俺の名は。
「ここは、どこだ?」
気づいたとき俺はどこかの公園の片隅にいた。正確に言うとベンチに寝転がっていた。非常に頭が痛い。後頭部を触るとぬるぬるしている。
やがて俺はある大事なことを忘れていることに気がついた。それは決して忘れてはならないもの。俺と分かつことのできぬ大切なものだった。
「俺は、誰だ?」
その一言から物語が始まる。俺は俺が何者なのかを知るため近所を巡る旅に出た。
『迎え酒をしろ』
謎の大いなる存在は俺にそう語りかける。俺はどこか懐かしいその口車に乗せられふらふらと場末の酒場にしけこんだ。
「へい、いらっしゃい!」
まずは一軒目。本場大阪仕込みの串かつや。ウズラの卵が非常に美味である。いくら飲んでもまだ自分を思い出せない、どころか忘れる一方だったのでしばらくしてから店を出た。
「あーあんたね。いいよいいよ」
気のいい店主はそういって一円も持っていない俺を見送ってくれた。どうやら俺は皆から慕われるような存在だったようだ。店をふらふらと出る間際、ふと自分の手のひらに油性マジックで書かれた文字らしきものを発見した。
『二度漬け禁止』
一体どういう意味だろう。何も思い出せない。
二軒目。産地直送の肉を使用した焼き鳥。炭火で焼き上げた宮崎地鶏のばつぐんの風味が食欲をそそる。
『たらふく食って飲め』
大いなる声はそう告げる。俺はやはり一円も持っていないのだが、それでもビールや焼酎を3杯ほど飲み、また食べた。
「ああ、お代はいいですよ」
とここでも気のいい店主は許してくれた。俺はどんどん強気になっていた。
「ちょっと君、いいかな?」
警察に呼び止められた時には気づくと道端で吐いていた。懐かしい感覚が蘇る。俺は記憶を無くす前も吐いていたのだろうか。しかし自分の名前は忘れたのに警察という存在があることは覚えているらしい。ややこしいことだ。
「ちょっと君、いいかなって聞いてるんだけど?」
「無視しないでくださーい」
何人もの警官に囲まれた俺はしばらく彼らと話をする羽目になった。まあときにはこんなこともあるだろう。
「何か、用か?」
「何かじゃないでしょ。あんた一体どうしたの、こんな夜更けに一人でふらふらと」
「俺は、ダレダ?」
「あー。誰かと思ったらまたあんたか」
「名前は、田中!」
と捜査官の一人が俺を突き放すように言い放った。
「田中一郎!」
その瞬間世界が止まった。俺はまるで生まれたときからこの瞬間を待っていたような気持ちになった。世界が早回しになったように時が俺のそばを通り過ぎていく。薄い雲が高速で流れ、やがて夜のしじまのなか、顔を見せぬ地平線の太陽は遠くの薄暗い空を赤く染め上げていた。
すべてを思い出した。どうしようもない友達と飲んだくれた火曜の昼下がり。つまらないことから口論になり、けんかのはずみで俺は公園のジャングルジムに頭を強打。止め処なく流れ出す赤黒い血潮は乾いた大地を染めた。地面に倒れこむ俺。繰り返される嘔吐。体が言うことをきかない。暗闇のなかで意識が薄れていく。そして、そして。
「俺は、昨日死んでる?」
俺はいま存在しないはずの人間だったのだ。もはや名前の必要のない人間。呆然と立ちくす俺に捜査官もやがて視界から消えた。
そんなはずは……。そして声も奪われた。夜明けの朝が再び暗闇に包まれた。底知れぬ穴に落ち込んでいるような感覚。やがてその感覚もなくなっていき、すべては無になった。