十八手
京につくと、杏香は、今度は外を歩きたがった。京の市を見学したいらしい。
「……駄目だよ」
じっと輿の小窓から杏香が馬上の吉政を見つめる。
「……そんな顔をしても駄目」
ちょっと心が痛まないでもなかったが、彼女がわざとやっていることもわかっている。ただ市を見学したいわけではあるまい。彼女はこれでなかなかの戦術家である。自分の目で地形を確認したいのだろう。
そうとは知らない吉政の周囲の柊家家臣団は、この一行の中でも比較的年少の部類に入る杏香のふるまいに相好を崩している。いや、杏香は可愛い。確信犯的なところはあるけど。
「……あとで一緒に回ろう」
そう言うと、杏香は納得したようでうなずいておとなしくなった。
宿泊先の屋敷につくと、てきぱきと采配を振るいだしたのは杏香だ。もちろん、彼女は話せないので代理で巴江が話しているが。本来采配を振るうべき胡蝶は、もはや彼女に任せた方が早いとばかりにうなずいているだけだ。
ひとまず落ち着いた時盛は、吉政を連れてすでに到着していた泰治の元へ挨拶に行くことにした。位置的には、中津の方が京から遠いのだが、泰治の方が早く出立したらしい。
「時に、吉政。奥方は連れて来たか」
「は? ええ……京には連れてきておりますが」
この場には連れてきていない。今頃、胡蝶と共に屋敷を整えているだろう。
「あれが何か?」
「いや、会わせたい御仁がいてな。胡蝶とも気が合うだろう」
泰治の思わせぶりな言葉に、時盛も吉政も首をかしげることになったが、それ以上泰治は答えず、ただ笑うだけだった。こうなると、問うだけ無駄だ。二人はあきらめてお暇した。
「なんだったんだろうなぁ」
「前回はそう言われて翔善殿とお会いしましたが」
二人して胡散臭い笑顔の僧侶を思い出す。見た目ほど胡散臭い人物ではないのだが、何故あんなにも曲者に見えるのだろう。
帝が主催する花見までまだ時がある。到着した順としては、彼らは早い方だった。なので、吉政は杏香を連れて市を回ることにした。市女笠をかぶった彼女は、興味深そうに京の街を見渡した。大げさな身振りがなければ、杏香は高貴な女性らしい姿動作の彼女だった。
十数年前まで、京は戦乱の中にあった。吉政がまだ幼いころの話だ。それからここまで復興できたのは、泰治のおかげだろう。彼が倭を治め、経済活動を行い始めたからだ。彼は戦好手でもあるが、優れた統治能力も保持していた。
彼女が特に面白がったのは南蛮の品を売っている商店だった。『ちぇす』の件でひたすら異国語を解読していた杏香は、ある程度辞書なしでも読めるようになったらしい。いわく、書くことは難しいらしいが。
「……何か欲しいものはあったか」
吉政の問いに、杏香は首をかしげる。思いつかなかったようだ。彼女なら、漢書が欲しい、とか言うと思ったのだが。
吉政が購入したのは、魔よけとされる瑪瑙の腕輪だった。杏香は自分で魔を避けられる気もしたが、気持ちの問題だ。その綺麗な黒いの瑪瑙にさしもの杏香も眼を細めた。気にいったようで吉政もほっとする。さらに、金平糖も買い与えると、杏香は目を輝かせて吉政を見上げた。その様子に苦笑する。
「どういたしまして」
はしゃいでいるような様子を見せながら、杏香の視線は抜け目なく町の様子をうかがってもいた。何度か来ている吉政は、以前と違う部分を確認するにとどめた。
ふと、杏香が足を止めた。つられて吉政も立ち止まる。
「……どうした?」
彼女の視線を追うと、道の片隅にぽつりと置かれた祠を見ているようだ。
何か見えているのだろうか。吉政に見鬼の才はないが、杏香には術師としての素養があるのだそうだ。ならば、見えるのかもしれない。
しばらく祠を眺めた後、杏香は吉政の手を取って引っ張った。帰ろう、と言うことらしい。
「もういいの?」
尋ねると、杏香はこくっとうなずいた。吉政は「じゃあ、帰ろうか」とこだわりもなく言った。
その日の夜のことである。ふと、夜中に目を覚ました吉政は、杏香がうなされていることに気が付いた。肘をついて身を起こした吉政は、杏香の肩をゆすった。
「大丈夫か、杏香」
何度か揺さぶると、杏香は目を覚ました。何度か瞬きし、荒い呼吸を整えている。
「……大丈夫か? 怖い夢でも見たか」
子供に言うようなことを言ったが、杏香は起き上がると吉政にしがみつくように抱き着いた。吉政も抱きしめ返し、その背中をたたいた。かすかに震えていたその体は、次第に落ち着きを取り戻していく。
どんな夢を見たのか、と聞いてみたい気がしたが、彼女は話さないだろうし、どちらにしろ、筆談でなければ詳しい内容を聞くのは不可能だ。なので、吉政は別のことを聞いた。
「眠れそうか? 何か持ってこさせようか」
白湯でも飲めば落ち着いて眠れるだろうか、と思ったのだが、杏香は首を左右に振ると改めて吉政にしがみつき、そのまま目を閉じた。抱き着いたまま眠るつもりらしい。吉政は苦笑すると、杏香を腕に抱いたまま横になった。髪を撫でてやると、安心したのかすぐに眠りについた。しばらく様子を見ていた吉政だが、自分も眼を閉じる。彼にもほどなく眠りの波が訪れた。
さて。京には陰陽師がいる。京を実効支配しているのは泰治で、時盛を通して依頼すれば、陰陽師が派遣されてくるのは自明の理だった。
昨夜の様子から、吉政は、以前中津城で翔善と話した時に、『杏香は夢の中で名を奪われた』という話をしたのを思い出した。吉政にはその手の知識がないので正確な判断はできないが、関連付けて「あるいは」と思ったのだ。翌日の昼ごろ、やってきたのは陰陽師……だけではなかった。
「玉江が城主、萩野雅昭が側室の波瑠、と申します」
一般女性より背の高い杏香より、さらに長身の女性だった。年のころは梓と同じくらいだろうか。三十は越えていると思う。
吉政は、萩野家の嫡男である雅昭とは面識があった。時盛の友人なのである。
しかし、その妻や側室に会うのは初めてだ。女性の多い空間に、吉政は引き気味である。まだ初対面の女性と顔を合わせて話をするのは無理だった。ちなみに、陰陽師も男装した妙齢の女性である。
「ふむ。お会いできて光栄だ、秋月殿。奥方は可愛らしいな」
さほど年が違わないだろうに、ニコリと笑って陰陽師は言った。
「私のことは栗花落とでも呼んでくれ。ここ最近はこれで通しているゆえ」
と言うことは、他にも名があるのか。そう思ったが、突っ込む勇気は吉政にはなかった。
「翔善には会ったそうだな。あれの見立ては、おおよそ正しかろう……香姫、手を」
「?」
栗花落が差し出した手に、杏香も手を乗せた。
「……なるほど。確かに姫には術師としての才能があるようだ。夢の中に入りこまれた形跡がある。取り乱さなかったとは肝が据わっているな」
「??」
さらに杏香は首をかしげる。栗花落は構わず杏香の左手も取った。
「瑪瑙か。意志の強い香姫ならば、良く身を守ってくれよう」
吉政も魔よけになる、と聞いて杏香に与えたのだが、本当に効くのか。ないよりまし、と言うところだろうが、杏香ほど気丈な人物であれば、かなり効果が高いらしい。
「さて、どのような夢を見たのか話してくれ……話せないのだったな」
言いかけて、栗花落は思い出したように自分でツッコミを入れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この間からちょくちょく言われている『萩野雅昭』と『波瑠』は、2年ほど前に連載していた『春来る湖の城』の二人です。友情出演です。10年くらい経っていて、雅昭は吉政の主君・時盛と同世代。波瑠は泰治と同世代。杏香はたぶん、雅昭の正室・文姫と同い年……の、はず。
なお、『春来る湖の城』は読んでいなくても問題ありません。




