彼女は何か言おうとして・・・
まったく、こんな遠藤女史を見るとは思わなかった。
快活で利発で、恋愛の白黒も迅速につけ、自分の感情に左右されることとは無縁な女性という印象しかなかったのだ。
それが、こんなことをいう女になってしまっている。
むかし振った男のガン告知をするはめになってしまったからだ。死におもむく患者の課長よりも、よっぽど辛い地獄におちてしまったのは彼女なのだ。
うつむく彼女。涙がひとしずく頬を流れた。
課長も胸がいっぱいになりそうだ。いかん、と課長は思った。何かいってあげなくちゃ。
いまや彼女にとっては、課長の存在じたいが、原罪であり責め苦になっているのだ。
そりゃないぜ、苦い失恋と肺ガン死という艱難に向っているのは、こっちじゃないのという意見はよくわかるのだが、そういうものでもないのだと課長は最近わかりはじめている。
・・・そう、あの、はげちゃんと会ってから。そうなのだ。死という凄惨な現実を潔くうけいれて残りの人生に立ち向かう気概をもったとき、その人の内心は常人にはわからぬほど静謐。
たとえば戦争のとき、飛行機乗りの死亡確率はきわめて高かったが、不思議に彼らは明るく彼らの口にするユーモアも抜群だった。特攻隊の青年とか。そういうのを昔、本で読んだ。
とにかく、何かいってあげなくちゃ。彼女、ひどくつらそうじゃないか・・・しかし、課長より先に彼女が顔をあげた。何か決心した顔だ。
「田村くん。あたしね。嘘じゃないのよ。本当はあたし、本当に、田村くんにいわなくちゃいけないの。本当は、あたし、田村くんが・・・」
いかん。それだけはいかん。その先をいってはいけない。
いくら感情が苦しくて、つぶされそうだと、いったって。末期ガン患者だといったって。
遠藤君、すまない。こんな男が現われてしまって。理性の君を感情の君に堕落させてしまった。君は本当は心にも無いこんなことをいおうとしている。
-田村君、あたし、本当は、あなたのことが好きだったの。しばらくぶりで会って、気づいたの。ううん、あなたがガンだと知ったからじゃない。そんな患者への同情から生まれたものじゃない。あたし、やっと気がついたの。あのデートのときだって、心の底では本当は君のことを好きだったのよ。そうなの。そうだったの。やっとわかったわ。・・・いいえ、そうじゃないの。ごめん、ずっと嘘ついていて。あんまり好きだったから、怖くてそのことがいえなかったのよ-
すごい!
それが本当だったら、課長の人生はすべてが救われる。いまそこで死んでしまいたいくらい幸福になる。そんなことを遠藤くんがいってくれたら、それこそわが人生は最高のエンディングを達成する。
しかし、それは絶対に本当ではない。本当の彼女の気持ではない。
であるのに、彼女はそのようようなことをいわなくては、とても耐えられない。
そんなことをいったら、実はそれこそ本当の確実な地獄に課長をつきおとしてしまうというのに、それをいわなくては耐えられない。なぜなら、彼女は感情の沼に墜落してしまったから。
以上のことが課長の頭の中で超高速回転し、遠藤女医が「本当は・・・○○」の言葉を口にするコンマ七桁秒以下の直前、課長はワっと口を開けた。
それはアマゾン川をさまよう地元漁船が三週間の不漁の末、やっと釣り上げた大物「肺ガン肺魚シーラカンス」が、感情のおもむくままの人類に向って、太古の理性という名の叫び声をあげたのに似ていた。
「遠藤くん!ぼくは中南米が好きだ!」
「え?」
「もとい。中南米の女の子だ」
「ち、中南米の女の子?」
「そうなんだ。恋しているんだ僕」
「・・・そうなの!?」
「そうなの。僕、出会ったんだよ。その子に。恋してるんだ。だから毎日、新鮮なんだ。毎日、新鮮に生まれ変わっているんだ!」
「・・・・・・」
「正確にいうと、コスタリカの子・・・」
「コスタリカ・・・」
「かわいそうな子でね。実は、ホテルで出会ったんだ、そう、君には汚い世界かもしれないけど、デリバリーソープってのがあって。いや失礼、こんな話で。でもいいね、もう僕も終わりだし。でも、心底すてきな子で、心底、かわいそうなんだ」
「そう・・・」
彼女は二の句が継げない。課長はたたみかける。
「だから、毎日、生き生きしてる」
彼女はやや首を傾げてつぶやく。
「コスタリカ・・・コスタリカ・・・」
「・・・?」
彼女は何か考えているのだった。
「そうね。たしかコスタリカ。で、じゃあ、名前はマリ・・・」
「え!?」
「そうよ、マリ」
「・・・・!」
・・・つづく




