十三手
杏香が動かした駒を見て、吉政は考え込む。吉政は王妃の駒を手に取ると斜めに動かした。
春になり、吉政たちは無事に美澄国に戻ってきていた。やはり、自分の屋敷は落ち着く。
あの、中津での出来事は吉政と杏香の関係にさらなる変化を与えた。あの時、吉政が自分の妻とはいえ、杏香を抱きしめ恥も外聞もなく泣きはじめたことは周囲に衝撃を与えたが、それ以上に杏香を驚かせたようだった。よしよしと頭を撫でられた。
吉政は視線をあげて杏香を見る。指を組んだ手を口元に当てて考え込んでいた。彼女が首をかしげると、合わせて黒髪が揺れた。次の手がさされる。吉政は盤上に視線を戻した。
吉政が杏香の王の駒を追い詰めていると、家令のような役割をしている貴成がやってきた。
「吉政様。おくつろぎのところ、申し訳ありません」
「貴成か。どうした?」
吉政が問うと、彼は視線をさまよわせてためらいがちに言った。
「その、芳篤院さまがいらっしゃっているのですが……」
「……」
知らず、吉政は息をのんだ。芳篤院倫子は吉政の実母である。あの、吉政を変だ、気色が悪い、と手をあげた女性だ。吉政の顔が青ざめるのがわかったのだろう。杏香が「私がお相手しましょうか」と書いた紙を差し出してきた。
吉政は杏香を見る。彼女は心配そうに吉政を見上げていた。
彼女は口が利けない。気性の荒い母は、そんな彼女にイラついて、杏香にも手をあげるだろう。まあ、彼女が話せたとしても同じ結果になるかもしれないが……。
「……いや。私が行く」
立ち上がった吉政に、杏香は追いすがるように立ち上がると、再び紙を差し出した。
せめておそばに。
そう書かれているのを見て、吉政は半泣きで笑った。
△
「……お久しぶりです、母上」
いくら母とはいえ、立場は吉政の方が上である。上座で母芳篤院を出迎えた吉政の隣には、杏香が控えめにちょこんと座していた。
何とか絞り出した声に、顔をあげた母はわざとらしく驚いて見せた。
「おや! お前、声が出たのかえ!」
甲高い母の声を耳にし、吉政は思わず顔を俯けた。夫が亡くなり、剃髪して仏門に入った母だが、性格は相変わらずだった。
「辛気臭いのは相変わらずだね。おどおどしたお前が妻をめとったというではないか。わざわざ会いに来てやった母にあんまりな仕打ちだこと!」
そもそも、母は息子の祝言にも来なかった。現在、秋月の本家を継いでいる弟は祝いを述べてくれたが……。まあ、来ていたとしても、吉政が余計に委縮するだけなので来なくて正解だったのかもしれないが。
「で、ここまで連れてきておいて、お前の妻も紹介してもらえないのかえ?」
たぶん、母は杏香を睨んだ。何とか顔をあげて杏香を見ると、彼女はけろりと微笑んでいた。強い……。
「……妻の、杏香です。香野の遊佐家の出です。……あの、母上、彼女は……」
口を利けないのだ、と言う前に、じろじろと杏香を見ていた母は言い放った。
「ぱっとしない小娘だこと!」
いきなり貶された杏香だが、やはりにっこり笑っていた。しかし、その眼が笑っていない気がする。基本的に気性が穏やかと言うか、さばさばしたところのある彼女だが、さすがに初対面で貶されてはいい印象を持ちようがない。
「……十分、可愛らしいと思いますが……」
何とか吉政はそう反論した。と言うか、自分が母に反論できることに驚いている。杏香との婚姻前であれば、絶対にできなかったことだ。
今でも、恐怖が勝り声が震える。しかし、ここで母に対して声を上げられるのは吉政だけだ。杏香は話せない。吉政だけが中傷されるのなら黙って耐えるが、杏香が傷つけられるのは黙っていられなかった。
母はと言うと、吉政が言い返したことに驚いた様子を見せた。しかし、すぐに見下すような表情を浮かべた。
「お前、いつからわたくしに言い返せるほど偉くなったのかえ」
母の手が扇子を握りしめるのを見て、吉政はびくりと震えた。ふっ、と母が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「いつもいつも! お前は怯えたように見せてわたくしたちを見降していたでしょう! ふん、杏香と言ったか。お前もそのうち思い知るであろうよ!」
母は勝手に怒り、立ち上がるとその場から出ていった。彼女の気配が遠ざかったあと、杏香は吉政に向かって手を伸ばした。しかし、吉政は思わずその手を振り払った。初めてのことである。杏香が驚いたように目を見開く。吉政自身も驚き、呆然と自分の手を見つめた後、顔をゆがめて視線を下に向けた。
「……ごめん……」
杏香は目を細めると、再びそっと手を伸ばした。吉政を驚かせないようにか、そっと彼の手を取る。吉政は顔をあげた。
「……ごめん、情けない夫で……」
彼女の手を握り返しながら吉政はうなだれて言った。杏香は静かに首を左右に振る。そんなことはない、と言っているのだろう。
だが、彼女がいくらそう言ってくれていたとしても、吉政は自分で自分が情けない。いや、もともと情けない人間だとわかってはいたが。
「……母の前に出ると、どうしても、委縮してしまって……これでも、話せた方なんだ……」
どうしても母の前に出ると、子供のころに怒鳴られ、たたかれた記憶がよみがえる。蔵に閉じ込められて食事を与えられなかったこともあるし、寒い中裸足で外に立たされていたこともある。もう十五年以上も前の話だが、そのころの記憶が色濃く残っているのだ。
とん、と軽い衝撃があり、杏香が抱き着いてきた。慰めるように背中をたたかれ、吉政もすがりつくように彼女の体を抱きしめた。彼女の優しい香りに包まれていると、自分が落ち着いてくるのがわかった。現金なものだ。
「……ありがとう。落ち着いた」
体を離して微笑むと、杏香も優しく微笑んだ。彼女の頬を撫でて少し上向かせると、彼女は目を閉じた。顔を近づける。
「吉政様、っと、失礼しました」
貴成だ。なかなか戻ってこない吉政と杏香を探しに来たようだ。どきっとした吉政の口調はちょっとどもっていた。
「い、いや。どうした?」
前にもこんなことがあったな、と思いながら貴成に尋ねると、彼は居心地悪そうにしながら近づいてきた。
「あの、芳篤院様なのですが……今日はお泊りになられるそうで」
「……そうか」
まさかたたき出すわけにもいかず、吉政はうなずいて滞在の許可を出した。成り行きを見守っていた杏香が慰めるように吉政の腕を軽くたたいた。吉政は杏香を見て、先ほど寸止めで終わったことを思い出した。
彼にしては珍しくやや強引に杏香を引き寄せると、その頬に口づけた。驚いたように目を見開いた杏香だが、すぐにむくれたような恥じらうような表情になった。吉政は、彼女のこのちょっとすねたような表情が好きだった。彼女の手をひいて立たせる。
「……情けなくて申し訳ないけど、できるだけそばにいてほしい……」
杏香がいれば、少なくとも吉政は彼女を守ろうという意識が働く。たぶん、杏香は吉政に護られるほど弱くはないが、それは吉政自身のために必要だった。それがわかっているのか、杏香はこくりとうなずく。
「ありがとう……」
ほっとして吉政は緩く笑う。そんな主人夫婦を見て、貴成は言った。
「お二人とも、だいたいいつも一緒にいるじゃないですか……」
言われてみれば、そうかもしれない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
母上襲来。




