ぬい狂いの女
五歳の誕生日。公爵令嬢に生まれ出でた娘は雷に撃たれたように立ち止まった。
娘の好んだ花々を誕生日のパーティーに間に合うよう、公爵家の庭師が丹精込めて作り上げた庭で、娘――フレアレディ・ブランは立ち尽くしている。
「わ、わたくしは……」
現王の弟にあたるブラン公爵と公爵が溺愛する妻との間に生まれた初めての子。公爵譲りの艶やかな黒髪に、魔力の豊かさが滲み出た紅玉の瞳。色味の強さに反して公爵夫人譲りの顔立ちは人好きのする柔らかさを帯びている。
小さな手を震わせ、それでもぎゅっと握っているのは一匹のぬいぐるみ。
ふわふわの毛並みは耳の部分がぴょこんと長く伸びて、震える手の振動にあわせて揺れている。瞳は宝石を嫌がった娘の望みを汲んで、公爵夫人が不思議に煌めく糸を用いて刺繍した。中に詰め込んだ綿は国内で生産されている最高級の物。
公爵令嬢に与えるに相応しい品質のぬいぐるみは、いっそ憐れになるほど形を崩して本日のデビューを迎えていた。子供の容赦のない力でぎゅうぎゅうと抱き締められたぬいぐるみからは、ぬぐっと鳴き声すら響きそうで。整えられていた毛並みはぼさぼさで、娘の目から鼻から垂れ落ちる水分に汚れている。
「まあまあフレアちゃんったら。そんなに喜んでくれるなんて、母様嬉しいわ」
「さあ、フレア。泣くのは止めなさい。今日の主役はお前なんだぞ」
「……はい、おかあさま。おとうさま」
侍女に手渡された手触りの良いハンカチで顔の汚れを綺麗さっぱり拭き取った娘は、満面の笑みを浮かべる。齢五歳にしてフレアレディは立派な公爵令嬢であると、会場に居合わせた招待客の貴族は口々に本日の主役を褒め称えるのだった。
***
……なんてこともありました。
五歳の日を境にして思い出したのは、前世というもので。
公爵令嬢フレアレディ・ブランとして生きていたはずの私は、同時に不知火綾香としての記憶も取り戻していた。
取り戻したから、何か変わるかと言われればそうでもない。前世はいたって普通の、それこそ平凡に生きて、人生のピークとどん底を味わって生きただけの女だ。自らの趣味を思い出したことは僥倖であるが。
五歳のあの日、母が私に贈ったのはぬいぐるみ。
フレアレディの生まれた国――アルアルド王国には始まりの王様にちなんだ慣習が未だ深く国民全体に根付いている。
始まりの王様は、後にお后様になる女性に恋するあまり自らの分身としてぬいぐるみを贈ったらしい。お后様の幸せを見守っているという祈りが叶えられたのか、王様とお后様は仲睦まじく暮らしたと伝わっている。その話が伝承として残った結果、大切な人に自らの色や形を込めた物を贈ることは親愛や求婚や友情の証とされている。
「――本当は、ぬいぐるみじゃなくても良かったのよ。けれど貴女が物心ついた頃からかしら、しきりにぬいぐるみを求めてね。与えても、違うと泣くのよ。子供の我が儘にしても、あまりに静かに、本当に悲しそうに泣くものだから。私もあの人も悩んだものよ」
娘が求める最高の物を。子を愛してやまない両親が、商人と共に頭を悩まして生地一つ選ぶところから私を連れ添ったのは、そういった理由もあったと後の茶会の際に母から聞いた。
五歳の誕生日に与えられた世界に一匹のぬいぐるみは、たしかに私を安定させたのだろう。ただそれは、私の求めるぬいぐるみを与えられたからじゃない。
私の求めるぬいぐるみは、アルアルド王国を隅から隅まで探そうとも見つかることはないし、大陸中を、世界中を探したって見つかりっこないのだ。
悲しくなくなったから泣くのを止めたのではない。前世を思い出したから、諦めたのだ。
広々とした部屋いっぱいに並んでいるのは、数多のぬいぐるみ。高名な作家の一点物や、貴族の義務として訪れた孤児院で子供達からお礼に貰った物まで、数多のぬいぐるみが私のことをじっと見つめている。
綺麗な宝石も、煌びやかなドレスも、かつて夢見た王子様も、必要ない。
「わたしのぬいはどこ?」
ここだよと応える声は当然ない。ぬいぐるみは喋らないし、動かない。それでも、私と共にあったぬいぐるみは確かにいのちを秘めていた。私を支えてくれていた。
彼のことを思い出す度に、また悲しくなって心が悲鳴をあげる。
これが恋かと聞かれれば、そうかもしれない。
これが愛かと聞かれれば、多分そうだと思う。
「ぬいちゃん、私をひとりにしないで……」
前世を思い出したのは、もしかしたら不幸なことかもしれない。
決して逢えない存在を想い、枕を濡らす。姿形を似せたぬいを愛で、吸い、心を慰める日々。
思い出さなければ、普通の娘で暮らせたのかもしれない。けれど、私は思い出してしまった。あの愛しい存在を。かみさまみたいな、ふわふわのいのちを。
だとしたら、それはもう運命なのだ。
枕の傍らにおすわりしているぬいぐるみを手に取る。私のいない間に侍女の手によってきちんと手入れされた身体は、ひだまりの匂いをさせている。
ジェネリックかもしれないけど、この世界の私にとって一番大切なのは母から与えられたぬいだ。綿の詰まったふかふかのお腹に鼻を当てて、思い切り吸い込む。
「はあ、癒されるう」
「――僕との茶会よりも?酷い婚約者だな」
「あら、殿下。訂正なさって。まだ式を終えていない今は婚約者じゃなくってよ」
ノックの音と同時に開く扉。部屋の主たる私の了承を得ないまま無遠慮に入室してくる男が、未婚令嬢憧れの第一王子様だなんて教育係は紳士教育を間違ったのではなかろうか。置いてけぼりをくらったのか若干慌てた様子で王子よりも後に飛び込んできたアビーを軽く睨む。全くどいつもこいつも、私とぬいの時間を邪魔する。
柔らかな身を傷付けないように、そっと元の位置へと戻して。長い耳へと口付ける。
「とっとと茶会を終わらせてくるから、良い子で待っていてね。……さあ、行きましょう。そして終わらせましょう、ソレイユ殿下」
「うーん、僕の努力が足りないってことだね。フレアが泣いて強請るくらいに喜ぶまで、毎日にしようか?」
「やめてくださいまし!」
「やだなあ、そんなに照れなくてもいいのに」
それは拷問に等しいのでは。それでなくとも、日々の時間を王城で行われる王子妃教育へと取られているのだ。これ以上、ぬいとの時間を取られてたまるか。ため息を溢して、手を差し出す。エスコートを頼むつもりで差し出した剥き出しの手のひらに、さらりとした髪が触れる。触れたのは殿下の唇。私を見つめる瞳には、挑戦的な色が浮かんでいた。
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