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蟻の巣  作者: Alan Ingres


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 私は今までドールが立っているところを見たことがなかった。というか、立たせたことがないというのが正しい言い方だろうか。私はドールのわきの下に手を入れて、そっと持ち上げた。ひさしぶりに持ち上げたドールは、思ったより重かった。ソファから立たせると、どこかに立てかける場所を眼で探した。しかし、周りを見ながら、ドールを支える手を少しゆるめると、私はドールの顔を見た。ドールの顔は、春の日差しに照らされた倶多楽湖の湖面のように穏やかで、私が無理やり立たせたことに対して、特に不平があるようには見えなかった。私はそろそろと両手をドールの脇から抜き出し、そのまま後ろに下がった。ドールはそのまま直立していた。ふらつくこともなければ、膝からくずれることもなかった。

 私はドールの正面に立った。ドールの前髪が目の高さにあった。たしかにドールの身長は伸びている。しかし、もともとどれくらいの大きさだったのか、私にはあいまいな記憶しかなかった。

 まあ、いいか。このドールが「ふつうの」人形ではないのは、とっくにわかっていたことだ。背が伸びようが髪が伸びようが、いまさら驚くことでもないだろう。

「しかし」

 私はドールのすらりとした立ち姿を眺めながら、

「今度はどうやって座らせたらいいんだろう」

 意志のないものを立たせるより座らせる方が難しいというのは、やってみなければ気づかないことだ。もっとも、実際そういう場面に遭遇することもあまりないだろうが。下手なことをしてドールを傷つけることは避けたかった。私はとりあえずそのままにしておくことにした。私は足音を忍ばせるようにして、リビングを出た。振り返ると、初めて見る、立っているドールの後姿があった。それはどこかで見たような、かすかな既視感のある情景だった。どこかにしまっておいたはずの手紙を探すように、頭の中の記憶の箱をまさぐりながら、私は薄暗い廊下を通ってキッチンに行くと、コーヒーメーカーにコーヒーの粉と水を入れスイッチを入れた。コーヒーメーカーから聞こえるかすかな音が、なぜか私に今日はまだ何も食べていないことを思い出させた。私は冷蔵庫を見た。特に空腹は感じていないが、そろそろ何か食べてもいい時間のような気がした。私は冷蔵庫の扉を開けて中を見た。そこには使いかけのめんつゆのボトルとトマトが一つだけあった。私はトマトを手に取って、流しで水洗いすると、そのままかじりついた。トマトを食べ終わると、濡れた手を洗い、タオルで拭いた後、コーヒーの注がれたカップをコーヒーメーカーから取り出した。コーヒーカップを持って仕事部屋にもどると、ドールはいつもの自分の椅子に座り、私を待っていた。


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