八手
続々と、中津城に人が集まってくる。近隣の領地の大名だけだが、かなりの人数だ。中津城はそれだけ広大なのである。
西の丸に滞在中である吉政は、時間があれば杏香と囲碁か将棋、『ちぇす』をしていた。杏香は兄の直次とも会ってきたようで、たまに直次が加わったりもする。とはいえ、泰治の側仕えである直次はあまり時間が取れないようだが。杏香の兄だけあって、やはり盤上遊戯に強かった。
『ちぇす』の駒を手に取って動かした吉政は、開けられた窓から入る冷気に顔をあげた。そして、あ、と声を上げる。
「杏香、雪だ」
吉政の声に杏香も顔をあげた。初雪ではない。これまでも何度か降ったが、積もらずにすぐ溶けてしまった。今回は積もりそうだ。
吉政は片膝を立て、その足に頬杖をつくと、窓から外を眺める杏香の横顔を見つめた。不思議だ。女性といて、こんなにも心穏やかでいられるなんて。
さすがに視線に気づいた杏香が吉政を見てにこりと微笑む。吉政も笑い返すと、駒を一つ進めた。
△
吉政と杏香が泰治の手引きによってその僧侶と面識を得たのは、大みそかの日だった。吉政とそう年が変わらないほどの見えるその僧侶は、翔善と名乗った。
「吉政殿、杏香殿、初めまして。翔善と申します。時盛殿とはお会いしたことがありますが、お二人は初めてですね」
にこっと笑った翔善は正直胡散臭い。吉政も杏香も表情にこそ出さなかったが、かなり胡乱な心持だった。それに気づいて、立ち会っている直次が声をあげて笑った。
「かなり疑ってますね。ま、怪しいですが、大丈夫ですよ。翔善殿は強い法力を持つ法師様です。怪異などを払う力をお持ちです。兄である私としても、一度杏香を見ていただきたい」
やや妹に対して過保護な面を見せている直次がそういうのであれば、たぶん翔善は安全な人なのだろう。怪しいけど。僧侶は医学を学んでいることが多く、また、翔善は法力も持つという。法師と呼ばれるからにはかなりの高僧だ。
失礼します、と翔善は杏香の手を取った。顎に指をかけられたときはピクリと頬が引きつったが、何とか耐えた。吉政は人に怒るよりも先に、自分が杏香に手を出せるようになるべきだ。
「……杏香殿は、生まれた時から声が出せないわけではない、と言う話でしたね」
「ええ」
これにうなずいたのは直次だ。やはり、子供のころのことは彼の方が詳しい。
「六年ほど前、彼女が十二歳の時にぷっつりと。あの可愛らしい声で『兄上』と呼んでもらえなくてとてもさみしいです」
妹馬鹿丸出しの発言に、さしもの杏香も兄に冷たい視線を投げた。翔善は笑っている。強い。
「兄妹仲が良くてよろしゅうございますね。では、杏香殿に質問です。その頃、夢を見たことはありませんか。誰かに名を奪われる夢です」
ずいぶんと不思議なことを言う、と思った。怪異が関係しているということだろうか。この倭では名が重要な意味を持つ。真名を奪われることは、支配されることを意味していた。だから、本当の名は本人と親、配偶者くらいしか知らないのが通常だ。
吉政と言う名も、杏香と言う名も本名ではない。呼び名だ。吉政は杏香の真名を知っているし、杏香も吉政の真名を知っている。他にも、彼女の真名を知っている者がいて、悪用しているのだろうか。
注目される中、杏香はこくりとうなずいた。翔善は話を続ける。
「その時、本当の名を奪われたんですか?」
今度は左右に首が振られ、さらさらと黒髪が大きく動いた。どうやら、偽名を名乗り、それを奪われたらしい。夢の中で。
「そうでしょうね。真名であれば、声だけでは済まなかった。仮名であったために、声だけで済んだのでしょう。杏香殿は機転が利きますね」
翔善の言葉に、吉政も直次も驚く。
「杏香! 何故言わなかった!」
直次が当然の問いかけをした。吉政も思う。何故言わなかった。
しかし、声が出ず、筆談で事情を説明するのはなかなか難しい。当時は杏香の声が出なくなったことで大騒ぎになったので、彼女も途中であきらめてしまったようだ。ちょうど、医師が精神的なものだ、と診断を下した頃でもあったから。
直次が責めるので、杏香はぷいっと顔をそらして吉政の後ろに半分隠れた。翔善が娘を見るような視線で、「可愛らしいことをなさいますね」と微笑む。相変わらず胡散臭い。杏香がすねたことに、直次があわてる。
「いや、ごめん。責めているわけではなくて、お前のことが心配で」
吉政に遠回しに脅しをかけてきた人物とは思えないしどろもどろぶりだ。翔善が相変わらずにこやかに言う。
「直次殿、妹離れをした方がよろしいですね」
「……そうですね」
自覚はあるらしい。直次の興奮が収まったので、吉政が翔善に尋ねた。
「杏香の声を取り戻す方法はあるのですか?」
「彼女の声を奪った術者に術を解かせるか、その術者を殺す。そのどちらかですね」
なんだかどちらも難しそうだ。翔善の言う『術者』と言う存在はすくない。彼のような僧侶や巫女などの仏や神に仕える者、それか陰陽師あたりしか思い浮かばない。
杏香が吉政の着物を引っ張る。彼女に目をやると、すっと紙を差し出してきた。いわく、声が出なくても困らない。
「……そうか」
こくりと黒髪が上下する。周囲の心配をよそに、完全に我が道を行く杏香だった。
△
その日は大みそかとあって、夜通しの無礼講となった。一応吉政も参加しているが、年が変わったら戻ろうと思う。もう酔いつぶれているやつもいるし……。
宴が始まったばかりのころは、女性たちものぞきに来ていた。例によって吉政は挙動不審であったが、その挙動不審さもばれない程度の少しの間だけで、女性たちはすぐに宴会場から出て行った。
あまり酒に強くない吉政は、主に食べて眺めているだけだ。騒ぐような性格でもないからだ。かといって、騒いでいる人を眺めるのは割と楽しい。そう言えば、泰治もいつの間にか姿がない。彼がずっといては、みんなが楽しめないと配慮したのだろう。
やがて、近くの寺の除夜の鐘の音が聞こえ始めた。百八回つき終わるときが年の終わり、すぐに年の初めがやってくるのだが、彼らは気づかないのではないだろうか……。
最後の鐘をきき終え、吉政は隣でけらけら笑っている時盛に挨拶をした。
「開けましておめでとうございます」
「ん? もう新年か!」
驚いた様子の時盛に、吉政は苦笑を浮かべる。
「殿、さすがに戻りましょう。奥方様に怒られます」
「お前、自分が杏香に会いたいだけじゃないか」
ぎくっとして視線をそらしてしまった。その気持ちもないとは言えないが、酒の飲めない吉政にとってこの場にいることは特に楽しくないのだ。最初は出し物などもあってそれなりに楽しかったのだが。杏香や胡蝶も隅から見ていたころだ。
「お前わかりやす過ぎ。でもまあ、胡蝶に怒られる前に戻ろう。うん」
これだけ騒いでいれば、人二人くらいいなくなってもわからない。と言うわけで、そっと抜け出す二人である。
「さすがに冷えるなあ」
廊下を歩きながらそう言う時盛は、足元がふらついていた。陽気に笑っていられるのは今だけではないだろうか。ほぼ素面の吉政は「危ないですよ」と時盛を支える。
「あら、時盛様。吉政殿、ありがとう」
「い、いえ……」
挙動不審な吉政であるが、だいぶ改善はされている。とりあえず視線はそらすだけ、以前は返事もできなかったのが、返事はできている。
吉政は時盛を胡蝶に引き渡すが、彼女の「楽しまれましたか?」と言う言葉が含みのあるものに聞こえるのはなぜだろう。
部屋に戻ると、杏香が窓を開けて星を見ていた。翔善によると、彼女には術者の素養があるらしいので、星読みくらいはできるかもしれない。
「杏香」
呼びかけると彼女は振り向いて笑った。吉政も一緒になって星を眺める。
「今は何が見えるんだ?」
尋ねると、星図を開いて教えてくれる。やっぱり何となく意思の疎通が取れている二人だった。
「そうだ。明けましておめでとう」
杏香はこくんとうなずいた。
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