水都抗變・二
水部の巨大なカルテルの長を務める淦は、北梑からやって来たという怪しい女とコンタクトを取っていた。
その女は、どうやら純粋にパーティーを楽しみにきたわけではないよう──。
「んもうっ!触りかたぁ」
女の艶っぽく、誘ってもいるかのようないやらしい声が飛ぶ。
「あはっ、いやぁすまない。あまりに魅力的だったので」
まるで蜜に集る蟻の如く、やけに広いベッドの上には背幅の広い男と幾数の魅惑的な女性たちが居た。
豊満についた筋肉、正に肉体美と呼ぶのに相応しく、逞しく出来上がった男の躰を埋め尽くすように、露出の極めて多い水着を纏う女たちが寝そべる。
ナイトプールに参加する者たちも十分に人情享受するだろうが、それを主催し、また会場の総てをその手に握る『長』であれば、享受の度合いは幾分と跳ね上がるもの。
淦の内心は、それはもう佷々と気分の良く、何か怪しい快楽までをも覚えるほどであった。
「すまないね。少し席を外すよ」
何事かを思い出したように、淦ははだけたローブを整え、優しい手つきで女体を掻き分けてその場を退いた。
女たちは作った笑顔を見せて、手を振って見送り、彼が背を向けるが早いか、手渡されていた札束をせかせかと数え始めた。
「──気分は一夫多妻の王様?」
薄紫色に照らされるプールの全体を窺える、二階のバルコニー。
──物事に例外は付き物で、この女もそれに然る。
胴との比率に対して足の長く、明からさま常人とは軌を逸した端麗さを身に、また、聊か性的な雰囲気も絡めた其奴。
己の振り撒いたマルに目もくれず、近づいた己を嫣然とした表情で見つめる。
淦は金で釣れない此奴に、微塵の好奇心を駆り立てられていた。
「いやぁ一夫多妻だなんて」
嘘八百の笑笑でバルコニーの柵に腕を置き、淦は女の横顔をちらりと覗く。
鼻立ちがくっきりしていて、唇は如何にも柔そうにあり、肌はまるで新雪の如くに白い。
そして新雪に埋まった、宝石のように煌びやかな輝きを秘める菖蒲色の双眸。
総てが神の賜物といえようもので、またその総てが正に『彼女』を創り出している。
然れども、一点気がかりなことがあるといえば、彼女の口許に浮かぶ不敵な微笑みであった。
「泽丹も『怪物』に喰われるわね」
「私はこの地位を維持して、こうやって楽しいことだけをできるなら、後は何だって良いわけさ」
どうも隠していたわけではないようで、女は怪しい笑みを顔に貼り付けたまま、淦の目を確りと捉えた。
「ここ数年の動向はきっちり調べさせてもらったけど、あなたはいつもやり過ぎてるのよ。過ぎたるは猶及ばざるが如しって、いつか真意を認めざるを得なくなる日が来るわ」
気難しくなった言葉に、淦は愛想笑いを交えて柔く否定する。
「ハハッ。でも今回の選択も、いつもながら間違いではなかったと思うよ」
「悪く言えば保身に走った、ね」
「いやいや、私の選択は、君の言う『怪物』との大きな衝突を避けて、双方の然るべきでない損害を最小限に抑えたんだよ。怪物は我々の西西里に於ける自由の保証を承諾しているわけだし、だとすれば、保身とはまた違ったものだろう?」
明らかに楽しいパーティーとはそぐわない会話だった。
即ちに吹いた風は何故か肌寒く感じ、ローブをすり抜けて地肌を掠める風は、より一層寒く感じた。
「まあいいわ。捉え方はあなたの勝手だから。私この後も用事があるから、お先に失礼するわね」
女はカクテルの入ったグラスをくいっと持ち上げて飲むと、余った分を淦に押し付けて、ヒールをコツコツと鳴らし始めた。
「まっ、上手くやることね」
半ば情けをかけるが如く、妖艶な女は一言捨てて、颯爽にその場を後にした。
当主を横切るその刹那、彼は彼女の甘い香りに微々たる興奮と、それに対する恐惧を覚えた。
──一人その場に取り残された淦が、手渡されたグラスに入った僅かな液体を茫然と眺め、やがてそれを飲み干した頃である。
最初に聴こえたのは、霹靂吼のように空中を迸った、鈍重で乾いた銃声で、次に「当主っ!」と響いた、場の雰囲気を壊す程度の大声であった。
声を荒らげて周章にやって来たのは見張りに使わせていた若僧の部下で、其奴は脇腹からどくどくと規則正しく流れる血をなんとか押さえながら、姿勢を被弾した方に傾けて、当主のことを必死に呼んでいる。
「おまっ、それはなんだ!」
久方ぶりに見た生の血に、女の興奮は疎か、背筋に悪寒を走らせて当主は驚いた。
「はあぁっ……、うっ、奴です…………」
足許からずるずると崩れる若僧に、淦は直ぐに駆け寄り、若僧に喋るなと促して傷口を見てみれば、それは鹿玉によって空けられた無数の穴であった。
小さくも深い穴が若僧の腹を幾つも穿ち、そこからまるで噴泉の如く血が溢れ返る。
見るに限り、この青年はもう持ちそうにない。
淦は状況を悟ったその須臾にして、羽織るローブの内側から拳銃を取り出した。
──彼は思った。
万が一のために、内口袋を着けたローブをオーダーメイドしておいて良かった、と。