シェ レ シュエット Ⅲ ―訳あり専門骨董店―
手箱のヴェリテ
あたたかい日差しと清涼な風が金木犀の香りを運ぶ中、二人だけの茶会が催されていた。
レースをたっぷりとあしらったドレスを嫌みなく着こなしたフェリシエンヌはティーカップを置いて、振り替える。
「すごく素敵な香りがするのだけど、何かしら」
「……ああ、金木犀です」
何処かぼんやりとしていたシュゼットは言葉の意味をかみ砕き、飲み込んで理解してからゆっくりと答えた。
常日頃なら、ねぇと応えを催促する所だが、香りに気をとられたフェリシエンヌは聞き慣れない言葉に瞬きする。
「きんもくせい?」
「ほら、あそこの、アプリコット色の花をつけた木ですわ」
シュゼットの指差す先を追いかける。
青々とした葉をつけた一本の木があった。大人には及ばないとはいえ、同年代の子よりの背のあるフェリシエンヌより頭二つ分の高さがある。高さの半分程の広がりを見せる枝や葉の下一面にアプリコット色の花びらが落ちていた。絨毯のようにも見える落花は色を落とし始めた芝生に映える。紅葉よりもやさしい色合いはそこだけ切り取られているようだ。
「散り時でこれだけ素敵なのだから、盛りを見てみたかったわ」
フェリシエンヌの言葉にうーんとシュゼットは困った顔をする。
「数日前は、むせかえるほどに香りが強かったですよ」
控えめな言い方ではあるが、はっきりとした言葉だ。
フェリシエンヌは優雅に見える所作でティーカップを持ち上げ、向かいに座る少女へ目線を戻した。
栗色の髪にヘーゼルの瞳から平凡と見られがちなシュゼットは大人しい印象を与える。おっとりとした口調や平民の出であることも相まって小馬鹿にする令嬢もいるぐらいだ。
しかし、フェリシエンヌは知っている。見た目に反して、計算高いと。だからこそ、貴族の中で上位のフェリシエンヌにも物怖じせずに微笑む。
二人で微笑み合う中、三段プレートが陣取るテーブルに小皿が追加された。
蜂蜜のより薄い色の蜜にアプリコット色の花が浮いている。
フェリシエンヌが目だけで問えば、シュゼットは企んだ顔を垣間見せる。
「金木犀のコンフィチュールです。フェリが喜ぶかと思いまして」
何も考えてないようなぼんやりとした笑顔でこういうことをしてのける。退屈な日常に飽き飽きしていたフェリシエンヌは、食えないことをするシュゼットに気を許していた。
「準備のいいこと。紅茶に入れてみましょ」
わざと気取った言い方で牽制して紅茶に溶かす。くるくると回すごとに香りが広がり、熟しきった柑橘を思い起こさせる甘やかな香りを苦味の効いた香りが引き立てる。口に含み、鼻にぬけると胃の腑だけでなく、心も満たされていった。ゆるやかに残るそれが気分を落ち着かせる。
「これ、いいわね」
「気に入ってもらえてよかったです。試作品を作りすぎたので、お土産に致しますね」
シュゼットの穏やかな微笑みは答えがわかっていたようで、言葉は滞りなく紡がれた。
「商品にまでこぎ着けましたの」
「もう少し、という所でしょうか。父は自分の店に娘のお遊びが加わっても何も言いませんわ」
貴族があくせく働くなんてと顔をしかめられるような言葉がシュゼットからこぼれ落ちた。
フェリシエンヌは器用に片眉を上げ、軽く肩をすくめる。令嬢らしからぬ行動もシュゼットなら目をつむる。
「都一の商会は仕事が速いのね」
「時は金なりとはよく言ったものです」
フェリシエンヌのわざとらしい称賛もシュゼットには効きが悪い。貴族の小競り合いに慣れた令嬢はいつもこうやって無意識な返り討ちにあう。
うすら笑いがにじみ出たフェリシエンヌは誤魔化すように紅茶を口にした。
茶会を終えた二人は玄関で別れの談笑をしていた。そこへ一台の馬車が滑り込み、少し離れた場所で停車する。二人が注視する中、青年が降りてきた。
シュゼットが、アルが来る予定なんて会ったかしらと呟く。
歩いてくる青年をフェリシエンヌはよく知っていた。女が嫉妬しそうなほど艶やかな黒髪に深緑の双眸、鼻筋の通り均整のとれた顔は健康的に焼け、快活さを見せる。人目をさらう青年はフェリシエンヌの前まで来ると、恭しく礼を取る。
「フラゴナール嬢、ご機嫌麗しゅう」
「ごきげんよう、アラン様」
挨拶の延長で微笑みあって、アランは隣の幼馴染みに視線を移す。
「やぁ、私の愛しい人」
「照れくさいわね」
おっとりと微笑んでいた瞳から、人形のそれと同じように感情が欠如した。
反対に、アランはおどけるように肩をすくめる。
「仕様がないだろう、人前なんだし」
「名前で呼んでよ。なんなら、シュシュでもいいわ」
「やけに幼稚な呼び方をさせるな。からかってるんだろう」
フェリシエンヌを放って、ささやかな口喧嘩が始まった。それでも名前で呼び合うことに落ち着くのはすぐのことだ。
フェリシエンヌは二人が羨ましくて仕方がなかった。自分が結婚する時は、ほとんど初対面のまま何も知らない相手になるだろう。仮に彼と距離を縮め契りを結べたとしても、先祖や両親に、領民に見せる顔がなくなってしまう。貴族には貴族の役割と使命がある。貴族が平民を相手に色恋はしてはいけない。
そうだとわかっているつもりなのに、心は思い通りにならないのだ。自分という存在が何処にいるのか何のためにあるのか唐突に不安になる。我慢する必要があるのか、と邪な声が惑わされそうになることもあった。
すぐそばで交わされる小さな会話もひどく遠いもののように思えた。それなのに、ずるがしこい耳は音を拾う。
「フェリシエンヌ様がいらっしゃるの。後にしてちょうだい」
「珍しいものが手に入ったから渡しに来ただけだって」
あのね、とわずかに声を荒げたシュゼットを止めたのはフェリシエンヌだ。
「私のことなら気になさらないで。もう帰るだけですもの……あら、何を持っていらっしゃるの?」
「つまらないものですよ」
「本当、謙遜がお上手ね。船を持ち、海をも商売の手段に使うお家がつまらないものを持ってくるとは思えないわ」
頭をふるアランを言いくるめるのもフェリシエンヌにはお手のものだった。下手なことを言っても、貴族という立場でいくらでも手玉にとれる。
アランは少しだけシュゼットを見て、商人特有の人好きの笑みを顔にのせた。
「はるか東、砂漠の向こうで手にいれた物です。海の宝とも呼ばれる貝をあしらった螺鈿細工。不可思議で美しい紋様はかの皇族も気に入りの工芸品とか。もしよろしければ、ご見聞されますか?」
「まぁ、揶揄もお上手なのね」
フェリシエンヌは物を言わせぬ笑みで言ってやった。
アランの瞳は少女を写しているのに、僅かに諦めの色がまじる。手にした包みの中は愛しい婚約者にあげる贈り物だろう。
それをフェリシエンヌが望んだら、彼らが断るのは難しい。
強欲な貴族を前にして、大商会の子息、子女は精巧な仮面をかぶっている。
金木犀の香りが鼻孔をくすぐった。
フェリシエンヌは開きかけた口から細く息を出し、吸い込んだ香りが黒い感情を押し流していく。
「今日はよしておくわ。シュゼットから素敵な贈り物をいただいたから満足しているもの」
フェリシエンヌは無理に友の顔をして、馬車に乗り込んだ。
═•⊰❉⊱•═
金木犀の香りが漂う茶会から、一度だけ招待をはさんで一月ほどたった昼下がり。クレーニュ通りに入った馬車はゆっくりと速度を落とした。
国一番の銀行にのびる通りは綺麗に石畳が敷き詰められ、乗り心地も快適だ。銀行帰りに休憩できるカフェや堅実な貸付け屋が軒を並べ、近くの高級商店街に向かう人もまじり華やいでいる。
カーテンの隙間からその様子を眺めていたフェリシエンヌの目に一羽の梟が飛び込んできた。銅でできた、かなり年期の入った代物だ。
その梟が降り立つ扉の前で、馬車は静かに止まった。
フェリシエンヌが何を言わずとも、侍女が前に進み出て梟の扉を叩く。看板は見当たらない。扉が開かないので留守だろうかと近くの窓から中を盗み見た。
レースカーテンの向こうで小さな体躯が通りすぎる。開けられた扉から、思ったよりも低い位置に笑顔が現れた。そこには、葡萄酒色ともとれる深い赤髪に黒い瞳を持つ子供が立っていた。十歳を過ぎたぐらいだろうか、少なくとも十五歳になるフェリシエンヌよりも年下だ。
「こんにちは、ご令嬢。お待たせして申し訳ございません」
「ごきげんよう。ちょっといいかしら」
フェリシエンヌの挨拶に、もちろんと頷いた子供は店に招き入れた。
「申し訳ないのですが、使いに出しているのでお茶を準備する者がいないのです。もうしばらく待てば帰ってくるとは思います。十分なおもてなしがご用意できず、申し訳ございません」
子供の言葉にフェリシエンヌは心の中だけで首を傾げた。さも従業員のような振る舞いをするが、目の前の子供の方が使いっぱしりに最適な気がする。自分の感覚がずれているのかと後ろの侍女に顔だけを向ければ、控えめな困惑顔が見てとれた。
物腰やわらかな子供が二人を席に案内し、自身も席についた後に、胸に手を当てる。
「はじめまして。この骨董店の店主、クリスと申します」
ガラス張りのショーケースも壁を埋め尽くす程の威厳に満ちた絵画も霞んで見えるほどに、クリスの存在は花があった。馬鹿みたいな話をしたが、商売人の顔はしている。
フェリシエンヌは蹴落とされないように胸を張って顎を引いた。店主か使いっぱしりかを見分けにきたわけではない。
「フェリ、と申します。壊れたものでも買い取ってくださると聞いたのだけれど、本当かしら」
自分の名が知れては困る。一回限りの縁だと割りきり、よくある名前で通した。手放すことが目的なのだ。
昼前にも口の固い贔屓に持ちかけたのは同じ内容だ。うちでは取り扱えない品だとここを紹介された。紹介されたと言っても、流れてきた噂をそのまま伝え聞いただけだ。何でも買い取ってくれるという噂の骨董店は呪いの品で溢れている、借金の形ばかり並べている、国宝に至る物まで扱っている、など。いかがわしい老舗は、同業から『鳥籠』と気味悪がられていた。迷いはしたが、名前も知られていないような奇異な店ならば、足がつきにくいだろう。昼食を食べる気にもならないので、贔屓の店の帰りにそのまま馬車を向かわせた。
店主の表情も発音も立ち振舞いも申し分がない。子供、という点を抜きにして、けちをつけるとしたら底の見えない黒曜石の瞳ぐらいだ。相手に畏怖の念を抱かせるのは商売人にとって欠点と言ってもいい。
フェリシエンヌのうろんな目にも、クリスは笑いかける。
「度合いにもよりますが、何でも買い取らせていただいています。早速ですが拝見させてください」
淀みない答えに、フェリシエンヌは眉間を寄せたのは一瞬のことだ。クリスには気取られないようにすばやく機微を隠し、侍女に目配せする。
進み出た侍女は出されたトレイに包みから出した品を置いた。包みをたたみ後ろに下がる。
商人を相手にすることも慣れているはずのに、フェリシエンヌは心細さを感じていた。底の見えない店主を前にして怯えが沸き起こっている。それでも、ここまできて逃げ帰るわけにもいかない。手袋をした店主が依頼品をトレイごと持ち上げ眺める様を息を潜めて見つめた。
ほぅとクリスは物珍しそうに吐息をこぼす。
「東洋の手箱ですね」
そうね、と固い返事には感心をしめさず、詫びを入れた店主は手箱を持ち上げた。幾度も見る位置を変え、言葉を紡ぎだす。
「黒漆に螺鈿細工の唐草と舞い踊る蝶がほどこされた繁栄と長寿を願う縁起物ですね。厚貝と薄貝の組み合わせが憎いぐらいに調和して、真珠貝の輝きも夜光貝の虹色も星が瞬くように美しい。清廉な夜に月の妖精が舞っているようです。壊れているのは……ああ、この傷ですか? 螺鈿についた傷ですね。漆や螺鈿を扱える職人は限られていますが、ご心配は無用ですよ」
手箱に向けられていた視線がフェリシエンヌに向けられた。
深淵を望めない瞳を隠すことなく、存分に活かした店主は問いかける。
「直すだけでも構いませんが、どうされますか?」
何もかも見透かされているような心地だ。フェリシエンヌは手の甲を撫で、焦る自分をなだめた。相手は何も知らないはずだと言い聞かせ、すました顔を作る。
「壊れているし、いらなくなったから売りに来たのよ」
「……なかなか見ることのできない代物です。後悔は、しませんね?」
子供とは思えない気迫は決意をにぶらせる力を持つ。
指の先が白くなる程に揃えた手を握りしめていたフェリシエンヌはゆっくりと瞬きをした。瞼の裏に映る友の姿を無視をする。店主の言葉の裏に何かが隠されている気もしたが、もう引き返せない。
先日、シュゼットの家に再び招待され盗みを働いたのは、他でもないフェリシエンヌだ。友人の部屋で馬車を待つ間に、一時だけ一人になった。たまたま目についた手箱から目が離せない。羨望と劣等が手箱を望み、手土産を包んでいた布に隠して持ち出した。家に帰りついて、暗い優越感に満たされたのもまた事実。自分の浅ましさを神が裁いたのだろう。ただ置き換えようとした際に傷をつけてしまった。本当にちょっと当てただけ。盗ったその日の晩のことだ。情けなくて、悲しくて、隠そうと思った。家にあっては何かの拍子に見つかるかもしれない。砕こうとも、燃やそうとも思ったが、彼が向けていたはにかむ笑顔が躊躇わせた。せめて、目の前から消そうと売りに出たのが今日だ。
愚かなフェリシエンヌは、売られたことだけが知れて二人の仲が割ければいいとも考えている。そんな夢みたいなことが起こるわけがないとも理解していて、友を欺く自分も、男の不幸を願う自分も認めたくなかった。できるのであれば、その心も売り払いたい。
漆と同じ底の見えない瞳に見つめられ、フェリシエンヌは手箱に囚われている自分に気付いた。
きっと、この螺鈿細工の手箱のせいだ。これが目に映るから、睦まじい二人をどうしても思い出してしまう。
知らず知らずの内に身構えていた姿勢を正した。令嬢は慎重に息を吸い、声が震えないように努める。
「構わないわ。買い取ってくださる?」
フェリシエンヌの強い意思に店主は頭をたれた。子供がするには不似合いな、上位の貴族だけが見せるような完璧な笑顔だ。
その笑顔を遮るように影ができる。
「遅くなり、申し訳ございません」
石像よりも硬質で無機質な声と共にティーカップが差し出された。急に現れた存在にフェリシエンヌは悲鳴を上げそうになる。
「ご苦労様」
クリスの労いに灰髪の青年は頷く。黒の上下のスーツを身にまとう姿は近寄りづらさを助長した。
客には聞こえないような小言で指示を出した店主は茶を進めた後、自身も優雅に口にする。
フェリシエンヌは飲む気にならず、ショーケースを眺めた。宝石、貴金属が半分を占め、残りは懐中時計や白磁の瓶、きらびやかな手刀と雑多な内容ではあるが整然と並べられている。噂通り、何でもありそうだ。どれが盗品か国宝級なのかはわからないが、気を紛らわすにはちょうどいい。壁一面を多い尽くすような絵画に移り、目のいいフェリシエンヌは一番の高い位置にある絵を見つけた。
古びた絵には赤髪の子供二人が描かれている。店主かとも思ったが瞳が菫色だ。年格好から、兄妹と思われたが双子かと思うほどにひどく似ている。一人は無邪気に笑った顔、一人はどこか悲しげに笑った顔。相反する笑顔に胸が締め付けられる。
短くとも長い時間が過ぎた。
一心に眺めていたフェリシエンヌは扉の動きに気付かない。
「フェリ様。こちらでよろしいでしょうか」
その言葉で我を取り戻したフェリシエンヌは意識してゆっくりと視線を戻した。
手箱ののったトレイの横に、もう一つ同じものが並べられている。
壊れているとはいえ、螺鈿細工の手箱に相応しい金額だ。
フェリシエンヌは鷹揚に頷いて、侍女に金を仕舞わせた。
「よい一日を」
「ええ、よい一日を」
一日の大半は過ぎてなお、二人で礼儀をさらい、フェリシエンヌは店を後にした。
踵を返そうとしたクリスは引かれるように動きを止め、灰髪の青年は片付けを始める。
食器が当たる音も響かず、静けさに音がついてしまいそうだ。
黒曜石の瞳は面白そうに細められ、静かに問いかける。
「壊した世界に何が残るのだろうね」
その言葉は扉の外に出たフェリシエンヌには届かなかった。
═•⊰❉⊱•═
馬車から降り立ったシュゼットは手伝ってくれた侍女に軽く礼を言い、骨董店の扉を叩いた。内側から開けられ、いつものように灰髪 の青年に迎え入れられる。何度か訪れてはいるが、よくも悪くも人形のような使用人の名前は知らない。
通されたシュゼットを出迎えたのは、店主のクリスだ。
「こんにちは、シュゼット嬢」
「こんにちは、久しぶりね」
「一月ぐらいなら、かわいいものだよ」
気にも止めていなかった様子のクリスは肩をすくめた。
灰髪の青年の案内されるままにソファに腰を落ち着かせたシュゼットは簡単に受け流す。
「そう?」
「一回来たきり、一生来ない方もいらっしゃるしね」
軽やかな口調でほの暗い言葉が紡がれた。
その言葉には反応は示さなかった。同調するには不気味で、否定するのは滑稽だ。
訪れるたびに違和感を覚えるが、理由はわからないままだ。遊びに来ているわけでもない。目を伏せ、見つけてしまわないように気を付ける。
初めに足を踏み込んだのはシュゼットだった。密やかに噂が流れる骨董店、シェ レ シュエットに並ぶものに興味を持ち、買取から売付、交渉を繰り返す。ごく最近にはなるが、何度か繰り返すうちに砕けた口調で話すようにもなった。
歳が近いせいかしら、とシュゼットがぼやくと侍女は顔のあらゆる所に皺を寄せた。彼女に言わせれば、ひどくませているお子様、だそうだ。
上手くは言えないが、子供が店主をしているからといって侮れない。下手に踏み込むものではないと適度な距離を取って商いをしている。
近況や世情の話はそこそこに、シュゼットは本題を切り出した。
「探し物をしているの」
「僕にできることなら何なりと」
茶目っけたっぷりに言ったクリスは子供そのものだ。そう再確認するのも可笑しくて、シュゼットは思わず笑ってしまった。心が軽いまま続ける。
「螺鈿細工の手箱、入っていないかしら? 気に入りをなくしてしまって、困ってるのよ。いいものを探しているのだけど、これと言ったものがなくって」
それを聞いたクリスは珍しく驚いた顔を見せた。大人顔負けの神妙な顔や無邪気な顔ばかり見てきたシュゼットもつられて驚いてしまう。
凡庸な少女が黒曜石の瞳に捕らわれている。そう錯覚させるほど、クリスは興味深そうに目を細めた。
「何も聞かないと約束してくれるなら、ないこともないよ」
「珍しく歯切れが悪いのね」
シュゼットの指摘も意にせず、踊るように立ち上がった店主は背中越しに振り替える。
「見るよね?」
もちろん、と答えるのに数瞬の間が空いた。
店主は奥に引っ込み、シュゼットはソファの背もたれに寄りかかった。背もたれごしには侍女が控えている。普段であれば部屋の隅にいる侍女もこの店にいる時は例外だ。大丈夫だとシュゼットが言い聞かせても聞く耳を持たない。
飲み物を飲んで落ち着きたいと思っていた矢先に机の上にティーカップが現れる。何もない場所から出てきたと錯覚するが、ソーサーを持つ手がきちんと存在していた。確認しなくとも、手の主は灰髪の青年だとわかる。存在感の無さすぎる青年がいきなり現れたと感じる経験が何度もあったからだ。
シュゼットの背に悪寒が走るが、その紅茶が今まで飲んだ中で一番だと知っている。姿勢を正し、平気なふりをして手を伸ばす。ひとくち、ふたくちと腹の中に紅茶を納めていると、部屋の奥の戸が開いた。
「お待たせしました」
部屋に戻ってきたクリスは見覚えのある箱をトレイにのせていた。
漆の上に綺麗に敷き詰められた螺鈿は川で拾った丸い石のように輝く。蝶や唐草に形取られていたピースは際どい所まで切り込まれている。自然界でゆっくりと育まれた模様は見る角度を変えれば表情を変え、色まで変わる。自分だけの模様を誇るように面妖な印象を見る者に与えた。
「ご所望のものは、こちらでしょうか?」
抑揚を控えた声だ。クリスにしては珍しく、商品の価値を饒舌に語らない。
シュゼットは口元を結び、目の奥に感情を押し留める。そうして、ゆっくりと店主の黒い瞳を見つめ返した。
一見、慈愛に満ちた天使のような顔の中心には、地獄の底を切り取ったような双眸がある。
どこまでわかっているか読めない瞳にいただくわとシュゼットは答えた。箱に詰めようとする青年にはこのまま持って帰ると告げる。
客の前にトレイを移した青年は寸分の狂いもなく礼をとった。
蓋を開け、軽く検分したシュゼットは侍女に目配せをする。
侍女から財布を受け取り、青年は店の奥に位置する書斎机で勘定を済ませた。
値段を訊かないのはいつものことだ。双方とも金には困っていない、かつ折り合いのつく金額がわかる。
紅茶を口にしたクリスは視界の定まらない瞳でわずかばかりに背高のあるシュゼットを見上げた。
「なぜ壊れ物の世界を抱くの?」
ぽつりとこぼれた問いは壊れ物のガラスのように透明だ。
息を飲んだシュゼットは握りしめていた手をゆるめた。迷うふりを装って、どう受け流そうか考える。
「お金では買えないものがあるから、かしら。答えになってる?」
「なるほど」
そう答えてはくれたが、黒い瞳は納得していない様子だ。
気の抜けるような穏やか笑みをたたえシュゼットはにぶい刃を切り返す。
「何も訊かないって約束じゃなかったかしら?」
「僕が訊かないとは一言も言ってないよ」
紅茶を飲んだら、減らず口が戻ってきたようだ。
シュゼットも残りの紅茶で喉をうるおす。腹の探り合いでなければ、余計な波風は立てない。それから、余計な口出しをしない。それが父から聞きかじった商売の心得だ。
クリスには全く当てはまらないことだけど。客には何も訊くなと注文をつけて、自分は平然と訊いてくるような横暴が許されるのは、ここぐらいなものだろう。
ため息を腹の中に隠したシュゼットは飲み終えたカップを皿に戻した。侍女が財布を受け取り、その機会を逃さずに立ち上がる。
「新大陸の呪物や、希少な剥製が入荷したけど、見ていく?」
店主の軽やかな誘い文句にシュゼットは困ったように手を方に当てた。
「これから大事な予定があるの。ごめんなさいね、忙しなくて」
「予定があることはいいことだよ。いつも暇をしている僕達にも分けてほしいぐらい」
「謙遜が下手ね」
笑みを含んだシュゼットの言葉に、そう?と同じだけの熱を乗せた言葉が返された。
手箱を抱きしめるように持ったシュゼットが踵を返せば、礼儀を忘れない店主は扉近くまで見送る。
「よい一日を」
「ええ、貴方にも」
綺麗な笑顔に返したシュゼットは青年が開ける扉を抜けた。通りの喧騒がやけに眩しく感じる。肩の力を抜いて、待たせていた馬車に乗り込んだ。
走り出して早々に侍女に持たせていたブローチをもらい、裏返した手箱に狙いを定めた。底にまで及んだ装飾には一つだけ小さな穴が紛れている。ブローチのピンをそこに差し込めば、手箱に感覚が伝わった。正面に戻した手箱の蓋を開ける。底板の影から二つの封筒を見つけたシュゼットは知らず知らずの内に溜めていた息を吐き出した。
「よかったですね、見られなくて」
侍女の安堵した声にシュゼットは情けなく笑った。
「わからないわよ。だって、あの店主だもの」
投げやりな言葉であっても、安堵の色が濃い。
念のため封筒の中身まで目を通したシュゼットは封筒を元にあった場所に置いた。挟まないような最新の注意を払いながら底板を戻す。贈り物をした婚約者も知らない仕掛けだ。
厚い底板を引いているだけと勘違いさせるぐらいの隙間を見つけたのは、寝る前に手箱を眺めている時だった。異国の工芸品はいくつも見てきたけれど、今、手の内にある手箱はそのどれよりも輝いて見える。その理由に頬が熱くなるのを自然に冷ましていると、ランプの光に反射する妙な穴を見つけた。瞬きすれば、勘違いかと思えるような装飾に紛れた穴だ。ブローチの針の先で突けば、二重底の事実を知った。宝物に宝物を隠す。その想像に衝動が押さえきれずに封筒を納めたのがおこがましかったのだ。
「読まれていたら、生き恥ね」
そう呟いたシュゼットは指の腹で手箱を撫でた。
「読まれたら、よかったのに」
馬車が大きく揺れた音と声が重なる。
侍女は表情で問うたが、返されたのは冬晴れに似た穏やかだがひやりとする笑顔だった。
═•⊰❉⊱•═
「金で買えないもの、ね」
侮れない商売相手を見送ったクリスは値踏みするように扉を睨めつけた。
灰髪の青年、リュカはいつになく気分を害している主人の背に問う。
「クリス様は何だと思います?」
「時と場合による、という逃げの答えもあるけど……一般的に言えば愛かな?」
「クリス様自身に訊いたのですが」
リュカの言葉にくすくすとさえずりのような笑いの混じった声が返される。
「わかっていて訊いてない?」
「だいたいの想像はつきますが、ちゃんと訊いたことはないので、その答えは無効です」
「そんなに聞きたい?」
「もったいぶることですか」
いいや、とクリスは首を振る。
従者は振り返らない主人の背中を待ち続けた。
「時間に決まってるじゃないか」
答えがこぼれ、振り返った自嘲に満ちた笑顔が続ける。
「どう? 答えはあってる?」
「ええ、寸分の狂いもなく」
リュカは胸に手をあて、恭しく礼を取る。
従者の行動に主人の心は満足しなかった様子で、肩をすくめ、自分の書斎机に引きこもった。
間を空かずに食器を片付ける音が耳をくすぐる。
「あの人のお金で買えないもの、とは何でしょうね」
降って沸いたような疑問はおざなりに答えられる。
「友愛、と言えたら美しいだろうね」
「クリス様は何だと思います?」
「また同じ質問?」
クリスは手元にあった懐中時計を磨きながら、その気なしに応えた。
平時の口達者なクリスには競り勝てないリュカはこれ見よがしに気持ちのいい笑顔を向ける。
「日頃の鬱憤を増やさないよう勤めようかと思いまして」
「そこは、短慮な自分はわからないので教えてください、じゃないの」
機嫌が悪くても、切り返しの鋭さは変わらない。
返り討ちに受けたリュカは控えめではあるが、先程よりも荒い所作で片付けられる。不機嫌な従者に気まぐれな慈悲がもたらされた。
「ねぇ、リュカ。今回は特別だよ」
ゆるやかに磨く手は止めず、朗読するように言葉が落とされていく。
「どうして、フェリ嬢は手箱を手に入れることができたと思う?」
「どうして、わざわざシェ レ シュエットに売りに来たと思う?」
これでも、毛嫌いされてる自覚はあるんだよね、と付け加えられる。
リュカは固まり、徐々に新緑の瞳を見開いていく。気付かぬまま伏せていた顔を上げ、静かに時盤を眺める主人を見た。
明確な答えを聞いたわけではないが、あまりにも不自然なことに気が付く。そして、それができる人はあの令嬢しか思い浮かべられなかった。
「偶然という真実にするには、残酷でしょ」
確かではないけど、とクリスは続ける。
「彼女の買えないものは名誉だと思うよ」
いや、罪悪感かな、と無情な音が後を追った。
何も言えず眉根を寄せる従者に主人は意地の悪い顔を向ける。
「この世界は差別というのが根強いからね」