三手
その後も、文での交流が続いた。同じ屋敷内に住んでいるのに。吉政を知る時盛やその他友人、家臣たちには「大いなる進歩だ」と言われたが、杏香の侍女たちはご不満らしい。何しろ、文以外のやり取りがないのだ。いや、正確には将棋や碁を指すことはあるが、それ以上の交流はなかった。
正直、杏香と対局するのは楽しい。同じくらいの力で戦えるからだ。彼女、おそらくとても頭がいい。兵法について議論しても楽しいかもしれないが、そこに行きつくまでには双方に……というか、主に吉政側に問題があった。
そんなことを考えていたからか、戦に行くことになった。軍師たる彼が時盛の出陣についていくのは当然ではあるのだが。
こういうことは直接言うべきなのかもしれないが、やはりまだ、杏香の前でも口を思うように開けない。なので、再び文で出兵を知らせた。杏香もやはり話せないので、文が返ってきた。要約すると、お気をつけて、と言うようなありふれた内容だったが、吉政はこっそりそれを甲冑の中に忍ばせてお守りのように持ち歩いていた。
美澄国を侵略してきたのは、隣国・下澄国だ。すでにこの時期の恒例事項となっている。これは、数年前、時盛が現在破竹の勢いで大和統一を果たそうとしている大名と同盟を結んだことが原因なのだが、その判断は間違っていないと思っている。まあ、促したのは吉政なのだが。彼に同盟を申し出なければ、彼の大名は必ず、美澄国を攻めて来ただろう。そうなれば、勝てないことは明白だ。
その大名を、下澄国は敵視しているのである。戦国大名なら一度は目指す天下統一に一番近い男に手を貸しているということで、気にくわないらしい。
まあ、敵の事情はどうでもいい。いつも通り、吉政の軍略により順調に領土内から押し出されて行っている。
「殿! 北方より、新手が!」
伝令が駆け込んできて、時盛に告げた。軍師として時盛の側にはべる吉政は、手の中の羽扇をふぁさっと揺らした。何となく、追い込まれてきたときにぱしん、と扇子で自分の掌をたたく杏香を思い出した。
「奇襲のつもりかぁ? 吉政、どうする」
「まったく奇襲になっていませんが。予定通り、鉄砲部隊を前に出しましょう」
火力を叩き込んで挟み撃ちにする。本隊が瓦解しかけてから出てきても仕方がないのに。
無事に奇襲部隊に勝った自軍を見て、時盛は目を細めた。
「お前、最近絶好調だよな。いや、今までも悪かったわけではないけど……キレが違うというか。あれか? 嫁を取ったからか?」
そう言えば、吉政の嫁を取ろう、と時盛が言いだしたのも戦場だったな、と吉政はぼんやりと思い出す。それで、本当にやってきた嫁が杏香だった。
まだ、まともに顔を合わせることはできない。やり取りも文だけで、吉政から話しかけることはない。しかし。
「そうかもしれません」
陣内が震撼した。女性がいると逃げていく吉政を、彼らは知っている。そんな彼から、女性に対して好意的な言葉が出てきたことに驚いたのだ。
「え、本気か? 話できてるのか?」
「……それはできていませんが」
文のやり取りが続いている。それだけでも吉政にとっては進歩であるし、たまに囲碁や将棋を指す。話はできないし顔を見ることもできていないが、それなりに交流はできていた。二人の間ではそのつもりだった。
無事に敵を退けて屋敷に戻る。さすがに杏香は出迎えには来なかった。来たところで、吉政が反応に困る……。
しかし、その後貴成経由で『お帰りなさい』という文をもらったときはちょっと顔がゆるんだのは認めざるを得ない。貴成には冷たい目で見られたが。
「返事でも書いたらどうですか。と言うか、同じ屋敷にいるのだから、普通に会いに行って自分で言ってきてもいいのでは?」
貴成が冷静に言った。杏香がわざわざ会いに来ないのは、吉政が女性を苦手としていることを知っているからだ。つまり、吉政側から何か動かなければ、この状況は変わらないということだ。
何度か杏香の居室の周辺をうろついて、挙動不審過ぎて自分で愕然として、あきらめて文を書いた。自分の度胸のなさが泣けてくる今日この頃。
「でも進歩ではないですか」
そう言ったのは貴成だ。いわく、今まで避けることしか考えてこなかったのに、女性である杏香と交流を持とうとしているのは、吉政にしては進歩なのだそうだ。修正不可能と言われたにしては、大いなる進歩である。
「まあ、実が伴っていませんけどね」
「……」
さすがに、容赦がなかった。吉政はうなだれたが、貴成は無視して家裁を取り仕切っていた。
「ああ、そう言えば、最近、屋敷内の仕事が楽なのですよ」
唐突な貴成の言葉に、吉政は「どういうこと?」と首をかしげる。
「奥方様が家裁を担ってくれているのですよ。吉政様がボーっとしていても、あの方はちゃんと奥方の仕事をなさっていますよ」
「……」
そう言えば、吉政も家裁のことで決断を求められることが少なくなっている気がする。口が利けないだけで、杏香は聡明な女性だ。うまい具合に屋敷内を整えてくれているらしかった。
ふらりと、吉政は杏香が良くいる縁側に向かった。庭を通ってだ。屋敷内から訪れることもあるが、そうするとたいてい杏香の侍女に行きあう。最近やっと名を覚えたのだが、杏香の一番近くにいる侍女は巴江と言うらしい。
そっと覗くと、杏香はいつも通り縁側にいた。今日は盤ではなく、本を読んでいたようだが。しかも、こくりこくりと舟をこいでいた。崩れ落ちそうになる体をあわてて支えてそっと横たえる。周りを見渡して、彼女のものらしい打掛をその体にかけた。これでも起きない杏香はかなり図太いと思う。
彼女が読んでいた本を見ると、志奈の戦術書だった。当たり前だが、全て漢文である。吉政も読んだことがあるが、なかなか難解である。面白いし、ためにはなるのだが……。
話すことはこういうことでもいいのだろうか。これなら会話が続きそうだが……そもそも、杏香は声が出ないが。もしかしたら、吉政が顔を合わせることができれば表情から何かしらか読み取れるのかもしれないが……。
「吉政様?」
女性の声がして、吉政はびくっと体を震わせ、顔をうつむかせた。わかっている。杏香の侍女・巴江が戻ってきたのだ。
駄目だ。巴江だとわかっていても女性の声がするというだけで緊張し、冷や汗が流れる。顔をあげることができない。何の反応もできない。
ぽんぽん、と強張った手をたたかれた。その先を見ると、杏香が起きたようだった。顔は見られない。
ほっそりした手が吉政の頭を撫ではじめ、さすがに驚いて顔をあげた。女性にしては切れ長気味の目が優しげに細められていて、吉政は視線をそらす。今度は緊張ではなく、気まずさゆえだ。耐え切れなくなり、吉政は立ち上がる。
「し、失礼する。少し、気になって。様子を、見たかったんだ……」
言い訳を述べ、吉政は全力疾走で入ってきた庭を駆け抜けた。下働きたちが驚きの表情で吉政を見ている。自分の居室の近くまで戻った吉政は、壁に手をついて息を吐く。せめて、自分がもう少しちゃんと話すことができればいいのに。女性相手に、初めてそう思った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
挙動不審、も追加すべきだろうか。