蘇生へ
携帯を切り、課長はゆっくりコーヒーを飲む。
また胸が痛み出した。少しずつ体が胸から蝕まれている。自分は死にむかって確実にすすんでいると思った。
しかしマリもまた死に直面している。
助かる望みがある点が課長とは違うが、死に直面している点は同じだ。
その意味で親近感を覚える。同じように死を現実に前にした仲間といえる。そう考えると、ますます、マリは他人ではなくなった。
手術は三時間以上かかった。
課長は手術室前のベンチにすわっていた。腕時計を見ると午後九時前。
不意に手術室のドアが開き、あの男性医師が現われた。
立ち上がった課長に向い、医師は手短かにしゃべった。
「ベストな出来です。命は大丈夫。意外にはやく意識をとりもどすでしょう・・・」
思わず課長は頭をさげた。
医師は手術内容を簡単に告げてから無表情な目で課長を見るでもなく見て、 じゃあ、といって立ち去った。相当に疲労している様子だ。無理もないだろう。
続いてオペに参加した若い医師が数人現われ歩いていった。
看護師が現われ、患者は集中治療室に運ばれたと告げた。明朝には面会できるという。
安堵し、課長はベンチにへたりこんだ。
緊張の糸が切れると、また胸が痛みだした。今度はかなりきつい。刃物でえぐられるように肺に激痛が走る。
課長の体もいよいよ傷んできた。これ以上傷んでしまうと、身動きがとれなくなる。
もう行動しなければならない。
しかし、マリくん、よかったなあ助かって。いよいよ死に向うのは私ひとりになったか。
マリのことで安堵して、一方で課長の死への思いはぐっと現実味を帯びた。胸が痛んだ。ひどくて耐えられない。意識が朦朧となる。
朦朧とした意識のなかで、自分を勇気づけるように、課長は胸のホルダーから金属製の重たいものを取り出した。
今夜は、この特訓ができなかった。自分も相当にこれの使い方には慣れてきたというのに。もっと腕をあげようと思っていたのに。
はげちゃんもとんでもない刑事だ。
押収した拳銃をいつのまにか手にいれて、コレクションしていたというのだから、公安系の刑事でなくてもマークするだろう。
ここ1か月、はげちゃんと再会してから、毎日のように、埠頭近くの廃屋となった倉庫で、射撃訓練をしてきた。あんな場所を知っているというのも、きわめて危ない刑事ならではだ・・・
拳銃をいじっていたら、胸の痛みが和らいできた。拳銃を手にしただけで、何かを撃ち殺したのだ。死を目前にしたのに生じた心の怠惰?
それからくる痛み?課長は拳銃を手にして廊下の向うに銃口を向けた。ばん!と撃つまねをして、へへん、と息を吐いた。
・・・はげちゃんの声が聞こえた。どなっていた。昨日の晩のことだ。
「たかがガンでどうしたっていうんだ!」
課長もどなりかえした、「ガンでもうすぐ死ぬんだ、大変に深刻なんだ・・・」
「気取るな。人間どうせ死ぬんだ。早いか遅いかの違いだ。俺なんか商売がら、いつも死ぬ覚悟だ。まあちゃん、おまえだってそうだろう?」
激しい刑事といっしょにされてはかなわない。課長はしがないサラリーマンなのだ。死ぬ覚悟などありはしない。はげちゃんにはかなわない。もう特訓には疲れた。
「疲れた・・・」 課長はハアハア息が苦しかった。飛んだり走ったり基礎体力づくりからはじめて射撃訓練にいたるフルコースは、中年男に本当にきつい。「病気なんだよ、私。だから疲れも深刻だぞ」
「まあちゃん、いつも疲れは深刻だよ」 はげちゃんは手にしたリボルバーを怖い目で見つめた、「深刻な疲れで、休んでいると、そのうち時間はすぐに過ぎちまうぜ」
「ああ」
「時間がすぎて、そのままあの世いきだ、ガンであろうとなかろうとな。つまらねえ貧しい人生だよ。貧しいのはいけねえよ、人生、ゼイタクにいかなくちゃいけねえ」
「・・・」
「ゼイタクってのはよ、正義だよ。正義が最高のゼイタクだ。何か正義をやるんだ」 激しい目つき。はげちゃん自分の言葉に酔う。「いつも誰でも時間はないんだよ、短い時間をゼイタクにいくには、正義をやるしかないんだ、俺らの場合の正義は、悪いやつらに殴り込みってことだ」
「ああ・・・」
はげちゃん哲学だ。こういう風だから刑事になったか。ついていけないところもあるが、励ますはげちゃんの気迫はわかった。短い余生を有効にいけといいたいのだ。
課長は手にしたピストルを上に向け、にたりと笑った。中年男の決意笑い。やはり、少し不気味であるが、それは間違いなく、「自分の人生を生き抜こう」という決意ではあったのだ。
「やるよ、疲れたけど、時間ないから、やるよ。俺、ちょっとガンだから!」
・・・翌朝、課長はマリのベッドの前に立った。
あいかわらず、体中に注射器や管を射し込まれ、手足はむくんでいたが、 呼吸は静かだった。生命をとりもどして、ゆったりと息していた。
やがて マリが薄目をあけて、課長を見た。課長があのホテルにいた課長であることが分かっただろうか。そのまま、何もいわない。
課長も、何もいわず、あらためて見るマリのいたましい姿を前に、震えていただけだった。
「・・・ひどい」
極端な、同情とも怒りともつかない気持が渦巻いて、自分がいま、何の感情もっているか解らないくらい動揺した。肺ガンのせいばかりではなく、胸が痛んだ。
マリは薄く開けていた目をかたく閉じて、また開き、気のせいか微笑むような顔をして口を動かした。
酸素マスクをつけられた口は不器用に動いただけだったが、「あ、り、が、と、う」といっているように見えた。課長はマリに顔をよせた。
「心配しないでゆっくり休んで。何も心配いらない。お金はみんな僕がはらう。君の借金もみんなはらう、それでもお金がのこったら帰国費用にしてよ」
聞こえたのか聞こえないのか、マリはうっすら微笑んだままだった。
そのようにして、制限時間十分の面会は、あっという間に終わった。
しかしその十分は大きな意味をもった。
課長は、自分の気持ちをはっきりと確かめたのだ。短く、深く、意味ある十分。
課長の脳裏に、うっすら微笑んだマリの顔が、しっかりと絶対はがれないラミネート加工の記憶映像になった。
・・・借金をかえしても、問題の本質は解決しない。やっぱり、奴らは何かの因縁をつけてマリに何かいやなことをやらせるか、それがいやだと懇願したら殺すかするのだろう。
金をかえすだけでは、やはり本当の解決にはならないのだ。
・・・・つづく




