辺獄の入り口 食人の墓標
「ん、ああ。お前さんか。」
ボーッと何処かを眺める老人は一弥に目線を向ける。
何もかもを見透かしているかのようなその視線は一弥を一瞬怯ませ、
「情報を貰いたい。好きな指を持っていってくれ。」
半ば自棄になりながら老人に左手のひらを下に向けて差し出し、言いはなった。
その瞬間、肩を丸めた老人からは想像できない勢いで一弥の手を両手で力強く握り、そのまま引き込むように老人は両手を頭に引っ張り、器用にも人差し指だけを口内に入れ、指先に老人の口の生暖かさを感じるのも束の間、人差し指を食いちぎった。
「ガリッ」という指の関節、骨が砕ける音と共に一弥の手に鈍い痛みが走る。
「ぐぁあぁあ!」
じわじわと指先から滲み出る赤い血は、辺獄でも一弥は生きているのだと主張していた。
その生を主張する指の痛みに一弥は喜びにも似た悲鳴を上げた。
『また殺せる』
『また犯せる』
『また人を貶められる』
一弥にとってその痛みは祝福であった。変えがたい歓喜であった。
一弥の感じる痛みはそのまま他人に与えることができる悦ばしい苦しみで、捕まって音の消えていた一弥が待ち望んでいた讃美歌なのだ。
一弥は傷口を抑えるように左手と右手を組み、祈るように涙を流した。
辺獄に落とされる前、一弥はしっかりと聞いていた。
『辺獄ではなにがあっても死なぬ。』
すでに一弥の左手から感じられた痛みは抜け落ち、天を仰ぐ一弥の瞳から歓喜として流れ落ちている。
特定の神を信仰していない一弥は、ここぞとばかりにあらゆる神に感謝を捧げた。
ああ!神よ!仏陀よ!八百万よ!アッラーよ!不信神な過去の私を懺悔します!私にこのような悦びの場を与えて下さり感謝します!
「落ち着いたか?」
天にも昇るほどに気持ちが高揚していた一弥は辺獄の緩やかな風によって地の底へと引きずり戻されていた。
「ええ、取り乱してしまい申し訳ありません。」
落ち着きを取り戻した一弥は、飴玉を嘗めるかのように一弥の指の骨を舌先で弄ぶ老人との対話を再開した。
「構わんよ。儂もお前さんの指を味わってたとこだ。やはり落ちたては鮮度が違う。辺獄に長い儂らのような血はどろどろと濁り死ねないが故に惰性で流れ続ける泥の川のようなものよ。」
一弥の指を喰らう前のぼろ切れのようだった老人は、明らかにテンションの上がり、ぼろ毛布くらいになっていた。
どちらもぼろなのに代わりはないが、青黒かった肌の色は薄らと赤みをもち、落ちていたらギリギリでゴミではなく交番に届けるか迷う程度の小汚なさに成り上がっていた。
「…そうなのですか。」
老人の変化に僅かに驚きつつ、言葉の続きを促すべく返事をする。
「ああ、情報だったな。儂は辺獄に来て長い。歩き疲れてここに落ち着いたが、あの図書館の偏屈どもも知らないようなことだっていくつか知っておるでの。」
「図書館…ですか?」
「ああ、お前さんからして左側、辺獄の雲に隠れた太陽に向かって右に歩き続けた先に運が良ければ辿り着けるのが偏屈どもが《ビーチェ》と呼ぶおぞましい図書館だ。あれを美しいと言ったやつも知っているが、儂にはあれこそが辺獄の悪性であると思えてならんよ。儂が言えたもんではないかもしれんがね。」
自嘲気味に笑う老人は、一弥の目を真っ直ぐに見つめながら語り続ける。
「あの偏屈にお前さんが向かうかもしれんのならここのことも話しておいた方が良いかもな。」
少しだけ遠くを見やる老人の視線を追うと、柔らかな風に吹かれる布切れが宙を舞っていた。
「ここは墓場よ。儂の喰ろうた辺獄を諦めた者共の墓場。飛ぶ布切れから欠片の肉が再生したらまた儂がそれを喰らうのだ。少なくとも辺獄に安寧など無かった。儂の知る限りはな。だから、数十人で寄り添って、最後に儂が皆を食らった。できるだけ復活が遅くなるよう念入りに骨まで噛み砕いて食らいつくしたのだよ。」
老人は喋る度に語気を落とし、それでも尚、はっきりと一弥に伝えようとする。
「辺獄では決して死ぬことはない。死にたくとも、身体を喰われようとも、永劫と火に身を投げようとも、懺悔とやらができるまでここに永遠と囚われ続けるのだ。だが、どうしても、辺獄で生きるのを諦めた時、その時はここを目指しなさい。儂が骨ごと喰ろうて一時一瞬だけやもしれんが安らぎを与えてやる。儂の腹が膨らみ、お前さんは安らぎを得る。悪くない取り引きだと思わんか?」
老人はニヤリと口角のみを上げなが、舌先で転がしていた一弥の指の骨を噛み砕き、見せつけるように嚥下した。