三
「マスター、重いのもらえるかい」
「夜まで飲まないんじゃなかったんですか?」
レオニードが引きずられて行き、シャナが中央酒場を出て行ったのを見送った蟋蟀は、追加のワインを頼んでいた。
「移動するのも面倒ですし、うるさいのも居なくなったんで、じっくり呑み直そうかと思いましてね」
「おはようございまーす」
と、酒場の扉が勢いよく開いた。
スラリとした体型に、短く切り揃えられた黒の髪、活発そうな女性と言うには少し幼めの娘が入って来る。
「あっ、お客さんですか?いらっしゃいませ」
蟋蟀に気づき、笑顔でペコリと頭を下げて店の奥へぱたぱたと走って行く。
「新人さんですかね」
「ああ、最近この街にやって来たリックちゃん。うちの料理を気に入ってくれてね」
「マスターの顔に見飽きて来たトコなんで、華やかになって良いんじゃないですかね」
余計なお世話ですよと返し、マスターが注文のワインを用意していると、奥から、白いエプロンを付けたリックが入って来る。
「リックちゃん、これ赤い人によろしく」
「はーい、ってホントに真っ赤ですね〜」
そう言ってリックはジョッキを置きながらまじまじと蟋蟀を見つめる。
「……いいお嬢さんが、そんな風に男を見るもんじゃないですよ」
「っ、あはは。すいません。あっ、摘むもの、何か頼みますか?何かお腹に入れないと、体に悪いですよ」
ワインを口に運ぶ蟋蟀に、リックはメニューを差し出す。
黙ってメニューを受け取ると、蟋蟀はリックに目を向けた。
「トマト、もらえるかい?」
「ト、トマト?!」
思わず声が裏返るリックを見て、蟋蟀は軽く頭をかいた。
「変かねえ」
「そりゃあ、全身真っ赤な人が、赤いワイン飲みながら、真っ赤な野菜食べてれば、ビックリもしますよ」
しかも野菜は値が張る為、単品で頼む事は少ない。
「俺の好物で、いつも頼みますんで、覚えといて貰えるかねえ」
蟋蟀はリックに笑顔を浮かべて、ワインを口にした。
トマトをつまみにワインを飲んでいると、徐々に酒場に客が増えて行った。
蟋蟀も見慣れた何時もの光景だが、今日は少々違うようだ。
何時もなら、客の注文にマスターが応え、出来た料理は頼んだ本人が取りに行くのだが、
「ソーセージとワインを頼むぜ」
「あいよー、リックちゃん、これ運んで」
「はーい、お待たせしましたー。エールと干し魚でーす」
「こっちにお代わりだー」
「はいはーい、ちょっと待って下さいねー」
マスターと客の間を行ったり来たりするリックは、まるで昔からいたかのように、酒場にとけこんでいた。
そんな様子をぼぅっと眺めながら、トマトを一切れ口に運ぶ蟋蟀。
「リックさん、ワインのお代わりとトマトの煮込みをたの貰えますかねえ」
「はーい、って、赤ばっかりじゃないですか」
「好きなもんでねえ」
ちょっと待って下さいねと笑い、リックはマスターの方へ歩いて行く。
その時、途中のテーブルに着いていた酔っ払いが、すっと足を出した。
軽いイタズラで転ばせてやろうと言ったところだろう。
蟋蟀は軽く溜息をついて、様子を見ていた。
だが、
「マスター、赤い人がワインとトマトの煮込みを注文でーす」
足を出した酔っ払いは、軽く頭を振りながら足を引っ込めていた。
〈なんか面白えのが来たみたいだなあ〉
蟋蟀は口の両端をにやあと釣り上げた。
あまりに早く、自然に足を避け、何事も無かったように歩き続ける、しかも直ぐ側で見ている人間に気づかれる事なく。
遠目に見ていた蟋蟀でも、完全にその足捌きを捉える事は出来なかった。
「お待たせしまし、って、その顔怖すぎますよ」
にやあとしたまま考えていたらしく、注文の品を持って来たリックは、蟋蟀の笑顔に怯えつつ、品物を置いていく。
「ああ、すまないねえ。ーーところで、あんたは何者なのかねえ」
「?」
突然の質問に首をかしげるリック。
「聞き方が悪いか、あんたは何処の出身かなあと思ってねえ」
「ああ、私はオルロンの田舎町から来たんですよ」
「オルロン、ああ、ずいぶん南の方から来たんだねえ」
このライエル国は、大陸でも北東に位置している。
オルロンは南の端にある小国だ。
「ええ、最初は行商の真似事をしながら色々な所を見て回ってたんですか、そっちの才能はあまり無かったみたいで……」
「休戦で、治安が良くなってきたとは言え、女の一人旅は大変だったでしょう」
「逃げ足だけは早いですし、他の行商の一団の方達と、ご一緒させてもらったりしてたんで、結構楽しくやってましたよ」
蟋蟀は顎をさすりながら、にっこりと笑うリックの目を見つめた。
「まっ、俺にはどうでも良い事さね」
リックの瞳に濁りや影は見られない。
小首を傾げるリックを前に、特に問題を起こしそうにも見えないと、蟋蟀は考えるのをやめた。
「リックちゃん、ご飯食べちゃいな〜」
タイミング良く、カウンターからマスターの声が響くと、ぺこりと頭を下げて、リックはカウンターにいるマスターの元へ行った。
そこでスープとパンを受け取り、リックは蟋蟀の正面に座る。
「あっ、ここいいですか?」
「普通は座る前に言うもんですがね、良いですよ」
ありがとうございますと頭を下げて、リックはパンにかぶりついた。
蟋蟀が煮込みを一口食べている間に手のひら大のパンが、ワインを一口飲んでいる間にスープが消えていた。
「……奇術か何かですかねえ」
「ここのご飯は美味しいですから」
にこにこしていたリックだが、すっと表情が真面目になった。
「ところで、赤い人は一体何者なんですか?」
「何者、ねえ。さっきの意趣返しかい?」
「だって、そんな真っ赤な格好ですし、剣持ってるし、足だけグリーブ付けてるし、片手が無いのは戦争かもしれないですけど」
と、そこまで一気に言うと、木のカップに入ったワインをゴクゴクと飲んだ。
そんなリックに、蟋蟀は内心で驚く。
片腕が無いのは、この服では判断しづらく、何より足元のグリーブは、テーブルの下で、もっと見辛いはずだ。
それを一目見ただけで判断するのは容易な観察眼では無い。
それこそ、何処ぞの国から派遣されたーー。
と、そこまで考えて蟋蟀は思考を巡らせるのを止めた。
害は無さそうと先程判断したばかりだし、何より、メンドくさい。
「赤い人はひょっとして危ない人?」
色々考えていた沈黙は、彼女に別の想像をさせてしまったようだ。
「俺は、そうですねえ、何でも屋ってやつですかねえ」
「何でも屋?」
「そう。頼まれれば何でもやりますからねえ。気にくわない事以外は」
そう言って、蟋蟀はにぃと笑う。
「赤い人、その笑顔すごく怖いよ」
リックは軽く身震いをした。
「一応、蟋蟀って呼ばれてるんで、そっちで呼んでもらえますかい?」
「蟋蟀?」
「そ。歩くと足元からきぃきぃ音が鳴るから、どっかの洒落た奴が、呼び出したのがきっかけでねえ」
「ふーん。じゃあ、本名じゃないんでしょ」
「そうですねえ。ただ、格好良いでしょ」
「……まぁ、人のセンスは人それぞれだし」
しれっと言い放つ蟋蟀に、リックは溜息を吐いた。
「それと、この腕は、まぁ戦場でって事で」
「傭兵だったんですか?」
「この話の続きは、もっと親しくなってからにしときましょうかね」
リックの追求を蟋蟀はウィンクで躱した。
「後は剣とグリーブ。剣は昔使ってたやつですし、グリーブは、お洒落じゃないですかい?」
軽く拳骨で叩くと、コンコンと音がする。
比較的軽い金属で出来ているようだ。
「趣味は人それぞれですもんね」
「まったくですねえ」
立ち上がりながら、リックはもう一度、蟋蟀の全身を見た。
「でも、そんな真っ赤な格好してると【レッドオーガ】みたいですよ」
「……そりゃ伝説さね」
レッドオーガ、戦場を渡り歩いた謎の騎士。
常に最前線で闘い、常に返り血で紅く染まり、常に最後まで闘っていた騎士。
曰く、とある戦場で、敵味方合わせて1000人を超える中、たった一人、唯一の生き残りだった。
曰く、退却戦で、追撃してきた兵を全滅させ、その勢いのまま敵を追撃し、そのまま勝ち戦に変えた。
曰く、数千の敵軍に単騎特攻し、敵将の首を刎ねた。
等等、眉唾な話も多いが、英雄譚は吟遊詩人も度々歌う程人気が高い騎士。
ただ正体を知る者はいないとされている為、半ば伝説的な存在だ。
「まさか、伝説の怪物と重ね合わせてもらえるたあ、光栄だねえ」
そう言って、煮込みに残っていた汁を一気に飲み干す。
「でも、実在したってーー」
「そりゃ、何処で聞いたんだぃ?」
ジョッキに残っていたワインを飲み干した、蟋蟀の唇の端が、にぃと大きく釣り上がる。
一瞬、酒場が沈黙し、蟋蟀は立ち上がった。
「今日の処はこんなもんにしときましょう」
蟋蟀の表情は微かに微笑みを携えたものに変わっている。
「存外に楽しい時間でした。お釣りはあんたへのチップって事で」
懐から金貨を一枚取り出し、テーブルに置き、店を出た。
「ふふ、また、お話しましょうね」
酒場をでる蟋蟀の背中に、一瞬だけ、怪しげな笑みと小さく言葉を投げかけ、リックは店内の喧騒に戻っていった。