六
「エルロウさん、夜分に悪いんですが、少しばかり良いですかねえ」
薄眼でなんとか街を歩き、どうにか蟋蟀は、セリエを連れて、エルロウの店に辿り着いた。
扉をノックして呼びかけると、上部のスリットが開き、座った目が覗く。
「こんな堂々と、女性連れの夜這いは初めてだけど、吊るされるのと、埋められるの、どっちがいい?」
「いやいや申し訳ないですが、油断してこのザマなんで、ちょっと二人揃って診てもらえませんかねえ」
すでに夜遅く、月も中天にある。
寝ている所を起こされたのか、エルロウはひどく不機嫌だ。
エルロウは半ば降りていた瞼を無理やり上げ、蟋蟀と腕を引かれているセリエを見た。
全身赤ずくめなのはいつも通りだが、顔には赤い粉末が降りかかっている。
半開きの蟋蟀の白眼は充血していて、目からは涙が溢れていた。
セリエはもっと酷く、涙、鼻水、よだれと顔中から体液を垂れ流し、えづいている。
「……とりあえず入って」
蟋蟀とセリエを店に入れ、それぞれ椅子に座らせると、エルロウはその前に立った。
「何があったの?」
「まあ、何時もの厄介事さね」
ため息混じりのエルロウの言葉を、蟋蟀はさらっと流した。
「まあいいけど。それで状況は?」
「目、鼻、喉に痛みがありますねえ。視界はどうにかありますけど、涙がぼろぼろと止まらない感じですかね」
「え、るろう、さ、ん。ごめ、め、んなさ、い」
「セリエは無理に話さなくていいから、少し大人しくしててね」
いつもの黙っていれば、凛とした雰囲気のセリエの、あまりにも残念な姿に、不機嫌だったエルロウも、少しはその怒りが引いたようだった。
そしてエルロウは、色々な角度から蟋蟀を見て、そしておもむろに顔を近づける。
「ちょっ、ちょっと、なにするんですかい?!」
「えっ、味見だけど」
慌てる蟋蟀に、エルロウはしれっと言い放った。
「いやいや、毒かも知れないですし、そいつはマズイんじゃないですかね」
「私に毒は効かないし、調べるには手っ取り早いのよ。セリエはちょっと、舐めたく無いから。と、言う訳でほっぺ、舐めるわね」
思わず目を瞑る蟋蟀を見て、セリエが叫んだ。
「だ、だべでず、えるろうざ、ん。ぞんなの」
鼻声、涙声でセリエは声を絞り出している。
「……冗談よ、冗談。セリエは相変わらずヤキモチ焼きね」
「な、なにいっでるんでずが!やぎもぢなんがやいでっ、げぼっごぼっ」
むせながら必死に否定するセリエに、くすりとエルロウはごめんごめんと笑って、蟋蟀の頬を軽く指でなぞった。
「慌てる蟋蟀と、可愛いセリエの反応が見られたから、夜中に叩き起こされた事は許してあげるわね」
「……そういうのは勘弁して欲しいもんですねえ」
憮然とした顔の蟋蟀を見て、エルロウは笑顔のまま、粉のついた指を振る。
「でも、ホントに平気なんですかい?」
「毒の判別ならこれが一番確実よ。まあ、私がヤバイ毒なら、貴方達は助からないから、覚悟しといてね」
そう言って、エルロウは粉のついた指を咥えた。
ちょっと艶かしい。
「んっ、んん、これ、は……んっ!」
テイスティングする様に指を舐めていたエルロウが、突然苦しみだす。
顔は赤く、激しくむせる。
「エルロウさん?だ、大丈夫ですかね」
蟋蟀の問い掛けにも答えられず、バタバタとエルロウは店の奥に走って行った。
思わず顔を見合わせる蟋蟀とセリエ。
少しして、木のカップと濡らした布を持って戻ってきたエルロウは、若干涙目だった。
「で、どうだったんですかね?痛みがあるんで、早いとこ対応してもらいたいんですが」
無言でエルロウが布とカップを、二人に突き出す。
「拭いちゃって、良いんですかね?」
無言で頷くエルロウ。
蟋蟀は布を受け取り、顔を拭う。
冷たくて気持ち良い。
横ではセリエが、一生懸命顔を擦っている。
一通り拭うと、カップを渡される。
中には白濁の液体がなみなみ注がれている。
「飲むんですかね?」
またもや無言で頷くエルロウ。
二人は、躊躇う事なく飲み干した。
僅かに甘酸っぱい味か、口の中に広がる。
その味と共に、口の中の刺激痛が無くなった。
布で拭った事と、謎の液体を飲み干した事で、顔中を襲っていた刺激痛は消えていた。
「やっと落ち着きました。エルロウさん、ありがとうございます」
「いやあ、助かりましたよ。で、何だったんですかねえ」
涙目のエルロウは、ちょっと待てと言った感じで、手のひらを蟋蟀に向けると、また店の奥に消えた。
首を傾げる蟋蟀に、エルロウは何かを飲みながら戻って来た。
「酷い目にあったわ」
涙目が治った替わりに、声が若干かすれている。
「なんであんたが酷い目にあってるんですかねえ」
「予想外だったと言うか、ね。軽い痺れ毒が入っていたみたいだけど、メインは唐辛子ベースの粉ね」
「唐辛子って、なんですか?」
セリエが首をかしげる。
「最近、南のオルロンから広がりつつある香辛料、強い辛味と刺激が売りの調味料、で良かったですかね」
蟋蟀の言葉に、バッチリよとエルロウがうなづく。
「痺れ毒の中和剤と合わせて、今飲んでもらったやつには、刺激を抑える効果もあるから、これで問題ないわ」
「あんたは大丈夫なんですかね」
蟋蟀の問いに、エルロウは苦笑いを浮かべた。
「少し前に話の種に食べて見た時は、もっと酷い事になったわ。私は唐辛子、ダメみたい」
「まあ、そんな事もありますからねえ」
「それとこれ、目潰しとして使われたんじゃないの?」
エルロウの問いに、蟋蟀は頭を掻いた。
「まあ、そんな所だと思いますねえ」
「貴方が色々な事に首を突っ込むのは仕方ないけど、セリエを巻き込むのは感心しないわよ」
突然名前を出されたセリエがビクッとする。
「いや、私は騎士ですから、この街の治安を維持する事も大事なーー」
「適材適所よ。蟋蟀が、首を突っ込む事件は一筋縄ではいかない事ばかりよ。貴方ではまだ難しいのよ」
エルロウの言葉に、セリエは手に持っていたカップに視線を落とす。
「替わりに、蟋蟀に出来ない事で、貴方に出来る事もあるのだから、それを頑張れば良いと思うわよ」
慰めとも、激励とも取れるエルロウの言葉だが、セリエは肩を落としたまま動こうとしない。
「それから、足の具合はどう?」
エルロウの言葉に、セリエはビクッとした。
「足は、問題ないです」
「もう大分経つから問題は無いと思うけど、違和感を感じたり、何かあれば必ず来るのよ」
セリエは声もなく頷く。
その様子に、蟋蟀は軽く頭を掻いた。
「まあ、今回は巻き込んじまったこちらに責がありますからねえ。そうだ、セリエちゃん。巻き込んだお詫びに、ここの治療代は持ちますんで」
蟋蟀の言葉にセリエは顔を上げる。
「えっ、いや、それは何か嫌だ。自分の分は自分でーー」
「まあ、ここは任せておきなさいな。それとも、酒でも奢る方がいいですかね」
蟋蟀の言葉に、あからさまにセリエの挙動がおかしくなる。
「一緒に?!それはかなり……だけど、うう、ぬぬ」
「じゃあ、今度都合の良い時にでも行きますかね。色々話してみたいですしねえ。ーーて訳でエルロウさん、また何かあれば宜しくお願いしますね」
「い、色々?!そんな、いやしかし……」
一人何かに悩み、悶えるセリエを尻目に、蟋蟀は二人分の治療代に少し色を付けたお金をカウンターに置くと、蟋蟀は扉へ向かう。
「あっ、蟋蟀!セリエをーー」
「申し訳ない。ちぃとばかり所用がありますんで、後お願いします」
エルロウの言葉を遮って、逃げる様に蟋蟀は店を出た。
そして、セリエが追いかけて来ない事を確認すると、駆け足で先程の木の元に戻る。
蟋蟀に足を砕かた男の死体はすでに無かった。
「手掛かり一つ、無くしちまいましたか。まあ、しょうがないかねえ」
大きく一つ伸びをすると、蟋蟀は街へと足を向けた。