虎の碁
天文十五年 (1546年)春
物心つくと東光寺という禅寺に放り込まれいた。この東光寺は甲府五山の一つとされ、藍田恵青という和尚がいるのだが、この人物は武田晴信の叔父に当たるのだそうだ。
齢が四つのときに色々と活動的になる。ロクに何も話せない時期を過ごすことは大変な苦痛だったのだが、この頃になると碁石を持って盤の前に座ってそこらにいる坊主を捕まえて打ち始めた。
この時代はちょうど自由布石制が広まっていた時期であることもあり、現代とほとんど同じようなルールで打っている。
それまでは事前置碁といって、盤面に石をいくつか先に置いておくのがルールだった。
事前置碁というルールは道教の陰陽思想と繋がりがあったようで、同時期の中国や朝鮮半島では占術的な要素がいくらかあった。だから、博奕の一種として広がった日本と違って、道教の退潮とともに廃れてしまったらしい。
近代に入った日本の囲碁界は自由布石を輸出することで、すっかり廃れていた中国や朝鮮半島の囲碁を再興することに成功する。
要するに、中国で生まれ日本で育ち韓国で爆発的に広がるというのが歴史の流れだ。
閑話休題。坊主どもとは最初は互先で打っており、外ウマで色々と博奕をしていたようだが、1日持たずにそれも廃れてしまった。
素人相手だから楽勝も楽勝である。目を瞑っても勝てるし、20面を相手にしたって勝てるだろう。
ほとんどの寺内の坊主は九子まで打ち込んでしまった。
その上「自分と手合いが九子ならアマ初段程度だろう」などと意味のわからぬことを口にして周囲を困らせるものだから、狐憑きだなんだと騒ぎ立てられることとなった。
未来の記憶があるというのは、狐に憑かれるのと似たようなものかもしれない。少なくとも、それほど間違いとは言えまい。
生活の上では困ることはない。
狐が憑いているとはいうものの、彼らはどちらかというと畏敬の念を持って接しているようなところがあるし、そもそもわしは客として扱われている。
日がなゴロゴロしながら玄玄碁経を眺めたり、臨書したり、詰碁を作ったりと好きにしている。
その割に姓は誰も知らない。いや、誰も答えない。
もしや姓そのものがないのだとしたら……と考えて「わしってもしかして帝の御落胤なのか?」などと不敬なことを藍田に言うてみた。
が、笑いながら否定された。どうやら正解を教えるつもりはないらしい。
◆◆◆
そんな中、春日源五郎虎綱という二十歳過ぎの客人がやって来た。
わしの世話をしている僧たちが噂するところによれば、若いが相当に切れる人物だと目されているらしい。
この春日虎綱という人物は、後に高坂弾正昌信の名で知られることとなる武田信玄公の側近中の側近だ。
そして政治的・軍事的才覚もさることながら碁打ちとしても知られており、彼と信玄のものだとは称する棋譜が出回っているほどだ。
この棋譜は江戸時代に入ってからの創作であるとする見方が一般的なようだが、戦国時代の甲州の武人たちに囲碁が深く愛されていたことが江戸時代に広く知られていたからこそ、そういう棋譜が創作されたのだろう。
信玄の寵愛を受けていたというから見目麗しい人物なのかと思ったが、筋骨隆々としたゴリラみたいなのがやってきた。
信玄のストライクゾーンは知らないが、なんというか衆道がどうとかいうタイプには見えなかったから、単なる俗説だったのだろう。
ただ、見た目に気を使っていないということもないようで、髪はきちんとしていたし、素襖を着た姿はそれなりにサマにはなっていた。
そして、虎綱の棋力は驚くほどに高い。令和の碁会所に送り込めば相当強いだろう。火のないところに煙は立たないものだ。
同時に、虎綱の驚きはわしよりも大きいようだ。
武田の家中では賭け碁で無敵だった自分が、4子を置いても到底勝てそうにない。しかも相手は五歳児である。
最初の対局では信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。
「三郎様はどのようにして、これほどの上達を成し得ましたかな?」
「春日殿は甲斐には敵がおらんのではありませぬか。わしの他の者といくら対局したところで上達は難しいと常に感じておられるからこそ、そのような問をしたのでは?」
「少々物足りんと思っておりました」
この虎綱、たしかに強いのだが筋が悪い典型的なアマチュアの碁である。特に誰が打ったか分からないような古碁というのはそういうものが多いが、自由布石の原始時代だから仕方がない面もある。
その上、虎綱の場合は百姓の生まれであることや碁を覚えたのが遅かったことなども影響しているのだろう、要するに碁会所の主みたいになってる無敵の爺さんみたいな力任せの碁だ。
「囲碁には筋というものがありましてな。わしは別に深く考えて打っていたわけではなく、筋の通りに打っておっただけですよ。」
「筋とは?」
「丁度ここに二子並んでおるでしょう。隣のここに打たせるのが筋でしてな……」
閉じた扇子で頬杖をつくようにしながら筋場理論を自分なりの解釈で教えていく。
筋場理論というのは、平成の名人の一人である依田紀基九段が発明した、囲碁の「筋」を極めて明快かつ簡略的に説明する理論で、ちょうど虎綱みたいなタイプにはぴったりのように思えた。
ただこの理論、『言うは易く行うは難し』を地で行くようなところがある。
それでも虎綱はふんふんと頷いて感心しながら矢継ぎ早に鋭い質問を加えてきた。頭がやたらと回るだけに理解が早いのだろう。百姓の孤児上がりで名将となるのもわかる。
帰りには、いくつかの詰碁を出題しておいた。情報が足りない。また来てくれればいいのだが、それなりに期待はできそうだった。
この虎綱とのファーストコンタクトにおいて一つ得たものがある。虎綱は「三郎様」と呼ぶことである。つまり、彼からみて、わしは完全に目上ということになる。
やはり和尚と同じく核心的な疑問には答えないのであるが、和尚からみると必ずしも目上でもないらしいから、色々な可能性を頭に浮かべて消し込んでいった。
実際には、この頃の棋士たちは現在からみても実力が高い者もいたようで、全員を九子に打ち込むというのは難しいように思います。『ほとんど』ということで御納得いただければ幸いです。
虎綱のように四子ともなると趣味でやっているレベルのアマの中ではかなり高い実力でしょう。
また、この頃の囲碁は文中にあるように賭け事としても行われていたようです。
置き碁と駒落ち将棋では置き碁の方が実力に対してハンデを適切に設定できるので賭博に向いており、この頃に将棋よりも囲碁の方が人気があったのはそのせいかもしれません。