十九手
女性の多い空間で、吉政は腰が引け気味だった。しかし、杏香に関わることだと思うと何とか踏みとどまれるので、ここにいる吉政だった。
詳しく夢の内容を話せ、と言われた杏香だが、彼女は口が利けないので、筆談になる。文字で内容を伝えるのは難しい。杏香は順序立てて説明をするのが得意だが、それでも限度がある。
「……うむ。秋月殿、通訳」
「……」
栗花落に名指しで指名され、吉政は杏香が書いた内容と彼女の身振りなどから夢の内容を説明する。
影のような人影がいた。その人が杏香に問いかける。『お前の名前を教えて?』
当然だが、杏香は答えない。この状況は、杏香が声を失ったときに見た夢と同じものらしい。
「つまり、お相手は七年前と同じかな。奪い損ねた姫の力を本格的に奪いに来ているんだ」
「この京は妖除けの結界が張られていますが、術者にとっては術の使いやすい、霊気のこもった場所でもあります。香姫は初めて京に足を踏み入れた。奪うのなら今だと思ったのでしょうね」
ずっと黙っていた波瑠が口を開いて言った。と言うか、なんで彼女はここにいるのだろう。
夢の中で、杏香はその影から逃げた。逃げても逃げても、名を問う声が頭に響く。怖くて恐ろしくて、耐えられないと思ったとき吉政にゆすり起こされた。
「ああ、それでよい。愛しいものの声は、届きやすいからな。助けてやれ」
栗花落に語りかけられ、吉政は視線を逸らした。杏香が「何してるの」とばかりに吉政の着物の袖を引っ張る。
「う、うん。いつでも呼ぶ……頼りないけど……」
杏香はニコリと笑ったが、吉政の視界の隅で波瑠がしゃんとしろ、とばかりに睨み付けているのがわかった。
「よい夫婦なのではないか。さて、術者を見つけるのも大事だが、その前に身を守る術が必要だな。その腕飾りは常につけておくこと」
杏香は自分の手首を見て、うん、とばかりにうなずいた。自分が贈ったものが常に彼女を飾っていると思うとうれしいものだ。そして、少し気恥ずかしい気もする。
「私からもいくつか身を守る術をかけておこう。安心せよ。翔善よりもこれらのことは得意だ」
栗花落と翔善の関係が気になる。しかし、聞けない吉政である。たぶん、杏香は口がきけたら聞いているだろうが、聞けないものは仕方がない。
栗花落は再び杏香の手を握ると小さく口の中で呪を唱えた。まぶしいものを見たかのように、杏香はギュッと目を閉じた。そろりと彼女が目を開く。
「よいぞ。これで私が駆けつけるくらいは持つだろう。呼ぶのは志摩の方でもよい」
「いえ、栗花落様。わたくしではあまり役に立てないかと思いますが」
生真面目に波瑠が言った。栗花落は「そんな事、言わなくてよろしい」と呆れた声をあげた。萩野家の波瑠は彼の国の軍師でもある。十年ほど前まで、彼女自身が玉江城城主だった。それを萩野家に接収されて彼女は側室となったわけだが。
何が言いたいのかと言うと、彼女も戦術家で現実主義者だということだ。春にとっては、彼女にとっての事実を吉政たちに提供したに過ぎない、と言うわけだ。
「これである程度夢への侵入を防げるはずだ。まあ、本人がやってきたら、夫君を頼るところだね」
「……」
杏香にじーっと見つめられる。その視線は、吉政に「頼っても大丈夫か」と問うているようだった。吉政、何度も言うが腕っぷしは強くない。だが、武将ではない、術者なら大丈夫……だろうか。
「……大手を振って任せておけと言えないのが心苦しい……」
「おぬしも大概正直者だな」
やっぱり呆れたように栗花落は言ったが、考えてみれば、この場にいるのは事実を踏まえて現実的に可能な行動を計画する立場の人物ばかりがいるのだった。
そう時間を経ず、吉政たちはこの二人に再会した。京で騒ぎが起きたのだ。百鬼夜行である。杏香などは「気にするほどではないのでは」と首をかしげていたが、そうはいかないだろう。この百鬼夜行は、全ての人間に視えていたのである。吉政にも、視えた。
「見鬼がない私にも見える、と言う事態は異常だろう。……聞いたことがなかったが、杏香は視えるのか?」
こくん、と彼女はうなずいた。おおむね霊力がある人間には見えるらしいが、その限りではないらしいので、彼女は両方の素養があることになる。
この時、二人は宿舎としている屋敷の小門の前で遠くに百鬼夜行を眺めていた。この屋敷に栗花落が結界を張っていったらしいので、敷地内からは出ないようにする。昼間ならともかく、日の落ちた今は陰の気が満ちている。要するに、妖の時間だ。
杏香を狙ったのは術者だろうという話だが、警戒するに越したことはない。妖を使役している可能性だってある。どちらにしろ、ただ人に近い二人が妖の中に出ていくのは危険である。
ふと、杏香が空を見上げた。月のない夜。新月だ。星明りだけで、いつもよりやや暗く感じる。つられて空を見上げた吉政はそんな事を思った。
「……杏香。そろそろ中に入ろう……杏香?」
呼びかけても反応のない杏香を不審に思い、吉政は彼女の肩をたたいた。
「何かあるのか?」
問いかけた瞬間、吉政は杏香に押し倒された。受け身は取れなかったが、勢いのまま吉政の上に落ちてきた杏香は何とか受け止めた。その杏香の上を矢が通り抜けた。杏香はこれを避けようとしたらしい。ばっと杏香が身を起こしてあたりを見渡した。
「いたたた! 杏香、腹に手を置かないで!」
杏香の手のついた先が吉政の腹の上だったため、体重がかかってさすがに痛い。杏香がぱっと手を放した。吉政も起き上がる。
「どこからだ?」
ついっと彼女が指を指したのは百鬼夜行。まだ続いている。
人知を超えた存在である彼らだ。所詮人間に過ぎない吉政たちにはどうすることもできない。名のある刀であればある程度妖を斬れるそうだが、あいにく吉政は佩刀していないし、そもそもきれるほどの腕があるかも怪しかった。
なら、屋敷の奥に入ってしまった方がいい。ただ問題は、人が多いうえに退路が確保しにくいことだ。杏香もそれに気づいているのだろう。動きたがらなかった。
「いつまでもここにいるわけにはいかないよ」
吉政の説得に、杏香はうなずいて彼に手をひかれて立ち上がったが、すぐにはっと振り向いた。今度はなんだ。
「なるほど。良い直感をしている……いや、『予測』なのかな?」
いつの間にかそこに、栗花落が立っていた。
「すぐに逃げ込まないとは、二人とも冷静なことだ。大いによろしい。私が来たからにはもう大丈夫だ」
「……」
思わず顔を見合わせる吉政と杏香だ。おそらく、栗花落は百鬼夜行の様子を見に出ていたのだろうが、ここで助けが入るとは思わなかったのだ。
「何か攻撃があったかな」
その口調がさばさばとしているからだろうか。吉政は女性である栗花落に比較的落ち着いて言葉を返すことができた。
「……矢を」
射られた、まで言わずとも、栗花落は理解したらしくうなずいた。
「なるほど。これで相手は人間と言うことになるな。香姫を狙ったわけではないだろう。秋月殿を排除しようとしたのだな」
「……」
何故に? 声には出さなかったが、栗花落には通じたようだ。
「たとえただ人であったとしても、秋月殿が香姫を守ろうとする限り、その思いは姫を守るということだな。ところで、そろそろ人の目を見て会話をしようとは思わないか」
これまで誰もつっこんでこなかったところに切り込んできたが。杏香がちょっと面白そうな顔をして笑っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
栗花落は正確には、陰陽師よりも巫女に近い。




