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十一手

初めての杏香さん視点。










 美澄国の大名・柊時盛に仕える小大名の一人である秋月吉政の正室・杏香は、香野国の上級武士である遊佐家から嫁いできた口のきけない姫君だ。容姿は整ってはいるが美女と言うほどではなく、すらりと背が高い。目元は涼やかで、笑っていなければ少し冷酷な印象を人に与えるだろう。

 そんな杏香は、初めから話せなかったわけではない。十二歳のころ、夢の中で声を奪われ、それ以来口が利けず、結婚は絶望的だろうと言われていた。


 そもそも、そうなる前から杏香の婚姻は難しかった。主に、杏香が変わり者過ぎたせいである。


 大前提として、杏香は頭の良い少女だった。彼女には四つ年上の兄と二つ年下の妹がいるが、その二人よりも確実に文字を覚えるのが早かった。少なくとも、五歳のころには漢書を読んでいたというのが兄の証言である。八歳のころには高度な算術も解いていた。

 どちらかと言うと分解系であった後の夫吉政とは違い、杏香は創作系だった。算術の新しい解法を見つけたのは彼女だ。方向性の違う頭のよさなのだ。

 彼女も、かなり変わった性格をしていた。本を読んでいたかと思えば、火薬を入手してきて花火を打ち上げようとして見たり、池の水をすべて抜いてみたりした。火縄銃を解体ではなく、改良したりもした。


 吉政と違ったのは、彼女には理解してくれる家族が側にいたことだ。何しろ、彼女ほどではないにせよ、彼女の父も兄も妹も、なかなかの奇行振りで知られたからだ。

 そんなわけで、彼女の性格は擦れなかったし、成長するにつれて奇行も落ち着いてきた。聡明な少女だ。美女と言えるほどではないが、容姿は悪くない。嫁ぎ先がすぐに見つかるだろうと思った矢先に、声を失った。


 その噂はじわじわと広まっていった。面白がって杏香を見に来る人はいたが、婚姻なんてもってのほかの状況になった。

「杏香、ずっとここにいていいんだからね」

 と妹に甘い兄直次などは言ったが、そんなわけにも行くまい。杏香の妹も結婚し、さすがに身の振り方を考えていたころ、父が持ってきたのが吉政との縁談だった。


 彼の事情は先に聞いていた。彼も、杏香の事情を聞いていただろう。吉政は女性が怖いようで、杏香は口が利けない。口のきけない女性であれば、吉政も平気だろうと思われたようだが、周囲が思っているよりも彼の女性恐怖症は重症だった。

 結婚するも、しばらく交流のない日々が続いたが、もともと杏香は一人でも平気な人間である。ただ、吉政がたまに隠れるように様子を見に来ていたのには気づいていた。


 ある日、池に落ちかけた杏香を助けてくれた吉政を強引に将棋に誘った。目を合わせようとしないし、言葉も少なかったが、彼はおとなしくついてきたし、杏香のことを嫌っているわけではないのだとわかってほっとした。

 少し交流するようになれば、吉政は杏香を疎んでいるわけではなく、ただ接し方がわからないのだと言うことに気付いた。杏香もどちらかと言うと積極的な方ではないのだが、吉政に関しては杏香から攻めなければ攻略できない。杏香の誘いを嫌がっているわけではないようだし、話……杏香は筆談だが、していても楽しい。聡明な人なのだ。

 よい関係が築けていると思う。婚姻から八か月ほどたつが、吉政は杏香の顔を見て話すようになったし、笑いかけてくれる。言いたいことも察してくれる。好意を抱かないはずがなかった。たぶん、杏香は吉政のことが好きだ。


 いや、それはいい。現状に全く関係がない。杏香は今、三人の大名夫人と共に囚われの身となっていた。しかも、訪れていた中津城内で!

「杏香さん……」

 杏香に抱き着いて震えているこの少女は奈胡姫。中津城城主泰治の嫡男の正室にあたる姫君だ。十四歳で、年は近いが口のきけない杏香に、何故か懐いている。もう二人は時盛の正室胡蝶、さらに泰治の正室梓も一緒だ。何故この四人なのかと言うと、たまたま一緒にいたからで、杏香は完全におまけだった。

 彼女らが監禁されているのは、冬の間は使われていない蔵だった。一応、二階にあたる部屋に畳を敷き、火鉢を置いているが寒いものは寒い。見張りは一階部分に二人で、人数は少ないが逃げ出すことは難しい。階下に下りれば、必ず目に入るからだ。二階に窓はあるが、人が通れる大きさではない。


 もしかしたら杏香一人なら逃げられたかもしれないが、一番逃げても仕方がない人間が逃げてどうするのかと言う話である。序列は微妙なところであるが、最初に逃がすのであれば梓だろう。

 人質は生きていてこそ価値がある。もし梓が死ぬようなことになれば、泰治は全力を持って報復戦を挑むだろう。そして、彼は女子供に優しい。息子や家臣の妻だからと言って捨て置くことはあるまい。

 逆に、それを知っているから彼らは杏香たちを人質にとったともいえるのだが。

「奈胡殿。あまりしがみつくと杏香殿が苦しいですよ」

 穏やかにそう言ったのは梓である。三十代半ばの彼女は、この状況でも落ち着いていた。いわく、人質に出されるのは初めてではありません、とのことであった。

 奈胡は杏香にしがみつくのはやめたが、その手を握って離さなかった。杏香も振り払わずに、手を握り返した。


 しばらくして、奈胡は杏香の膝に頭を乗せて眠ってしまった。梓が彼女に綿入りの打掛をかける。彼女は微笑んで奈胡の頭を撫でた。やっぱり気丈である。

「さて。胡蝶殿、いつまで震えているのですか。杏香殿を見習いなさい」

「も、申し訳……いえ、寒いだけです」

 言い訳がましく胡蝶は言った。まあ、寒いというのも本当なのだろう。梓は胡蝶の手を握る。

「大丈夫です。殿はわたくしたちを見放すようなことはしません。信じて待ちましょう」

 結局、梓が言う方法が一番確実なのだ。胡蝶と杏香はうなずき、梓に同意を示した。梓がもう一度奈胡の髪を撫でた。

「……この子だけでも、無事に帰してあげたいものです」

「……そうですね」

 これには胡蝶も同意した。いくら恐怖に震えていても、胡蝶も武士の妻なのだ。


「あ、杏香。あなた、何かいい策とかないの?」


 思い出したように胡蝶に尋ねられたが、杏香は首をかしげるにとどめた。ないわけではないが、奈胡がいるので実行は難しい。さらに、伝える手段がなかった。杏香は口が利けない。

「何か書くものが欲しいわねぇ」

 そう言って梓がろうそくを片手に周囲をあさり始める。胡蝶も手伝い始めた。杏香は膝に奈胡が乗っているのでじっとしていた。

 ふと、杏香は懐に手を入れる。取り出したのは将棋の駒だ。連れ去られる前、杏香は奈胡に将棋を教えていたのだ。言葉がなくても、何となく伝わるものだ。何となくだが……。


「あ、木簡があるわよ。綴じた本もあるけど……あら、香車ね」


 梓が杏香の手にある将棋の駒を見て言った。胡蝶が「どうしてそんなもの持ってきたの」と不思議そうにしているが、梓は「杏香殿の駒ですね」と微笑んだ。兄にもよく言われた。

「これの裏に書けるかしら」

 と、梓が木簡と閉じた冊子を差し出した。これ、重要なのでしまってあるのではないのだろうか。と思ってみたが、冊子は源氏物語だった。木簡は覚書のようである。まあいいか。

「ああ、でも、筆がないわね」

 胡蝶が気づいたように言ったが、杏香はさっと懐から携帯用の筆と墨を取り出した。水は、さすがに飲み物や食べ物を出されているので、ある。

「……何故懐紙も持ってこなかったのかしらね」

 胡蝶に言われ、杏香は面目ないとばかりに頭を下げた。
















 さすがに大人たちも眠くなる。身分の関係上、一番階段の近くで眠っていた杏香は、もの音に目を覚ました。倉庫の中には使わなくなった打掛なども大量にあったので、それを重ねて上にかけていた。

「お、おい、さすがにまずくないか?」

「だって大名のさいだぜ。こんなことでもないと顔も拝めない!」

 今は人質だろ、との声も聞こえてきた。男たちが入ってきたようだが、武士ではなさそうだ。せいぜい足軽だろうか。


「……杏香さん?」


 杏香が動いたことで、隣で寝ていた奈胡が目を覚ましてしまったようだ。杏香は起き上がろうとする奈胡を押しとどめ、周囲を探って漆塗りのそれを手に取った。先がとがっているそれは、簪である。

 急な階段を上ってきたらしい先頭の男が、杏香に向かって手を伸ばした。暗闇であるが、外からある程度光は入っているし、目が慣れてきていた杏香は、その手に向かって思いっきり簪を振り下ろした。









ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


しゃべらないので、杏香視点は難しい。声が出ない関係の話まで行きたいところ。

初めて池の水を全部抜いてみたのは、みんな大好き信長様だと聞いたことがあるけど、本当なんでしょうか。『信長公記』を読んでみるべきだろうか…。


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