数学のコツ
午前の初授業を終え、俺は纏めたノートを見ながら昼食をとっていた。
今日は豆乳シチューだ。
まろやかでとても美味しい。
冬に食べるシチューは別格だと思う。
またバーバラさん達は、また腕を上げたんじゃなかろうか。
午後の授業が始まるまで、パントリーの掃除をしておこうと、使用人用の食堂を出ると、丁度ジュダスさんがこちらに歩いてくる所だった。
「ジュダスさん、こんにちは」
俺が声を掛けると、ジュダスさんが感情を読み取らせない笑顔を見せる。
俺もいずれは、この位感情を悟らせない様にしないと、顔に出やすいお嬢様の補佐は務まらないな。
「リオン、こんにちは。ライナス様に頼まれていた、工房をいくつか見繕ってきました。これがその資料です」
「昨日の今日で、もうですか?」
流石旦那様が優秀と言うだけあり、ジュダスさんから貰った資料は、数も多く、纏め方も見やすい。
「ライナス様の従者なら、これ位は出来て当然です。リオン、君もライナス様の期待を裏切らない様に、その資料を活かしてご覧なさい」
ジュダスさんの瞳が挑発的に輝く。
随分と俺への当たりがキツいのは、気のせいではないと思う。
こんな子供が旦那様を煩わせているのが気に入らないのか、はたまた俺の存在そのものが気に入らないか。
……両方な気がするな。
「ありがとうございます。早速ジュダスさんにお願いがあるのですが、お時間もらえますか?」
「……何でしょう?」
「はい。俺は余り外に出ないので、この街の物の価値、相場が分からないんです。後は、この国の通貨も教えて頂きたいのです」
お使いで渡されるお金位なら分かるが、それ以上になると触った事もない。
お給金も、今の俺は見習いで、尚且つ住み込みの制服と食事付き。
衣食住にかかるお金はないので、お小遣い程度の給金は、使う宛てもなく貯めている。
「なるほど……これから商会を開くのに、それでは確かに問題ですね。分かりました。リオンの午後の予定は?」
「私は十三時から十五時までお嬢様と勉強です。その後は融通がききます」
少し早めに起きて、前倒しで掃除をしてあったので、後は急いでしなくてはいけない仕事はない。
「いいでしょう。十六時にリオンの部屋へ伺います」
「ありがとうございます。助かります」
「では」
ジュダスさんは話しは終わったとばかりに、振り返らず早足去っていった。
流石、早足なのに上品だ。
でも、これで懸念材料がひとつ解消されそうだ。
お金や物の相場を知らない事には、シャンプーリンスもいくらで売ったらいいのか分からない。
俺は資料を読みながら午後の授業を待つ。
十三時になると、お嬢様とメイベル先生が一緒に入ってきた。
俺は席を立ち上がり、左手を胸に当て挨拶する。
「それでは、午後の授業を始めましょう。午後は数学を学びます」
「私……数学が一番苦手なの……」
お嬢様が苦虫でも噛み潰した様な顔をしている。
すかさず口角を持ち上げる。
「お嬢様。知識は有れば有るだけ困りません。知識は力です。時には武器よりも力を振るうこともあります。攻撃するのではなく、自衛、守る為に学んで下さい。あの時勉強しておけば…。なんて事になって、後悔するのはお嬢様ですから」
「まるで、勉強しないが為に、苦労した事があるみたいな言い方ね」
何と言う事だ。
完全なる特大ブーメランである。
こんなことなら、自分こそもっと勉強しておくんだった。
今になって大後悔だ。
しかし、異世界転生に向けて勉強している人間なんて、いたとしても完全に危ない人ではなかろうか。
でも、分かっていれば水酸化ナトリウムや炭酸水素ナトリウムとかも手に入ったかもしれない。
ほんとに、異世界転生した物語の主人公は凄い。
俺は重曹の作り方も分からなくて、炭酸水も作れないでいるのだから。
話はかなり飛んだ上に、自分の首を絞めたが、この世界ではしっかり勉強しようと心に誓う。
項垂れた俺を、不思議そうに見ていたお嬢様を見て、俺は何でもありませんと、小さく呟いた。
「フフ……リオンの言う通りですよ。カーミラ様。さぁお嬢様はこの間の続きを。リオンは始めてなので、どこまで出来るか、私と確認しながら進めましょう」
お嬢様の前には、簡単な3桁の数字の、足し算引き算の問題が書かれた紙が置かれる。
紙の隣には、そろばんに似た道具が置かれている。
俺の知るそろばんは、机に置いて上から数字を弾く物だが、お嬢様が使っているのは、縦置きで横に10個ずつの玉が十列ある。
アバカスという物らしい。
お嬢様はうんうん唸りながら計算を始めた。
俺の前にも、2桁の数学の問題とアバカスが置かれる。
それを見てお嬢様は、得意そうに鼻を鳴らす。
「リオン!分からなかったら私が教えてあげるから、遠慮なく聞きなさい!」
「はい。お嬢様」
俺はペンを取り、計算を始めた。
迷いなく数字を書き込む姿を見て、お嬢様が隣であんぐりと口を開けている。
「お嬢様、はしたないですよ。口を閉じて」
「らって!ひょんな!アバカフはふかわないの?」
お嬢様の口角をグニグニ引っ張っていると、一つ気付いた。
さしすせそが言いにくいらしい。
「驚きました。早いですね。それにどれも正解です」
メイベル先生が、採点した問題を眺めて目を見張る。
慣れないアバカスを使うより、紙に計算していった方が早い。
次にお嬢様のやっている3桁の問題を解き、それも間違いがなく早さも変わらないのが分かると、メイベル先生は掛け算と割り算の問題の紙を出した。
同じく問題無く終わらせ、お嬢様の間違いを指摘する。
「お嬢様、分からない所があったら、遠慮なくお聞き下さいね」
「こんなはずじゃあ!」
お嬢様が先程と立場が逆になり、フグの様に頬を膨らませている。
すぐに怒られると思ったのか、ニヤリと微笑んだ。
素直な方だ。
「リオンは、数学に関しては全く問題ない様です……計算スピードも私より早いくらいですし……」
「リオンったら、どこで計算を覚えたの?」
二人の疑惑の瞳を向けられて、非常に困る。
「お使いに行く事も有りますし、自己流で学んだんです」
「自己流でここまで出来るなんて……何かノートの時の様に、リオンなりのコツがあるんでしょうか?」
メイベル先生が、気になる様で俺に探りを入れる。
探りを入れられているのか、単純な好奇心なのかは区別がつかなかった。
「コツ……と言っていい程の物かは分かりませんが、少しは有るかと?」
「リオン!教えて!」
「私からもお願いします」
メイベル先生はまだしも、お嬢様の必死さはかなり切羽詰まっている。
相当数学が苦手らしい。
でも、女性の脳は文系よりだと聞いた事があるし、お嬢様がバリバリの理系だと言われた方が、違和感は半端ない。
「では凄く分かりやすく、例をあげてみますね。自分の紙にも書いてみてください」
俺は、紙に65+19と書く。
お嬢様とメイベル先生も紙を覗き込み、自分の紙に同じ問題を書く。
「メイベル先生も同じ様に計算しているかもしれませんが、一応こんなやり方もあるよ、という説明で、これが必ずしも自分に合ったやり方という訳ではないのは、分かってくださいね」
俺は、色々な計算の仕方が合って、そのどれが合うかはお嬢様のやり易い物を選んで欲しい事を、前もって伝えておく。
「この場合の足し算だと、下の位、一桁の数字を足すと、5+9で14。10繰り上がるので、お嬢様は頭がこんがらがってしまうのではないですか?」
1桁の部分が63+23など、3+3なら余り難しくはないはずだ。
それと同じ様に、2桁の部分も計算出来るわけだから。
お嬢様が、凄い勢いで同意する。
「そうなのよ!繰り上がりが何個もあるものだから、分かりにくくて、よく間違えてしまうの」
「でしたら、まずは、後ろの19を10と9に分けて、先に10を足します。この場合だと……」
「65+10ね!」
お嬢様が、嬉々として答えた。
メイベル先生も、この先が納得できたのか深く頷く。
「はい。お嬢様65+10は?」
「それなら簡単よ!75でしょ!」
「正解です。そこで75に9を足せば、1桁の足し算に変える事が出来て、お嬢様も分かりやすいかと。お嬢様答えは出ましたか?」
「ええ!84ね!」
「正解です。大変良く出来ました」
もう一つ、やり方として、足す後ろの19を20にしてしまって、足してから1引く方法も話したが、お嬢様には、最初のやり方の方が分かりやすかったらしい。
後は、俺の様に計算式を縦に書いて、繰り上がりを繰り上がる桁の右上に小さく1を足す物だ。
こうすれば、桁ごとの数字の足し引きだけになる。
お嬢様は悩んだが、俺と同じやり方がいいと、計算を紙に書きながら悪戦苦闘し始めた。
この方法の方が、慣れてしまえばやり易いと思うが、お嬢様がやり易いのが一番だと念を押しておく。
「私は、今までただ計算させて、それが間違っているか正解しているかだけを見てきました。……でも、こうして同じ正解に辿り着くまでの、工夫をしようと思った事はありませんでした。全く、リオンには驚かされてばかりですね」
メイベル先生は、回答用紙を眺めて優しく笑った。
お嬢様は、時間はかかったが、問題を全て正解で解き切った。
始めての満点だったらしく、嬉しそうに笑う。
「私、今日の数学がとても楽しかったわ!リオンのおかげね!」
「それは俺も嬉しいです。楽しく勉強出来たなら、何よりです」
「では、丁度一時間なので休憩にして、その後マナーの練習にしましょう」
お嬢様は、満点の回答用紙を貰ってバルコニーに出た。
奥様に見せたいらしい。
俺の方は、ちょっとした小学校の先生になった気分だ。
休憩時間が終わり、今度はマナーの授業だ。
今日の授業は、話し方の勉強だった。
目上の人、王族の人、他の貴族。
話す相手によって、言葉も変わる。
お嬢様は、公爵家の令嬢なので、自分より立場が上となると、同じ家格の年上の人か、王族位だろうから、そこまで口調を気にして生きてこなかった様だ。
しかし、お嬢様ももうすぐ十歳になる。
王子の婚約者候補にも選ばれているらしいし、これからは、いつでも淑女らしい言葉遣いで統一していった方がいいだろう。
という、俺の言葉をメイベル先生が代弁してくれて、その日のマナー講習は終わった。