五
レオニード邸を出た蟋蟀は、シャナからもらった紙を見ながら、失踪した人々の泊まっていた宿にいた。
宿の主人は、蟋蟀とも顔馴染で、事件に関与するような人間じゃない。
特に変わった点もなく、先日衛兵も同じような事を聞きに来たらしい。
「蟋蟀さんも大変だね」
「シャナさんに逆らうと、後が怖いんでね」
肩をすくめる蟋蟀に、宿の主人は苦笑いを浮かべる。
そのまま主人に断りを入れて、蟋蟀は失踪した人の泊まっていた部屋に入った。
煙管はすでに、火種を落として腰の袋にしまっている。
部屋は合計三つ、行商人の部屋が二つに家出少女の部屋が一つだ。
「ここは、男二人が泊まってたへやですかね。……ん〜?」
部屋は、居なくなった日から掃除も入れてないと主人は言っていた。
が、蟋蟀の鼻がひくつく。
「微かだけど、何だっけねえ。これは」
部屋の中に、残り香の様に甘い香りがほんの微かに残っていた。
しばらく鼻をヒクヒクさせながら部屋を見たが、他には何も無かった。
続いて隣の部屋。
「こっちは女二人の部屋、さっきより匂いが、……?」
部屋には男の部屋よりも、若干匂いが強いが、それよりもベッドが三つあった。
「女二人のはずですが、部屋足りなかったからとかですかねえ」
呟きながら部屋を見て回るが、こちらも特に何も無い。
ちらりとベッドを見ると、黒い髪が落ちていた。
何気なく拾い上げ、さらに隣、家出少女の部屋に入る。
甘い匂いは弱まっていたが、やはり匂う。
その部屋も、特に何も無かった。
拾った髪を指で玩びながら、蟋蟀は宿の主人の元に向かった。
「何かありましたか?」
「特にはなあんにも。そうそう、ここは部屋に香水撒いたりしましたっけねえ?」
蟋蟀の言葉に、主人は首を振った。
「そんなもん、使う宿にみえます?」
「ですよねえ。あと、行商人さんは合計四人で良かったんでしたっけ」
「いやいや、来た時は五人でしたよ。ただ、一人は、女性の方でしたけど、たまたま一緒になった人らしくて、部屋で少し休んだら、用があるとかでお別れしたみたいでしたよ」
「……衛兵さん達は、その事はご存知で?」
主人は苦笑いを浮かべて首を振る。
「あの方達は、部屋をざっと見て、異常なしとだけ言って、行っちゃいましたよ。あと一日だけ、部屋はそのままにしておく様に言われたんで、明日には掃除する予定でしたけどね」
蟋蟀は、深く溜息を吐いた。
「宿帳、あったっけねえ?」
この宿はそれなりに値の張る宿の為、宿泊客の名前と出身地を記帳する宿帳があった。
でまかせを書いてしまえば意味がないものだが、ある程度の学が無いと、字を書く事が出来ないので、客層の選別には繋がってるらしい。
書かれている内容を辿っていくと、当該の行商人にぶつかった。
字が全員同じ筆跡だ。
「代筆もいいんですかい?」
訝しげな表情の蟋蟀に、主人は笑顔を返す。
「一人でも字が書ければ、一応の確認は出来るからね」
「そうですかい」
書かれていた同じ筆跡の一番下、名前と出身地を見た蟋蟀が目を細める。
そこにはオルロン出身、リックと書かれていた。
「シャナさんに報告しとくかねえ」
大きく背伸びをして、蟋蟀は呟いた。
主人に礼を言いつつ宿を出ると、外はそろそろ黄昏時。
報告は明日で良いかと、蟋蟀の足は自然と、行きつけの中央酒場に向かっていた。
〈ついでにリックさんに、話でも聞いとくかねえ〉
きい、と軽く軋む音を立て、扉を開くと、客が入り始めた中央酒場の光景が広がる。
カウンターには、忙しそうに料理を、酒を用意するマスターの姿がある。
蟋蟀は普通のワインを頼むと空いている椅子に腰掛けた。
相変わらず騒がしい店内を、リックが先日以上、忙しそうにクルクルと笑顔で廻っている。
ワインをチビチビと飲みながら、蟋蟀はその様子を眺めていた。
と、微かな口笛の音が聞こえた。
普通にしていれば気付かないほどの。その音の直後、一瞬リックは動きを止め、辺りを見回した。
僅かな仕草で、蟋蟀以外に気付いた者はいないだろう。
その後、リックはまた笑顔で店の中を廻っていたが、先程に比べ、若干表情が硬くなっている様に、蟋蟀は感じた。
その夜更け、街の外、門から少し離れた所に青々と茂る巨木がある。
度重なる戦乱にも耐え抜き、イグニスの街を目指す旅人には、良い目印になっていた。
その巨木の傍に、一人の女性が佇んでいた。
時より吹く風に、黒の髪が揺れている。
リックだ。
中央酒場で見せていた笑顔は消え、若干硬く、無表情でいる。
風の音に紛れて、微かに口笛の音が響く。
それに応える様に、リックの口からも口笛が響く。
と、いつの間にかリックの前に三人の男が立っていた。
全身黒ずくめ、顔すらもわからない様に、布を巻きつけている。
三人とリックは、その場で何か話し始めた。
何か特別な話し方なのか、わずかに口は動いている様だが、声はほとんど出ていない。
普通に話していた四人だが、段々と剣呑な雰囲気になり始める。
リックの言葉に、男達がわずかに苛立ち、さらに言葉を重ねるリックに対し、怒りに満ちた目を向け始める。
それに対し、リックにも怒りの色が見え始め、徐々に高まる緊張感が破裂しそうになったその時ーー
「ちょいとお邪魔しますよ」
その空気を破る様に、巨木の上から赤が落ちてきた。
着地の瞬間、ぎちり、とグリーブが鳴る。
「蟋蟀、さん?」
リックが息を飲むのが分かる。
突如としてあらわれた蟋蟀に、三人の男達は、訝しげな目線を向ける。
リックを見て、三人の男達をちらりと見ると、蟋蟀は剣の柄に手を置いた。
「とりあえず、事情はこれからお聴きしますんで、動かないでもらえますかねぇ」
蟋蟀の口の端がにやあと持ち上がる。
ちらりとリックを見ると、動揺していたのは一瞬で、今は自然体でいるようだ。
三人の男達も、すでに動揺は無く、真ん中に立っていた男を庇うように、二人の男が僅かに位置を変えた。
ーいきなり斬っちまうべきだったかもねえー
三人の男達は、雰囲気、佇まい、どちらをとってもかなり出来る。
リックも。
「……どうしてここに?」
リックの問い掛けに、剣の柄を握る蟋蟀。
「酒場での口笛の合図があったでしょう。昔と変わってなけりゃ、一部なら俺も知ってるんでね。後は先回りしといただけですよ」
「貴方は一体……」
息を飲むリックを視界の端に捉えつつ、蟋蟀は三人の姿を改めて見る。
全身黒ずくめに、顔には黒い布、立ち位置からして、真ん中が一番偉いのだろう。
長引かせてはあまり良くなさそうだと、蟋蟀が足に力を入れた。
「何をしているっ!!」
怒号にも近い声が響いた。
蟋蟀と、三人の男、そしてリックが声の方に視線を遣ると、金髪の女性、セリエが立っていた。
「蟋蟀と、……貴様達は何者だっ!決闘は、領主様より認められた者が立ち会わなければ、罰せられるぞ!」
「空気、読んでほしいもんですねえ」
ため息まじりに蟋蟀が呟く。
セリエの不意の登場に、一時空気が固まるが、最初に立ち直ったのはリックだった。
顔を片手で隠しながら、大きく後ろに跳ぶと、そのまま後ろ向きに走り出す。
「あっ、貴様、待て!」
慌てて後を追おうとするセリエを横目に、蟋蟀は『貫』を抜きつつ、三人組に走り寄る。
と、それと同じタイミングで、両サイドの男が、蟋蟀とセリエに何かを投げつけた。
「チッ!」
避けきれないと判断した蟋蟀は、飛んで来たものを『貫』で弾いた。
一方セリエは、逃げて行ったリックに気を取られていた為、まともにそれをくらう。
「うわっ、な、なん、けふっ!」
飛んできたモノが当たった瞬間、弾け、中から赤い粉末が飛び散った。
叫んだ分、大きく粉末を吸い込んでしまったらしいセリエは、涙を流しながら、大きくむせ、悶えている。
一方蟋蟀は、咄嗟に目を閉じ、息を止めて、気配を頼りに三人のいた辺りに『貫』を振るった。
何か、硬いものが砕けた感触と、もう少し柔らかいものが折れる感触。
薄眼を開けると、左端にいた男がその場にうずくまっていた。
いつの間にか抜いていた短剣ごと、右足をへし折ったらしい。
「引くぞっ!捨てていく!」
真ん中の男の若干焦った声に、右端の男が、更に先程と同じモノを投げつけてくる。
二個三個と飛んでくるモノを避けきれず、もう一つ蟋蟀の身体にそれが当たり、弾ける。
薄眼を開けた事で、蟋蟀の目には強い刺激が襲いかかっていた。
更に鼻、喉にも強い刺激がある。
これ以上吸い込まないように、口と鼻を服の袖で覆うと、蟋蟀は辺りの気配を窺う。
溢れ始めた涙の視界の向こうで、一生懸命目を擦りながら、何かを叫んでいるセリエと、僅かに痙攣している、足を砕かれた男が見えた。
〈セリエちゃんは、まあいいか。リックさんと、元気な二人は居なそうで、足を折ってやった奴は動き無し、いや、ありゃあ死んじまってるねえ〉
蟋蟀は足を狙って『貫』を振るったので、逃げられないと悟って自死したか、仲間に殺されたのだろう。
「こ、こおろっえふっ、な、な、にが」
蟋蟀は、息を大きく吐き、目、鼻、喉の痛みに耐えつつ、未だ悶えているセリエの元に向かった。