三章 十、記憶の夢 〜語らい〜
三話連投です。
二話目です。
「こちらこそ、初めまして、ハールさん。あなたの記憶にお世話になっています。中澤道夫と言います。でも、この名前はあちらの世界ではもう使えないんですよね。色々あったもので。
ですので、今は道夫と言う名を、読み方を変えて、ラーヴァと名乗っています」
ぺこりと座ったまま腰を折って、ハールさんに挨拶を返す。
こんな調子で話せたのが、なんだかとても久しぶりに感じてしまう。
実質、一日しか経っていないのに。
やはり、慣れない態度や話し方で話していたのが結構きつかったらしい。口数も警戒のために、随分と少なくせざるを得なかったのも意外と大変だったな。まぁ、これは交渉時のイザークが思いの外頭の回転が早くて、言葉を返す余裕がなかっただけなのだが。
流石に、これからはまだマシになるよな?
切にそう願わずにはいられない。
「ハールでいい。あんたとは同じくらいの歳だろう? 見た目から判断しているのもあるんだが、記憶としてあんたの中にいたせいか、そう言うところは分かるんだ。不思議だよな。あんたの名前さえ分からなかったって言うのに。
『俺』は同じ歳くらいの人間に、さん付けをされるほど、偉い奴でもなかったんだ。むしろ、バカをやらかした。だから、そう言う風に呼ばれると、少しむず痒いくて話難い。頼むから普通に話してくれ。敬語もそんなに要らねーから」
特に口上があったわけでもないが、互いに酒を飲み交わし始める。やはり、癖の強い酒だった。臭いも強いから、飲んだ後も口の中から後味が消えない。これは苦手なタイプだな。思い切り顔に出ていたらしく、ハールさん、いや、ハールがお茶を注いだ湯のみを手渡してくれた。
有り難く受け取り口に含めば、鼻につかない程度の優しい香りと、緑茶と紅茶の中間くらいを思わせる、少し渋みを感じるお茶だった。
悪くない味だ。
この癖の強い酒の後味を、気にならない程度にまでさっぱりさせてくれる。おまけに、つまみの肉の味も損なわないときた。何の肉を使っているのかは知らないが、非常に美味い。このお茶と共に、この癖の強烈な酒には、なくてはならないお供だな。
「そう言うことなら。改めてよろしく、ハール。こんな感じで良いのかな?」
「あぁ。十分だ。感謝するよ。
そしたら、あんたのことはなんて呼んだらいい? 名前が二つあるだろ? ラーヴァか? それとも、道夫か?」
「道夫、の方で頼むわ。
ラーヴァと名乗っているけど、中身は今でも変わらずに『中澤 道夫』だから」
ラーヴァではない自身の姿であるためか、軽く叩いた胸板に筋肉など無く弛んでいたが、妙な安心感があった。今まで見知った己の肉体の感触に、安堵しているのかもしれない。
肉汁の滴る串焼きを口にしながらそう告げれば、ハールは自身の盃に酒を新たに注ぎながら、「そうか」と静かに笑った。その笑みが、どこか寂し気だったのは、気のせいではないだろう。
「なぁ。あんたはさっき言ったよな。『俺』の記憶の世話になっているって。それってどんな記憶なんだ?」
寂しさを紛らわすためか、それとも、他の意図があるのか。
ハールは酒を片手に、そう尋ねてきた。
「そうだな。俺がいた世界でもなく、召喚された世界でもなかったな。両方とは異なる世界の記憶だよ。平原や険しい山岳地帯を馬と共に生き、悠々と遊牧していた。それで、馬上から弓を放ったりして狩りをしているんだ。空を飛んでいる鳥さえ弓で射落していて凄かった。
きっと、そう言うのを騎馬の民って言うんだろうな。その生活に関する記憶だったよ。
小屋の設営や野宿の仕方などは、今日とか凄い役立った。後は、馬の扱いとかの記憶だな。ただ、これは世話になるのは、当分先になりそうな気がする。今の段階だと、徒歩で旅路を行く感じだし。馬を手に入れる機会もしばらくは無いだろうから、それまではお蔵入りかな?
ただ、俺自身、馬には一度も乗ったことがないのに、目を閉じれば、馬上からの景色がすっと浮かんでくるんだ。馬と一体となる感覚も。それが凄く爽快で。
これって、全部ハールの記憶なんだよな? それは分かっているのに、本当に俺が見た景色として、脳裏に浮かんでくるんだ。知らない筈の鼻歌も口ずさんでしまいそうになって、驚いたりしているよ。
これはもう、早く自分でも馬に乗ってみたいって思ったね」
「あはは! それは良い! 良い記憶だ。大事にしてくれよ。『俺』のマシな記憶だからな」
膝を叩きながら愉快そうに笑った後、一人で納得したように頷き、空になった俺の湯のみにお茶を注ぎ足してくれた。ついでに口直しなのか、自分の湯のみにもお茶を注ごうとしていたので、今度は俺が酌の代わりに注ぎ返す。すると、パッと嬉しそうな表情を浮かべてくれた。
うん。やはり、呑みニュケーション、侮り難し。例えそれが、ソフトドリンクの筆頭である、お茶であったとしても。
異世界、異文化の垣根を軽々と越えてくれる。
それから、他愛のないことを、互いにとめどなく話し合った。
やれ、そちらの故郷では良い女はいたのか、とか。美味い酒はあるのか、どんな人間がいて、どんな風に生活していたのか。そんな、本当にとりとめのないことを話しては、笑ったり愚痴ったり。
その頃には夢の世界に輝く太陽も大分高い位置にきており、朝方の爽やかさよりも、より活動的な印象を抱かせる、暖かみの強い陽光を惜しみなく平原に注いでいた。
酒もハールによって種類が追加された。あの乳製品(馬に似た家畜の乳を使用していたらしい。道理で牛乳とは異なる臭いをしていたわけだ)を発酵させた酒は、ルデと言う名前らしいが、どうにも俺の口に合わなかったから、これならどうだ、と言うことで新たに出されたのだ。
追加されたのは、エデと言う名の、黒ビールのような苦味の強い発泡酒だった。こちらの方が、最初に出されたルデよりも癖が弱いため、まだ飲める。少々ぬるいが、十分許容範囲だ。贅沢を言えば吟醸、それも米々しくないタイプを呑みたかったが、どうやらハールの記憶にはないらしく、出せなかった。
ならば俺が出そうとするが、上手くいかず、何も出なかった。つまみならいけるか、と思ったが、やはりこちらもダメだった。何も出ない。せめてエイヒレか、大根おろしの乗った熱々の卵焼きに串焼きの盛り合わせ、それかシメサバを出したかったのに。俺の居酒屋の鉄板メニューだから、ハールにも食べさせてやりたかったのだ。
おかしいな。俺の夢の筈なのに。
釈然としない思いを抱える俺を取りなすように、ハールはつまみも追加した。
今度は揚げ餃子のようなものだ。皮にも香草が混ぜてあり、香りが良く、焼き上げた皮もパリパリで好みだ。中身も香辛料も効いていて美味い。他にも、川エビらしき物を素揚げしたような物に、紫大根っぽい野菜の酢漬けも出され、どれも口に合った。
鈴鹿にも早く、こんな美味い物を食わせてやりたいものだ。
そう零せば、作り方を知っているらしく、教えてくれた。記憶にあるのとでは若干材料の分量が異なるから気をつけろ、と言う有難いお言葉つきで。
こうやって話せば話すほど、ハールは気の良い男だと言うことが分かった。
だから、不思議だった。
どうして、あんな衝動を抱いてしまったのかが。
「なぁ。あんたはさ、本当に今も変わらずに自分が『中澤 道夫』だって、そう思っているのか? 道夫って名前も、もう向こうの世界では使わねーんだろ?」
どれくらい話しただろうか。唐突に、今までの快活な調子から一転して、ハールが歯切れ悪く、先ほど尋ねたようなことを再度尋ねてきた。
「ん? あぁ。まぁ、そうだな。道夫って名前に関しては、鈴鹿と二人きりの時なら使っているから、完全に使わなくなるわけではないけど」
酔って同じことを質問しているようにも思えなかったので、少々不思議に思いながらも、やはり先程と同じような答えを返す。
「本当にそう思うのか? 」
「え?」
真剣さを帯びた問いかけに、思わず間抜けな声を上げてしまう。
「お前の中には、『中澤 道夫』の頃の記憶もあるが、それ以外の記憶も同じか、それ以上入っているんだぞ? 大抵はただの知識としてあんたに消化されているだろうけどよ。
でも、『俺』は違う。こうして人格と言うか、自我があんたの中で存在しちまっている。多分、消化しきれなかったんだろうな。与えられた記憶や知識が多すぎて」
どこか確信したように断言してくるハールの言葉は、妙な説得力があった。理由は特にないけれど、信じてしまえるような、そんな力があるのだ。
「『俺』って言う明らかな異物が、消化もされずにあんたの、道夫の目の前にこうやって明確に存在しているんだ。
こんな状態の『俺』が、あんたの人格に何の影響も与えていない、なんて寝言を信じることは出来ない」
俺の答えを待つことなく、ハールは続ける。
「姿だって、かつての面影は一切ないんだろ? こっちはあんたの向こうでの姿は知らないけど、明らかに変わってしまった、って言うのは知っている。あんたの内側で、肉体が変化した名残みたいなものを感じたから。しかも魔女、確か陽子さん、だっけ? そいつが関わっているせいで、絶対元には戻らねぇ。
あんたのことを知っていた奴は、あの魔女を除いて、魚だった鈴鹿って女しかいないしよ。その女も、完全に人間であった頃のあんたを把握しているわけじゃねぇ。あくまで、魚の状態で所持していた僅かばかりの記憶を、魔女から補足されたに過ぎない。補足されたことっては、手を加えられたってことだ。そう言う意味では、あの女の記憶、あんた以上にあやふやだぞ。
だから、あの世界で、あんたのことを確かに『中澤 道夫』であったことを知っている奴は、誰一人として居ないに等しい。
あんた、そんな状態で、今でも変わらずに自分が『中澤 道夫』だって言えんのか?」
どこか怒りさえ滲ませているハールの様子に、こちらが戸惑ってしまう。
一体、何に対して怒りを抱いているのだろうか?
それに、ハールは俺ではなく、ハール自身が異物だとはっきり言った。それが、妙に物悲しかった。まるで、ハールがハール自身を否定しているかのようで。
「『中澤 道夫』では出来なかったことも出来るようになって、知らなかった筈の『俺』の感情の片鱗も、あんたは垣間見た筈だ。それに飲み込まれそうになって、結構危機感も抱いたんじゃないか?
あんたが知らない筈の、馬に乗っていた『俺』の感覚だって、思いっきり共有しちまっているしよ。
それらが全て、『今の』あんたの中に入っているんだぞ? それでも本当に、あんたは自分が『中澤 道夫』だって言い切れるのか?
変わらずにそうであると、信じられるのか?」
「ああ。信じられるよ」
肯定の返事は、思ったより簡単に口から溢れた。そのことに、俺も驚いたが、俺以上にハールが驚いていた。目をこれ以上ないほど開いて、こちらを凝視している。そんなに驚かなくともいいじゃないか。
「確かにハールの言う通りだ。今でこそ変わる前の姿をしているけれど、向こうでは全然違う姿だしな。歳だって、若返っている始末だし。ハールも向こうでの俺の姿を見れば、相当驚くと思うよ。
それだけでもめちゃくちゃ変わっているのに、向こうの世界の記憶やら知識が、当たり前のように俺の中に入っているからな。
それに、ハールの記憶も。
これが別人でなければ、一体なんなんだ、って気にもなるわな」
もし俺がハールの立場なら、間違いなく同じようなことを尋ねるだろうな。
変わりすぎだろ、お前、って。
あ。これだとただのツッコミか。慣れない酒のせいかだろうか。もう酔いが回ってきたのかもしれない。それとも、考えたくはないけど、歳か? いやいや、それはない。まだ早いだろう。白髪だけでも早いと言うのに。
うん。これ以上は止そう。無駄に傷つく気がしてならない。
「それでも、いや、それだからこそ、信じているんだ。こんなに変わっても、変わっていないことや、変われないことが多いから。自分でも甘いなって思うところや、カッコつけたがりなのに、全然上手く出来ないところとかが特に。
鈴鹿の前にいると、何にも言わないで側に居てくれることに、甘えたくなるしな。特に何もないけど、話すのがどうにも億劫な時ってあるだろう? そう言う時、無言の時間がすごく落ち着くんだ。多分、あのお互いに無言でいられる時間だけは、地球でも向こうの世界でも変わらないものだと思うから、余計楽なんだと思う。
鈴鹿はこれから人間として生きていかなきゃならないから、もっと喋らせた方が良いのは分かっているんだけど、つい、ね。
それに、今は二十代の子達と一緒に旅をすることになったんだけど、やっぱり二十代って若いわ。いや、俺もまだ若いつもりだけどさ。やっぱり二十代には敵わないよ。話し方とか考え方とか全然違うし、追いつかない。あの子達と話していると、俺はやっぱり歳をくっているんだな、って実感するし。
だから、信じられるんだ。
俺は間違いなく、『中澤 道夫』なんだって。
それに……」
「それに?」
「陽子さんのことを信じているから。それに、陽子さんが信じてくれた俺自身のことも。まぁ、同じ酒飲み仲間の好って言う点が一番の理由なんだけど。
だから、体を作り変えることも、記憶として知識を与えられることも受け入れられたんだ。陽子さんなら、まぁ、ちょっと悪さをするかもしれないとは思ったし、実際されちゃったけどさ。でも、任せても大丈夫だって言う安心感みたいなものはあった。きっと、陽子さん以外だったら、そこまで信じられなかっただろうし、こうも落ち着いてはいられなかったと思う」
ちょっと、いや、かなり青臭いセリフだが、紛うことなき、俺の本心だ。
この歳になって、こうやって青臭い本心を話すのは、やはり物凄く恥ずかしい。しかし、言わねばなるまい。なんせ俺の目の前にいるのは、経緯はどうあれ、間違いなく俺の一部となったハールで、道夫自身でもあるのだから。
自分にまで、嘘はつけない。
つこうと思っても、他ならぬ俺のことだ。失敗するだけだろう。
流石に四十近くまで生きていれば、その程度のことは理解出来るようになったし、多少は受け入れられるようになった。
そんな俺の答えに対し、ハールは何か言おうと何度か口をパクパクさせていた。しかし、それでも言いたい言葉が見つからなかったらしい。躊躇うように口をもごもご動かしては、頭を振る。
そんなことを何回か繰り返した後、見つからない言葉をかける代わりなのか、俺をもう一度見た。俺も、何て言えばいいか分からなかったから、視線を逸らさずに受け止めることにした。
しばし無言の時間が過ぎる中。
困惑し、張り詰めていたハールの肩の力が抜けたのが見て取れた。
「そうか」
安堵と、少しの納得を混ぜたような表情で、ハールはそう短く頷く。完全に納得したわけでは無いらしいが、ハールの中で折り合いはついたらしい。ならば、今はそれで十分だろう。これ以上の言葉は、思いつかないから。
ハールの言葉を肯定するように、「そうだよ」とこちらも短く答えた。俺自身に言い聞かせる意味も込めて。




