け、その前で深く頭を下げる。その背中が、小刻みに震えていた。

 冬矢は、表情を変えずに焼香を済ませた。けれど、戻ってきて席に腰を下ろすと、膝の上で握りしめた拳が白くなるほど力が入っているのが見えた。

「……御影」

 帰り際、冬矢が小さく呼びかけてきた。

「お前、顔色ひどいぞ」

「そう……ですかね」

「鏡見てみろ。幽霊より白いから」

「どんな基準ですか」

 くだらないやりとりなのに、少しだけ喉のつかえが楽になる。

 結衣は、ハンカチで目元をごしごし拭きながら、無理やり笑顔を作ろうとしていた。

「ねえ」

「ん」

「私、エリカちゃんの分まで推し活する」

「……は?」

 唐突すぎる宣言に、思わず変な声が出る。

「だってさ、歌い続けてほしかったんだよ、絶対。アイドルってさ、覚悟とかプロ意識とかいろいろあるけど、その前に“好きでやってる”じゃん。歌うのも、ステージも、きっと大好きだったはずでしょ」

 結衣は、ぎゅっとハンカチを握りしめた。

「だから、私、忘れないようにする。曲も、MCも、今日のことも。全部ぜんぶ」

 その言葉が、胸のどこかに刺さる。

 忘れないでいることと、前に進むこと。

 その両方を同時にやるのは、多分すごく難しい。

 でも、結衣はそれをやると言った。

 自分にできることは、なんだろう。

 ふと、祭壇の写真の中で笑っているエリカと目が合った気がした。

 その瞬間、耳の奥でループしていたサビのフレーズが、少しだけ違うメロディーに変わる。

 ソノの中で揺れている「小さな光」が、位置を動かしたのが分かった。

     ◇

 その夜。

 自室のベッドに横になりながら、蓮斗は天井を見つめていた。

 部屋の明かりは消し、スタンドライトだけをつけている。薄暗い光の中で、天井の模様が、いつもよりもやけに立体的に見えた。

「なあ、ソノ」

『んー?』

 ソノは、ベッドの端っこに座っているような声で返事をした。

 実際には姿なんてない。黒い煙のような本体は、蓮斗の頭蓋のどこかに潜り込んでいる。でも、こうして話していると、本当にそこにいるみたいだった。

「エリカは、まだ……どこかにいるのか?」

 ずっと喉に引っかかっていた問いを、ようやく言葉にする。

 ソノは、少しだけ間を置いてから答えた。

『生きてるって言うには、嘘になるかな』

「……やっぱりな」

『でも、完全に消えたとも言い切れない』

 ソノは、肩をすくめるように声を揺らした。

『彼女の“歌い方”とか“音の癖”とか、そういうのは、ぼくの中に残ってる。たまに、勝手に口ずさみそうになるんだよね』

「勝手に歌うなよ、マジで」

『じゃあ、許可制にする?』

「意味分かんねえよ」

 そう言いつつ、少しだけ興味が勝った。

「……試しに、やってみて」

『壊れたアンプに歌わせるみたいな趣味してるね、君』

 ソノが、くすりと笑ってから、低く息を吸い込む真似をした。

 次の瞬間、鼻歌が聞こえてきた。

 レゾナンス・リリーのサビ。

 でも、ソノの声色に、エリカの声の癖が混ざっている。語尾の伸ばし方、音程のわずかな揺れ方、ブレスのタイミング。

 完璧に同じではない。けれど、「エリカだ」と分かるくらいには、あの夜の歌と重なっていた。

 胸が、ぎゅっとなった。

「……やめろ」

 思わず、枕を頭にかぶせる。

『君が頼んだんじゃん』

「悪かった」

 枕越しでも、ソノの笑い声ははっきり聞こえた。

『でもさ』

 ソノが、少しまじめな声に変わる。

『不思議なもんだよね。ぼく、本来は“音を食べる側”なんだよ。共鳴獣たちと同じ。なのに今は、食べた音を勝手に口ずさみたくなる』

「それ、危なくないか?」

『危ないねえ』

 あっさりと言う。

『でも、その危なさが、ちょっと好きになってきた』

「やめろって」

『エリカの声は、たぶんぼくの中でしばらく生きる。君が耳を貸してくれる限りはね』

 耳を貸す。

 そんな言い方をされると、変な責任感が肩にのしかかってくる。

「……俺は、何をすればいいんだろうな」

『さあ?』

 ソノは簡単に投げた。

『でも、君はもう気付いてるくせに』

「何にだよ」

『君が、父親と同じ場所に立ってるってこと』

 その言葉で、昼間の光景がフラッシュバックした。

 父の書斎。

 古い本棚の奥から出てきた、一冊のノート。

 擦り切れた表紙には、ただ「K」とだけボールペンで書かれていた。ページを開くと、父の癖の強い字が、びっしりと並んでいる。

 日付。時刻。場所。被害者の名前と年齢。症状の記録。

 「特定のライブハウス周辺でだけ起きる、原因不明の発作事件」。

 ノートには、そうタイトルがつけられていた。

 そのうちのひとつが、「ハコ・エコー」だった。

 日付は七年前。父が亡くなる少し前。

 当時、まだ「共鳴症候群」なんて名前も付いていなかったころ。

 音響測定グラフ。手描きの波形。そこに父のメモがいくつも書き込まれている。

 「耳ではなく、頭の中に直接響く歌声」

 「録音するとノイズになってしまう声」

 「ある特定の条件を満たしたときだけ発生する“共鳴”」

 それは、まさにエリカの歌声と同じ性質だった。

 ページの端には、雑な字で「音が、不自然だ」とも書かれていた。

 七年前。

 父は、既に共鳴獣たちの気配を追っていた。

 そして、何かに手を伸ばしかけたところで――銃声のない銃殺事件に巻き込まれて死んだ。

「……父さんは、何を知ってたんだろうな」

 ノートを閉じたときの、手の震えを思い出す。

『全部は知らなかったと思うよ』

 ソノが、あっさりと言う。

『でも、気付いてた。音の世界と君たちの世界が、変な形で繋がり始めてることに』

「変な形」

『人間の欲望を入り口にして、共鳴獣たちが入り込んでくる。音楽。歓声。評価。承認欲求。そういうのが、いい餌になる』

 エリカ。

 アーティストたち。

 ハコ・エコー。

 ライブハウス周辺でだけ起きる発作事件。

 全部が、ひとつの線で繋がり始める。

「じゃあ、父さんは……」

『君と同じだよ』

 ソノが、ふっと声を柔らかくした。

『止めたかったんだと思う。音が、人間を食うのを』

 その言い方が、妙にしっくりきた。

 啓司は刑事だった。変なところで融通が利かなくて、危ない橋も平気で渡る人だった。

 世の中の悪い奴らを捕まえるのが仕事だと言って、家族より仕事を優先するときもあった。

 そんな父が、もし共鳴獣たちの存在に気付いたのだとしたら。

 見て見ぬふりなんて、絶対にできなかったはずだ。

「……どう思う、レン」

 ソノが、わざとらしく真面目な口調になる。

『父さんと同じ怪物に手を伸ばすの、かっこいいと思う? それとも、バカだと思う?』

「どっちもだろ」

 即答だった。

「かっこいいけど、バカだよ。家族ほったらかして、危ない目に遭って……その結果が、あれだろ」

『だね』

 ソノは、くつくつと笑う。

『じゃあ、君はどうする?』

 天井を見つめながら、蓮斗は拳を握った。

 エリカの歌声が、また耳の奥でループを始める。

 父のノート。共鳴症候群。ハコ・エコーの閉店。ネットで騒がれる「呪われた箱」の噂。

 何も知らないふりをして、耳を塞いで生きていくこともできる。

 難聴の男子高校生として、結衣や冬矢と、普通の日常を続ける道。

 でも――

 あの箱の中で見たものを、聞いたものを、感じたものを、全部なかったことにするのは、もう不可能だった。

「父さんと同じ怪物に手を伸ばしたのは、もう、取り消せない」

 部屋の静寂の中で、自分の声が意外とよく響いた。

「だったらせめて、父さんが掴めなかったところまで、行ってやる」

『やれやれ』

 ソノが、少しだけ呆れたように笑う。

『君さ、ほんと、難聴のただの高校生のくせに、そういうとこだけ無駄に主人公ムーブするよね』

「うるさい」

『でも、嫌いじゃないよ。そういうの』

 ソノの声が、静かに笑いに変わる。

『じゃあ、決まりだ』

「決まり?」

『父親がつけかけた名前、ぼくらで完成させようよ』

 共鳴症候群。

 父のノートの隅に、小さく書かれていたその言葉。

『音に喰われる都市。共鳴都市。死人の歌姫。怪物の残響』

 ソノが、ひとつひとつ言葉を並べていく。

『それ全部まとめて、“共鳴獣狩り”って呼ぶのはどう?』

「ダサい」

『そこはツッコむのに迷いないんだ』

 しょうもないやりとりに、少しだけ笑いがこみ上げる。

 でも、その笑いの底には、確かな決意があった。

 父の残したノートを片手に。

 耳の中に棲みついた怪物と一緒に。

 死んだ歌姫のリフレインを抱えたまま。

 御影蓮斗は、共鳴する都市の奥へと踏み込んでいくことになる。

 このときはまだ、その先でどれだけの音と涙と、そして笑いが待っているのか、知る由もなかった。


第8話 健康診断と、無音の男

 エリカのニュースがワイドショーから消えるまで、そう時間はかからなかった。

 数日もすれば、別の事件や芸能スキャンダルが画面を埋め尽くす。ネット上で「ハコ・エコー」の名前を覚えているのも、ごく一部のオタクと、怪談好きくらいだ。

 それでも、蓮斗の耳の奥では、あのサビのフレーズがしつこくループし続けている。

 死んだ歌姫のリフレイン。

 それを内側で再生しながら、いつも通りの朝を迎える。

「おい、御影。保健室で追加の健康診断やるから、二限終わったらこいってさ」

 教室の前の扉から顔を出した冬矢が、プリントをひらひらさせていた。

「健康診断って、この前やったじゃないですか」

「今回は“臨時”だとよ」

 冬矢が教卓の上にプリントを置く。クラス中からブーイングが上がった。

「また採血とかマジ勘弁なんだけど」

「視力検査、前より悪くなってそうで怖い」

「なんかさ、新しいウイルス対策だって親が言ってた」

「それニュースで見た。若い人でも急にぶっ倒れるやつ」

 その言葉に、教室の空気が一瞬だけ重くなる。

 誰も、エリカの名前は出さない。けれど、数人が同時に視線をこちらに向けたのを、蓮斗は見逃さなかった。

 関係があるかどうかなんて、本人たちも分かっていない。それでも、「最近よく倒れる若者がいる」「ライブハウスで死人が出た」という情報は、どこかで繋がってしまう。

「ほらほら、暗い顔しない!」

 そんな空気を一蹴するように、結衣がぱん、と手を叩いた。

「健康診断ってさ、ちょっとしたイベントだと思えばいいんだよ。身長伸びてるかもしれないし、視力回復してるかもしれないし!」

「いや回復はしないだろ」

「夢くらい見させてよ」

 結衣は、わざとらしく肩を落としてみせる。

「レンはどう? また『聴力Aでした』ってドヤ顔しちゃう?」

「俺、生まれつき難聴なんだけど」

「そうだった。ごめん」

 本気で忘れてた顔をして、ぺこりと頭を下げてくる。

「でもさ、前より音聞こえてるんでしょ?」

 結衣は、少しだけ真剣な目で尋ねた。

「最近、話しててもさ。返事のタイミングとか、前より自然だなって思ってた」

「……まあ」

 曖昧に濁す。

 事実だ。ソノと共鳴してから、世界の音は一変した。補聴器なしでも、ほとんどの会話は拾える。むしろ、拾いすぎてしまう。

 廊下でする誰かの悪口。職員室のため息。体育館から聞こえるバスケットボールのバウンド音。全部が、同じ解像度で押し寄せてくる。

『人気者はつらいね』

 ソノが、机の下あたりからひょいと顔を出すような声で言う。

『クラスメイトの本音、だいたい聞こえちゃうじゃん』

「聞きたくて聞いてるわけじゃない」

『でも、聞こえちゃうんだろ。便利だよ』

 便利、か。

 便利だと思うこともある。今まで聞こえなかった先生の説明が聞き取れるとか、後ろの席のひそひそ話を拾って小テストのヒントを得るとか。

 でも、便利と同じくらい、面倒で、怖い。

 エリカのライブのときみたいに。

 他人の心音が聞こえすぎるのも、悪いことばかりじゃないと、信じたいけれど。

     ◇

 二限目が終わると同時に、クラスごとに保健室へと呼ばれた。

 廊下には、臨時の簡易ベッドやパーティションが設置され、採血や血圧測定のブースが増やされている。いつもの学校行事の健康診断より、明らかに規模が大きい。

「うわ、ガチっぽ」

「なんか本当に病院みたいなんだけど」

「注射無理、絶対無理、代わりに行ってきて」

「それは無理だ」

 列に並びながら、クラスメイトたちが口々に文句や冗談を飛ばす。そのざわめきの中に、聞き慣れない単語が紛れ込んでいた。

「共鳴指数は?」

「昨年度のパターンB−13と照らし合わせて――」

「適合率が高い子は、後日、再検査の可能性もあるから」

 白衣の医師たちが、小声でやりとりしている。

 共鳴指数。適合率。パターンB−13。

 どれも、普通の健康診断で聞くような医療用語ではなかった。

 耳に引っかかった瞬間、父のノートのページが脳裏に浮かぶ。

 共鳴症候群。

 「特定のライブハウス周辺でだけ起きる、原因不明の発作事件」。

 そこに記された波形のグラフと、今目の前で交わされている単語たちが、嫌な形で重なる。

『やっぱりなあ』

 ソノが、感心したような、呆れたような声を出した。

『動き始めてるね、“測る側”』

「測る側?」

『ぼくらみたいなのを、数字にして分類しようとする人たちさ』

 冗談めかした口調なのに、そこには明らかな警戒が混ざっていた。

「御影くん、採血こっちね」

 保健室の先生に呼ばれ、椅子に腰かける。

 腕にゴムバンドを巻かれ、アルコール綿で消毒されるいつもの手順。針が刺さる瞬間、結衣の「いってらっしゃい」という小声が耳に入った。

 血が試験管に流れ込む音まで、嫌でも聞こえる。

 そのあと、身長と体重、視力、心電図。次々と項目をこなしていく。

 最後に案内されたのが、聴力検査のブースだった。

 普段は保健室の端にある小さな防音室だが、今日は廊下側にも簡易のパネルが立てられ、中が見えないようになっている。

「では、こちらにどうぞ」

 若い検査技師らしい女性が、にこやかに案内してくる。名前の書かれた用紙を確認し、「御影蓮斗くんね」と復唱する。

「普通の聴力検査に加えて、ちょっと特殊な検査もするけど、怖がらなくて大丈夫だよ。指示したときにボタン押してくれればいいから」

「はあ……」

 椅子に座らされ、ヘッドホンを装着される。耳をすっぽり覆う大型のものだ。

 いつもなら、ここで世界の音が遮断されるはずだった。

 でも今は違う。

 ヘッドホンの外側で鳴っている空調の音、廊下を走る足音、遠くの教室から聞こえる笑い声。それら全部が、少しだけ遠くなっただけで、完全には消えない。

 代わりに、耳の内側に奇妙な圧力がかかる。

「じゃあ、聞こえたらボタン押してね」

 技師の声がマイク越しに聞こえる。

 すぐに、耳の奥でピッという高いビープ音が鳴った。

 右。左。少しずつ周波数と音量を変えながら、音が送られてくる。

 これ自体は、普通の聴力検査とそう変わらない。

 だが、途中から様子がおかしくなった。

 耳で聞こえる音が、突然消えたのだ。

 何も鳴っていない――と思った瞬間、頭蓋の内側で、細い線のような高音がピィィ、と震えた。

 骨の奥。脳の表面。そのあたりを直接こすられているような感覚。

『ああ、これか』

 ソノが、どこか懐かしそうに呟く。

『人間にとっての“ほぼ無音”ゾーン』

「……聞こえるんだけど」

『そりゃそうだ。今の君の耳は、人間の仕様から外れてるからね』

 技師の声が、再びマイク越しに響く。

「今の、聞こえましたか?」

「聞こえました」

 ボタンを押す。

 技師の息が止まる音が、はっきりと聞こえた。

「えっと……では、次はもっと小さい音を流しますね」

 今度は、逆に低すぎて音として認識できないような波が来た。

 耳では何も感じないのに、鼓膜の向こうで内臓が揺れるような違和感。胃のあたりがきゅっと縮まり、足元の床がじわじわと隆起してくる錯覚。

『低周波も全部拾ってる。やっぱり、チートだよ君の耳』

「褒められてる気がしない」

『褒めてるよ。本気で』

 また、技師の声。

「今のも、聞こえましたか?」

「……はい」

 ボタンを押す。

 しばらく沈黙。

 モニターの操作音と、技師が椅子から立ち上がる布擦れが聞こえる。

 ヘッドホンを外され、防音室から出るよう促された。

 外に出ると、技師の表情が固まっているのが見えた。さっきまでの柔らかな笑顔は消え、代わりに、何かを必死で飲み込もうとしているような硬い顔。

「こんな反応……初めて見た……」

 彼女が、思わずこぼした小声を、耳は逃さない。

「い、いえ、大丈夫です。少々お待ちくださいね」

 技師は慌ててモニターの前に戻り、どこかに電話をかけた。

「……はい、パターンB−13と言うより、むしろ……はい、数値だけ見れば、適合率は八十を……いえ、九十近く……。ええ、本人は自覚があるような、ないような……」

 パターンB−13。

 さっき廊下で聞こえた単語だ。

 父のノートにも似たような文字列があった気がする。B−何とか。共鳴パターンの分類。

 脳の奥が、嫌な熱を持ち始める。

『やれやれ』

 ソノが、わざとらしくため息をついた。

『完全に“要注目枠”だね、君』

「黙ってろ」

 待合用の椅子に座らされ、数分ほど放置される。

 その間、外の廊下で行き交う足音や、クラスメイトたちの雑談が、壁越しに微かに聞こえてきた。

「聴力検査、どうだった?」

「普通。なんか変な音も流されたけど」

「変な音?」

「なんか、頭の中がむずむずするやつ」

 みんな、どこまで聞こえているんだろう。

 そんなことを考えていると、検査室の扉が静かに開いた。

「御影蓮斗くん」

 柔らかな声。

 顔を上げると、そこに立っていたのは、白衣ではなくスーツ姿の男だった。

 四十代半ばくらい。痩せ型で、背は高くも低くもない中肉中背。黒い髪を短く整え、銀縁の眼鏡をかけている。

 いかにも「役所の人です」という雰囲気。だが、どこか空間から浮いて見えた。

 胸ポケットには、学校のものではない名札が差し込まれている。

 そこにはこう書かれていた。

 九条。

 苗字だけ。所属も職種も記されていない。

「少し、お時間をいただいてもいいかな」

 穏やかな笑みを浮かべながら言う。

 その声が、奇妙だった。

 抑揚はある。敬語も丁寧だ。でも、そこには一切の揺らぎがなかった。

 緊張も、焦りも、苛立ちも、楽しさも、全部ゼロ。

 完全にフラットな声。

 人工音声に近い。

 なにより、おかしいのは――

 心音が、聞こえない。

 目の前に人が立っているのに、胸の奥から響く鼓動が一切しない。

 廊下の向こうを歩く生徒たちの心音や、保健室の先生の鼓動さえ聞こえるのに。この男の胸だけが、真っ黒な無音の穴になっていた。

『……うわ』

 ソノが、珍しく露骨に嫌そうな声を出した。

『こいつ、ボクらを“測る側”の人間だ』

「共鳴獣、じゃないのか?」

『違う。匂いが全然違う。もっと、乾いてる。数字とグラフと書類の匂い』

 数字とグラフと書類の匂い。

 つまりは、父が追っていたような「組織」の側の人間、ということだ。

『でも、普通の人間でもない』

 ソノが続ける。

『心音がないのに、生きてる。やりにくいタイプだね』

「御影くん」

 九条が、もう一度名前を呼んだ。

「少し、話がしたい。ここだと落ち着かないだろうから、隣の部屋に移ろうか」

 逃げる、という選択肢が一瞬頭をよぎる。

 だが、ここは学校だ。廊下には先生もクラスメイトもいる。無理やり連れ去られることはないだろう……と思いたい。

 それに、ここで何も聞かずに背を向けるほうが、かえって危ない気がした。

「……分かりました」

 立ち上がり、九条の後をついていく。

 保健室の隣には、普段はカウンセリング用に使われている小さな部屋がある。そこに通され、丸いテーブルを挟んで向かい合って座った。

 机の上には、さっきの検査結果が印刷された紙が置かれている。

 グラフがびっしりだ。

 普通の聴力検査の結果だけでもかなりいい数値なのに、その横に並んでいる「特殊周波数応答」のグラフが、明らかに異常な形をしていた。

 ほとんどゼロから百まで、ぴんと線が立っている。

「まずは、自己紹介からしようか」

 九条が、静かに口を開いた。

「私は九条。肩書を言うなら……そうだね」

 そう言って、内ポケットから一枚の名刺を取り出す。

 白地に、シンプルな黒い文字。

 そこにはこう印刷されていた。

 共鳴対策庁・特務課

 九条 司

 共鳴対策庁。

 父のノートの隅に、鉛筆で書かれていた三文字が、脳裏に叫び声を上げた。

 RAC。共鳴対策機構。正式発足前の準備室。

 啓司は、そこに情報提供をしていた。

 正式な庁になっている。特務課なんて、いかにもな部署まである。

「……それ、なんですか」

 喉が乾いて声がうまく出ない。

 九条は、微笑を崩さないまま説明した。

「簡単に言えば、“共鳴症候群”に関する専門の役所だよ。最近ニュースで見ないかな。特定の音環境下で起きる失神や、集団ヒステリーのような事案」

 ある。ニュースの隅に、小さく取り上げられていた。

 「ライブ中に観客二十人が同時に倒れる」「工場の機械音を聞いた従業員が一時的に意識障害」とか。

「そういった現象を“共鳴症候群”と仮に呼んでいる。原因は、まだ完全には解明されていない」

 九条は、手元の紙に軽く視線を落とす。

「御影くんの検査結果を見て、私はとても興味深いと思った」

 紙の上には、さっき見た異常なグラフ。

 通常の聴力検査の範囲を超えた、超高周波と超低周波への反応。

「この学校では、特定の条件を満たした生徒だけ、詳細な聴力検査を受けてもらっている。御影くんも、その一人だ」

「特定の……条件?」

「例えば、幼少期からの聴覚に関する既往歴。例えば、最近の生活環境の変化。例えば――」

 九条が、わずかに目を細める。

「最近、ライブハウスで倒れた人の近くにいた、とか」

 心臓が、派手な音を立てた。

 外からは聞こえないかもしれないが、自分の耳とソノには丸聞こえだった。

『バレバレじゃん』

 ソノが苦笑する。

『まあ、ニュースと防犯カメラと目撃証言つなげれば、誰でも分かるか』

「……さあ、何のことか」

 かろうじてそう言うと、九条は「そう」とだけ返した。

 そこに、責めるようなニュアンスはない。

 ただ、事実を確認しているだけの声。

「最近、耳の調子に変化はないかい?」

 九条が、机の上で指を組んだ。

「世界の音が、前より鮮明に聞こえるようになったとか」

 質問の内容が、あまりにも直球だった。

 蓮斗は、唇を噛む。

 父のノート。エリカの死。ソノとの共鳴。共鳴獣。ハコ・エコー。

 全部が繋がっていく。

 けれど――

「……特に、ないです」

 短く答える。

 九条の表情は、変わらなかった。

「そう」

 嘘を見抜こうとしているのか、していないのか。声にも、心音にも、一切の揺らぎがないから、本当に分からない。

『気持ち悪いな』

 ソノが、低く囁く。

『心臓、どうなってんだこいつ。機械式? それとも、そもそも鼓動で動いてない?』

「検査結果を見る限り、君の聴力は非常に特殊だ」

 九条は、紙に指先を軽く滑らせた。

「普通の人間にはまず聞こえない周波数帯に、はっきりと反応が出ている。こういうパターンは、今までにも、ほんのわずかだが例がある」

「……それは、病気なんですか」

「病気と言い切るのは早計だ」

 九条は、首を横に振る。

「ただ、“共鳴症候群”が発生した現場にいた人間の中に、時々こういう反応を示す者がいる。君のように、既に耳に“何か”を持っている者もいれば、そうでない者も」

 耳に何か。

 ソノのことを、どこまで知っているのか。

 蓮斗は、思わず頭の奥のソノに意識を向けた。

『聞こえてるよ』

 ソノが、くすりと笑う。

『でも、ぼくの“音”までは測れてない。そこだけは安心していい』

 それが本当だとしても、安心はできなかった。

「私はね、御影くん」

 九条が、少しだけ身を乗り出した。

「君に危険を知らせたいわけでも、君を利用したいわけでもない」

「……じゃあ、何なんですか」

「知りたいんだ」

 短く、あっさりと言う。

「共鳴症候群の正体を。音に何が起きているのかを。そして、君たちのような“聞けてしまう人間”が、どこへ向かうのかを」

 “君たち”。

 複数形。

 自分以外にもいる。ソノと共鳴しているかどうかは別にして、世界の音が変わってしまった人間が。

「だから――」

 九条はポケットからもう一枚、別の名刺を取り出した。

 そこには、さっきと同じ所属と名前に加え、直通の電話番号とメールアドレスが印刷されている。

「今度、少し話を聞かせてほしい。いつでもいい。君のタイミングで、ここに連絡してくれれば」

 机の上にそっと置かれた名刺。

 その紙片から、何の音も匂いもしない。

 ただ、静寂だけがまとわりついていた。

「もちろん、これは“任意”だ。呼び出したり、命令したりする権利は、私にはない」

 九条は、わざとらしいくらい軽い口調で笑う。

「君には、君の生活があるからね。学校も、部活も、友人も」

 結衣の顔。冬矢の顔。クラスメイトたちの笑い声。

 そういったものが、頭の中に浮かんで消える。

「ただ、このまま放っておけば、君はどこかで必ず“共鳴”に巻き込まれる」

 九条の声色は変わらない。

 けれど、その言葉は、冷水みたいに胸に落ちた。

「それが“自然発生”なのか、“誰かが仕掛けたもの”なのかは分からない。分からないからこそ、私は君のような存在を見逃せない」

 見逃せない。

 それは、守りたい、という意味にも、監視したい、という意味にも聞こえた。

『どっちもでしょ』

 ソノがぼそりと呟く。

『守ってるうちに、都合いいように使いたくなるのが人間だ』

「……分かりました」

 名刺を手に取る。

 紙は薄く、軽い。角もきちんと揃っている。

 だけど、手のひらに乗せた瞬間、温度が少しだけ下がった気がした。

「連絡するかどうかは、まだ分かりません」

「それでいい」

 九条は、すぐに頷いた。

「ただ、私はここにいる。君が世界の音に飲み込まれそうになったとき、少しだけ相談に乗れるかもしれない場所としてね」

 椅子を立ち上がり、ドアのほうへ向かう。

 ドアノブに手をかける直前、振り返って、こう付け加えた。

「それと、御影くん」

「……はい」

「君の父上には、大変お世話になった」

 心臓が止まりかけた。

「啓司さんは、優秀な刑事だった。少し無茶をしすぎるところが玉にきずだったがね」

 九条の表情は、ほんのわずかだけ柔らかくなった気がした。

「彼が残した資料は、今も我々の机の上にある。君が彼と同じ道を歩むかどうかは、君が決めることだ」

 それだけ言って、九条は部屋を出て行った。

 ドアが静かに閉まる。

 次の瞬間、部屋の空気の温度が、ほんの少しだけ上がったように感じた。

 さっきまで、そこに「無音」があった。

 心音のない男が残していったのは、不気味な“静寂の痕跡”だけ。

 その静寂の中で、名刺を握りしめる手が、微かに震えていた。


第9話 父のノートと、共鳴都市

 放課後の教室は、いつもより静かだった。

 結衣は用事があるとかで先に帰り、冬矢は部室へ顔を出してから直帰すると言っていた。部活をサボるわけにもいかないので、今日は自主練なしで上がるらしい。

 蓮斗は、一人で廊下を歩き、いつものように昇降口を抜け、家までの道を歩いた。

 耳に入る音は、前よりもずっと多くなった。

 信号機の電子音。自転車のチェーンが軋む音。遠くの踏切。マンションのベランダで干された洗濯物が風に揺れてぶつかる、かすかな布のこすれる音。

 それら全部が、頭の中に色付きの線として描かれていく。

『情報量、多すぎて頭痛くならない?』

 ソノが、わざとらしく心配そうな声を出した。

「お前のせいだろ」

『まあねえ』

 その軽さに、少しだけ救われる。

 家に着くと、母はまだ仕事から戻っていなかった。

 鍵を開けて玄関をくぐり、靴を脱いで自室へ直行する。

 机の引き出しから、例のノートを取り出した。

 父・御影啓司のノート。

 古くて、角が擦り切れかけている。表紙には何のタイトルもなく、ただ「K」とだけボールペンで書かれている。

 ページを開くと、細かい字と、幾何学的な線と、赤い丸印が目に入ってきた。

 その隙間に、新聞記事の切り抜きが何枚も挟まっている。

「市内ライブハウスで原因不明の多重発作」

「音楽フェス会場で複数人が同時に意識喪失」

「路上パフォーマンス中に観客六名が一斉に倒れる」

 見出しだけでも、嫌な汗が背中を伝う。

 日付はバラバラだ。十年前のものもあれば、五年前のものもある。場所もライブハウス、クラブ、野外ステージとさまざまだ。

 それなのに。

「……ここら辺ばっかりだな」

 記事に記された地名は、ほぼすべて、この都市圏だった。

 近隣の県で起きた似たような事案も、一応は貼られているが、その数は少ない。圧倒的に、この街とその周辺に偏っている。

 父は、記事の脇に赤ペンでメモを書き込んでいた。

 「音が集められている」

 その一言に、父らしい思考が詰まっていた。

『音が集められてる、か』

 ソノが、ノートを覗き込むような声でつぶやく。

『人間らしい言い方だけど、たぶん合ってる』

「どういう意味だよ」

『この街全体が、大きな楽器みたいに造られてるってこと』

 ソノの言葉に、思わずノートの後半をめくる。

 そこには、都市の地図が貼られていた。新聞の折り込み広告から切り取ったものか、所々にスーパーのロゴが見える。

 その地図の上に、父が赤いペンで線を引き、丸を付けていた。

 ライブハウス。クラブ。スタジオ。音楽専門学校。駅前の大型ビジョン。巨大商業施設の屋上ステージ。

 それらの場所に赤い丸が付けられ、いくつもの線で結ばれている。

 ざっと見ただけでは意味不明な落書きにしか見えない。

 だが、視線を少し離して眺めると、ひとつの形が浮かび上がってきた。

 巨大な円形のホールのような輪郭。

 円の中心には、この街の象徴と言われるランドマークタワーがそびえている。

 そのタワーを中心に、音の「箱」たちが同心円状に配置されているように見えた。

 ライブハウスが、音楽フェス会場が、スタジオが。

 意図しているのか偶然なのかは分からない。

 けれど、「たまたま」と片付けるには、出来すぎた配置だった。

「この街は、どこにいても音がよく響くんだよね」

 ふと、エリカの声が頭の中によみがえる。

 ライブのMCで言っていた言葉だ。

「ビルの壁も、駅のホームも、ぜんぶいい意味で“箱”になっててさ」

 あのときは、アーティスト特有の感性の話だとしか思わなかった。

 でも今は違って聞こえる。

 都市そのものが、“共鳴しやすい構造”として設計されている。

 父は、そう考えていた。

 地下鉄のルート。巨大な円形交差点。高架下に並ぶミュージックバー。定期的に音楽イベントが開催される公園。

 全部が、音をある一点に集約するための「設計図」に見えた。

『やだねえ、こういうの』

 ソノが、ため息混じりに言う。

『人間ってさ、自分たちで都市を作ってるつもりでいて、いつの間にか“鳴らされる側”になる』

「鳴らされる側って……」

『この街全体が、大きなライブハウスになってる。君たちは、そこで鳴る音』

 ぞわり、と肌が粟立つ。

 父のノートの端に、殴り書きのメモが見えた。

 「音の源は、都市そのもの」

 「誰かが、この街を“巨大なライブハウス”にしようとしている」

 その文字は、他のページよりも明らかに震えていた。

 啓司が、この仮説に辿り着いたとき、どんな顔をしていたのか。

 想像すると、喉の奥がきゅっと締め付けられる。

 ページをめくっていたところで、玄関のドアが勢いよく開く音がした。

 ガチャ、と鍵が回り、ドン、と靴が置かれる音。

 母にしては荒い足音だ。もっと重い、男の足音。

「おーい、いるか、蓮斗!」

 よく通る声が響いた。

 聞き慣れた響き。懐かしくもある、低い声。

「……本田さん?」

 階段を下りる前に、正体が分かった。

 ドアを開けると、案の定、リビングの前に本田刑事が立っていた。

 安物のスーツを少し崩した着こなし。ネクタイは緩めて、シャツの袖を二つほどまくっている。無精ひげがうっすらと伸びているが、目だけは鋭い。

「おう、久しぶりだな」

 片手を挙げる仕草はラフだけど、どこかぎこちなさも混ざっていた。

「葬式以来か」

「あ、はい。いらっしゃい……」

 母はまだ帰ってきていない。

 本田は、「ちょっと話があってな」と言ってリビングに上がり込んだ。

 テーブルの上に父のノートを置いたままだったことを思い出し、慌てて自室から持ってくる。

 それを見た本田が、目を丸くした。

「お前、それ……」

「父さんの書斎にあったやつです」

 蓮斗は、ノートを抱えたままリビングの椅子に座る。

 向かいに腰を下ろした本田は、しばらく黙ってその表紙を眺めていた。

 やがて、息を吐くように笑う。

「啓司のやつ、最後まで隠し通す気だったんだがな」

「本田さんは、これのこと知ってたんですか」

「存在だけはな」

 本田は、タバコを取り出しかけて、ここが家だと思い出したのか、苦笑いとともにポケットに戻した。

「本当はな、こういうの勝手に家族に見せると怒られるんだ。警察の資料でもあるし」

 そう言いながらも、ノートを指先でつつく。

「啓司は、共鳴対策庁が正式になる前から、音にまつわる不審死を追ってた」

「共鳴対策庁、知ってるんですか」

 思わず食い気味に聞き返す。

 本田は「まあな」と肩をすくめた。

「あいつらが庁になる前、“対策室”だの“準備室”だのって名前だったころからな。うちから人材取ろうとしてた」

 父のノートの隅に、小さく「RAC」というアルファベットが書かれていたのを思い出す。

 共鳴対策機構。今は“庁”になった組織の元の名前。

「啓司は、組織の中で孤立してたよ」

 本田は、天井を見上げるように言った。

「共鳴だの音だの、そんなオカルトじみた事件に本気で首突っ込んでたの、ほとんどあいつだけだったからな。上にも同僚にも、だいぶ浮いてた」

「……でも、やめなかったんですよね」

「やめなかったな」

 本田の口元に、ほんの少しだけ笑みが戻る。

「あいつ、バカが付くくらいまっすぐだったから。怪しい死に方してる奴らを“たまたま”で片付けるのが、どうしてもできなかったらしい」

 それは、蓮斗の知っている啓司そのものだった。

 子どものころから、「正しいと思ったことをやれ」と口癖のように言っていた。正しさの基準が少し不器用で、家族を巻き込んでしまうこともあったが。

「でも、啓司は最後まで、“人間側に立つ”って言ってた」

 本田の声色が、少しだけ低くなる。

「共鳴対策庁だの、裏で動いてる連中だの……そういうのの中にも、お前みたいな存在を“兵器として使おう”としてる奴らがいる。啓司は、それだけは許せなかった」

 お前みたいな存在。

 「聞けてしまう人間」。九条の言葉が、頭の中で反芻される。

「……九条って人、知ってますか」

 父の元同僚なら、共鳴対策庁の人間のことも多少は知っているかもしれない。

 本田は、少しだけ目を細めた。

「九条司、か?」

「はい」

「知ってるよ。あいつは“測る側”の人間だ」

 ソノと同じ表現だった。

「悪いやつかって聞かれたら、即答できねえな。ルールに忠実なぶん、話は通じる。けど、ルールの外にいる人間を切り捨てることにも、ためらいがない」

 つまり、味方になることもあれば、平気で敵にも回るタイプだ。

「啓司とは、何度もやり合ってたよ。“君たちは危険を数値化したいだけだろう”とか、“感情論で事件を語るな”とか。お互い正しいこと言ってるから、余計にめんどくさかった」

 本田が苦笑する。

「でもな」

 そこで、真剣な目に戻った。

「啓司は、最後までお前らを兵器にはしたくなかった。それだけは、信じてやってくれ」

「……お前ら、って」

「世界の音が変わっちまった人間だ」

 本田は、じっとこちらを見た。

「なあ、蓮斗」

 名前を呼ぶ声が、妙に重かった。

「お前の耳、変わっただろ」

 図星を突かれ、息が止まりそうになる。

 視線を逸らしたくなるのを我慢して、本田を見返す。

「……何のことですか」

「誤魔化せると思うなよ」

 本田は、テーブルの上に肘をつき、両手を組んだ。

「啓司のノート、最後のほう見たか」

 促されるまま、ノートの後半をめくる。

 地図のページを越えた先に、さらに細かいメモがびっしりと書き込まれていた。

 「共鳴パターンA〜F」

 「感受性の高い対象/既往:難聴、音楽経験者、トラウマ」

 「一次共鳴者→二次共鳴者への伝播」

 専門用語とも違う、父なりの分類だ。

 その最後のページに、震える字でこう記されていた。

 「音の源は、都市そのもの。誰かが、ここを“巨大なライブハウス”にしようとしている」

「啓司はな」

 本田が、静かに言う。

「この街が音で満たされていくほど、人間が“音に喰われやすくなる”って考えてた。共鳴獣だのなんだの、それが本当にいるかどうかまで分かってたかはともかくとしてな」

 ソノが、「いるけどね」と小さく付け足したが、もちろん本田には聞こえていない。

「で、啓司自身も、あの街の音にやられかけてた」

 本田の声に、かすかな悔しさが混ざる。

「ある日を境に、“耳に変な音が残る”とか、“無音の三秒がある”とか、わけ分かんねえこと言い出してな」

 三秒無音。

 父が死んだ日の記憶が、ぼんやりと蘇る。

 銃声は、しなかった。

 代わりに、「カチ」という異様な音が耳の奥で鳴り響いた。

 その音と同じ種類の気配を、今、ソノから感じている。

「啓司の死は“自殺”ってことになってる」

 本田の目が、鋭さを取り戻す。

「でも、俺は今でも納得してない。あいつは、そんな簡単に諦める奴じゃなかったからな」

 幼い自分の頭を撫でながら、「お前の耳は武器になるかもしれないが、それを振り回すなよ」と笑っていた父の姿が浮かぶ。

「だから、蓮斗」

 本田は、身を乗り出した。

「警察内部にも、庁にも、お前みたいな存在を“利用しよう”としてる連中がいる。そいつらは、君を守るって言いながら、文字通り前線に放り出すタイプだ」

「前線……」

「共鳴事件の現場だよ。音の怪物がいるかもしれない場所に、お前を“センサー”として立たせる気満々な連中がいるってことだ」

 九条の、フラットな声が頭の中に浮かぶ。

 「君たちのような“聞けてしまう人間”が、どこへ向かうのかを知りたい」

 その好奇心は、本物だろう。だが、その先にある選択が、必ずしも自分たちのためとは限らない。

『どっちにしても、君はもう巻き込まれてる』

 ソノが、現実的な声で告げる。

『エリカの件も、ハコ・エコーも、共鳴獣も。今さら日常に戻ろうとしても、向こうが放っておいてくれない』

 それは、自分でも分かっていた。

 分かっていて、目を逸らし続けることだけが、今のところの防衛手段だった。

「啓司はな」

 本田が、少しだけ苦笑した。

「最後まで“人間側に立つ”って言ってた。耳のいい奴らを、武器じゃなく、ちゃんと人間として扱う道を探したいってな」

 父の、頑固で、不器用で、無茶な正義感。

 その姿が目に浮かんで、胸が熱くなる。

「俺は、あいつの相棒だった」

 本田は、ソファに深く背を預けた。

「だから、お前にも言っとく。何を選ぶのかはお前次第だ。庁に協力するのもいい。全部無視して逃げるのもいい」

「……でも?」

「兵器として使われるのだけはやめとけ」

 短く、きっぱりと言う。

「啓司が何より嫌ってた道だ。それだけは、選ぶな」

 リビングの時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。

 隣の部屋の冷蔵庫のモーター音。遠くを走る救急車のサイレン。

 それら全部の上に、父のノートの最後の一文が浮かぶ。

 「音の源は、都市そのもの。誰かが、ここを“巨大なライブハウス”にしようとしている」

 巨大なライブハウス。

 その中で、自分は何をするのか。

 聞かされる側でいるのか。鳴らされる側になるのか。それとも――

『レン』

 ソノが、静かに囁く。

『君は、どのステージに立つ?』

 本田の視線が、真正面からぶつかってくる。

 その圧に耐えながら、蓮斗は拳を握った。

「……父さんは、どうしてたと思いますか」

 問い返すと、本田は少しだけ目を細める。

「啓司か?」

「はい。“巨大なライブハウス”だって気付いたうえで、父さんはどこに立とうとしてたんですか」

 本田は、少し考えるように視線を天井に向け、それから苦笑した。

「そりゃあお前」

 肩をすくめる。

「ステージの一番前で、怪しいアンプぶっ壊そうとしてただろうな」

 笑うしかない答えだった。

 でも、同時に、納得でもあった。

『なら、君はどうする?』

 ソノの声が、問いを繰り返す。

「……俺はまだ、決めきれません」

 それが、今出せる精一杯の本音だった。

「でも」

 父のノートを抱きしめるように胸に当てる。

「父さんが掴めなかったところまでは、行ってみたいです」

 本田が、ふっと笑った。

「ったく。親子だな、お前ら」

 その苦笑いに、少しだけ救われる。

 都市のどこかで、今日も誰かが歌っている。

 地下のライブハウスで。高架下のストリートで。駅前の広場で。

 そのどれかが、共鳴獣の餌になっているかもしれない。

 共鳴都市。

 音が集められる街。

 その中心へと向かう覚悟は、まだ固まりきってはいない。

 それでも、父のノートと、自分の耳と、ソノと。

 そして、結衣や冬矢との日常を握りしめながら。

 御影蓮斗は、一歩ずつ、音の鳴り続くこの都市の奥へ踏み込んでいくことになる。


第10話 刻まれた痕と、路上ライブ

 その日も、特に何か予定があったわけじゃない。

 期末テスト前の補習もなく、部活も自主練だけ。結衣が「新作のタピオカ屋さんが期間限定で来てるんだよ!」と騒いだのをきっかけに、放課後の俺たちは駅前の広場へ流れていった。

「ほらほら、御影も冬矢先輩も、文句は現地で聞くからね!」

「おい、俺は文句なんて言ってないぞ。ただ、タピオカって飲み物なのかデザートなのか、その辺の哲学的な問題について――」

「先輩、それ一生答え出ないやつです」

 結衣が冬矢の腕を引っ張って、勢いよく歩く。その後ろを、俺は少し距離を置いてついていく。

 駅前の広場は、夕方の光に包まれていた。

 ビルのガラスに西日が反射し、行き交う人の影を長く伸ばしている。待ち合わせのカップル、買い物袋を下げた会社帰りの人、スマホを見ながら歩く高校生。

 そのざわめきの中で、ひときわ耳を引く音があった。

 ギターのストローク。スネアを叩くスティックの乾いた音。簡易のアンプから流れる、少しだけ歪んだボーカル。

「わ、路上ライブやってる!」

 結衣が、タピオカ屋の列を見事にスルーして、音のほうへ突進していった。

「おい、タピオカは?」

「後でいいの!」

 冬矢と顔を見合わせ、苦笑しながらその後を追う。

 広場の隅。地下へ続く階段横のスペースに、小さな輪ができていた。

 若い男女三人のアマチュアバンド。

 ボーカル兼ギターの少年、キーボードの女子、カホンを叩く短髪の男子。機材は最低限で、アンプも小さい。観客はせいぜい十人前後。

 それでも、空気は悪くなかった。

 ボーカルの少年は、まだ高校生か大学生くらいだろう。ジーンズにTシャツというラフな格好なのに、マイクの前に立つと、不思議と立ち姿に芯が通る。

 声には、独特の荒々しさと瑞々しさがあった。

 完璧なテクニックとは言えない。ところどころ音程も外れる。それでも、胸の奥をくすぐるような真っ直ぐさがある。

「おお、やるじゃん」

 冬矢が、腕を組んで頷いた。

「こういうの、俺わりと好きだわ」

「分かる!」

 結衣が、リズムに合わせて体を揺らす。足先で小さくステップを刻みながら、目をきらきらさせてステージ……というか、路上の端を見つめていた。

「ね、レンも良くない? この声」

「まあ……悪くないな」

 正直、俺も聞き入っていた。

 ギターのジャカジャカというストロークと、かすれ気味の高音。ビルの壁に反射して戻ってくる残響が、いい具合に粗さを補っている。

 観客も、少しずつ増えていた。

 通りがかりのOLらしき人が立ち止まり、スーツ姿のサラリーマンが足を止め、同年代っぽい子たちがスマホを構える。

 それぞれの心音が、わずかに高くなるのが分かる。

 期待、興奮、ちょっとした高揚感。

 そこまでは、路上ライブとしてごく普通の光景だった。

 けれど。

 曲がサビ前に差しかかったあたりで、耳の奥に奇妙な違和感が走った。

 ボーカルの声のハーモニーの合間に、微かなノイズが混じり始めたのだ。

 最初は、アンプの調子が悪いのかと思った。

 古い機材なら、少し音量を上げただけでノイズが乗ることもある。

 だが、このノイズは違った。

 アンプから出ているのではない。

 空気の中から、直接、頭蓋の内側へと入り込んでくる。

 ざらり、と。

 レコードの針が古い盤をなぞるときのような、ちいさな摩擦音。

『……この感じ』

 ソノが、小さく鼻を鳴らした。

『この子の声、そのままだと“開きっぱなしのゲート”になる』

「ゲート?」

『共鳴獣が入り込む隙だらけってこと』

 その言葉と同時に、俺は周囲の音に意識を集中させた。

 観客の呼吸が、少しずつ乱れていく。

 さっきまで穏やかだった心音が、テンポを早める。ドクン、ドクンという鼓動の音が、ボーカルの声に押し出されるように、全体的にピッチを上げていた。

 まるで、透明な手が胸の内側を撫でているみたいだ。

「……まずいな」

 気付けば、小さくつぶやいていた。

「え?」

 隣の結衣が、不思議そうにこちらを見る。

 一方、ボーカルの少年は、いい意味で自分の世界に入り込んでいた。

「もっと行ける!」

 そんな心の声が、声そのものに乗っている。

 上擦った高音。マイクに近付きすぎて生じるハウリング寸前の音。

 その隙間から、黒いノイズが少しずつ顔を覗かせていた。

 共鳴獣の匂い。

 ハコ・エコーで嗅いだ、あの嫌な気配に似ている。

『このまま続けさせたら、観客の何人かは軽い発作を起こすかもね』

 ソノが、あっさりと言った。

『今はまだ“小型の共鳴”だけど、この街の構造的に、そのうちどこかの箱と繋がる』

「だったら、どうすればいい」

『簡単だよ。今はまだ“扉が開きかけてる”だけ。無理やり別の音ぶつければ、いったん閉まる』

 別の音。

 ライブを中断させるくらいの、大きな音。

 でも、どうやって。

 バンドのそばには、通りがかりの人たちもいる。大声で止めれば、当然空気が悪くなる。ボーカルの子に「下手だからやめろ」と言ってると思われるのも面倒だ。

「……仕方ねえか」

 覚悟を決め、俺は自販機のほうへと目をやった。

 路上ライブのすぐ脇に、缶コーヒーの自動販売機がある。その下には、少し段差のあるコンクリの縁。

 俺は、足元の小石をそっと拾い上げ、自販機の横のゴミ箱の陰に回り込んだ。

『何する気?』

「見てろ」

 ペットボトルの投入口のあたりに狙いを定め、小石を放る。

 ガンッ。

 自販機の金属部分に、派手な音が響いた。

 それに驚いたのか、そばを歩いていたサラリーマンがつまずいた。その人の手から飛び出した缶コーヒーが、地面に落ちて転がる。

 缶が、段差に激突した。

 ガッシャーン。

 派手な音を立てて、横に置いてあった空き缶用の箱がひっくり返る。中身の缶が一斉に転がり出し、カランカランと広場中に金属音を撒き散らした。

「うわっ!」

「なになに!?」

 観客の視線が、一斉に音のほうへ向く。

 バンドも演奏を止めざるを得なくなり、ボーカルの少年が驚いた顔でそちらを見た。

「す、すみません!」

 俺は、缶を拾い集めながら、わざとらしく頭を下げる。

「足、滑らせちゃって……」

「あ、ああ、大丈夫ですか」

 近くにいたおばさんが、心配そうに近づいてきた。サラリーマンも「すみません、こっちこそ」と苦笑している。

 観客の輪が、一度ほどける。

 その瞬間――

 さっきまで空気の中に満ちていたノイズが、すっと引いた。

 共鳴しかけていた波が、金属音の乱入でかき消されたのだ。

『ナイス判断』

 ソノが、珍しく素直に褒めてきた。

『バンド側からしたら迷惑極まりないけど、観客の健康的には百点満点だね』

「そういう言い方すんな」

 胸の奥で心音がおさまっていくのを確認しながら、缶を元の箱に戻していく。

「御影、大丈夫か?」

 冬矢が駆け寄ってきた。

「お前、派手にすっ転んだな」

「まあ、ちょっとな」

「もー、レン。びっくりしたんだからね」

 結衣も、少し青ざめた顔で俺の袖を掴んだ。

「怪我してない? 膝とか手とか」

「平気だよ。ほら」

 両手のひらを見せる。多少砂利はついているが、血は出ていない。

 ボーカルの少年が、マイク越しにこちらを見て笑った。

「大丈夫でしたか?」

「あ、すみません。ライブ止めちゃって」

「いえいえ。むしろ、ちょうど休憩入れようと思ってたんで」

 そう言って、ペコリと頭を下げる。

 声はさっきと同じ少年のものなのに、歌っているときとは違う、普通の高校生みたいな響きだった。

 ノイズも、乗っていない。

「このあとも続けるんで、よかったらまた聞いてください」

 そう言われて、結衣が「もちろん!」と両手を上げた。

 俺は、曖昧に笑ってその場を離れた。

 路上ライブの音が背後に小さくなっていく。

 その代わりに、広場全体のざわめきと、駅のアナウンスと、バスのアイドリング音が、いつものように耳に戻ってきた。

     ◇

 タピオカ屋に並び、結衣が張り切って一番派手なトッピングを注文し、冬矢が「甘さ控えめのやつで」と後悔が見え隠れするオーダーをし、俺はとりあえず一番無難そうな黒糖ミルクを選んだ。

 ストローでタピオカを吸い上げ、「これ飲み物じゃないだろ」と冬矢が真顔で言うのを聞きながら、駅から家までの道を三人で歩く。

 夕焼けはすっかり終わり、空には紫と藍色のグラデーションがかかっていた。

 街灯が一つ、また一つと灯る。

 ふと、隣を歩いていた冬矢が立ち止まった。

「……ん」

「先輩?」

 結衣が首をかしげる。

「どうしました」

「いや、なんか、今日の稽古で変に捻ったかなって思ってさ」

 冬矢は、少し顔をしかめながら左肩を押さえた。

「ここら辺、ずっと違和感あるんだよな。痛いってより、重い感じ」

「部活中の怪我ですか?」

「たぶん。でも、打った記憶があんまなくてさ」

 そう言いながら、冬矢は制服の袖をまくった。

 剣道部の男子特有の、がっしりとした腕。

 その肩の付け根――ちょうど鎖骨の下あたりに、黒っぽい痣のようなものが浮かんでいた。

「うわ、結構デカいじゃん」

 結衣が思わず身を乗り出す。

 単なる内出血……にしては、妙だった。

 よく見れば、その痣はただの丸や線ではない。

 細かい線が幾重にも重なり合い、うっすらと「紋様」を形作っている。

 円と直線が組み合わさった、複雑なパターン。

 そして――

 そこから、かすかなノイズが漏れていた。

 耳の奥で、ちりちりと鳴る、小さな音。

 先ほどの路上ライブで感じたノイズとは別種だが、方向性は似ている。

『……あー』

 ソノが、低く唸った。

『これは、分かりやすい』

「おい、ソノ」

『それ、“刻印”だね』

 刻印。

 嫌な言葉だった。

『共鳴獣の残り香。完全に乗っ取られてはいないけど、このままだと“器候補”にされる』

「器……」

 ライブハウスの店長の顔が浮かぶ。

 共鳴獣に体を乗っ取られ、マイクを通してノイズを撒き散らしていた男。

 あれと同じようなことが、冬矢にも起きる可能性がある。

 喉が、からからに乾いた。

「御影?」

 結衣が、不思議そうに俺を覗き込む。

「先輩の痣、そんなに変?」

「あ、いや……」

 誤魔化しの言葉が出てこない。

 冬矢は、自分の痣を軽く指でつつきながら首をかしげた。

「これ、いつできたんだろうな」

「覚えてないんですか」

「最近、妙に悪夢見るんだよ」

 ぽつりと、冬矢が口にする。

「誰かに名前呼ばれてる気がしてさ」

「名前?」

「うん。はっきり聞こえるわけじゃないんだけど……すげえしつこく呼ばれてる感じ。耳元で囁くような声で」

 耳元で囁く声。

 それは、まさに共鳴獣が好む“入り口”だ。

 夢と現実の境目を曖昧にして、じわじわと侵食してくる。

『匂いが、ハコ・エコーのときと似てる』

 ソノが、嫌そうに鼻を鳴らした。

『あそこにいた共鳴獣と、同じ系列のやつだね』

「お前、そういうの系列で分けてんのか」

『音質でね。人間で言うところの“声質”みたいなもん』

 のんきな調子で言うな。

 でも、その分析はありがたい。

 刻印。

 冬矢の肩に刻まれたそれは、今のところまだ深くはないように見えた。ノイズも弱い。生活に支障をきたすレベルではない。

 しかし、この街全体が共鳴都市であり、音が集められていることを考えると――

 放っておけば、いつか「器」として狙われる。

 冬矢は、何も知らないまま、共鳴獣の餌になる。

「先輩」

 思わず声が出た。

「最近、変な音とか、聞こえたりしませんか」

「変な音?」

「そうです。耳鳴りとか、頭の中でだけ鳴ってる感じの歌とか」

 冬矢は少し考え、それから苦笑した。

「お前と違って、俺の耳は普通だよ」

「ですよねー」

 結衣が笑う。

「レンみたいに何でも聞こえちゃう体質だったら、逆に疲れそうだし」

「そんな簡単に開き直れたら苦労しないんだけどな」

 冗談っぽく返しながら、心の中では冷や汗をかいていた。

 冬矢の肩の痣から漂うノイズは、確かに共鳴獣のものだ。

 でも、それをここで二人に説明するわけにはいかない。

 共鳴獣。共鳴症候群。共鳴対策庁。父のノート。

 それら全部をぶちまければ、冬矢も結衣も間違いなく巻き込まれる。

 それは、避けたかった。

 俺は、二人を守りたい。

 ハコ・エコーで、目の前でエリカを救えなかった分まで、今度こそ。

「……御影」

 冬矢が、少し真面目な声で呼びかける。

「なんか隠してるだろ」

 心臓が跳ねた。

「いや、別に」

「嘘つけ。お前がそうやって目そらすとき、大体なんかあるときだ」

 どこまで見透かされてるんだ、この先輩。

 結衣も、じっとこちらを見つめてきた。

「レン、エリカちゃんのことでも無理してたんだからね。なんかあるなら言ってよ。私たち、友だちなんだから」

 その言葉が、胸に刺さる。

 友だち。

 だからこそ、巻き込みたくない。

 でも、友だちだからこそ、黙っているのも違う気がする。

『難しいねえ、人間関係』

 ソノが、ひとごとのように笑う。

『言わなきゃ守れないものと、言ったら壊れるもの。どっちも大事そう』

「……ほんとに、今はまだ、大したことじゃないんです」

 俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「ただ」

 冬矢の肩の痣を、そっと指さす。

「それ、放っておくと、たぶんもっとひどくなります」

「ひどくって、どんなふうに」

「痛くなったり、眠れなくなったり……変な夢を見続けたり」

 少しだけ真実を混ぜる。

「だから、様子見ながら、ちゃんと病院行ってください」

「病院かあ。整形外科とか?」

「どこでもいいですけど、写真とか撮ってもらっておいてください。記録があるだけで、後から何かあったときに便利なんで」

「何かって?」

「何かは、何かです」

 はぐらかすように笑うと、冬矢は「はあ」とため息をついた。

「分かったよ。とりあえず明日、顧問に言ってみる」

「お願いします」

 深く頭を下げる。

 冬矢は、少しだけ呆れたように笑った。

「お前さ」

「はい」

「エリカのときもそうだったけど、自分一人で背負い込む癖あるよな」

 図星すぎて、何も言えない。

「全部話せっては言わねえよ」

 冬矢は、空を見上げながら言った。

「でも、お前が本気で困ったときくらいは、頼れ。俺も結衣も、そこまで弱くねえから」

「……はい」

 それしか言えなかった。

 結衣は、「私も頼られたい!」と元気よく手を挙げた。

「レンの秘密を全部聞かせろなんて言わないけど、困ったときに『助けて』って言ってくれたら、全力でタピオカで応援するから!」

「タピオカで何が解決するんだよ」

「糖分はすべてを癒やすんだよ」

 くだらないやりとりに、思わず笑ってしまう。

 それでも、冬矢の肩から漏れるノイズは消えない。

 刻印は、確かにそこに残っている。

 共鳴都市。

 音が集められる街。

 ハコ・エコーだけじゃない。地下のライブハウスも、駅前の大型ビジョンも、こうした路上ライブさえも、誰かの設計図の一部になっている。

 どこまで友人を巻き込んでいいのか分からないまま、俺は言葉を飲み込んだ。

 タピオカのストローを噛みながら、結衣が笑う。その笑い声には、今のところノイズは混じっていない。

 冬矢の足音も、まだ普通の高校生のそれだ。

 この日常を、できるだけ長く守りたい。

 そのためにも。

『レン』

 ソノが、静かに囁いた。

『君が決めなきゃいけないよ。誰を守るのか。どこまで巻き込むのか』

「分かってる」

 小さく、誰にも聞こえない声で返す。

 刻まれた痕。

 路上ライブの残響。

 共鳴する街のざわめきが、今日も耳の奥で鳴り続けていた。



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