唯一の女
「隼人、今日の買い物なんだけどさ……ってなんで死んでんの? 昨日は玲子ちゃんとデートだったんじゃないの?」
授業中以外は基本うつ伏せで話しかけんなオーラを朝から前面に出していた俺であったがそれは昼に破られた。俺の3番目の彼女、由紀子がやってきたのだ。
彼女は顔こそ一等級で、待ち合わせのために駅前に立てばわずか数分の間に周りに男の生け垣ができるほどではある。
だが致命的に空気が読めない。それを自覚して若干は治していてこれだ。
例えるならば、地雷草原の真ん中で洋々とピクニックをするような女なのだ。踏んだことにも、周りが焼け野原になったことにも気づかずにサンドイッチを頬張る、なんてことをしかねない。それほどまでに空気が読めない残念な女だ。
「あんまり深く聞いてやるなよ。由紀子、買い物なら俺が付き合うからさ」
「結構あるから隼人に頼んだんだけど……まぁいっか。今の隼人を動かす手間を考えたら朝登と行った方が楽だし……」
それを由紀子の幼馴染であり俺の親友の朝登が諌める。
朝登は由紀子とは正反対の本当に気がきくやつだ。一緒に喫茶店に入れば先に相手を座らせて相手が飲みたいものを聞かずしてドンピシャで持って来たり、食べたいなと頭で思っていたとこれ横からそれを差し出して来たり。先読みの力でも持っているのでは?と勘違いしそうにもなるが、本人曰く由紀子の世話をしているやつは大抵こんなものだという。
だがそこが気に入らないという女子も多く、顔立ちは整っていても彼女がいない期間の方が多い。
最近では「世話しなきゃいけない奴らが多いから彼女なんて作る暇はない」と子育てに追われる母親みたいなセリフが口癖になりつつある。
「え、ちょっ、私のは? 物販で売り子してくれないと! 隼人が座ってるだけで売り上げ全然違うんだけど!?」
そんな朝登の頭を上から押さえつけるようにして切羽詰まった顔で不満を垂れるのは2番目の彼女の浅見。
そういえば明日はなにやらイベントがあると言っていたような、いなかったような……。正常な動きをしていない頭で思い出そうとしてもそれは到底無理なこと。
約束とはいえ断るしかないかと怒りの噴火を予想してから口を開く。だが俺が謝罪を発するよりも前に他の言葉が浅見に届いた。
「それは俺が行ってやろう」
須賀だ。須賀とは大学の入学式で出会った。来た順番に前から席に着くように言われ、隣の席に座っていたのが彼だったのだ。
たまたま同じ学部だと知り、式が始まるまでの時間つぶしのつもりだった会話は弾み、今では外国語の授業以外は全て同じ授業を受けている。まぁほとんどの授業は必修科目で埋まっているから被っているのは須賀だけに限ったことではないが。
容姿こそ朝登には劣る須賀ではあるが、読書が趣味だと豪語するだけあって知識の量はピカイチ。彼は誰との会話でも途切らせることはない。
それにしても、男子校出身の須賀は最近初めて彼女ができたとはしゃいでいたものだが、他の女と祝日を過ごしていいのだろうか?
俺と同じ疑問を持ったらしい浅見は首をかしげた。
「須賀、あんた彼女はどうしたのよ」
「別れた」
「は?」
「パソコンの履歴見られた」
「それは、うん、まぁ、何というか、ドンマイ」
「三次元を信じた俺がバカだった」
「先に買い出し行ってきてもいいから元気だしな」
「俺の嫁はアリスたんだけだ」
数日前まで彼女だった女のことを思い出して盛大に落ち込んでいる須賀の肩を麻美は優しく抱きしめ、なにやらパンフレットのようなものを手渡した。須賀は涙をパーカーの袖口で拭きながらそれを受け取り、2人で教室の端の空いている席に並んで座った。
ペンケースからは色の違う数本のラインマーカーを取り出してチェックを付ければ、次第に須賀の顔は明るくなる。
「いやぁ、須賀ちんドンマイだねぇ」
いつからいたのかわからない、1番目の女、松花が2人のいる方向を眺めながらひょっこりと顔を出した。
「んで、明日の買い出しは?」
松花は6人兄弟の長女で、共働きの両親に代わり家では兄弟の世話に追われる日々だ。
その一貫として休みの日に生活雑貨や食品類を買い込むのだ。そしてそれには毎回俺が車を出す約束になっている。
昨日は玲子とのデートを優先させて車を出せなかったから、さすがにそれは断ることができない。
「それは「あ、それならうちが車回すから帰りパフェ食べ行こう? 一人じゃ寂しいから隼人でも連れてこうかと思ってたんだけど、これじゃあね……」
俺の言葉に被せるようにして、後ろの席で授業を受けていた、4番目の彼女、岬がスマートフォンの画面を松花に見せながら提案する。松花は「いいね!いこいこ」と機嫌よく賛同した。そして、画面から俺へと視線を移す。
「それにしても今日はよく学校来たね?」
「単位、落とすわけにはいかないからな」
俺だって本当は来たくなかったんだ。だが、今日ばかりはそうはいかない。
なにせ今日の授業はどれも出席日数ギリギリ。後1回でも休めばその時点で単位を落とすことになる。決してテストが難しいわけでもない、必修科目で単位を落とすことだけはしたくない。
「なんでそんなギリなの? 隼人、見た目に似合わず真面目じゃん?」
岬は未だにスマートフォンから目を離さずに聞く。
見た目に似合わずとは余計ではあるが、それは何人かの教授にも言われた言葉ではあるのでかわして答える。
「バイト立て続けで入れてたから……」
授業のない日はなるべくバイトを入れていたのだが、それだけでは目標には到達せず、単発のバイトをいくつか入れていたのだ。
「ああ、プレゼント買うためだっけ?」
「ネックレスでしょ?先月号の雑誌に載ってた、限定モデルのやつ」
全ては昨日の、玲子の誕生日プレゼントを渡すためだ。
彼女が休み時間に友達と雑誌を読んで『これ欲しいかも……』と言っているのを聞いてからというもの何が何でもそれをプレゼントしようと昼夜問わず働いた。
そして数日前にようやく目標金額に達した俺はすぐに店に行って、それをプレゼント包装してもらった……まではよかった。
「玲子ちゃん、喜んでた?」
「聞いてやるな」
「え、何で?」
「渡せなかった」
「......」
プレゼントを用意して、デートにも誘った。だが、渡せなかったのだ。
「ま、まぁそんな時もあるよね」
「ぶっちゃけ誕生日にデート出来ただけで隼人にしては上出来っていうか」
「玲子ちゃんは気にしてないって」
「むしろ誕生日デートってはしゃいでたの隼人だけなんじゃない?」
「由紀子!」
「あ、ごめん」
優しい言葉は今の俺にとっては慰めにはならない。むしろ心の傷にチクチクと刺さるだけだ。由紀子の場合はその傷に大量の塩を塗り込んできたが。
「そうだよな、そうだよな。俺なんか彼氏と思われてるかさえ怪しいただの大学デビュー野郎だもんな……」
だが由紀子の言う通りなのかもしれない。
俺なんてたかだか大学デビューで張り切っただけの中身を全く伴ってない男なんだ。
髪を明るく染めても、根が暗いのは変わらないし。
ピアスをつけても、痛いからと言ってマグネットで固定するタイプのだし。
去年のミスターアンドミスコンテストに選ばれたのは、本命の物理学科の佐藤がバックれてたまたま選ばれただけだ。
「隼人、元気出せよ。お前が大学デビュー野郎だなんて玲子ちゃんは気にしてないって」
「玲子は俺のことすら気にしてないもんな」
こんな俺に玲子はいつ愛想をつかしてしまうのだろうか。
『5番目くらいがちょうどいいよね』
玲子が友達と話している会話を、食堂の後ろの席で耳にしてから手当たり次第、女友達に彼女の代わりをしてくれと頭を下げたと知ったら彼女はいなくなってしまうのだろう。
一途な男は嫌いだろうか。
嘘をついて、必死で取り繕う男なんて格好悪いだけだよな……。
「こりゃダメだな。完全にネガティヴモード入ってる」
「昨日、相当なんかあったんだな」
「ええ?インフル事件よりへこんでるって何?」
「何それ?」
「前回4ヶ月ぶりにデートの約束こぎつけて、夜も眠れずにクマ作って行ったら、飲み物待ちの時にはバイト先から店長以外インフルで全滅したってヘルプの電話かかって来たの」
「うっわ。妊婦騒動よりやばいじゃん」
「ああ、あれな。まさか電車の隣の席に座ってた妊婦が産気づくなんてな」
「その前は認知症のおばあちゃんだっけ?」
「いや、その間に階段の落下事故が挟まるな」
「行こうと思ってた店で立てこもり犯がいたのは?」
「それ付き合い始めの頃じゃね?」
「いく先々で人身事故に遭遇したり」
「ああ、あったな」
「かと思えばついた途端になぜか局地的な大雨洪水警報……」
「携帯ぶっこしたのは?」
「それ、デートの日じゃなくね?」
「そうだっけ?」
「あれは去年の隼人の誕生日だよ」
「よく覚えてるわね」
「俺なんかと寂しくケーキ食べてないで玲子ちゃん誘えよって何とか携帯もたせたらいきなり携帯から煙が出るなんて衝撃的すぎて忘れられるわけねえだろ。後にも先にもその時しか見れねぇよ」
頭の上で俺のトラウマは次々と話され、頭の中ではその時のことがフラッシュバックしてくる。
ああ、俺って本当についてない。
昨日だって遅刻をしまいと、待ち合わせ場所まで30分で着くところを3時間半前に家を出たんだ。
** *
天気は文句なしの快晴。降水確率は10%で最高のお出かけ日和だ。
人身事故があったらと三パターンのルートはすでにチェックを済ませ、頭に叩き込んだ。スマートフォンの充電は100パーセントで、充電器は2個、カバンの中に入れた。ICカードには必要金額の5倍はチャージした。もちろんプレゼントを入れ忘れるなんてヘマはしていない。
玄関では靴紐が解けてしまわぬように固く結び、その場で激しく足を動かす。インターネットで解けにくい靴紐の結び方と紹介されていただけあって全く紐が解ける様子はない。万が一紐が切れてしまったらと頭によぎり、靴箱の上から替えの紐を1セット取り出し、バックにいれた。
今度こそ大丈夫であろうと駅に向かって歩き出した。駅に着くと迷子の子どもに服を掴まれ、母親がいないと泣きつかれた。
いつもなら戸惑いつつ、時間を無駄に過ごすだけだ。だが俺にはまだ2時間と40分の余裕がある。
余裕さえあれば今までの経験からどれが最適の答えかを簡単に導き出せる。
泣いている子どもの手を引き、あやしながら交番まで連れて行った。それでも手を離さない子どもの隣に座って子どもの母親を待つこと20分。
親は急にいなくなった子どもを探し回っていたらしく、額に汗をにじませながら交番に入ってきた母親は子どもを抱きしめてから何度も頭を下げた。
お礼をすると言いだしたが、颯爽とその場を後にして電車に乗った。
乗り換えの駅まで揺られて15分。
ここでも問題は発生した。
「この駅まではどうやったら行けるのかね?」
俺の隣では困り顔で声を張るおばあさんが立っていた。
乗り換え時間までの余裕は5分間。耳の悪いおばあさんに捕まったのだ。
「その駅までは、ですね……」
駅員さんに聞いて欲しいところではあるが経験上、そう伝えるよりもスマートフォンで検索した画面を拡大しながら説明した方が早く解放されることは知っている。
慣れた手つきでおばあさんの目当ての駅を検索して、提示する。するとそもそもホームが違った。一度階段を登って向かいのホームで電車を待たなければいけない。
「あれまぁ、困ったねぇ」
どうやら足腰が弱っているらしいおばあさんはここまで降りてくるのもやっとであったらしく、ひどく落ち込んでいた。
なにせこの駅は乗り換え駅として頻繁に利用されるがエスカレーターやエレベーターはないのだ。
「頑張りましょう?お孫さんに会いに行くんでしょう?」
「そうだね。航ちゃんが待ってるからね」
航、と孫の名前らしいそれを口に出した途端にやる気を見せたおばあさん。「荷物は俺が運びますから」と身体の小さいおばあさんが持ち歩くには重すぎるであろう、リンゴやメロン、その他孫への手土産もろもろが入った紙袋を手に、そして小さめのボストンバッグを肩から下げて、おばあさんの数段後ろから落ちないように見守りながら上って行く。下がるときは数段したから見守った。
「次に来る電車に乗れば着きますから」
ホームへと降り、おばあさんが腰掛けた隣の空席に荷物を乗せて説明する。
「ああ、どうもご親切にありがとう」
「いえいえ」
「あ、そうだわ。こんなものしかないんだけど、お礼に」
先ほど運んだカバンの中から二つ、リンゴを取り出した。
「ありがとうございます」
もらったリンゴを両手に一つずつ持ちながらペコリと頭を下げる。おばあさんはニコニコと笑いながらまた「ありがとうね」と目の横にシワを刻みながら笑った。
もう一度ペコリと頭を下げて「では」とお辞儀をすると立ち去るよりも早くホームに電車が到着した。おばあさんが乗る電車だ。
隣の席に置いた大量の荷物を持って、俺に頭を下げながらおばあさんは電車に乗って行った。
時計に目を向けて時間を確認すると待ち合わせまで1時間40分と少し。まだまだ全然間に合う。
問題があるとすれば乗る予定だった急行の電車を2本ほど乗り過ごしたせいで、この駅で後20分待たなければいけないところだろうか。
ここで待合室だとか喫茶店に行く、なんて真似はしない。
今は誰もいない、冷房のよく効いた待合室だがその快適さに身をゆだねれば子どもかご老人に捕まって次の電車を逃すことだろう。また喫茶店に行けば、機械が故障して飲み物が20分以内に出てこないということが予測できる。なお過去最大記録は30分待たされたことだった。最終的に冷蔵庫が壊れたことにより店は緊急閉店をしたことにより事は終わりを迎えたのだった。
だから俺はギラギラと照りつけるホームで次の急行列車を待つのだ。
予想通り、やはりここでも問題はおきる。
信号トラブルの影響で遅延していたため、10分の遅延とアナウンスがかかった。
目の前はいくつもの各駅止まりの列車が通り過ぎ、一向に急行と表示されたものは来ない。後何度見送れば乗れるのかも不明である。
仕方なく、俺は各駅停車の電車に乗り込んだ。
休日だけあって、遅延した電車は乗車率がゆうに100パーセントを超えており、座れない子どもが何人かいた。立ち疲れた子どもはドアの前に座り込み、客たちはそれを避けながら出入りしなければ行けないため、電車はまた遅れて行く。
面倒臭いからと初めは避けながら通っていた客であったが、途中駅で乗り込んできた休日出勤らしいサラリーマンは子どもと親を叱り出した。
「公共の場なんだぞ!」
電車の乗客のほとんどが思っていたことを代弁した言葉だった。
怒りを向けられた親はサラリーマンに食ってかかり、次の駅では他の乗客によって呼ばれた駅員によって電車を降ろされた。
「私は悪くないじゃない!」
半ば引っ張られて行く女の声がホームと車両に響き渡った。電車はそれを発車の合図のようにして駅を後にした。
待ち合わせの駅に着いたのは、約束の1時間とちょっと前。待ち合わせ場所に玲子の姿はもちろんない。俺にしては上出来だ。
岬曰く『妊婦騒動』では2時間前に家を出たのにも関わらず、最寄り駅から一駅移動している間に隣に座っていた妊婦さんが産気づき、その痛みから俺の手を握り、あれよあれよという間に結局妊婦さんと旦那さんと3人で子どもの誕生を祝っていた。
なお時間を確認した時にはすでに約束から3時間が経過しており、玲子に電話しても繋がることはなかった。
だが今日はそんなことはない。
安心して、その場が見える喫茶店に入り、待機する。
注文するのはアイスコーヒー。
理由は簡単。チェーン展開している喫茶店の大抵で作り置きしてあるからだ。これなら機械の故障などのトラブルはない。
外の見えるカウンター席に着き、スマートフォン片手にアイスコーヒーをすする。SNSを入念にチェックするが今のところは寄る予定の場所では立てこもり犯もいなければ、急遽休みになっているなんてこともない。また、周辺で事故が起こった、なんてこともない。
今日こそはまともにデートできるのでは?と期待が頭をよぎる。
そしたら、プレゼントを渡して……。
昨日の夜から何回も脳内シュミレートした今日の予定を確認する。もちろん途中で変更があったとしても、近くの店のデータは暗記済みだ。問題はない。
約束の15分前、待ち合わせ場所に玲子らしき女がやってきた。らしき、ではない。俺が彼女を見間違えるわけはないのであの女は紛れもなく玲子だ。
「よし!」
今年こそは渡すと決めたプレゼントはカバンの中で役目がくるまでじっと息を潜めていることを確認する。
気合いを入れて立ち上がり、グラスを返却コーナーに返した。後は玲子の元に行くだけだ……と思ったその時のこと、走り回っていた子どもが俺の前から歩いてきた女性の足にあたった。バランスを崩した女性の手元のトレイからは長く滞在することを見越してなのか、この店で一番大きなサイズのアイスティーが落ちた――床ではなく、俺をめがけて。
「あ、あの、すみません。すみません」
ビチョビチョに濡れた俺の服を見て、女性の顔は真っ青に染まった。
白いシャツが目の前で茶色く染まったら、決して自分が悪くなくても焦る。少なくとも目の前の女性はそうだし、きっと俺もそうなる。
「あ、あの大丈夫ですから」
見ていて可哀想になるほど目に涙を溜めてひたすら謝る女性を励ましながら、俺も泣きそうになる。
約束まであと15分を切っているのだ。
さすがに服の替えまでは持ってきていない。だがこんな格好で玲子の前に行くなんてあり得ない。だからといって今から新しい服を買いに行って玲子の元に行くのには15分では到底間に合わない。
すると女性の後ろから先ほど走り回っていた子どもの手首を掴んで、神経質そうな男がやってきた。
「うちの息子が大変な失礼をいたしました。ほら、お前も」
「ご、ごめんなさい」
頭を深々と下げた男性は子どもを睨んで謝らせた。
「いえ、本当にいいので」
起きてしまったことは仕方がない。だからせめて早く解放してほしい。
今からならまだ遅れると連絡しても許してくれるだろう。いや、玲子のことだから少しの遅れを待つ方が面倒臭くないと考えるはずだ。
ともかく何も連絡しなければ彼女は帰ってしまうのだ。もう後少しで約束の時間だ。しきりに時計と窓の外を確認する。
大丈夫、まだ玲子はそこにいる。
「もしよろしければ着替えの方を用意させていただけないでしょうか?」
いつの間にか女性の方とは話がついたらしい男は俺に頭を下げた。
「いや、あの……」
「すぐそこですので!」
結局押し切られ、新しい服を用意してもらった。俺がきていた服の何倍もするような服だ。タグを取ってもらい着替えて元の服は袋に入れてもらう。
会計を済ませ終えた男は「クリーニング代です」と追加でお金を握らせた。
「え、いいですよ。服、買ってもらっちゃったのにお金まで……」
「いえ、本当はまだ謝罪をすべきなのですが……生憎これから予定がありまして、こんなことしかできずに申し訳ない……」
「ごめんなさい」
男と子どもは申し訳なさそうに頭を下げ続ける。
聞くところによると久しぶりにおばあさんが家に来るという。
「あの、本当に大丈夫ですから」
ここまでしてもらって、大丈夫というのはなんだろうと言っている俺自身も思うが、俺も目の前の親子も予定があるのだ。ここで長引くのはお互いにとっても良くない。
「では」
頭を下げ続ける親子から逃げるようにして駅へと向かう。コインロッカーに元の服が入った袋を入れ、待ち合わせ場所へと急ぐ。
待ち合わせ時間から29分が過ぎていた。3時間も前に出てきたのに、だ。結局連絡も出来ずじまいで炎天下の中、彼女は1人待ちぼうけをしていることだろう。
だが俺の視界に入ってきたのは玲子だけではなかった。隣には見覚えのない男がいたのだ。
今まではこんなことなかった。いや、俺が知らないだけであったのかもしれない。
遠目から見ても分かるほどに男は冴えない、どこかオドオドとしている印象を受けた。そんな男が隣にいることにひどくイラついた。
これがもっと道行く人の目を引くような男だったらそんなことはないだろう。勝ち目なんてないのだから、何も見なかったことにして回れ右で家へと帰る。そして潔く諦めるのだ。
だがあの男はダメだ。あんなオドオドしている男に玲子は渡せない。
だがイラついたのは男に対してだけではない。男がオドオドしながらも玲子に自分の目的を伝えている、という俺の踏み出せなかった一歩を踏み出していることが気に入らないのだ。
きっと初対面であろう男が、だ。
俺はまともに告白すらしていない。
デート中に気の利いた言葉一つかけられない。
数年間、彼氏として隣にいるのに。
男を通して感じた苛立ちは自分へのものだった。だが苛立ちは格好悪いことに玲華と男に矛先を向けてしまった。
「待てよ、玲子!」
男と共に、俺をおいてどこかへ行ってしまう玲子の手首を力強く掴んだ。
「痛いんだけど」
そう言われて力を緩めるが玲子はこちらを向くことはなかった。
俺に愛想が尽きてしまったのだろうか。背筋には嫌な汗が流れ落ちていくのを感じた。
「30分……まだ、経ってないじゃないか」
何度目かのデートの後に立てた約束にみっともなく縋る。
『30分経ったら帰ってもいい』と俺が一方的に立てたものではあるが、玲子が律儀にその約束を守っていることを知っていた。そして待たせてしまっていることも。
「隼人……来たんだ」
「その男とどこに行くつもりだったんだ」
玲子が俺を責めるのは至って普通のことだ。今までの遅刻の言い訳だってろくに出来ていないのだから。むしろ今まではよく責められなかったものだとも思う。
それでも、俺は玲子と一緒にいたい。
「そこ」
だが玲子が示したものは俺を絶望へと突き落とした。それはカップル限定セットとデカデカと書かれた旗だったからだ。
俺は彼氏という称号を奪われたのか。
息が止まったのかと錯覚し、必死で口の開け閉めを繰り返す。
「お前の彼氏は俺だろう!? お、おま、まさか」
みっともなく動揺している様子を玲子は呆れ顔でながめていれる。
玲子のはぁっと吐き出すため息に肩を揺らせていると次々に玲子は言葉をぶつけてくる。弾丸のようなそれは今までの俺へ対するもので、俺はそれを受け入れなければならないことは百も承知だ。
「彼とはねさっき知り合ったの。ちょっと付き合ってほしいっていうから」
「彼? 付き合ってほしい!?」
だが俺は玲子の言葉を受け入れるだけの器量はなかった。
玲子の言葉を反芻しては頭に血が上り、顔からは血の気が引いていく。
「あ、はい、その……迷惑だったら……」
「迷惑とかそんなんじゃないから」
「おい、お前、何でよりによってこいつなんだ。こんな女、他にもいるだろう」
男を擁護するのが気に入らなくて、ふと頭によぎったのは先日、由紀子に聞かれた言葉だった。
「なんで玲子ちゃんなわけ?」
他の彼女役を頼んだ友達はそんなことは聞いてこなかった。由紀子が聞いたのもただ疑問に思ったから聞いてみたに過ぎなかったのだろう。
俺はそう聞かれた時、すぐに言葉は出なかった。
どこがいいかなんて、すぐに言いあらわせるはずがない。頭の中ではパンデミックが起こったようにひどく混乱した。何から話せばいいのかと。
玲子のことを思う気持ちに優劣はないが、誰かにそのことを伝えるうえでわかりやすいように順序立てをした時すでに由紀子の姿はなかった。
授業を受けにいってしまっていたのだ。
まだ隣にいた朝登に玲子の素晴らしさを伝えているといつの間にか授業を終えて帰ってきた由紀子からは「気持ち悪っ」との罵声を受けたほどだった。
だから、誰でもいいなんて言ったら殴ってやろうと思った。
玲子は気軽に声をかけていいような女ではないのだから。
「え、あ、あの……すみません」
男は今まで以上の震えを見せてその場を一刻でも早く去ろうとした。
人の彼女に声をかけておいてすいませんなどとは虫のいい話だと、自分のことを棚に上げ攻めようとすると玲子は思いがけない行動に出た。
「すみませんじゃ「行こうか」
「は? 玲子!」
「すぐ終わるし、何なら帰っても構わないから」
「ほら、妹さんに渡すんでしょ?」
「あ、はい」
ショート寸前の頭で男の手に伸びていく玲子の手を横から奪った。
手から伝わってくる体温で玲子を感じる。
そしてクリアになっていく頭で、はじめて手を繋げたことに歓喜する。
いつもの俺なら恥ずかしさのあまりすぐに手を離してしまうのだろうが、今の俺には目的がある。
目の前の男に玲子を諦めさせるという目的が。
「俺らが買ってくるから」
「え、でも……」
「俺たちは恋人だからな」
そう理由をつけて、拒まれないことに安堵する。
「買ってきますから待っててもらえますか?」
「あ、あの、よろしくお願いします」
手を繋いでいてもいつ離されるか心配で、短い距離で何度も後ろを確認する。その度に玲子が引っ張られるがままに付いてきていることに心は弾んでいった。
さっきまではイラついていた男に少しだけだが感謝するほどに。
店の奥から注文を取るために店員がやってくるとすぐに玲子は要件を告げた。
「限定セットを1つ「いや、2つで」
男の頼みだけ叶えるのも癪で、玲子の言葉を訂正して自分たちの分も注文する。
店員がへばりついた接客用の顔を向けて奥へと引っ込んでいくと玲子は不満そうな顔をする。
「何で2セット?」
「いいだろ別に」
そう返した後に、テイクアウトのじゃなくて店に入れば良かったと気づいた。家を出る前にいくつも店を調べたのにと思い出してももう遅い。
「お待たせいたしました」
奥からは先ほどの店員が変わらず笑顔で二つの袋を差し出した。そのどちらも玲子が受け取って男の元へと帰った。
男は玲子の姿を見つけて駆け寄ってきて、玲子の差し出した一つの袋を受け取った。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
そして何度も頭を下げて駅へと帰っていった。
少し離れたところから見る2人には一切の恋愛感情は感じなかった。男が玲子に向けていたのは、駅で出会ったおばあさんが俺に向けていた、感謝と同じだったのだ。
去りゆく男の背中をながめてももう苛立ちは起きず、胸に残ったのは自分に対するやるせなさだけだ。
「はい、これ」
玲子は男の姿が見えなくなるとすぐに俺の元へとやってきて、残りの袋を差し出した。
「ん」
その中から一つ、取り出してストローをさす。
「甘っ」
ストローから吸い上げられた飲み物は予想以上に甘く、つい声を上げてしまう。ミルクティーは甘いものが多いが程度というものがある。これはそれをゆうに超えている。けれど飲めないほどでもない。スイーツ巡りが趣味の岬の付き添いで結構な頻度で甘いものを食べているからだろうか。慣れというのは全く恐ろしいものだ。
「お前は飲まないわけ?」
甘さにも慣れ、ストローから口を少しだけ離して玲子に視線をやると固まったままだった。
外したかと自然にカップを持つ手に力が入り、カップはベコっと音を立ててへこんだ。
交際年数の割には一緒にいる時間は交際一か月のカップルにも劣るほど。連絡も鬱陶しく思われない程度にしかとってはいない。そのため知らないことが多いのだ。
ネットやその手のことに詳しい岬の意見を取り入れてはいるものの、未だに玲子の好みを把握できずにいる。
「ああ、飲む」
長く思えた沈黙は破られ、ほっと一息付いて再びストローに口をつける。
家を出る前に確認した天気予報に偽りはない、見事な快晴。照り付ける日差しすら愛おしい。汗が滴り落ちる度に玲子と過ごす一分一秒を実感する。
玲子との距離はわずか数センチ。喫茶店で机を挟んで座るよりも近い。例え気が利いた言葉が出なくとも、確かにそこに玲子はいるのだ。
こんな時間が永遠に続けばいいのに……。
そう思っても終わりは来るもの。
ミルクで濁ったカップは次第に元の透明へと変わり、最後にはコンクリートで黒くなった地面と並んで、スニーカーが顔を見せる。
「ああ、暑いな」
なんてことなしに言ったものの、ならばこの調子でどこか涼しいところにでも移動しようかと女友達と買い物をする時みたいに頭が回り始める。
すると玲子は俺に気を使い、残りを急いで飲み干した。
けれど、すぐにそれは俺のためなんかではなかったのだと思い知らされた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
玲子は笑顔を向けてから駅へ向かって歩き出したのだ。
「はあ?」
「いや、もう一時間たったし」
「意味わかんねえ」
俺の心は曇天へと姿を変える。
ミルクティーで潤ったばかりの喉は声を出すのがやっとなほどに乾いて張り付いている。
今までは愛おしかった天気は今では嘲笑っているのではないかと錯覚するほどに恨めしい。
「だから、約束の時間から一時間たったからそろそろ帰ろうかって」
「お前は小学生か?」
「いや、大学生だけど?」
「どこに彼氏と久々に会ったのに初対面の奴の頼みだけ受けて帰る奴がいる!」
俺はその程度なのか?
あの男に負けるのか?
頭を満たすのは今まで目を逸らし続けていたことばかり。
息を切らして、みっともない姿の俺は道行く人には奇異な目で見られていることだろう。
だがそんなことはどうでもいい。
玲子さえいてくれれば。
「帰らないのね?」
「ああ!」
天のお告げのような玲子の言葉に力強く頷いた。
すると玲子は「そっか」とだけ返して、俺の手を握った。
――が結局のところ、その後すぐに近くで居眠り運転の車が店に突っ込んだり、窃盗犯に遭遇したりとアクシデントに見舞われた。
いつもよりも長い時間を共に過ごせたが、出来たことといえば2人でタピオカミルクティーを飲んだことくらいだ。
組んだ予定は何一つとして実行されないまま、目標であったプレゼントを渡すことなどできなかった。
今年のプレゼントも去年のクリスマスプレゼントやバースデープレゼントと共に棚の中に沈んでいった。
これらの出番はたまに取り出してはため息をついて眺める時だけだ。
** *
昨日のことを思い出して、深くため息をついた。
そして目の前で昼飯を広げている薄情な友人にならって俺も昼飯を食べるかとカバンに手を伸ばした。
「おーい、神薙」
すると、ドアからはサークルの仲間が俺の名前を呼ぶ声がする。
今日のサークルの連絡か何かだろう。
朝に買ったパンを探し出す顔は上げずに適当に返事をする。
「なんだ?」
すると段々と声は近寄ってきて、ただでさえ大きな声ではっきりと用件を告げた。
「図書室の前で夕凪さんが男と楽しそうに話してたぞ?」
「行ってくる」
『夕凪』と、玲子の名字が耳に入ったと認識するよりも早く身体は反応する。すると回りは慣れたもので「いってら~」適当に気の抜けた返事を返す。
机に広げっぱなしのルーズリーフとプリントはきっといつも通り朝登が片付けてくれることだろう。俺はスマートフォンだけをポケットにねじ込んで廊下を駆けた。