水都抗變・一九
獠を保護するために駆けつけた㺦、獇一行は、獠を後ろに引き下げて猰と対峙する。そして、余裕の表情である猰に㺦が放った言葉は、絶対に聞くべきではないものであった。
「特警だ、動くなっ!」
如何ほどの時間が過ぎただろうか──。
やがて沿道には、西西里の特警機動隊が続々と駆けつけ、最早深夜とは思えぬ喧騒が辺りを包み込んでいた。
拡声器越しに叫ぶ警官に、ウーウーと鼓膜に響くサイレン。
更に、サイレンは煩い警報音だけでなく、赤と青に点滅するライトを放ち、それが幾つも数をなすものであるから、最早辺りを見ることさえもが煩さくて堪らない。
猰はもう数十人近くを敵に回し、気づけば沿道の端にまで追い詰められていた。
錆びてガードレールの欠けた沿道は、海から崖となって高低差があり、風化した場所に足を置いてしまえば、道の端くれがポロポロと崩れ落ちていく。
「ふふっ。ねぇ、獠?」
己が窮地に窮まったことを悟り、そのことに開き直ったのか、猰は再び不穏な微笑みを浮かべて、獠の名を艶やかな声に乗せて呼んだ。
しかし、まるで舐めずるように片眉を吊り上げて睨む猰に、獠はもう怖気づく様子を見せない。
「──なんだ、猰」
「あなたって、よっぽど豪運の持ち主なんでしょうね」
猰はベルトの後ろ側に差し込んであった手榴弾の柄を握り、辺りに警戒を張る全員に見えるようにそれを見せつけた。
「おまっ!今すぐにそれを下ろしなさい!」
警官が周章てた様子で、音割れする程度に、拡声器越しに大声で叫ぶ。
「㺦。私は確かにあんたとその腰巾着を、敵だとすら認識していないわ。だけど、そのバカみたいに煩いサンピンを黙らせることくらいはできるでしょ?」
「はぁ……」と㺦は溜め息を一つ、警官にその煩い拡声器を下ろすように指示を出した。
「私はここで獠の首を持って帰られなきゃ、北梑に戻ることはできない。だからここまで命を懸けて、最善の手を打って立ち回ってきた。だけど、獠。あんたの強運と、㑓夷という後ろ楯が功を奏したみたいね。どうも、私はここでお仕舞いみたい」
柄のキャップを取って、猰は中から出てきた紐を握り締めた。
それを一思いに引っ張ってしまえば、もう耽誤である。
敵の窮まった状況に喜するべき獠は、心中に残る僅かな慈悲と、相応である罰の葛藤から猰との対話の継続を試みたが、彼女はそれを認めなかった。
「待て。本気で……、やるのか?」
「やるもなにも、あなたにとっての脅威が一つ消えるのよ?喜ばしいことじゃない。それに、あなたは今日だけで泽丹というカルテルの丸々一個と、㹜罘会の刺客を抹殺できた。枕を高くして寝られるじゃない──。安心して?私、他人に対する憐憫も慈悲もこれっぽっちとないけど、覚悟を決めれば己にだって厳しくできる。心配することないわ」
そう言い切ってしまうと、猰は獠の反応を待たずして、背中から真っ暗な瀛海へと、重力に身を任せて落ちていった。
そんな時も彼女は華麗であり、それはまるで、迫る死に余裕を感じているようである。
目を瞑り、その時になって初めて、彼女は純粋な微笑みを浮かべた。
そうして姿を消した悪魔に、㺦と獇は安堵の念を抱いたが、獠には驚愕のことであった。
「猰っ──!!」
必死に崖から覗こうとした獠だったが、獇が彼女の全身を包み込むように、強い力で身動きを封じてしまい、やがて海を彷徨っていた白波が、爆発音と共に凄まじい飛沫を上げて周囲の全員を唖然とさせた。
しばし、獠には目視できる世界の総てが止まっていた。
否、獠の思考が完璧に停止していたというほうが相応であるか。
たとえ己が生命を狙っていた其奴であっても、可怕で過酷だった戦争を共に生き抜いた旧友だったのだ。
説得を続ければ、もしかしたら助けることができたかもしれない。
獠の心中、彼女は何か、ガラスが破片になって飛び散るが如く、大切なものが欠けていくのを感じた。
畢竟なにもできずに迎えた結末を目の当たりにして、獠は立つ気力すらを失った。
「おいっ、大丈夫か?」
倒れかけた獠の躰を、㺦が周章てて駆けつけ、抱き支える。
「んっ──、だいじょう……ぶ…………」
「無理もないが……、ああする他なかったんだ。脅威のカルテルも潰せたし、十分なお手柄だよ──。おい、獇!退き上げるぞ」
獇は何も言わず、こくりと小さく頷くと、やがて三人は、警察の目を掻い潜るようにそそくさとその場を後にした──。




