朝
朝がきた。
課長は熟睡してしまった。時刻は朝の十時に近い。
ソファの上で、仰向けになっていた課長の目に、部屋の天井が見えた。
ほんの一瞬、すべての記憶が消えていて何も不幸を感じなかった。
しかし、すぐに、「ハイガン」と、心の中の誰かがささやいた。
苦しくなった。ベッドのほうを向いた。誰かに助けを求めるように。
しかしベッドの上には誰もいない。毛布もきれいにメイクしなおしてあって、そこには誰も寝ていなかったかのようだ。
課長はソファから降りて、ベッドのわきに行き、毛布の上に手をおいた。そこには人のぬくもりというものが、微塵も残っていない。
夢だったのか。
部屋のなかを見回す。彼女の服もバッグも商売道具も何も残っていない。彼女の痕跡は、そこに何かがあるという形では残っていないのだ。
課長にひらめくものがあった。
つくりつけの洋服ダンスに歩みよる。扉をあけるとスーツがかかっている。胸ポケット。手を入れるまでもなく、そこに何もないのは見てわかったが、念のためやはり手を入れてみる。
やっぱり、ない。
ポケットはからっぽだった。そこには財布が入っていたのだ。
その財布には、課長の、ほぼ全財産がつまっていた。
現金、数種のカード、無用心なことに、免許証まで。そしてカードの暗証番号に、課長は生年月日を使っていた。これも無用心のきわみである。
この、財布の不在。
これが、彼女、マリがこの部屋に存在したということの証明なのだ。
あざやかな手口というべきか。課長が、よほど間抜けだったというべきか。
後者だろう。普通の状態の人間ではないのだ。
夢遊病者のようなもので、それは、おそらく、課長がホテルに入ったところから、ホテルのロビーの連中にも明らかだったろう。
誰かが尾行してきて、部屋番号をつきとめ、まちがいデリバリーのふりをして、部屋に入り込み、課長の様子をみてやはり、「カモ」だと確認し、犯行に及んだというところか。
課長は、そうかもしれない、いや違うかもしれない、などといろいろ推理して、しかしそれが他人ごとであるかのように超然としていた。
「まあこんなものさ」
マリのことを思い出した。その鮮血や涙らしき目の光。全部が演技か。アカデミー賞ものだ。そしてあの美貌。あれも本物だった・・・
銀行やカード会社に一応は盗難のことを電話で連絡した。
しかし、あまり執着はなかったから、警察にまで連絡する気にはならなかった。
そして延泊することにした。
ホテルから徒歩と定期(これは盗難にあわず無事だった)で会社に遅刻出勤し、辞表をだした。
少しは退職金がでるらしい。後日、振り込まれるとのこと。振込先はあとで連絡することにした。
そして銀行に立ちよったら、課長の口座からは、お金がすべて知らない誰かの会社口座へと振り込まれていた。その先は、もう追っても無駄だろう。課長は退職金の受け取り用の口座を健康保険証を用いて開設し、口座の番号を会社に連絡した。
これらのことが、知らない国の映画の中の出来事であるかのようにして起き、流れ去った。
会社との縁が切れた課長は孤独だ。
独身だし、両親はすでに他界している。妹夫婦と親戚はいるが、遠いところに住んでいて、ほとんどつきあいはない。身の上のことを連絡する必要は感じない。連絡して、いらぬ迷惑はかけたくない。死ぬ直前に、メール連絡でもすれば十分だと思った。
金がないので、また健康保険証を用いて、初めてサラ金で金を借りた。いともたやすく五十万円が手にはいった。ついでにクレジットカードもつくった。自暴自棄な気持が顔をのぞかせている。心の底で、いっそ多重債務者にでもなってやろうかと思っている。
さて、これから、どうしよう。
胸はときどき痛むが、ほかはぴんしゃんしている。自分で思うに、まるで健康体なのだが。しかし、あと六か月で終わりなのだ。この世の見おさめの旅にでも出よう。
日はすでに西に傾いていた。やがて街には夕闇がせまる。
何も考えず、課長は、ただ歩いた。また、何も音が聞こえなくなった。
何も考えたくないし、何も聞きたくないのだ。考えたり、聞いたりしたら、ガンを思いだして暗い気持になるから、頭や耳が、すべてを拒絶しているのだ。
課長は「生きる」のように仕事で死を忘れ生を充実させることはでいなかったし、「ライムライト」のように絶望の乙女を救うことで死の恐怖から救われるとうこともなかった。
映画はしょせん映画だ。現実は違うのだ。
映画みたいに都合よくいくものか。考えるともなく考えた。考えているという自覚がなかった。
ただ歩いていた。
ゆらゆら、てくてく、ゆらゆら。
昨日のように、課長はまた夢遊病者になってしまった。
・・・つづく




