辺獄の入り口 質疑老答
「さて、質問はあるか?」
老人は言いたいことを言い終えたのか落ち着いた様子で一弥に尋ねる。
「では、辺獄では歩き続ければ傷が癒えると落ちる直前に聞いたのですが、この指が治るとしてどれくらいかかるのでしょうか」
老人は一弥の質問に少し首を曲げ、どう答えようかと悩んだ風であったが
「はて、ずっと曇天で時間の流れがさっぱりでな。それに肉体の疲労で時間を計ろうにも常に腹は減ったまま、肩凝りも取れんし身体は重い。分からんと言わざるをえんな。」
老人の話からこの辺獄において薄ら暗いこの天気は変わりようがなく、
老人の要領をえない答えに少し気を落としつつ、次の質問を投げ掛ける。
「先ほど仰っていた図書館…《ビーチェ》でしたか、そこには何があるのでしょう?偏屈な方がいらっしゃるのですよね?」
「ああ、あそこは人の業の集積所みたいなもんだ。見れば分かる。お前さんは図書館に行くときは獣になるな。今儂と話すときのように理性を保て。こことは違う意味で食われるぞ。あいつらは血の通わぬ悪辣な肉食獣よ。人を人とも思えぬ心壊れた穢らわしい獣。もう一度言っておくが、辛くなったらここに戻ってきなさい。図書館で捕まっても逃げられさえすれば儂が救ってやる。」
図書館という場所はどのような恐ろしい場所なのだろうか?と、一弥は具体的な図書館に関する説明をしない老人を見て、頭を回す。
老人は図書館について話すとき、恐怖にも嫌悪にも見える歪んだ表情をしながら話す。腫れ物でも触るように、老人は図書館について語りたくないのだろうと一弥は図書館に関する情報について見切りをつけ、別の話題を出すことにした。
「私がここに落ちてきたとき、貴方は私の着ているものを見て、立派な《罪衣》と仰っていました。これの見た目等に特徴などがあるのでしょうか?」
「ああ、お前さんの罪衣は一際赤い。赤い罪衣は殺しの証だ。そんな罪衣が全身を覆う。お前さんは何人もの人を殺したのだろうて。」
一弥は自分の身体を見やる。首もとが首にギリギリくらいまですぼまった刺し傷のようなダメージ加工がされた赤いワンピースのような服。耳に手をやると耳元を覆うような、ヘッドホンのような何かが頭についている。
そして、老人を見る。黒い一枚のボロ布で全身を巻き付けている。風が吹けば飛びそうなほどに薄い布が老人を飲み込んでいるかのように見えた。
「貴方の罪衣は黒いようですが。」
「儂の罪衣の意味が知りたければ図書館に行けば良いだろうよ。あの偏屈は知識欲に関しては寛容だ。望めば本を見せてくれるだろうさ。それに、儂の罪衣に関しては儂からは語ることは何もない。」
老人は図書館の方に顔を向け、遠くを見つめる。この辺りに点在している罪衣の持ち主を食べたと言うこの老人は図書館で何を見たのだろう。何をされたのだろう。一弥はこのときになってようやくこの老人に興味を抱き始めた。
辺獄に落とされる場所の近くでいつ来るかも分からないだろう一弥のような落とされる人を待っていたように見える老人。
彼は一体何者なのだろうか?
答えのでない問いに頭を巡らせ、ふと思い出す。
「『罪衣が消え落ちたとき』…」
老人と出会う直前に何者かに告げられた言葉。
『己の罪を見直し、汝の罪衣が消え落ちたとき、再び合いまみえんことを願おう。』
彼の言葉を鵜呑みにするなら、罪衣は罪を見直すことで消え落ちるものらしい。
ということはつまり、罪衣とはそれを着るものの罪なのだろう。
一弥の『赤』、老人の『黒』。そこには何かの意味があり、それを理解することを求められ、辺獄に落とされた。
「天上の者の言葉か。懐かしいものだ。」
「彼らは一体何者なのでしょうか?それに、罪衣はどうやったら消え落ちるのでしょう?」
「儂は知らん。天上には興味もない。儂に分かることは少なくとも罪衣は不味くて噛みきれん。食べて消せるもんでは無いだろうってことだけだ。知りたいのであれば図書館に向かえ。あの偏屈は罪衣が全て無くなったやつを知っているとかぬかしていた覚えがある。知りたいことの大半は図書館で分かるだろうよ。」
「図書館…。」
一弥が彼方にあるだろう図書館について考え始めたとき、老人は軽く溜め息を吐き。
「さて、儂の知ることは大体話した。後はどこかに向かうにしろ儂に食われるにしろ好きにしてくれ。辺獄だと時間は良く分からんがどこかで区切らねばその場に囚われる。儂もやらねばならんことがあるでな。」
と、言い残して砂の上を歩いていった。