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十四手









 吉政の母芳篤院は本当に泊まっていった。母が訪ねて来たのに一人で夕餉を取らせるのか、と癇癪を起されたので、吉政と杏香が夕餉を共にしたのだが、吉政は自分が何を食べているのかさっぱりわからなかった。さすがに食べている間は母も多少はおとなしかったが、それでも吉政は挙動不審だった。

 あまり食べられなかったのを見ていたのだろう。寝る前に、杏香はにこにこしながら酒と肴を持って現れた。あと、握り飯。

 吉政はそれほど酒に強くないが、何となく飲みたい気分だったので杏香に注いでもらいながら酒をあおった。杏香も同じように飲んでいるが、彼女はけろりとしたものだ。吉政は既に頭がくらくらしてきた。


「……杏香」


 何故持ってきたのかわからない干し桃を口にしていた杏香はそれを飲みこんでから首をかしげた。なあに? ということだ。


「その……母にいろいろ言われて、つらくはないか? ……私も、ろくにかばってやることもできなくて……い、嫌になったなら、屋敷を出ても」


 いい、と消え入りそうな声で言う吉政である。本音を言うと、杏香に出ていってほしくない。しかし、吉政では杏香をかばいきれないのは事実であるため、彼女が耐え切れないなら距離を置くしかないと思った。

 妻となった女性と離れたくないなんて、一年前の吉政が聞けば嘘だと思うだろうと、少し苦笑を浮かべる。


 杏香はぱしんと吉政の両頬を包み込み、じっと吉政を見つめた。さすがの吉政も、杏香の言いたいことすべてがわかるわけではない。だが、小さく首を左右に振られ、吉政はどきっとした。


「……出て、いかないのか」


 こくりと深くうなずかれ、吉政は安堵の息を吐く。


「すまない……重ね重ね情けないが、心の底から安心した……」


 杏香の涼やかな目元が和む。仕方がないなぁと言われているようで、吉政は少し赤面した。

「……杏香」

 そっと腰を抱き寄せて口づける。いつもはどちらかと言うと気が強く飄々としている彼女が、この時だけは控えめで、どうしたらいいかわからない、と言うように頬を赤らめる。その仕草がたまらなくかわいい。母の襲来を受けた後だと、余計にそう見えた。

 ぎゅっと着物をつかまれる。のけぞった首筋にも唇を寄せた。小刻みに体が震え、唇から吐息がもれる。その黒曜の瞳が潤んでいるのを見て、やり過ぎただろうか、と焦った。

「す、すまない。調子に乗った……」

 すると、杏香は吉政にしがみついてふるふると首を振った。


 ……これ以上、調子に乗らせてどうするのか。
















 翌朝、吉政は杏香に肩をゆすられて目を覚ました。単姿で褥に手をつき、上半身を起こして吉政の顔を覗き込んでいた。そこに浮かぶのは、戸惑い、だろうか。


「……どうした」


 彼女の頬に手を当てて尋ねると、杏香は寝所のふすまを指さした。寝起きでぼんやりしていた吉政は、そちらに目をやり、身を起こす。意識がはっきりしてくると、女性の金切り声が聞こえた。反射的に身がすくむ。その背中を杏香がそっとなでた。


「ごめん……大丈夫」


 心配そうな杏香に微笑み、吉政は褥から出た。ふと思って手を差し伸べると、杏香がその手をつかんで立ち上がった。金切り声はまだ続いている。

「……うん。私は母を何とかしてみるよ……」

 実際にできるかはともかく、その努力はしてみようと思う。そう。金切り声で叫んでいるのは母の芳篤院だった。

 ひとまず着流しに着替え、適当に髪をくくり、ひとまず母の元へ向かう。その足取りは重いが、この屋敷の中で母を何とかできそうなのは吉政だけなのだ。いや、何とかできないけど……。

 感情的過ぎて何を言っているのかよくわからないが、どうやら母は、この屋敷の在り方が気にいらないらしい。


「お、おはよう、ございます……」


 相変わらず消え入りそうな声だが、何とか自分から声をかけることに成功した吉政。自分をほめたいほどの成長ぶりであるが、母には通じなかった。

「なんなのかぇ、この屋敷は! お前がしっかりしておらぬからじゃ! それにに、そんなだらしない恰好をしおって! 昔からわたくしをいらつかせるのが得意だね!」

「…………そ、れは……」

 結局言葉が出てこない吉政である。情けないほど手が震え、のどが絞まって声が出ない。母の頭に響く声を何とかしようとあわてて出てきたが、彼女の金切り声はとどまることを知らない。

「いつもそうじゃ! お前はわけのわからぬものを集め、不愉快な行動をし、こちらの言うことなど聞きもしない! 立ち振る舞いは半人前、武芸も不得手! どうしてお前のような子を産んでしまったのか……!」


 その時、ぱしん、と芳篤院の頬が張られた。もちろん、ずっとうつむいていた吉政ではない。身支度を整え、駆け寄ってきた杏香だった。彼女自身も驚いた表情をしているので、本意ではなかったのかもしれないが。


 杏香も驚いているが、吉政と芳篤院も驚いた。そろりと杏香が手をひく。


「何をする! 義理とはいえ、母親をたたくとは……聞いておるのかぇ!?」


 再び、今度は杏香に対して怒鳴る芳篤院だが、杏香はと言うと、紙にさらさらと何かを書いていた。それを芳篤院に突きつける。その勢いに、母はたじろいだ。

「な、なんじゃ!」

 読め、とばかりに杏香は紙を押し付けた。顔をしかめつつ、芳篤院がその紙に目を通し……。

「なんだぇ! 口ごたえする気かぇ!?」

 その紙を杏香に投げつけた。吉政は杏香の名を叫び、彼女を抱き寄せる。

「何をするんですか、母上!」

 初めて母に対して大きな声を出したかもしれない。いや、普通に考えたら先にたたいた杏香の方が悪いのだが。


 膠着状態に陥ったとき、別の声が響いた。


「母上!」

 男の声だ。吉政の聞いたことのある声である。というか、弟だ。

「おや、秀弘。迎えに来てくれたのかぇ?」

 ころっと機嫌を直して芳篤院が吉政の弟、秀弘に向き直った。しかし、秀弘はまずこの屋敷の主たる吉政に向き直った。


「お久しぶりです。兄上。義姉上もお元気そうで」


 秀弘は年下の義姉に向かっても挨拶をした。杏香がぺこりと頭を下げる。秀弘は母とは違い、杏香が口を利けないことを知っているので咎めなかった。彼はむしろ、杏香との縁談が決まった兄に、「話せない方がうまく行くんじゃないですか」とかのたまった人間である。結局、その通りだったが。

「久しぶり、秀弘。おはよう」

「おはようございます。勝手にお邪魔してしまいました。さて、母上、送らせますから先に帰ってください」

「お前も一緒ではないのかぇ?」

 吉政や杏香に対していた時とはずいぶん違う優しげな口調で芳篤院は言った。昔はこの扱いの差が悲しかったものだが、今となってはそれほどではない……それよりも、杏香がかなり白けた目で芳篤院を見ているのが気になる。彼女から見ても、母は常識はずれらしい。

「私は兄上と義姉上に話がありますから」

「この者たちを兄姉と呼ぶ必要はない! この女、義理とはいえ母に手をあげたのじゃ!」

 ここぞとばかりに芳篤院が訴えた。吉政はその甲高い声にびくっとしたが、指を指された張本人である杏香はしれっとしたもので、落ち着かせるように吉政の手を握ってくれた。


 訴えられた秀弘と言えば、胡乱な表情で母を見つめ。

「どうせ、母上が心無いことでも言ったのでしょう」

 と母の訴えを一刀両断した。穏やかなようで、ちゃんと見ている吉政の弟だった。

「な、何を申すのじゃ! 秀弘、お前は母の味方であろう?」

「はいはい。母上は先に戻っていてください」

 連れてきた侍女たちに母を押し付け、秀弘は兄夫婦に向き直った。その後ろから芳篤院の秀弘を呼ぶ声が聞こえているが、彼は無視した。


「申し訳ありません、兄上、義姉上。昨日、私が外出しているうちに無理やり出て来たらしくて」

「……いや、苦手だからと、母の世話を任せきりにしている私が、そもそも兄失格だからな……」


 つくづく情けない兄で、夫だ。杏香がぽんぽんと背中をたたく。慰めるつもりなのかわからないが、秀弘も口を開いた。

「いえいえ。昔から兄上は私の憧れですよ。確かにちょっと頼りないところもありますけど、今の、昔なら母上に一言も言い返せずその場に崩れ落ちているくらいの場面です」

 ちょっとは成長していると言いたいらしい。

「やっぱり、義姉上のおかげなんですかね」

 驚いたように目をしばたたかせた杏香は、にこりと笑って首をかしげた。ああ、はぐらかしているなぁと思った。










ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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