はじまり
風が吹く、鳥が鳴く、草の匂い。気付けばただただ遠くに見える塔を目指して歩いていた。そこへ向かってどうするのかはわからない。自分は誰だったか、ここはどこなのか何も思い出せない。けれど、あの塔に向かえば誰かがこの霞がかった頭の中を何とかしてくれるような気がした。
ふと足下を見ると靴を履いていなかった。服はぼろを纒い、身体中傷だらけ。眠ったのはいつだっただろうか。そう思うと突然、疲労と痛みが全身を駆け抜け、崩れるように座り込んだ。
あぁ、あの塔まで歩けないかもしれない。
カタカタカタカタ
遠のく意識の奥から、荷馬車の音が近づいてきた。
「ねぇ、お師匠さん。あの人、どうしたのかな?きっと困ってるよ。助けてあげようよ。」
子供の声がする。
すぐ隣で馬の蹄の音は止まり、私は誰かに抱きかかえられて荷馬車に乗った。
目を開けると見知らぬ部屋にいた。どうやら少し眠ってしまっていたようだ。ベッドの横に置かれたランプの明かりがゆらゆらと揺れている。
「起きたよ起きたよ。あの女の人、生きてた。ねぇねぇお師匠さんこっちに来て。」
子供のバタバタという足音。続いてフードを深く被った人がこちらにやってきた。「あの、助けて下さってありがとうございました」
掠れる声で慌ててお礼を言ったが返事はなく、フードの人は部屋を出ていった。
部屋に残された私と子供の目が合う。5歳くらいの可愛らしい男の子だった。
「あ、ぼくはモコ。よろしく」
茶色の髪、くりくりとした純粋無垢の瞳は琥珀を連想させた。動物の毛皮を縫い合わせた衣服を身に付け、少しよれた葉っぱの帽子を斜めに被っている。
「あなたはだれ?」
モコの問いに言葉を詰まらせる。
「私は…誰なのかわからない」
モコは不思議そうな顔をした。けれどすぐに小さな八重歯の笑顔を見せ、
「誰でもないってことはさ、誰にでもなれるってことだね。すごいや。いいなぁ。」
と言う。モコの笑顔はまるでお日様のように明るかった。
「でもさ、呼び名がないのは不便だから…うーんソラって呼んでもいい?はじめて会った時、青いお空が綺麗だったでしょ。」
「…ありがとう。」
理由はわからないが一筋涙がこぼれ落ちた。悲しいのではなく、嬉し涙だ。名前があることで、この世界に生きているのを認めてもらったような気がした。
「えー?どうしたの?ぼく何か変なこと言っちゃったかな?」
「ううん、違うの。素敵な名前、嬉しくて…。
あ、モコ、聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「いいよ」
「ここはどこ?お師匠さんというのは誰?」
「ここは塔の国だよ。ふろうふし?の国とも言うかな。塔を囲む大きな国でね、ここでお師匠さんとぼくはお仕事しにきたの。そうそう、お師匠さんはぼくの先生。とっても強いんだよ。口数少ないけど、優しい人だよ。ぼくはお師匠さんが大好き。」
「そうなんだね。不老不死っていうのはつまり…この国の人は死なないってこと?」
「あれ、ソラはなんにも知らないんだね。もしかして、どこかものすごーく遠くから来たのかなぁ。ぼくもすごーく遠く行ってみたい。」
「…うーん。そうなのかな」
「ぼくはあんまり説明が上手じゃないから、後でお師匠さんに聞いてみてよ」
「お師匠さんはさっきの人だよね?」
モコは質問には答えず、わわわわわーと大きなあくびをして床で横になる。
「モコ?風邪引いちゃうよ。この毛布モコの?」
そう言いかけて息をのむ。さっきまでモコがいた場所には一匹の狐が丸まって寝息をたてていた。頭には斜めに被った麦わら帽子。
状況がよくわからない。私はこの世界にずっといたのだろうか。驚くことばかりでまたどっと疲れた。
ここは塔の国と言っていたけれど…どんな場所なのだろう?
お師匠さんに話を聞きに行ってみようかとも思ったが、一先ず、少し外に出てみることにした。実際に見てみたら何か思い出すかもしれない。
モコを起こさないようにそっとドアを開けた。
私のいた建物の外観は古めかしいものだった。そして…
建物からだいぶ離れているにも関わらず塔は偉大な存在感を放ってそびえ立っていた。
空が白みかけている。街は静かで不気味なくらいだ。
カツ、パタ、パタ、カツ、パタ、パタ
ゆっくりとした足音が近づく。振り向くと杖をつき背中の丸まった老人が立っていた。老人が顔を上げる…。
その姿を一言で表すならば白骨化した遺体だった。
きゃぁ!!!
私は悲鳴をあげて逃げようとした。しかし、傷つき疲れた足が言うことを聞かず、ドスンと尻もちをつく。
「お嬢さん。他の国のものかね。助けて、助けて。」
ガサガサの声とも言えぬ声が話しかける。
くぼんだ目からは黒い何かが這い出し、次第にその影を大きくした。