新緑の向こう側
道着を纏い一人、朝日の中に佇んで深く息を吸い込み冷えた空気を肺に送り込むと、頭が冴えて背筋がしゃんとする。
朝起きるのが面倒くさい気持ちや、叱られた翌日の足が止まりそうになる重苦しさも、この儀式めいたルーティンがすべて消し去ってフラットな状態にしてくれる。剣に向き合う、ただそれだけの僕にしてくれる。
この時間がなければ、九歳の夏から今まで、厳しい剣道の稽古を続けることはできなかっただろう。周囲の嫉妬やからかい、悪意のある誘惑に打ち勝てたのも、こうやって自分の中から不純物を追い出すことができていたからだ。
高校に入学してからはさらに誘惑が増している。勉強をおろそかにしたり、放課後に友達と遊び歩いたりは推奨はされないがまだいい。だけど、こ、恋人を作ってどこでもかしこでもいちゃつくのはどうかと思う。今は夏の大会に向けて集中しなくちゃいけない時だ。
僕たち一年生にとっては初めての大舞台であり、三年生にとっては最後の機会になるかもしれないインターハイ。それなのに脇道に逸れて愛だの恋だのと……! まだ恋人がいない連中すら浮ついてソワソワしている。
「僕だけでも、しっかりしないと」
今日もまた体育館まで、テニスコートの脇から植え込みを跨ぎ越して道なき道を行く。都市部にある学校内の、申し訳程度の緑化活動の結果として存在している木立ちに差し掛かると、いつもとは違いそこには誰かがいた。
「センパイ……私、やっぱりセンパイのことが好きです! 諦められません……!」
ハッとするほど悲痛な響きだった。
凛とした、よく通る女の子の声が意味するところを頭が理解したときにはもう、遅かった。
「ヒナノ……ごめんな。そういうことなら、もう、会えない。会わないから」
「センパイ!」
視界を塞ぐ新緑のカーテンの向こう側から気配だけが僕の耳に届く。センパイと呼ばれた男の方は、感情を押し殺したようにそう言うと、早々に立ち去ろうとしているらしかった。引き留めようとする彼女の声が僕の心を激しく揺さぶる。
見えもしないのに目を凝らして、僕は無意識にあちら側の様子を探ろうとしていた。彼女は、ヒナノはどうしただろうか。あの男を追いかけたのか、それとも……。
気づけば僕は若い木の枝に手をかけていた。ガサリ、と葉っぱが音を立てる。瞬間、強く風が吹き付けて視界がパッと開けた。
「え……?」
色素の薄いショートボブが色白の小さな顔の周りにふわっと広がり、驚きに見開かれたパッチリとした目からは、大粒の涙がこぼれて朝日に煌めいている。
あまりにも鮮やかな若草色と黄色の中に、彼女は立っていた。
僕は息をすることすら忘れ、ただただ彼女の姿を目に焼き付けることしかできないでいた。泣いている女の子を見て、こんなにも綺麗だと思ったのは初めてだった。
「誰……?」
「あっ、あの」
「カット!」
男の大きな声に、僕はハッと夢から醒めたような心地で辺りを見回した。
「ごめん、君、今映画の撮影中なんだ!」
「えっ、映画……?」
今まで視界に入っていなかった、撮影機材を手に持った制服姿の男女が木々の間から現れる。彼らはてんでバラバラに、しかし慣れた動きで再び撮影するための準備に入った。
ヒナノも涙をハンカチに吸わせつつ、チラチラと僕の方を気にしている。彼女と目が合ったとき、大きく心臓が跳ねた。何か言わなくちゃいけないという気がして慌てて口を開く。
「すみません、僕、気づかなくて……」
「ううん、いいの。気にしないで。この時間なら誰もいないって言って、撮り始めちゃったのはセンパイたちだもん」
彼女はパッと笑顔を咲かせてそう言った。部活動だろうか。だとすると何部なんだろうか。僕が思考を巡らせている間に、彼女の口から思いも寄らない言葉が飛び出る。
「私、君のこと知ってる。瀬川くんでしょ」
「えっ、なっ、なんで……!」
「二年前、私、放送部だったの。剣道部について大会に行って、そこで君を見たよ。すごかった! 個人戦で一位だったよね。同世代で一番強いって言われてたもんね」
「そんなことない、です。全国大会では、三位だったので……」
「それでもすごいよ。剣道、やめてなくてよかった」
嫌味のない真っ直ぐな視線に頬が熱くなった。そう、中学生活最後の一年間は、全国大会に進む前に引退して、受験のためにすべての時間を費やしていたから。
そのことを惜しまれもしたけれど、それは剣道関係者の間でのことであり、まさか彼女が僕のことを気にかけてくれていたなんて、露ほども思わなかったのに。
「ありがとう、ございます……」
何と言っていいかわからずに絞り出した言葉は、弾けるような笑い声に飲み込まれた。視界がチカチカするような、そんな気分に襲われる。
「私たち、同じ一年生だよ。私、青葉 静留、よろしくね!」
「さっき、ヒナノって……」
「それは映画のヒロインの名前だよ。私、映研なの」
部活動のメンバーに呼ばれ、彼女は振り向いて返事をした。そして僕にまた向き直って、片手を上げて微笑んだ。
「朝練、がんばって。またね、瀬川くん!」
「ああ……、うん」
何が「ああ」だ、もっとマシな答えもあっただろうに! 彼女はあっという間にまた新緑の向こう側へ消えてしまった。
僕と彼女の境界線。
突然の風にもつれる窓際のカーテンのように、一瞬だけ触れ合って離れていった軽やかな彼女。僕の胸に残されたのは胸の高鳴りと甘酸っぱい余韻だけ。
愛だの恋だのには関わりがないと思っていた。これからも、関わるつもりなんてなかった。それなのに……。
「僕は、どうかしている……!」
僕は大きく頭を左右に振って彼女の笑顔を頭から追い出すと、足早に木立ちを後にした。
僕にはやると決めた目標があるんだ。恋なんて……絶対にしない! そう固く決意した。
END