13
見ていたとしか思えない距離だが、ブランカが気づかなかったのは長身のレオンハルトが遮ってしまったせいだろう。
いや、今はそれはどうでもいい。
嫌いと言ってくれた、けれど嫌いになれない相手にどんな顔したらとか、たったその今まで相談をしてたとか、すべてが吹っ飛ぶようなカインの強張った顔から目が離せない。
その表情から、誤解をしているのは明らかだ。
「いや、違うんだ」
「なんでてめえが家から出てくるんだ」
僕の言い訳とカインの詰る声が重なる。再び僕が釈明をするより先に、カインが言葉をかぶせてきた。
「中で何してた」
「何もしてない」
「嘘だ! 姉ちゃんを誑し込んでたな!」
即座の否定。なんて信用のない僕。しかし首を縦に振るわけには断じていかないので、風切音が聞こえる位首を横に振る。
「決してやましいことはしてない」
僕としては本当にやましいことはしてないのだから、ひたすら真摯に告げ、信じてもらうしかない。
けれどカインは僕を睨んだまま、なんとぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めたので、ぎょっとする。
「どうしてだよ……どうして、僕以外なんだよ?」
「カイン?」
その時また、カインの姿がぼやけた。けれど重なったそいつが何か言うより先に、本物のカインが泣きじゃくりながら叫んだ。
「馬鹿! 死んじゃえ!」
僕に鞄をぶつけると、カインは逃げるように駆け出していった。はずみで菓子の包みが地面に落ちたが、拾うことも忘れて僕は、即座にその後を追う。騒ぎに気づいたブランカが後ろで顔をのぞかせたようだが、振り向く余裕なんてない。
「カイン、待って」
「うるせえ、ついてくんな!」
そんな風に言われてはいそうですかとうなずくわけにはいかない。まさか泣かせてしまうなんて。涙の理由は分からないけれど、放置なんてできるわけがない。何より、心が抉られるように痛むのだ。
あの謎の幻覚は、こうして追いかけている今もつかず離れずカインにくっついて、時々彼の姿をぼやけさせる。だけど今は、現実にカインが泣いてしまっていることの方が僕には一大事だった。
しかしカイン、意外と足が速い。レオンハルトだって運動神経いいはずなのに、追いつけない。結構本気出してるんだけど。
だが諦めるわけにはいかない。彼を泣かせる僕を許してはならない。土下座してでも謝って、おそらくしているであろう誤解を解かなくてはなるまい。潔白を証明するためならなんだってしよう。
けれど突然その行く手を遮られて、僕は急停止せざるを得なかった。通行人ならさっきから避けつつ走っているけれど、両手を広げて仁王立ちされたらそれは、明らかな意思を持った妨害だ。
「そんなに急いで、どこへお行きになれらますの?」
あわや正面衝突、もしくは跳ね飛ばされてもおかしくないほどの距離で必死になって止まった僕に、彼女はそれをなんとも思ってない表情で問いかけてきた。いや、むしろ人を小ばかにした冷たい顔だ。
制服姿の少女。見覚えがあると思ったら、ベルデの親衛隊の一人、それもリーダー格の女だった。良家の子女めいているが、意地悪さがにじみ出た外見をしている。
「そこをどけ」
「急がなくともあなたの行き先はわたくしが決めて差し上げますわ」
彼女は腰に手をやると、下げていた剣を抜いた。
え? 剣? なんで?
少女が握るには不似合いな、飾り剣でもなければ完全に戦闘用の武骨な剣の出現に周囲がざわつき、悲鳴が上がった。彼女が僕に斬りかかってきたせいだ。
両手で握っているとはいえ剣の重さに振り回されることもなく、確実に僕を亡き者にしようという意思を持って振り下ろされた凶器を、僕は持ち前の反射神経で避ける。
「何のつもりだ!?」
「あなたのような悪党は死ぬべきなのですわ。それが王子の幸せのためなのです」
再び剣を振り回す少女。その目に宿っているのは狂気だ。己が信念をこじらせてしまった教信者のそれに、僕はぞっと背筋を震わせる。
賭けてもいい。彼女に言葉は通じない。特に僕の言葉は。
少女には暴力しかなく、僕も暴力で彼女を封じるしかない。しかし……。
「わたくしの邪魔をしただけでは飽き足らず、王子の心まで奪うとは許せませんわ!」
少女には殴る隙すらなく、躊躇もあって、僕は逃げることしかできない。そうこうするうちに、剣が僕の腹部をかすめた。剣先に抉られた血液が路地に舞い、滴って、悲鳴があがる。
痛い。というか熱い。思わず傷口を押さえて膝をつく僕。
その頭上へ高らかに、勝利を宣言する声が叩きつけられる。
「悪党は正義の前に、退治されてしかるべきですわ!」
ああ、腹が痛む。血がどんどん出てくる。なんだこれ、内臓出てない? 内臓までいってない? 僕、死ぬのかな。それ以前に、逃げないと剣を振り下ろされて頭かち割られるみたいだけど。
でも、動けない。痛い。
ゲームだったら多少の傷でもHP残ってたら平然と動くけど、駄目だ。現代っ子だから、痛みに弱すぎて何もできない。致命傷じゃないと思うんだけど、このまま死にそう。
また、死ぬのか。今度はきっと、転生なんてできないだろうな。こうして襲われるのも大悪党レオンハルトに転生してしまった以上、仕方ないこととはいえ、しかし悔いは残る。
カインの涙を、ぬぐってやれなかったこと。
でももう、無理かな。
そんな風に諦めかけた僕の前に、さっと立ちはだかる影があった。
カインだった。膝をつく僕を背に庇いながら、素手で暴走女に立ち向かおうとしている。
「え……」
「やめろよ! 人殺しになりたいのか!」
「おどきなさい! そんな男、殺したって誰もなんとも思いませんわ! 王子だって許してくださいます!」
それは、その通りだろう。いやベルデが許すかどうかは別だけど。
レオンハルトがいなくなったって、街の人は安堵するだけだ。それだけのことをしてきているのだ。過去に何かあってひねくれてしまったのだとしても、その付けを払うだけだ。それはいくら僕という人格が善行を積もうと、決して上書きされぬ事実なのだ。
そういう世界だ。
「ふざけんな!」
もはや顔も上げられない僕の前で、カインは怒声を発した。
「全員が全員、そうだと思うなよ! これ以上この人に何かしたら、許さないからな!」
思わず僕は彼を見上げた。明らかな殺傷能力のある武器を前に、震えている。けれどそこから一歩も引かない彼の本気は明らかだった。その言葉の重みも。
「素手で何ができると言うの。悪党を庇うならお前も悪とみなして、もろとも退治してくれますわ!」
けれど、少女に対する武器とはならない。
振りかぶられる剣。
駄目だ、それ以上は……!
僕は痛みを初めて無視して、体をすくめているカインの前に躍り出た。あわやというところで、女の手首を捕まえ、低く告げる。
「こいつに何かしたら、――――殺すぞ」
「ひっ……!」
振り下ろされてしまわないように渾身の力を込めて握ったせいか、少女は剣を手から離した。ガランという重々しい音と共に、笛を吹きながら駆け寄ってくる警邏隊、いわゆる警察の姿が見えた。誰かが通報したのだろう。
少女は喚くこともせず連れて行かれ、周囲に平穏が戻った。けれど僕は……。
「おい、大丈夫か」
「まあ……かすり傷だよ」
心配してくれるカインに悪いと思って精いっぱい強がるが、またあの死にそうな痛みを思い出してしまって碌に立っていられなくて、みっともなく膝をつくしかない。
「強がってんじゃねえよ。ほら」
カインは真っ青な顔をして、僕の腕を無理やり肩に掛けさせた。そんなにひどいんだろうか。やっぱり僕、死ぬのかな。
「優しいな……」
「馬鹿」
「僕なんかに……優しくしなくて、いい。君が優しくすべき人は他にいるんだろう……?」
「……誰のことだよ。いねえよそんなの」
ぶっきらぼうに言って、そのまま僕を引きずるように、カインは町医者の所へ僕を連れて行った。
しかし深いと思われた傷は意外にも浅く、内臓まで達してはいないとのこと。さすがに表皮一枚ってわけにはいかなかったけども。
ええ~……。命に別状、全然なさすぎ。それっぽっちでこんなに痛いなんて。そして痛がるなんて。
仕方ない、痛みに免疫ないんだから。
とはいえ大事になるといけないからと、医者に辻馬車を呼ばれた。レオンハルトの悪行を恐れるというより、領主の子息に何かあっては責任問題になるからと、どうせ死ぬなら屋敷で死ねと追い出されるようにしか見えなかったけれど。
馬車を待つ間、カインはずっと僕に寄り添っていてくれた。もう大丈夫だと一応とはいえ太鼓判をその専門家に押されたというのに、離れようとしない。僕が大袈裟にひどい顔をしているせいかもしれないけど。
でも、そうして傍にいてくれるのは心強い。風邪をひいているわけでもないのに、ちょっとした怪我なのに、僕も大概弱い。
「カイン。あのな……。優しくされると、勘違いしちゃうから」
「すればいいだろ」
「そんな憎まれ口利いて。どうなっても知らないぞ」
「別に、どうなったって……」
無防備なのか、自分の価値を分かっていないのか。いずれにせよ、危ないなあ。飴をくれる人についていってしまいそうじゃないか。見てないと心配になってしまう。
「だからって、危ないことはしたら駄目だ」
「だって、死ぬかと思った」
「街中の人が死ねと思ってるさ」
「俺は思ってない!」
強い否定と共に、カインの目が潤みだした。彼は目元を覆いながら、必死で泣くのを我慢しているようだ。
「死んじゃえなんて、嘘だ。あんなこと言って、ごめん」
「かわいいな」
「は?」
せっかく謝ったのになんだよそれとばかりにうるんだ目を吊り上げるカインの頬に、僕は手を―――触れようとしたところで、またあの幻覚。うんざりする僕の前で、ぼやけた赤髪の少年が口を開いた。
『好きになるものか』
「!」
ツンデレなんかじゃない。本物の怨嗟を感じて、僕はぞっとする。カイン本人に拒絶されたようにも見えたからだ。これが彼の本心だったらどうしようかと、僕の指先が無様にも震えだす。
けれどカインは―――、そんな震えを吹き飛ばすかのように、自ら頬を寄せてきた。それだけでもう、暗い想像や感情が幻想もろともどこかへ消えてしまうんだから、我ながらチョロすぎる。
「お前、手ぇ熱い。熱あるんじゃねえの」
「そうかも。カインがかわいく見える」
「なんだよそれ、馬鹿にしてんのか」
むかついたのか、今度は手をはたかれた。そして思い出したかのように、シスコンキャラを纏う。
「騙されるもんか。俺はお前のことなんか、何でも知ってるんだからな。鬼畜な人でなしで、姉ちゃんをレイプしようとしてたことだって」
「だからそれは、誤解だって。誓って何もしてないし―――」
さっき二人きりでいたことを釈明しようとして、けれど僕ははっとする。
カインが言っているのは、それじゃない。もっと前。
小さな違和感が、今になってようやく弾けた。
僕が最初にレオンハルトとして起こした行動のことだ。ブランカを拉致して強制的バッドエンドに持っていこうとした、あの時の。
カインは、知っていた。僕が、ああすることを。だから入れ替わっていたのだ。
でも、なんで?
あの時点でレオンハルトの計画が漏れるなんてことありえない。モブの腰巾着にだって話してないのだ。
「なんで知ってたんだ?」
僕の問いに、はっとするカイン。しかし今更自分がそのカギを寄越したことを、取り返せるわけもない。ゲームの世界でも、ゲームじゃない、現実なんだ。リセットしてセーブポイントからやり直すことなんて、できっこない。
「君はいったい……」
さらに問おうとした僕から、カインは離れた。そのまま何も告げずに、医院を出て逃げていく。
僕は追いかけたかったけど、熱が本格的に上がってきたことを悟らずにはいられなかった。そのまま朦朧とした意識の中に落ちていくしかない。
カイン、もしかして君は……。