十六手
本日より再開です。
母が杏香を訪ってから数日後のことである。突然、母から書状が届いた。何となく嫌な予感がしながらそれを開く。
「っ!? げほっ」
落ち着こうと飲んだ茶がのどに引っかかった。咳き込む吉政の背中を、驚いた杏香がさすった。
「ああ、いや、ごめん。大丈夫……」
心配そうな顔をしている気がして、吉政は杏香に微笑んだ。たたもうとした書状が杏香に抜き取られる。彼女はその内容を読んで厳しい表情を浮かべた。それから紙にさらさらと文章を書きはじめ、それを吉政に差し出した。
吉政様が望むのであれば、離縁いたします。
そう。母からの書状は、吉政と杏香の離縁の手続きを進めている、という内容のものだった。なぜそうなった。
「……私が望むわけないだろ。……杏香は離縁したい?」
杏香の首が左右に振られ、吉政はほっとした。吉政も嫌だ。
「母の中ではどういうことになっているんだろう……」
書状を眺めながら、そろって首をかしげる秋月夫妻である。母は吉政を嫌っているし、杏香のことも良くは思っていないだろう。なのに、なぜ引き離そうとするのか。放っておけばよいのに。
考えてもわからないことは考えるのをやめる。今は、離縁の危機を回避すべきだ。
吉政と杏香の縁は時盛が結んだものだ。彼が認めなければ、まず離縁できない。そもそも、秋月家の当主はこれでも吉政である。そして、離縁するのなら遊佐家とも話し合う必要があるが、これは杏香の兄・直次が許可しないだろう。
つまり、どうやって芳篤院が二人を別れさせようとしているのか、さっぱりわからないのである。とりあえず、各方面に話を通しておくしかない。
最近の秋月夫妻の仲の良さを知っている時盛や直次、果ては泰治にまで「何だそれは」との返答いただいた。二人の仲が悪いわけでもなく、政治的にも問題がないのに、意味が分からないのだ。直次などはこの機会に杏香を連れて行ってしまうかと思ったが、そんなことはなかった。妹第一の彼は、妹の幸せが最優先なのだ。
一応杏香と共に気を配っておくと、母は様々なところで奮闘しているらしきことが分かった。わかったが、どうすることもできない。母は人の話を聞かないし、そもそも吉政は母と話ができない。
話が全くまとまらない。さすがに不安になった吉政は、杏香に提案した。
「杏香、秋月城に行ってみないか?」
秋月城はその名の通り、秋月の所領にある秋月家の城である。吉政が城主であるが、彼はほぼこの柊城に詰めているので、城代として秀弘が治めている。ここに、芳篤院も共に暮らしていた。
吉政がただ母が苦手で足が遠ざかっているだけで、杏香には含むところがないのだろう。彼女がこくりとうなずいたので、さっそく行くことにした。杏香が嫁いできてから初めての秋月城になるので、約一年半ぶりの帰還となる。
「吉政様!?」
「吉政様が奥方様を連れてお戻りじゃー!」
何故か騒ぎになった。杏香が吉政の着物の袖を引っ張る。先ぶれを出したか不安になったのだろう。もちろん、出した。彼らは騒いでいるだけだ。
「兄上、珍しいですね」
「ああ……母上は?」
下座に座した秀弘に尋ねると、彼はやっぱり、と言う表情になった。
「母上なら出かけております。兄上と義姉上をどうあっても別れさせたいみたいです」
「……そう簡単に行くわけがないだろう……」
ため息をつきながら吉政が言った。下準備が足りないし、これではうまく行くはずもない。
「それがわからないのが母上なんですよ。私はもうあきらめてます」
好きに指せておいたら、そのうち飽きますよ、と秀弘は達観しているようだった。吉政も、母があきらめるまで待つべきだろうか。絶対に説得は聞かないし。むしろ、言えば言うほど意固地になる可能性もある。
「あ、でも、せっかくいらっしゃったので、義姉上。私の妻と子を紹介させていただいてもよろしいですか」
ニコリと笑い、杏香がうなずいた。それすらまだだったのだ。吉政自身が呆れるくらい避けて通ってきている。
だいぶマシになってきたとはいえ、女性恐怖症が治ったわけではなく。吉政は弟の妻に会うことも避けていた。弟の妻、沙弥はおしとやかで奥ゆかしい個性であるが、吉政の女性恐怖症には関係ないということだ。しかし、杏香のように関われば大丈夫になる可能性はある。実際、最近、杏香の侍女・巴江とは会話が成立するようになってきていた。
逃げ出すわけにもいかず、吉政は杏香の隣で弟の妻の挨拶を受けることになった。
「義姉上、これが私の妻で、沙弥と申します。それと、息子の福丸、娘の静です」
「お初お目にかかります。沙弥、と申します。義姉上様に置かれましては、ご機嫌麗しく」
秀弘夫妻から挨拶を受けて礼を返した杏香だが、もちろん口は利けない。吉政が代弁した。
「……私の妻で、杏香、と言う……」
「はい。存じ上げておりますわ」
沙弥が微笑んだ。ような気がした。杏香も吉政の隣で目を細めて微笑んだ。
「お会いできるのを楽しみにしておりました。無作法もございましょうが、なにとぞお見知りおきを」
きょとんと母親を見上げている福丸と静。子供を可愛いな、と思うくらいの気持ちは、吉政にだってあるのだ……。
穏やかな気性の沙弥と話せないが聡明な杏香は、何かと気が合うようだ。会話はどうしても筆談になってしまうが、おっとりしている沙弥は気にしないらしい。二人が交流を深めている間に、吉政と秀弘の兄弟も情報交換である。
「実際のところ、母上はどのくらい話を進めてるんだ?」
「遊佐家にも話しを持って行ったようですが、軽くあしらわれたようですね。正直、母の言動は感情的過ぎて、相手を説得できません。まあ、本気で兄上と義姉上を引き離したい相手と母上が遭遇してしまったら面倒なことになるでしょうが、まあ、義姉上がしっかりしているので大丈夫そうですね」
「……そうだね」
そこで吉政ではなく杏香の名を出すあたり、秀弘の兄への信頼度がうかがえる。吉政が一人では母に対抗できないと思っているのだ。そして、それは正しい。
「まあ、私と杏香を離す利点がないよ。労力の割に見返りが少なすぎる」
吉政は柊家お抱え軍師であるが、それだけだ。取り込む必要性がない。彼くらいの存在はいくらでもいる。しいて言えば杏香の声が出ないということが問題にあげられるかもしれないが、彼女が表舞台に出てこない以上は障害とならない。つまり、母は、「自分の思い通りにならない」ということだけで息子夫婦を引き裂こうとしているわけだ。
「……一応、打てる手は打ってきたけど、母を止めない限りはね……」
「ですねえ。それが一番難しいのですが」
下手に離縁させようとしても、泰治から止められるだろう。遊佐家も承諾しない。秋月家の当主は曲がりなりにも吉政。後の問題はやはり母だけだ。
「それにしても兄上。苦手な母上に会いに来るほど、義姉上と引き離されるのが嫌なのですね」
秀弘が兄をからかうように言った。からかわれた兄の方は、すっと視線をそらす。静を抱き上げている杏香が目に入った。
「もはや、一年前の自分はどうやって過ごしていたのだろう、と思うくらいだよ」
一年前、杏香が嫁いでくる前は、自分はどんな味気ない生活をしていたのか、と思う吉政だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ちなみに、沙弥さんは杏香よりも年上です。




