6
菓子店へ向かう途中に、僕が毎度逃げ込む川がある。川と言っても僕の知る一級河川ほどの幅はないが、小川とは言えない。そんな、向こう岸まで中途半端に距離のある川である。
僕的にすっかりおなじみとなったそこに、ベルデがいた。
彼は川に架かる橋の真ん中で、欄干を掴んで水面を覗き込んでいた。水の流れは緩やかに見えたが、よもや身投げでもするつもりなのかと、僕はにわかに焦る。
ベルデの顔はそれくらいに、鬱々としたものだったからだ。
だが彼が川に放ったものは、自分の身ではなかった。小さな白銀のものが、ベルデの手を離れて川面にぽちゃりと水音と波紋を立てた。
僕にはそれが知っているあるものに思えて、慌てて彼に近寄った。
「今、何を捨てたんだ?」
「レ、レオンハルト様……ぼくは別に、何も」
ベルデはあからさまに怯えた顔を見せた。僕としては恫喝したわけではないのだから、そんな顔しないでほしいのだが。
「僕の見間違いじゃなければ、今のは君が大切にしている髪留めじゃないのか?」
ベルデは肯定するように、顔をこわばらせた。動揺しているのだろう、僕の口調が素になっていることにも頓着できない様子だ。
「別に、大切でもありませんから」
「君の母親が、唯一、君にくれたものだろう? 捨てたということは、母親とは決別できたのか」
彼の反応を見る限り、どうやら当たりのようである。だがつらそうなその表情からするに、決別できたとは、言い難いようだ。
ベルデの母親は、絵にかいたようなネグレクトだった。そのくせ躾と称して息子を暴力でいたぶり、完全に尻に敷かれている父親はそれを傍観しているだけの奴隷だった。
見かねた遠い親戚のビオレタが一時、彼を保護していたのだが、屑の母親は育児に加担する気もないくせにすぐ息子を奪い返した。レオンハルトに土下座したおかげで今は家に帰らず、高校の寮に身を置いているベルデであるが、もちろん寮は高校に隣接しており、この辺りにはない。
その母親がただ一つ、彼に与えたもの。それが白銀の髪留めだった。母親的にはいらないものを押し付けただけでも、子供にとっては唯一の拠り所だ。
ゲーム中でも結局それを捨てることはできず、ブランカを得ることで母親への関心を薄くしていくことが精いっぱいだったため、当然ベルデが今、捨てたくて捨てたわけでないのは明らかだ。
「大事なものだろう。まだ、持っていればいい」
「いいえ。あんな人……もう」
何が彼にそうさせたのか。レオンハルトとして思い当たるのは、昨日のことしかない。親のことを絡めてネチネチ言ったのが、無理やりな決別に結びついたのか。だが当然精神が伴っていないため、物を捨てたくらいでは彼は前へ進めない。
だから苦い顔をして、未だに川面を睨みつけているのだ。
「しょうがないな」
「え?」
ベルデの暴投は、僕のせい。だから責任を取って、僕がなんとかしなければなるまい。
ぽかんとするベルデを置いて、僕は川岸に下りるとブーツを脱いで裾をまくり上げた。
わあ、結構筋肉質なふくらはぎ。ブランカを追いかけて毎日歩き回ってるせいかな?
……じゃなくて。
僕はそのままざぶざぶと、川に足を踏み入れた。うう、足の裏がぬるぬるして滑りそう。それに感触が気持ち悪い。でも尖った石とか踏むよりいいかと、無理やりポジティブに持っていく。
「レオンハルト様? 何やって……」
「捨てたのはこの辺か?」
「え? いやえっと……」
「君は来なくていい。僕が探すから」
川の水は泥色で濁っていて、水底が良く見えない。だから手探りで探すしかない。幸い投げた瞬間は目撃しているので、だいたいの場所は見当がついている。
……流されていなければ、だけど。
しかし流れに逆らって水底に沈んでいたため、運よく、僕は目的の髪留めを見つけ出すことができた。とはいえ結構深いところへ足を踏み入れてしまっているため、袖や裾をまくり上げた意味がない。
ベルデは川岸で、真っ青になっていた。
レオンハルトになんてことをさせたのだと恐怖に怯えているのかもしれない。
僕は震えている彼に、髪留めを差し出した。
「これはもう少し、持っていた方がいい」
「レオンハルト様……でも、ぼく……」
「わざわざ捨てなくてもそのうちに、しまいこんだ場所を忘れてしまうくらい執着心の失せる日が来るんじゃないかな」
それはただの、僕の身勝手な未来予想である。だが今捨ててしまうと、執着心は余計に強くなって、後悔に苛まれるだけだ。それくらい、僕にだって分かる。だから無理やり手を取って、握らせた。
ベルデは、泣きそうになっていた。そこに僕への恐怖はない。それよりも、強く握りこんだ髪留めの方を意識しているようだ。
「そろそろ行った方がいいんじゃないか。僕といると、あんまり精神衛生的によくないだろうから」
そう言うと、ベルデは頭を下げて走って行った。その後ろ姿を見送って、レオンハルトっぽくない良いことをしたという満足感に満たされる。
そして、何か拭くのないかなと濡れた手足を持て余すのだった。
それらをふらふらさせたところで、当然誰も、助けてくれないのだけど。