二手
本日二話目。
ひと月半も経てば、何となくお互いのいる生活に慣れてくる。というか、互いに干渉しないので、いないときと同じと言うか。結婚したばかりのころは意識し過ぎて挙動不審になっていただけだ。
少し前、吉政は時盛に結婚生活の感想を聞かれていた。
「どうだ、結婚生活は」
「慣れてきました」
「どうだ、杏香殿は」
「……おとなしいです」
彼女を語れるほどに、彼女を知らない。それほどかかわりを持っていないのだ。時盛もそれを察したらしく、膝に頬杖をついて胡乱気に自分の軍師を見た。
「お前、もう少しかかわりを持つ努力を……いや、お前のはもはや修正不可能だったな」
うん、と自分で完結している。ぱちっと音を立てて盤上に駒が置かれた。将棋を指しているのだ。吉政が二枚落ちで勝った。
「お前、主君に勝ちを譲ろうとか思わないのか!」
「手加減したらしたで怒るでしょうに……」
さすがの吉政も呆れて言った。時盛はさっぱりと「それもそうか」と納得してうなずいた。
「とにかく、杏香殿に不自由だけはさせるな。乗り込んでくるからな、彼女の兄が!」
父ではなく兄なのか。というか、何故そんな厄介な親族のいる女性をよりによって吉政に嫁がせたのか。
ひと月以上一緒に入れば、何となく杏香の事情も分かってくる。彼女は、昔は普通に話せていたのだそうだ。
彼女は香野国の国主の家臣の家の出だ。旗本とでもいえばいいだろうか。序列的には高い方らしい。両親と、兄一人妹一人の三人兄弟。杏香は真ん中だ。
聡明な彼女は少し変わってはいるがさっぱりとした性格で、使用人たちにも好かれていた。そんな彼女が声を無くしたのは十二歳の時。朝起きると、突然声が出なくなっていたのだそうだ。医者や薬師にも見せたが、原因はわからず治らないまま。当時進んでいた縁談は、声が出なくなったことにより破談になったらしい。
声が出ない、と言うのは意外と不便だ。まず第一に意思の疎通ができない。人を呼びたくても声が出ないし、危険が近づいても叫べない。
だからか、彼女は鈴を持ち歩いていて、侍女を呼ぶときはその鈴を鳴らすのだそうだ。たまに、屋敷の中で涼やかな音が聞こえてくる。
そんな不便のある娘を、誰も娶ろうとは思わなかったらしい。そこに、やってきたのは『女性の顔を見ることも話すこともできない』重臣を抱えた美澄国の国主・時盛。彼女の話を聞いて、これだ、と思ったとのこと。何度も言うが、非常に余計なお世話だ。
というわけで、杏香も結婚には難があったらしい。問題がある者同士、うまくまとまってくれた、と周囲は思っているのだろうなぁと思うと、切なくなる吉政だった。
ある日、吉政が庭を歩いていると、池のほとりに女性の姿が見えた。侍女の着るような着物ではなく、質のいい青の打掛を着た女性だ。この時代の女性にしてはすらりとした立ち姿に、後姿だが杏香だと察した。まあ、顔を見たって彼女の顔を知らないわけだけど。
彼女のことを聞いた時に、吉政は自分と同じだな、と思った。なんと言うか、彼女は少し、変わっている。
今も、池のほとりで何をしているのだろうか。池の中を眺めているので、鯉でも見ているのかもしれないが……。同じだと思うと、女性だが何となく親近感がわく。
ふと、杏香が池の周囲を囲んでいる岩に乗ろうとした。侍女があわてて止めている。侍女は吉政に気付いているようだが、こちらを気にしないようにしてくれているらしかった。
吉政は思わず駆けより、案の定体勢を崩した杏香の体を引き寄せる。水に落ちずに吉政に支えられた杏香は、きょとんと吉政を見上げた。その黒い瞳と目があった瞬間、吉政は顔を逸らした。思わず助けに入ってしまったが、今更のように母に折檻された日々を思い出したのだ。その顔を見せるな、と言われて、目が合っただけでたたかれたのを忘れたわけではない。例え杏香がそんな人間ではないとしても、染みついた習性はどうしようもなかった。
「……」
怪我はないか、気になった。だが、言葉も出てこない。杏香も話せないので、自然と沈黙が続く。侍女はいるが、主夫婦の間に入ってこようとはしなかった。
くいくいと杏香が吉政の着物の袖を引っ張るが、吉政は既に及び腰で逃げ出さんばかりだ。杏香は早々に諦めたらしく、吉政の手を取って、掌に文字を書き始めた。
あ、り、……と。ありがとう、か?
「ど、どういたしまして……」
消え入りそうな吉政の声に、杏香の髪が大きく上下するのがわかった。読み取りはあっていたらしい。
さらに彼女は吉政の手をひく。ぐいぐいと強く引っ張るので思わず顔をあげると、彼女も侍女もこちらを見ていなかった。ただ、縁側の盤を指さしている。一局指そうと言うことだろうか。これまでも避けている自覚のある吉政は、多少の罪悪感に背中を押されて、縁側に腰掛けた。しかし、盤だけを見つめて杏香の方を見ない。杏香も何も言わなかった。いや、彼女は話せないのだけど……。
すっと歩が突き出される。今日は将棋の日だったらしい。断りもなく先手を持って行った杏香であるが、吉政は責めなかった。自分も歩を手に取り、ひとつ前に出す。
静かに対局が進んでいく。そう言えば、時盛とは二枚落ちで指しているが、今、杏香と平手で指している。それでも互角に戦えるくらい、杏香は強かった。
徐々に、情勢が吉政の方へ傾いてくる。ふと、杏香の手が止まった。扇子を持った左手が、ぱしん、と自分の膝のあたりをたたいた。それから指された一手に、吉政は思わず顔をあげて杏香の顔を見た。
彼女は、伏し目がちに盤を眺めていた。可愛らしいというよりは、きれいな顔立ち。鼻筋が通り、目元は涼やかだ。美人とは言えないのかもしれないが、整った顔立ちをしている。
まじまじと見つめられていることに気が付いたのだろう。杏香も顔をあげたので、目があった。何度か彼女が目をしばたたかせる様子を見て、吉政はさっと顔を逸らした。嫌悪感から吐きそうになったとか、恐怖を覚えたとか、そう言うことではない。ただ単に恥ずかしかった。
いつまでたっても次の手を指さない吉政に、杏香はすっと紙を差し出してきた。文字が書かれている。
『続きの手をどうぞ』
「……」
まったく吉政のことを歯牙にもかけない、ただ将棋をしたいという要望に、吉政はほっとした。衝撃の一手の後の手を少し考え、吉政は指した。
しばらく指し続けて、すっと盤上に杏香の手がかざされた。そのまま頭が下げられる。言葉はないが、投了だ。
「ああ、ありがとうございました」
思ったよりも普通の声が出て、吉政は少し驚いた。
その日の夜、杏香から文が届いた。一言、『お付き合いいただき、ありがとうございました』と書かれているだけだったが、うれしく思う自分がいてまた驚く。話すのは駄目でも、文通は行ける……のだろうか。
文をもらったからには返事を書かねば、とばかりに返事を書く。自分も楽しかった、また指そう、というような内容だが、返さないよりはいいだろう。翌日、貴成に文を渡し、杏香に届けるように頼んだ。
「……奥方様に、ですか」
「そう」
「吉政様が書かれたのですか」
「そうだけど、何」
眼を見開いた貴成を、胡乱に吉政は眺める。貴成は突然満面の笑みを浮かべると、ぐっと親指を立てた。
「いいんじゃないですか! やればできるじゃないですか!」
「……」
吉政は、貴成にどれだけ駄目な奴だと思われていたのか、ちょっと気になった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




