二十一手
急ごしらえにしてはしっかりした罠であるらしい。静かに端座する杏香は、まるで人形のように身動きしない。時々瞬きする瞼が、彼女が生きた人間であることを証明している。
ふいに、空気が震えるのが分かった。実際に感じたわけではなく、『わかった』だけだ。そういう術を栗花落が仕掛けていたのである。それは気配を消した吉政たちの前を通り過ぎ、杏香の前に至った。
「お前、名は何という?」
杏香がゆっくりと顔を上げた。尋ねられても、彼女は答えられない。声が出ないからだ。だが、声に出さなくても思い描いただけで真名を捕られる場合があるという。
杏香の精神力が試される場面であるが、そのあたりは吉政などよりもよほど安心感がある。杏香は顔を上げて自分の前に立つ人物を見つめたが、それ以外の変化があることはなかった。その人物は舌打ちする。
「またダメか」
そう言って立ち去ろうとしたのだろうが、その人物はその場を動けないことに気づいたようだ。杏香をにらみつける。
「この小娘!」
「いやいや。その子の力ではないよ。力は強いが、二流だねぇ」
杏香の背後のふすまを開けて、栗花落が閉じた扇子をその人物……術者に向けている。
「……破魔の巫女」
罰当たりにも仏壇の奥に隠れていた栗花落を見て、術者は驚いたような声を上げる。栗花落は眉をぴくりと動かした。
「ま、多数のそう呼ばれるものの一人であることは否定しない」
栗花落が言い終わらないうちに、術者が攻撃を仕掛けてきた。それを栗花落が扇子を一振りして防ぐ。そもそも、その場に縛り付けられている術者はその時点でかなり不利だ。
「さて、この子から奪ったものを出しな」
恫喝のようなことを言いながら、栗花落は扇子を術者に突きつける。吉政は手出ししたものか迷ったが、隠れたままじっとしていることにした。必要な時が来たら、わかるだろう。
「……奪うつもりだったのは否定しない。だが、奪えていない」
「今はな。しかし、七年前に奪ったものがあるだろう」
ふいに、杏香が術者を指さした。術者の右袖のあたり。そこに隠しているのだろう。彼女から、奪った声が。まあ、彼は彼女の声を奪ったわけではなく、力の一部を奪ったのだろうが。栗花落が微笑む。
「なるほど。やはり姫には予測、もしくは占の素養があるようだ。望むなら手ほどきしよう」
こくんと杏香がうなずくのが見えた。術者が右袖をかばうように身をひねる。その位置が、たまたま吉政が隠れているほうに向いた。
「秋月殿!」
栗花落に呼ばれ、吉政は動じる間もなく矢を放った。その矢は術者の右袖を腕ごと貫いた。術者が悲鳴を上げる。
「期待していなかったが、やるではないか」
期待されていなかったらしい。なんとなく察していたが。その場に頽れた術者を見分し、栗花落はお守りのようなものを取り出した。ど真ん中に空いた穴は、吉政の矢が貫いたものだ。弓を持ったまま、吉政は隠れていた隠し部屋から出てきた。
お守りがすでにお守りの形をしていないが、まずかっただろうか。問おうと思ったが、この期に及んで栗花落に問いかけられない自分に消沈する。
「術式が切れているな。秋月殿に霊力はないんだがねぇ。ま、風を切る矢自体が術式みたいなものだ。ありえなくはない」
そう独り言ちて、栗花落はお守りをまじまじとのぞき込んでいた杏香に話しかけた。
「どうだ? 声は出そう?」
きょとんと栗花落を見た杏香だったが、気づいたように口を開閉させる。声は出ていない。何度か瞬きしてから、ふと彼女は吉政のほうを見てほほ笑んだ。
よしまささま。
わずかに空気が震える程度だったが、確かに、名を呼ばれた。
△
わずかに風が吹いて、満開の桜の花びらがひらひらと揺れる。宮中の庭園で花見の宴が催されていた。帝の主催であるため、帝とその妃の姿もあるが、吉政らの席からは、遠すぎて見えなかった。
宴があると必ずあるのが歌合せである。これが吉政は苦手だった。そもそも、一応武将にあたる自分ができなくても仕方がない、と思う一方、教養不足だろうか、と思うこともある。帝が泰治を頼っている以上、こうしたみやびやかな場に呼ばれることは、皆無ではない。特に、いわゆる『聡明な奥方』を伴侶としている吉政は、余計に声がかかるだろう。そうした女性は、宮廷内でも通ずる程度の教養があるからだ。少なくとも、杏香は明らかにそうだった。
その杏香は和歌は読めるが、読み上げることができない。代わりに読み上げたのが波瑠だった。吉政でもよかったのだが、女人の読む和歌は女人の声で呼んだほうが良い、と言われて、代役として波瑠が読み上げた。
泰治の読み通り、杏香と波瑠は気が合うようだった。下手をすれば親子ほど年の差がある二人であるが、博識かつ思慮深いところは似ている。ただ、やり取りには苦慮しているようで、主に筆談を行っていた。
栗花落とともに術者をとらえて以来、わずかだが、杏香は口が利けるようになった。これは、奪われていた声が不完全に戻ってきた、というわけではなく、単純に長い間声を出していなかったための弊害だろう。
あの日、術者をとらえて外に出ると、葬列も百鬼夜行も消えていた。先導者である術者が栗花落によって無力化されたためだろう。それと、夜明けが近づき空が白んできていたせいもあるかもしれない。
術者は、栗花落によって力を封じられ、京から放り出された。栗花落の狩衣の裾を引っ張り、疑問を投げかけた杏香に、彼女は言った。
「我々、『旧き友』には盟約がある。人々の政にかかわらず、中立を保ち、不安を排除する。いつからあるのかは知らんがね」
それが、彼女が放り出した術者だというのだろうか。『旧き友』と呼ばれる存在のことは、吉政も知っていた。仙人や仙女などとも呼ばれる、不老長寿の能力者。つまり、栗花落も見かけより年を取っていることになる。
まあそれはともかくだ。栗花落は、その後、京を発ったようだ。もともと、ひとところにとどまらず、歩き巫女のような生活をしているらしい。
「また、我々は助けを求めるものに力を貸す存在でもある。だから、助けを求めればまた会うことがあるかもしれんな」
栗花落はそう言ってさっそうと去っていった。
栗花落が吉政や杏香を助けてくれたのは、彼らが助けを求めたからだ。出なければ、彼女は姿を見せることすらしなかった。そんな気がする。
発声練習中である杏香だが、大声を出すことは今後もできないだろう、との医師の診断結果だった。吉政はわずかに顔をしかめたものだが、杏香は気にしないようだった。曰く、声が出るのは便利だが、出ないとしても意思の疎通はできるから別にいい、とのことだった。
しかし、それでも、吉政は彼女の少し舌っ足らずに聞こえる声で名を呼ばれるのが好きだった。これでは、妹馬鹿だと言った直次を笑えない。
ぼんやりしていた吉政の着物の袖を杏香が引っ張った。こうした癖は、なかなか抜けない。そして、吉政も声を掛けられるよりもこうされたほうが反応が良い。
「……どうしたの?」
彼女が差し出してきたのは彼女が詠んだ和歌と、それに添えられた桜の枝だった。意味が分からなかった吉政だが、ああ、と察してうなずいた。
「お褒めの言葉をいただいたんだね。さすがだ」
あっていたようで、杏香が嬉しそうにうなずいた。吉政もほほ笑む。こういうところを見ると、しっかりしていても自分より年下なのだなぁと思う。
「……だから、どうやってそれは意思の疎通が取れているんだ?」
近くに席がある時盛が不思議そうに言った。何度も問われたことだが、吉政と杏香は顔を見合わせる。
「……どうといわれても、わかる、としか」
「杏香も、話せるようになったのだから声を出したらどうだ」
時盛にもそういわれた杏香だが、彼女は首をかしげて微笑んだだけだった。すでに話す気がない。本人によると、声が出ないからと言って苦慮したことはないからだ。さすがに吉政も苦笑を浮かべた。
「練習はしよう」
すると、かすかにはーい、と返事が聞こえた。杏香だ。時盛が「ちゃんと声が出るじゃないか!」と突っ込みを入れているが、吉政はとりあえず言った。
「そもそも、杏香が話せないから、と殿は彼女を連れてきたんじゃありませんでした?」
「……それはそうだが」
釈然としなさそうに顔をしかめる時盛に、吉政はこれでも感謝している。杏香と出会えたことは、確実に彼を変えたから。
△
よしまささま。
まだ、かすかに空気が震えるほどの声。それでも、その声に名を呼ばれると心が震える。だから、吉政も穏やかに問い返す。
「どうしたの、杏香」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これにて、『秋月夫妻は意思の疎通が取れない。』が完結となります。お付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
たぶん、最後の場面では二人は縁側で将棋か囲碁をしていると思う。チェスかもしれないけど。
私にしては珍しい、戦闘力ほぼ皆無なヒロイン、杏香さん。それどころかヒーローの戦闘力もほぼ皆無ということで、われながら珍しかった…。
にしても吉政、杏香の言うことをどうやって察しているのだろう。
とにかく、完結できました。ありがとうございました!




