王国放棄
どこからか誰かの絶叫が聞こえた。
やがてそれは自分の声だとヴィクトリアスは気づいた。
勇者の喉笛を噛みちぎったトカゲは、今度こそカーティスを仕留めようととびかかったが、既に戦闘態勢に入った彼は、トカゲの頭を剣の峰で叩き割った。
「勇者様! リョーカ様!」
ヴィクトリアスは崩れ落ちた勇者に駆け寄った。勇者の首はほとんどが食いちぎられ、頚椎のみが残っていた。
「彼の者に癒しを! ヒール!」
必死に回復魔法を唱えたが、何の効果も現れない。
勇者が死んだ。
その現実を前に、ヴィクトリアスは目の前が真っ暗になったような気がした。
カーティスはただ茫然と立ち尽くしていた。そしてはっと我に返ると、ヴィクトリアスの傍に跪いた。
「姫殿下。船にお乗りください」
「でもリョーカ様が…」
「既に死んでおります。姫殿下だけでも助かるべきです」
「そんな言い方…!」
ヴィクトリアスはカーティスをきっと睨みつけた。この若い騎士の冷たい言い方が終始どうも気に食わなかった。
だが彼女はカーティスの目を見て、それ以上何かを言うのが憚られた。彼の瞳にはこれ以上ない無念の色が漂っていた。
「いえ…そうですね……。あなたの言う通りです…。ただせめて弔いの祈りだけは…」
カーティスは何も言わなかった。
ヴィクトリアスは俯き、両手を組んだ。
勇者の一人がいきなり死んでしまい、王国は壊滅。絶望的な状況を前にヴィクトリアスは思わず涙ぐんだ。そのとき、「何だ…?」というカーティスの戸惑う声が聞こえた。
祈りをやめ目を開き、ヴィクトリアスも「え?」と戸惑いを露わにした。
目の前の涼火の遺体が燃え始めたのだ。傷口が真っ赤な炎を吐く様を、二人は数秒間呆然と眺めた。
我に返ったヴィクトリアスが咄嗟に思ったのは「火を消さなきゃ」だった。だがドレスの裾を破く前に、火は自然と小さくなり‐。
‐消えた。
「……っ?!」
二人は驚きのあまり絶句した。燃えていた首元にあったはずの傷はきれいさっぱりと消えていた。
そして涼火が静かに目を覚ました。
「一体何がどうなってるの?」
涼火の問いにカーティスは端的に答えた。
「知らん。私に聞くな」
実際何が起きたのか、カーティスには理解できなかった。
涼火は確かに死んでいた。つまり死んで蘇ったのだ。だが蘇生する魔法なんてものは、そんな荒唐無稽な魔法など存在しない。ではなぜ—。
「とりあえず話はあとだ。まずはこの船を出さなきゃならん」
そう、まずは脱出することが先決だ。
三人は、入り口でトカゲの侵入を食い止めている騎士の脇をすり抜けた。
船の中には、既に避難してきた国民であふれかえっていた。
カーティスは泣き叫ぶ群集に大声で呼びかけた。
「私は近衛警護隊隊長のディーンだ! この中に航空士はいるか?」
操舵室につながる扉の近くに立っていた茶髪の男が手を挙げた。
「助かる。階級は?」
「一等だ。長距離輸送船を飛ばしてた」
「最高だ」
扉を開錠すると、男は迷わず操舵席に座り、動力を起動させた。
「スタンバイはすぐに終わる。終わり次第飛ばすぜ?」
カーティスは首を振った。
「いやだめだ。まだ…」
「因みに今の乗船人数から言って、乗れるのはあと四、五人程度だな」
カーティスは窓から外を覗いた。
龍は既に島の中央部に陣取っている。王城はもはや見る影もなく崩されている。
そのがれきの山の中で、いまだ兵士が戦っているのが見えた。
「だけどあんたの部下はそろそろ限界が来てるんじゃねえのか?」
男の言う通りだった。船の門番をしていた二人の騎士にはもう余力などないだろう。あと数分で突破されてしまうのは目に見えていた。
「しかしまだ陛下が…!」
国王を見捨てるなどという選択肢は彼にはなかった。
だが、茶髪男は無情に言い放った。
「だめだ。もう待てない。これ以上はリスクが高すぎる」
「くっ……」
カーティスは拳を固く握りしめた。
そんな彼を尻目に、男は離陸の準備を始めた。
「くそっ…」
憤りを何かにぶつけることもできず、カーティスはただ立ち尽くした。だが聞きなれた蹄の音を聞き、がばっと顔を上げた。
「ま、待て待て。あと一分待ってくれ」
「何?」
「一人こっちに向かってきてる! あれは…!」
カーティスは目を凝らした。馬に乗り、襲い来るトカゲを一振りで退けるあの勇猛な姿は…。
「あぁ…ハルフォード総督かぁ…」
期待を裏切られたように力なく言ったカーティスを見て、男は(露骨に残念そうだな)と、少しハルフォードに同情した。
「ならば総督閣下が乗ったら離陸する。異論は認めない」
「ま、待ってくれ!」
「まだ何か?」
「総督が来られたのだ! いずれ陛下も来られるやも‐」
「そうだな」
カーティスの言葉を遮って、男がピシャリと言った。
「来るかもしれない。だが来ないかもしれない。いつまで待てというんだ? もし来なかったら? 待ちぼうけだ。それはあんたの自己満足だろう、ディーンの旦那?」
「しかし…」
「しかしじゃない。いいか、勘違いするなよ。今のこの船の船長は俺だ。俺の指示に従ってもらう。これ以上待つことはできない」
真っ向から正論をぶつけられて、カーティスは反論することもできず黙り込んだ。
カーティスの沈黙を肯定と捉えて、男はハルフォードと門番が乗船するのを確認すると、扉を閉めた。
「王国からの大脱出劇だぜ」
男の宣言とともに、帆船フレイミリア号はふわりと浮き上がった。