怠惰な男 悪魔
06/30 音に関する描写を追加
脳内に鳴り響く甲高い騒音。
けたたましい嬌声。
破裂するような雑音。
鼓膜が破れたかのように一瞬だけ音が静まり返り、耳許で誰かが叫んでいるかのようにその声は脳内に溢れだしたのだ。
それは、一弥を蝕む悪意。
それは、今まで一弥が為せなかったことを為せと囁く魔の慟哭。
それは、一弥の心への侵略行為。
一弥が今まで脳内で行ってきたことを現実に成せと告げる倫理を崩壊させる爆薬がごとき音。
「あのカップルの男の後頭部をベンチ横に落ちているバットで強打しろ。そのまま足をかけるように女の足元に足を差し出せばヒールを履いていてバランスが取りづらいであろう女なら転ぶ。そして、倒れた男の後頭部を再度バットで殴打して女の頭もバットで殴れ。」
「子供を盾に老人を脅せ。背後を距離を取りながらついて回れば家は分かる。あとは子供が1人になった時、捕まえてスマホから連絡先を抜き取れば良い。あの老人はガキのために何を差し出せる?楽しみだよなぁ。」
「仕事帰りで疲れているだろう、やつには社会的な死をくれてやれ。あること無いこと脚色してばら蒔けば良い。酒屋で隣に座り、雑談しつつ愚痴を聴いて、深酒させるか気持ち良く話をさせれば機密の1つや2つ漏れるだろうさ。自分の失態にやつはどんな顔をするのか、想像するだけで楽しめる。」
音は具体的に犯罪計画を告げる。
後は必要な情報を仕入れるか、行動に移すだけで、奴等に対して終わりをくれてやれる。
一弥が音に飲み込まれそうになったとき、足元にボールが転がってくるのが見えた。
彼らの声や、遊ぶ道具の音、足音等が聴こえなくなっていることに気付いた。
ボールを転がってきた方向に蹴り飛ばし、周囲を見渡す。
こんなに喧しく聴こえ続けているのに、誰も気にした様子は見えない。
周囲の人間はこの心を壊す騒音に気付けない。
誰も一弥の脳内に響くこの音を認識しない。
音の一つ一つが祭りで大太鼓が叩かれるような重圧を与えてきているのに、誰も反応を示していないのだ。
男女の叫ぶような悲鳴と、一定の感覚で大太鼓のような何かを殴り付ける音。悲鳴に負けないくらい高い音で、かつ鮮明に聴こえる囁き声。
一弥はこの鳴り止まない憎悪を悪魔と呼んだ。
悪魔は何をするにも語りかけてくる。
「人を殺せ。」「人を犯せ。」「物を奪え。」
暫く呆然としていた一弥は、何度も何度も繰り返すこれらの誘惑を受け入れた。
音を消すには従わないといけないと思ったから。悪魔の声が何よりも正しいことのように思えたから。
一弥は自分から行動することのできない人間だが、他人から言われたことならやれる。
自分で自分自身を変える想像はできないが、誰かに自分を曲げられることには慣れている。
受け入れることに決めた瞬間、音は壮大なクラシックのようにレパートリーが増えていく。
金属同士が打ち付ける音。
手のひらを叩く歓声。
ギターの弦を弾くような振動。
それら全ての音は祝福していると一弥は確信する。
何かを為すには理由が必要で、一弥にはその理由が外部からのものでなければなにも為せなかったのだ。
だが、今は違う。
一弥を唆すなにかがいる。
「俺以外の奴に悪が望まれている。」
それだけが一弥の原動力となったのだ。
一弥はその身に悪魔を宿し、悪行の限りを尽くすことになる。