四手
美澄城に登城した吉政は、今日は一人ではなかった。隣に杏香がいる。先日、時盛に連れて来い、と言われたためだ。しかし、隣の杏香の側で彼女を品定めしているのは時盛ではない。
「うーん、可愛い! 口が利けないのだったわね。大丈夫よ、その分わたくしがしゃべりますから!」
元気にそうのたまう声に、吉政は体をこわばらせて眼をそらし、緊張に耐えていた。杏香の頬を挟み、楽しげに話すのは時盛の正室・胡蝶である。主君の奥方に対し失礼であるが、彼女が嫁いできたときからこうなので、胡蝶ももう何も言わなかった。
緊張で冷や汗を流している吉政とは対照的に、杏香は口が利けないなりにしゃっきりとしていた。怒涛の如く話す胡蝶に、こくりとうなずいたり相槌を打っているのがわかる。
「吉政、奥方を見習え」
「……」
時盛に言われ、吉政は畳に手をついてうなだれた。それに気が付いた杏香がぽんぽんと背中をたたいてくる。基本的に、吉政から杏香に接触することはないが、彼女からは時折こうして接触がある。吉政が嫌がらない、と気づいたからだろう。最近、彼女が結構面倒見の良い性格であるとわかってきた。
「あら、仲良しね。ねえ杏香。こちらで甘いものでもいかが?」
「おう、行って来い」
胡蝶が杏香の手をひき、連れて行く。侍女たちも一緒に下がり、吉政はやっと姿勢を正した。目の合った時盛はにやにやしている。
「いや、なんだ。思ったよりうまく行ってるんじゃないか? 我ながら慧眼だったな」
「……」
確かに、杏香を吉政に娶せようと連れてきたのは時盛であるが。
「お前が女性に触られて嫌がらないのは貴重だな。嫁いでくれた杏香に感謝しておけよ。ついでに俺にも」
「……最後の一言が余計です……」
一応、杏香には感謝しているのだ。毎日のように彼女と盤を挟んで向かい合うようになって、超重症の女性恐怖症は重症くらいにまで回復はしていた。それでもまだ重症は重症である。杏香の顔すらまともに見られないし、杏香以外の女性に声をかけられようものなら体がこわばって冷や汗が流れる。しかし、全力疾走で逃げることはしなくなった。
「お前、毎日将棋とか碁を指してるのか? 手加減してる?」
「手加減も何も、五回に一回は私が負けますが……」
「え、何枚落ち? 置石は?」
「ありませんが……」
吉政が答えると、時盛が額を押さえた。
「かーっ。本当に強いんだな、杏香は」
「頭の良さに関してだけ言えば、私より上なのではないかと……」
少し(吉政が)慣れてきたので、戦術論や国家論について語り合ったこともある。まあ、杏香は筆談だが。
そこで気づいた……というか、うすうすわかってはいたが、彼女は頭がいい。教養があるどころではない。男であれば、文官もしくは軍師として名をはせることになったかもしれない、と思うのは、吉政が杏香を贔屓しているからだろうか。まあ、吉政は他の女性がどんなものかよく知らないが……。
「自分で整えておいて言うのもあれだが、お前たち夫婦、すごいな……」
ひとまず、軽く頭を下げた。
「で、本題だが、京に上ることになった。上様が先日の下澄の侵攻について、詳しく聞きたいとおっしゃったからな。少人数で行く。お前も一緒に来い」
「御意」
「出発は五日後だ。杏香にちゃんと伝えておけよ」
「……わかっております」
手紙ではなく、自分で言……えたらいいな……。そう思うくらいには、吉政は杏香に好意を持っていた。しどろもどろな吉政の話を聞いてくれるし、自分の主張を押し付けてこない。何より、手をあげたり襲って来たりしない。当然かもしれないが、吉政にとっては重要事項である。
ほっそりした指が、駒や碁を持つ。その細さからは想像できないほど、彼女は盤上競技に秀でている。
杏香は確かに口が利けない。しかし、その分盤上で語りかけてくる。こんにちは、元気ですか、と。
「とりあえず、胡蝶のところに行こう。放っておくと、いつまでも杏香を独占されるぞ」
「……藤御前様は杏香のことが気にいったのでしょうか」
藤御前とは、胡蝶の呼び名である。居室の近くに藤が植えてあることから、そう呼ばれるようになった。ちなみに、杏香は香野国の出身であることから、香姫と呼ばれることが多い。
「どう見ても気にいっていただろう。あ、お前は見てなかったのか」
主君の正室に大変失礼であるが、吉政は胡蝶の顔を見ることができない。以前は声を聞くのも苦行であったため、進歩していることにはしている。
「顔の見られない夫に言葉の話せない妻か……よく意思の疎通が取れるものだ」
感心しているのか呆れているのか、わからない声音で時盛はそう言った。
△
胡蝶の私室に杏香はいたが、吉政は入れなかった。何故かと言うと、侍女が数名控えていたからである。
「お前、本当にわかりやすい」
はっきりと拒絶する吉政に、今度こそ呆れたように時盛は言ったが、「逃げなくなっただけマシか」と自己完結していた。
「胡蝶、杏香」
「あら、時盛様。お話はもうよろしいの?」
胡蝶の声が聞こえて、吉政は彼女の居室の前で倒れ込むように床に顔を伏せた。不審な行動に侍女たちがぎょっとしている。
「ああ。杏香を吉政に返してやってくれ」
「……相変わらず挙動不審ね」
たぶん、胡蝶は頭だけ見えている吉政を見ている。挙動不審な自覚もあった。しかし、これはいかんともしがたい……。
とんとん、と肩をたたかれた。顔をあげると……子猫が眼に入った。にゃーん、と三毛猫が鳴く。吉政は思わずその子猫の顎をカリカリとかく。杏香が子猫を抱えているようだ。
「杏香、猫ちゃん、連れて行っちゃ駄目よ」
どうやら胡蝶の飼い猫らしい。杏香は振り返って彼女に子猫を渡していた。そのころにはさすがに吉政も正座の姿勢に戻っていた。手はついていたが。杏香が戻ってきて吉政の前にしゃがみ込む。
「杏香、その馬鹿は放っておいて、私と一局指してくれないか?」
時盛の誘いに、杏香は戸惑ったようだ。吉政の着物の袖をつかんで視線をさまよわせているのがわかる。長い黒髪が行ったり来たりしていた。
「……い、行っておいで……」
小さな声で言ったが、杏香には聞こえたらしい。立ち上がると、盤を用意していた時盛の元へ向かった。吉政はじりじりと入口から遠ざかるが、完全に立ち去ることはできなかった。杏香が気になる。
その彼女はこの状況も特に気にならないようで、平手でばんばん時盛を攻めているようだ。ちなみに、駒音からして将棋である。
しばらくして、時盛の声が上がった。
「吉政、お前の嫁、お前より容赦ないんだけど!」
「……それは平手だからです……」
駒を落とすのは勝負ではなく指導だ。囲碁も同じ。置石を置けば指導碁になる。吉政に勝てる杏香と駒を落とさずに指して、時盛が負けるのはある意味当然だった。
「ああ、いいのよ。たまには思いっきり負ければいいのだわ」
胡蝶がさらりと夫に対してひどいことを言う。基本、この夫婦は妻の方が力関係が強かった。
その後、秋月の屋敷に帰った吉政に、杏香はこんな文章を見せてくれた。
『楽しかったです』
……それは何よりだ。
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