一手
新連載です。よろしくお願いいたします。
「なあ吉政。お前、いくつになるんだっけ」
「……二十五ですが、何か」
まさに戦の真っただ中、陣中で突然主君に尋ねられ、柊家の軍師・秋月吉政は面食らいながらも答えた。
「お前さすがに嫁貰おうぜ。この戦終わったら」
「勝てなくなりそうな発言をしないでください」
とりあえずツッコミを入れた吉政である。そこに伝令がやってきて、勝ったことを伝えてきた。よし、と声が上がる。
「さすがだな。お前の戦術があれば負けることはない気がする」
そんなわけあるか、と言う感じであるが、だから嫁を取ろう、と続けられて吉政は肩を落とした。
「……殿、そもそも私は……」
「ああ、わかっている。この前、香野で面白い娘を見つけたんだ」
「……」
話を聞いていない。ひとまず、勝ったので速やかに撤収しなければならないと、吉政は主君の代わりに指示を出しはじめた。
そして、撤収するころには話があったことを忘れていた。
△
……本気だったのか。隣に白無垢の女性の存在を感じながら、祝言に臨む吉政は思った。簡単な祝言であるが、吉政には長く感じられた。
この美澄国を治める大名・柊時盛は己の軍師たる吉政に、本当に縁談を持ってきた。いくらか年上で、くすぶっていたところを拾い上げてもらった自覚のある吉政は、時盛に強く出られないところがある。時盛も時盛で、吉政を弟分のように思っているようだった。
ありがたい話ではあるが……今回に限っては余計なお世話だと言いたい……。二十五歳で結婚と言うと、この時代の武士階級で言うと少し遅いくらいだ。それでも、彼は結婚できなかったのではなく、しなかったのだ。
吉政は、女性の顔を見ることができない。話すことができない。周囲にこれは修正不可能なほど重症である、と認定を受けているほどだ。これは幼いころの経験が関係しているので、そうそう治らないと思っている。
そんな中で嫁ぐ相手がかわいそうすぎる。姿勢よく隣に座っている女性は、まだ十八なのだそうだ。いくらでも嫁ぎ先はあるだろう。
いくら、話すことができないのだとしても。
香野国の武家・遊佐家から嫁いできた彼女は杏香という。香野国は、美澄国から見て北に位置する。そこから、わざわざ嫁いできた彼女を追いかえせるほど、吉政は鬼畜でもないつもりだ。
事前に聞いた話では、彼女は話すことができないのだそうだ。声が出ないだけで、筆談は可能らしい。耳も聞こえるので、言葉も理解している。
しかし、時盛が彼女を「面白い」と言ったのは、そのことではない。彼女は将棋や囲碁などの盤上競技がめっぽう強いとのことだった。吉政も強いし、話が合うんじゃないか。話せないけど。とは、主君・時盛の言葉だ。いろいろと失礼である。事実ではあるが。
そんなわけで、杏香は今、吉政の屋敷にいる。時盛から与えられた屋敷で、彼は数人の侍従など下働きと暮らしていたが、そこに侍女が追加されることになった。殿さまの家臣の娘とはいえ、遊佐家は有力武将だ。いうなれば、杏香もお姫様なのである。しかも、声が出ない。意思疎通が難しいので、慣れている侍女を連れて屋敷に入った。男しかいなかった屋敷が華やいで、男どもは喜んでいるが。
しかし、吉政と杏香の生活空間は完全に別だった。それなりに広い屋敷で、吉政は日中、登城していることが多い。まったくと言っていいほど生活の合わない二人だが、わざと合わせていない面もある。
それがわかるのかどうなのか、杏香の侍女からは苦情が来ているらしい。吉政の事情は理解しているが、さすがに式以来一度も顔を見せないのはひどい。初夜も流されたのに、とのことだ。ちなみに、侍女の言い分を家政を仕切っている者から聞いたので、杏香の言い分ではない可能性が高い。
言われたところでどうにかなるものではないが、一度くらい様子を見に行ってもいいかな、と思った。こっそり見るくらいなら……後姿の方がいいかな。
聞けば、杏香は天気のいい日は縁側で将棋や囲碁を並べているらしい。吉政の家臣が何人か相手をしたことがあるはずだ。その者達曰く、「女にしておくのがもったいないほど強い」らしい。囲碁だか、将棋だか、どちらのことかわからないが。
さて、その日も杏香は縁側で碁石を触っていた。萌木色の袿を羽織り、長い黒髪は一つに束ねている。ほっそりした女性だ。後姿を確認したのみのため、顔は未だにわからない。いわく、「不器量ではない」との微妙な評価を主君・時盛から聞いた。
ふと、杏香は盤面から顔を上げ、きょろきょろと周囲を見渡した。視線に気づいたのかと、吉政はあわてて引っ込む。それを、家臣に見られた。
「……話しかけてくればいいのでは?」
思いっきり呆れられたが、それができないからこっそり見ているのだ。恥ずかしがっているとか、そんな次元の問題ではないので。
「……それはできない」
主に自分の精神衛生上の問題で。この彼、小南貴成はこの屋敷の家政を見ている家臣だ。吉政ができない部分を補填してくれている感じだ。つまり、杏香やその侍女の相手は彼がしているわけだ。
「奥方様は何もおっしゃいませんよ」
口が利けないのだからそれは当然だ……。
「吉政様。奥方様を娶るだけでは話は終わらないのですよ」
「……」
わかっている。時盛が吉政に望んだのは後継ぎだ。まあ、吉政の弱点を克服することも狙っていたかもしれないが……。吉政は現状、女性触れるどころか顔を合わせて話すこともできない。いや、そもそも杏香は口が利けないので話せない……?
「奥方様は理性的な方ですよ。確かに言葉は話せないようですが、とても教養の行き届いた聡明な女性です。大丈夫ですよ」
そう請け負った貴成が最後にたぶん、と付け加えたのを、吉政は聞き逃さなかった。
「……一応、女性の全員が母や乳母のような人ではない、と理解はしているつもりだ」
吉政は実母や乳母から厳しく育てられた。
厳しく、というのは語弊がある。それはもっとひどく、虐待だったと言ってもいいほどだった。
昔から、吉政は『変わった子』だった。疑問があると解決しなければ気がすまず、母や乳母たちを質問攻めにするのは当たり前。少し大きくなると、今度は鏡や衣装棚、果ては火縄銃を解体し始めた。
まったく言うことを聞かない、と母や乳母は怒って吉政に手をあげた。物置に閉じ込め、食事を抜くこともあった。寒い冬に屋敷から締め出されたこともある。父は手をあげることはなかったが、母上の言うことを聞きなさい、と戸惑ったように言うだけだった。
吉政も大人になって、さすがにわかる。吉政は扱いにくい子で、母も乳母も彼を扱い兼ねたのだ。言っても聞かないから手をあげる。仕方のないことだったのかもしれない。
そんな彼の奇行を止めたのは、先代の柊家の当主・国重だった。彼が与えたのは、教師と本。次々と知識を吸収していった吉政は、少なくとも奇行は収まった。
しかし、扱いにくいのは変わらず、母や乳母はやはり手をあげた。他の侍女や使用人が加わることもあった。母や乳母を力づくで止めるなど、当時の吉政には思いつかず、感情的な彼女らに、次第に恐怖心を抱くようになった。
元服し、主君筋である柊家に仕えるようになっても、母や乳母の暴力は止まなかった。これまでも何度か縁談が持ちあがりかけたことはあるが、そのころにはもう、吉政は女性の顔を見て話すことができなくなっていた。あからさまに媚を売ろうとする女性に、吐いてしまったこともある。これが十年以上続き、現在に至る。以上が吉政の女性恐怖症のしだいである。
それが何の因果か、吉政は妻を娶っている。吉政が女性の顔を見ることができなかろうと、杏香には何の罪もない。理性的にそれがわかっているから、余計に申し訳なく思う吉政だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この時代に、虐待と言う言葉はあるのだろうか……まあ、雰囲気だけなので。