一章 七、繭の夢
誤字訂正
誤…少しづつ 正…少しずつ
* * *
夢を見た。
黄金色の海に沈んでいく夢を。
水中からぼんやりと輝く月のようなものが見えた気がする。
体が沈んでいくにつれ、自身の輪郭がゆっくりと崩れていく。末端部位から、小さな欠片となり、終いには雪の様に海の中へ溶けていく様が見てとれた。不思議と、痛みは感じない。恐怖も、不安さえも。
黄金色の海に更に深く沈んでいくと、いつの間にか蒼色の海へと変わっていた。そこには揺蕩うクラゲや、人の身の丈以上ありそうな細長い深海魚、熱帯魚を思わせる、体よりも大きなヒラヒラとした尾びれを優雅に踊らせながら泳ぐ海洋生物達の姿が見えた。
なんだか水族館の水槽に入ってしまったようだ。
しかし、いずれも俺の知っている形や色をしていない。どれも、色や形がかなりチグハグだったりする。少なくとも、眼球を幾つも触手に垂らしているようなクラゲ、俺は見たことがない。
周囲を漂う海洋生物達は、グロテスクな見目をしたものもいれば、美しい、お伽話にしか登場しないような繊細な見目をしたものもいた。
深海のようでいて、光が降り注ぐのを感じる。視界の端に、帯状に揺らめく光さえ見える。そこに集うように、小魚が群れをなして泳いでいく。それを狙ってか、鯨のような巨大な何かが、それに合わせて集う。
また、気泡が幾つも浮かび上がってきた。
気になって視線を下げれば、貝のようなものが大小様々な気泡を吐き出しているのが見える。珊瑚や海藻、岩肌にくっついており、気泡を吐き出しては、貝殻の隙間を閉じる。
それが、幾つも集まって、風に揺れる花のように見えた。
不思議な場所だ。
そんなことを思ううちに、俺の輪郭は完全に消え去り、人間としての形を全て失った。残ったのは、ぼやけた光のような塊だけ。それが、今の俺を成す全てだった。
輪郭を失ったせいか、視界がぼやけ、周囲の景色が滲む。
殆ど見えない。辛うじて光を感じる程度だろうか。先ほどまで知覚していた、よく分からない海洋生物達の鮮やかさや奇妙さが、海の蒼さや透明度が、俺の視界から消え去っていった。
それでも、恐怖は感じなかったが。
きっと、感情も鈍くなっているのだろう。
周囲の海洋生物同様、海の中を揺蕩っていたが、光の塊と化した自身から、光が漏れ出るような感覚に襲われる。
遂に、塊として在ることさえ出来なくなったか。
冷静に、そんなことを思う。
きっと、この塊さえも維持出来なくなった時、俺の自我は消える。漠然とそんなことを思うが、やはり不安の類いは心に浮かび上がることはなかった。
このまま、全て消え去り、この海に消えるのだろう。
そう思った。
しかし、そうはならなかった。
俺を成す光の塊が、一回り以上小さくなった時。
何かが、俺に触れた気がした。
それは、ひどく優しい触れ方だったように思う。まるで赤子を抱くような、そんな優しい温もりに包まれた様な気がした。
その暖かい何かは、散り散りとなった光の粒の代わりに、暖かいような、熱いような何かを流し込む様に与えてくれた。それが、何とも心地良い。先ほどまであまり感じなかった筈の感覚が、その暖かくも熱い何かが流れ込むに従って、徐々に戻っている様に思えた。
新たな熱を与えられ、火種を与えられた焚き火のように、俺を成していた光の塊が大きさを取り戻していく。その際、崩壊する以前よりも輝きが増したように思う。
また、失った筈の輪郭も、徐々に形作られていくのが分かる。
中心部がまだ形作られていないためか、視界はまだはっきりとしない。だが、末端からゆっくりと丁寧に作られているのを感じる。
そして中心部を形作られ始めると、今まで俺に熱を与えてくれていた何かが離れていくのを感じる。触れられていた箇所から、温もりがそっと離れていくのを、どこか寂しいように思った。
何かが触れるのを止めた瞬間から、また、体から熱のようなものが零れ、溢れていくのを感じる。
感情はまだ鈍っているのか、特に恐怖を覚えることもなく、どこか他人事のように感じていた。
一応零れる熱を止めようとするが、一向に止まる気配はない。せめて手で漏れ出る箇所を塞ごうとも思ったが、体が痺れたように動かない。指先一つ、自由に動かすことが出来ないのだ。
あぁ。やはり形を成せないのか。
そんなことを漠然と思いながら、俺は消えゆく熱と光を、漫然と見送った。
「ー…、ー……」
不意に、水の揺らぎや気泡の弾ける音以外聞こえなかった海の中に、微かに歌のような一節が聞こえた。あまりに微かで、海洋生物の泳ぐ音に掻き消えそうな程だった。
どこかで聞いたことがあるような。
そんな気がするが、思い出せない。
歌のような一節が終わると、俺の周囲に繭らしきものが形成されていくのが感じられた。輪郭が未だに全て揃っていなかったため、視界は一向に光を感じる程度だから、断言は出来ないが。
いつの間にか、胎児のように丸くなっていた俺を、繭が完全に覆う。
海から降り注ぐように感じていた光は遮られ、幾分か仄暗さを感じる。潮流による、水が体を吹き抜けるような感覚も大分軽減された。今では、揺籠程度の揺れしか感じられない。
しかし、それらの変化は不安や恐怖を募らせるものではなかった。むしろ、母親の胎内にいるかのような、安心感や安堵と言ったものを与えてくれた。
繭は俺を守るように、俺と海とに僅かな境界を作る。恐らく、全ては遮断していないのだろう。その証拠に、今も微かな光と水の流れを感じていたから。
体から溢れていた熱は、繭に阻まれ、海に還ることなく繭の内部でゆっくりと渦巻く。その仄かな熱が、俺の全身に満遍なく触れてゆき、俺の中に戻っていく。それに呼応するように、体の内側から自身の鼓動の音がどんどん大きくなっているのが分かる。
もうすぐだ。
誰にともなく、呟くように、宣言するように、言葉が浮かぶ。
もうすぐ、目が醒める。
もうすぐだ。もうすぐなんだ。
何かに突き動かされる様に、足を抱え込んでいた手を、繭の方へ向ける。
「——…」
繭に触れる手前、また声が聞こえた。何を言っているかは聞き取れなかった。だけど、何故か内容は朧げに感じ取れた。
まだ眠れ。
そう、声は穏やかに告げた。まだ孵化の時ではないのだと。
そうか。ならば、もう少しだけ眠ろう。
繭に触れようとした手を戻し、もう一度、丸くなる。
先程まで感じていた衝動は、嘘のように消え去っていた。
「もう少しだけ、おやすみなさい」
そんな声が聞こえた気がした。気のせいかもしれない。確かめる術などはないし、確かめようとも思わない。ただ、この時には、俺の輪郭は完成していたらしく、微睡みに沈むままに、瞼を閉じた。
* * *
甘い香りがする。
一体、何の香りだったろうか?
花、ではないな。香水ともどこか違う。
それよりも、もっと優しくて、甘い香りだ。
『こういうのも、悪くないわね』
脳裏に浮かぶ、細く、品のある声。
あぁ、そうだった。これは。
思い出される、夜のように流れる黒い髪に、梔子のように香る、白い肌。俺を映す常闇の瞳に、涙黒子。果実のように色付いた唇。
これは陽子さんの香りだ。
「—…」
気付けば、意識が戻っていた。ぼやける視界が、数回の瞬きの後に定まっていく。石のように固まっていた体も、脈動に合わせて、少しずつ解されていくのが分かった。
「あら、もう目が覚めたの?」
声のした方に視線だけ向ければ、そこには陽子さんがいた。まだ寝ぼけているせいか、頭が少しぼーっとするが、陽子さんだとすぐに分かった。あの甘い香りがしたから。
陽子さんは俺の頬に手を添え、白魚の様に嫋やかな手で、あやす様に撫でている。その笑みは、慈愛に満ちているように思えた。
何と心安らぐ微笑みなのだろう。
素直に、そう思った。
「ねぇ、道夫さん」
色も良く、形の良い唇を小さく開き、囁くように言葉を紡ぐ。
吐息がかかるほどに、俺達の距離は近い。
「生まれ変わる夢は、どんなものだった?」