九
「マスター、居るかねえ」
オープンまではもう少し、まだ開いていない扉を、蟋蟀は叩いていた。
数度叩くと、少し迷惑そうにマスターが顔を出した。
「蟋蟀さん、まだ早いですよ」
「今日は酒場には用は無いんでねえ、【インビジブル】」
「……入って」
仕込み中だったのか、静かな店内にはうっすらとスープの匂いが漂っている。
促され、カウンターの椅子に座ると、調理場の奥に引っ込んだマスターが、ジョッキを持って来る。
「軽いやつだよ」
「すまないねえ」
ジョッキには、色の薄い赤ワインが入っていた。
ちびちびとワインを飲む蟋蟀を尻目に、マスターは仕込みの続きを始めていた。
「開店に間に合わなくなるから、このままでもいいかな」
小気味良い包丁のリズムが、店内に響く。
香草でも刻んでいるのか、包丁の音と共に、少し鼻に付く匂いが店に広がる。
「勿論さね。邪魔する積りは無いんでねえ」
「だったら、店に来る前に、都合を聞いて欲しいもんだね」
「色々あってねえ」
マスターは、刻んでいたものを大鍋に入れ、ぐるぐるとかき回す。
味見をし、何かを足すと、満足そうに頷き、今度は大きな鉈のような包丁で肉を切り始める。
「で、何の話かな?」
ダンッ、ダンッと肉を骨ごと切る、大きな音が店内に鳴り響く。
「リックさんの事なんですがね」
ダンッ、と一際大きな音が響く。
それっきり手が止まる。
マスターと蟋蟀の、視線が合う。
「あんたの事だから、一通り調べたんでしょうねえ」
「相変わらず、やり辛いね」
先に視線を逸らしたのはマスターだった。
再び肉切り、骨を断つ包丁の音が鳴り出す。
「リックは、元はメシナの諜報部隊の一人だったみたいだよ」
「メシナ……、確か八年前に滅んでましたよねえ」
「そう、僕達、ライエルとの戦争に負けてね」
「ああ、最後に首都に火を放った馬鹿がいた国でしたねえ。残党狩りも、大変だった思い出がありますよ」
蟋蟀は、何かを思い出すように少しだけ遠い目をして、付け根から無い左腕の辺りに軽く触れる。
「まさか国を挙げての自殺をするなんてね」
「自爆部隊とか死に兵とか、イカれた作戦も多い相手でしたから、国のトップも、どっかおかしかったんでしょうに」
マスターは、切った肉に香料を擦りこみながら頷いた。
ライエル国の隣に位置していたメシナ国、世界的な休戦協定の直前まで二国間では激しい戦闘を行なっていた。
国力で劣るメシナは、幾つもの奇策、と言えば聞こえが良いが、その実は、自国の兵や民を犠牲にして、他国の兵を倒す道連れを戦術として、多用していた。
今は国自体が滅び、ライエルを含む、いくつかの国で元国土は分割されている。
ちなみにここ、イグニスの街も、元はメシナ領だった。
「で、話を戻して、リックの事だけど」
擦りこみ終わった肉を、オーブンに入れ、一息ついたのか自分もジョッキにワインを注ぎながら、マスターは言葉を続ける。
「さっき言った通り、彼女はメシナで諜報部隊の一員だったと思う。ただ、状況や彼女の様子を見る限り、実戦に出る前に国が滅びたと見る方が自然かな」
「そうなんですかい?」
首をひねる蟋蟀に、マスターは軽く胸を張る。
「これでも諜報部隊の長をやってたんだ。【インビジブル】の名は伊達じゃないよ」
「そこは疑っちゃいませんよ」
「まあ、丁度良いタイミングだったよ。もう少しでーー」
と、その時扉がノックされた。
どうぞ、とマスターが声を掛けると、扉が開き、樽を担いだ男が入って来た。
「ご苦労様」
「いつもありがとうございます」
食材の仕入れ先の様だ。
樽を下ろした男がチラリて蟋蟀を見て、マスターを見る。
マスターが頷くと、男は羊皮紙をマスターに渡した。
僅か見えた限りでは、商品のリストに見えた。
「では、またお願いします」
「ええ、こちらこそ」
羊皮紙と引き換えに金貨を数枚受け取り、男は出て行った。
マスターは羊皮紙に目を通すと、それを火にくべてしまう。
「良いんですかい?」
「ああ、内容は分かったからね」
軽く火かき棒を回し、羊皮紙が燃え尽きているのを確認して、マスターは蟋蟀の隣の椅子に腰掛けた。
「僕の予想は正しかったよ。リックは元メシナの諜報部隊の訓練生。かなり優秀だったみたいだ」
「?どういうからくりで?」
「さっきの彼は、僕の知り合いでね。色々と人脈持ってるんで、調査にはうってつけなんだ」
ジョッキのワインを一口飲み、マスターは息を吐いた。
「商品のリストに見えた奴は、ああいう暗号でね。もう身に染み付いた、習性みたいなもんだよ」
「ご苦労な事ですねえ」
蟋蟀の呆れた様な声に、マスターは苦笑いを浮かべた。
「一応、秘密で頼むね」
「言う当ても無いですからねえ」
蟋蟀の言葉に、マスターは軽く笑った。
「話を戻すけど、彼女、リックはメシナの首都が燃える前に、街を逃げ出したみたいだ。それからは、行商人の真似事をしながら、フリーの密偵みたいな事をやっているようだね」
「そんな仕事もあるんですねえ」
驚く蟋蟀に、マスターは当然と言った顔をする。
「需要は案外あるもんだよ。例えば商人同士の商品の仕入れ情報や、各地の不足物資や市場の調査、領主だって、表の事から裏の事まで、知りたい事が沢山さ。探せば幾らでもあるもんだよ」
「そんなもんなんですねえ。ちなみに、リックさんの今の雇い主は分かるんですかね?」
「僕、は表向きで、裏はハッキリとは分からなかったみたいだよ。ただ、何処かの商人だかに雇われたとの話はあるみたいだね」
「商人にねえ……」
顎の辺りを掻きながら、蟋蟀は思案顔だ。
「リックさんは、ライエルに恨みを持ってるんですかねえ」
「う〜ん」
マスターは腕組みして顔をしかめた。
「心の中までは、根っこの部分までは分からないけれど、少なくとも僕が話した限りでは、そういう感じは受けなかったかな。もっとも、拷も、尋問すればはっきり分かるけどね」
「そうですかい」
不穏な単語を聞いた気がして、蟋蟀は目をそらした。
「所で、なんでリックの話が出たのか、聞かせてもらえるのかな?」
マスターの目が、鋭くなる。
その目を見て、蟋蟀は苦笑いを浮かべた。
「……一応、シャナさんからの依頼なんで、こちらも内緒でお願いしますね」
蟋蟀の話を一通り聞き、マスターはワインを飲み干し、立ち上がった。
「もっと早くに、こっちに話を持ってきても良かったんじゃないの?」
咎めるような口調だ。
「まあ、色々としがらみもあるんでね。それより、今日はリックさんは来ますかねえ」
「普通に考えれば来ないけど、何と無く、来そうな感じはするんだよね」
その時、時を刻む鐘の音が響き渡った。
時間毎に、街にある鐘がなり、住民に時を告げる。
「オープンするけど、蟋蟀はどうする?」
「リックさん来るまで居ようかねえ」
「そっか」
自分の飲み干したジョッキを片付けると、マスターは扉に向かった。
「所で、【インビジブル】は今、満足してますかね?」
突然の蟋蟀の問い掛けに、マスターは振り返った。
「もう【インビジブル】の名は捨てたんだよ、今はね。平和の中では今のポジションは満足してるよ。ーー蟋蟀は?」
蟋蟀はにやあと笑った。
「俺は平和主義だからねえ。揉め事も、人斬りも、たまぁにで充分さあ。今はねえ」
お互い様か、と呟いて、マスターは店を開けた。
「マスターの勘は外れちまったかねえ」
その夜、結局リックは店に来る事は無く、蟋蟀は閉店まで待って自分の家に帰った。
その翌日ーー。
「蟋蟀さん、いらっしゃいますか?!」
微睡みの中にいた蟋蟀は、激しいノックの音と男性の叫び声に近い呼び掛けで目を覚ました。
しょぼしょぼした目を開き、何時もの赤を身に纏って、繰り返し叩かれるドアを開けた。
「はいはい、朝から一体、如何したんですかね」
寝惚け眼の蟋蟀の前には、だいぶ慌てた様子の衛兵が立っていた。
「セリエさんが昨日から行方不明なんですか、ご存知ないですか!!」