疫
窓枠に切り取られた四角い夜空に浮かぶ星は、キラキラと輝いていた。暖炉の火と羽織の温もりでぽかぽかする。モコは、本を読むリトに凭れて寝息を立てていた。
「そうだ、リト。この国のこと教えてもらいたいんですが…」
不意に思い立って小声で聞いてみる。
「何も知らぬと申していたな。我らも旅の身でこの国についてあまり詳しくはないのだが、この国は昔、不老不死を望んだ国でな。民の命に疫が巣くうている」
「えっと…望んだって誰にですか?」
説明の言葉が少な過ぎてわからない。
「これは世界史の話しだ。600年前、世界は幾度と戦を繰り返し、滅びの危機にあった。ある時有名な心理学者が、なぜ人は争うのか根本的な理由を考えた。ソラはなぜ人は争うのだと思う?」
「えっ!何でだろう…戦争の原因ってことですよね。他の国の領土とかがほしいからですか?」
「そうだ。他国にあって自国にないものを欲しがるからだ。その欲が満たされない限り、人は争う。そこで、魔術師を集めて、それぞれの国の望むものを与えたのだ」
「与えた…うーん、なるほど」
「例えば、無限の富が欲しい国があったとする。その国はいずれその欲を満たそうと他国を侵略する。それならば無限の富を与えてしまえば争いは起きないだろうという話だ」
「そんなことできるんですね…。疫というのは?」
「魔術によってそれぞれの国は欲しいものを手に入れたのだが、それ以降、人々の欲には影が巣食い、我々はそれを疫と呼んでいる」
「…あのご老人の影も…?」
「そうだ。塔の国は一人の人間に長い間疫が巣食うているゆえ、あのように制御を失う者がいると聞く」
その後もリトはこの国について知っていることを色々と話してくれた。深くゆったりとした声は耳に心地良く、私はおとぎ話でも聞く子どものように眠りに落ちた。
う、うぅ
老人の呻く声で目が覚めた時にはまたいつの間にかすっかり日が高くなっていた。どうも時間の経過が妙に早く感じるのは記憶喪失と何か関連があるのだろうか。いや、それはただの言い訳で、単に寝坊助なだけかもしれない。
老人の額に当てていた布を取り替えるリトの横から、恐る恐る老人の顔を覗き込みはっと驚いた。白ひげの普通の老人だ。
意識のはっきりしてきた老人は目を見開く。
リトが穏やかにゆっくりと話す。
「旅の解術師リトと申す。疫はほとほと我が解した。ご老人、残る疫のわずかな今、そなたはもう長くは持たないだろう。最後に何か、我らにできることがあれば手伝わせて頂きたい」
「そうですか。ありがとう…」
長くもたない…なぜこの老人はそんなことを言われても平静なのだろう。
ポツリポツリと老人が語り出す。
「ようやく、ようやく、妻の元にいけるのですね。昔は死ぬことを大層恐れていたのに、今はなぜかほっとしています。疫により600年も生きてしまい、天国の妻はきっと待ちくたびれたことでしょう…」
そして、はははと力なく笑う。
600年。人間の寿命とは思えない時間。
「そんなに長い時間を…」
意図せず疑問が口から漏れた。
老人はまたふふ、と笑う。
「お嬢さんも旅の者かね。わしらの国は600年前、不老不死の命を願ったのだよ。もともとこの国は痩せた土地でな。毎年干ばつに見舞われ、流行り病で多くの人が死んでいった…。他国にかなうはずのない弱小国だった…」
何か伝えたいという意思を感じる。身体が辛そうなのに老人は多弁だ。
「わしの妻は流行り病で逝ってしまった…。明日をも知れぬ命を生きる中で、不老不死とはこの国の民全員の願いだったのだよ。しかし、長く生きたところでどうしようもない。
夜になれば疫に蝕まれた身体は骸骨の如く姿となり、病にかかろうと傷を負おうと死ねない苦しみは言い表せない」
「長く生きられるというのは…いいことばかりではないんですね」
そして老人は大きく一息つき、続ける。
「お嬢さん、寿命は決められているからこそ一生懸命に生きられるのだよ。歳をとり、ある日蝋燭の火が消えるように死んでいく。それはある意味幸せなことだったのかもしれないね」
よいしょ、と身体を起こした老人はリトの方を向き姿勢を正す。
「お若い旦那さま、1つだけお願いしたいことが思いつきました。この通りを真っ直ぐ行ったところに靴屋の看板を下げた我が家があります。そこへ連れていって頂けますか?」
靴屋の看板の下がった家は小さいながらも手入れされている。軒下には花が植えられ、老人のまめで穏やかな性格を表していた。
老人を背負ったリトはドアを開け、中に入る。
「旦那さま、わしをそこの揺り椅子に座らせてもらえますか。お気に入りでな」
見ると窓際に置かれた揺り椅子と読み古した本、使い込まれた眼鏡、サイドテーブルには野草の一輪挿し。
老人をそこへ下ろすと
「ふぅ、我が家はなんだかんだで落ち着きますね」
と、ほっとした顔をする。
その時、奥の部屋から若い女性が飛び出してきて「心配してたのよ!」と駆け寄る。
「わしはもうおばあさんのところへ行くよ」
老人は死が近づいているとは思えない落ち着きようだ。
女性はハッと息を飲み、何かを悟ったようだった。目には涙が浮かび、ポロポロと流れる。それでも深呼吸をして、そっと老人の手を握った。
「では、こちら様は解術師の方ね。よく引き受けて下さりましたね…よかったわね」
「あぁ、最後の最後にわしは運がついていた。
ここに置いてある本の終わりも良い結末だったのだよ。この前ちょうど読み終わってなぁ。主人公は…」
言葉が途切れ手の力が抜けていく。
午後の柔らかな陽が窓辺の二人を包み込む…。
「あぁなんて幸福なのだろう、ありがとう」
それが最期の言葉だった。
揺り椅子が軽く何度か揺れ、老人は昼寝でもするかのように目を閉じた。
「おじいさん、待っていましたよ」そんな老婦人の声が聞こえた気がした。
そして不思議とこの空間は心がぽかぽかした。
女性はしばらく静かに泣いていた。
「では、我らは去ろう」
リトはさっとその場を後にする。あまりにあっさりしていた。
「何も声をかけなくて良いんでしょうか?」
「いや、そっとしておこう」