2、約 束
「こっち、こっち!」
店に入ってキョロキョロしていると、奥の席から春菜が呼んだ。珍しく萌も既に来ている。
「どうしたの、急に」
芽衣の家でみんなが集まったのは、ほんの2日前のことだ。にもかかわらず、昨日の夜に急に招集がかかったのだ。それも芽衣には内緒でということで。
「今日集まってもらったのは、芽衣の件なの」
佐智子が口を開いた。
「どういうこと?」
先に来ていた春菜に聞いたのだが、春菜は首を振った。
「分かんない。私もまだ何も聞いてないの」
「佐智子、何なの? 芽衣の件って、病気のこと?」
萌が不安げに佐智子に聞く。
「そう。私ね、卵巣ガンについて少し調べてみたの。そしたらこないだ芽衣が言ってたような簡単な話じゃないみたいなの」
「簡単な話じゃないって、どういうこと?」
春菜が首をかしげて聞く。
「芽衣は手術すればすぐ治るって言ってたじゃない? でもね、私が調べたところでは、卵巣ガンってのは1万人に2、3人くらいしかならないんだけど、もしなった場合、女性器のガンの中では1番治療成績が悪いらしいの」
「治療成績が悪いって……」
「つまり……、治りにくいってこと?」
私に続けて春菜が聞くと、佐智子は黙って頷いた。
「卵巣ガンってね、そうそう検査するところでもないし、腫瘍が大きくなるまでは何の症状もでないらしいの。だから見つかった時にはかなり進行してることが多いんだって」
「てことは、芽衣のガンも進行してるってこと?」
「その可能性が大きいと思う」
「そんな……」
私たちがショックで何も言えずにいると、佐智子が続けた。
「早期発見が難しいから、見つかった時には既に転移してたり、手術しても全部取りきれないこともあって、手術後も抗がん剤を投与しなくちゃいけないんだって。かなり気長に治療していくみたい。それにね」
「もうやだ! 聞きたくない!」
萌が耳をふさいで佐智子の話を遮った。
「そんな辛い話、聞きたくないよ。芽衣がかわいそうでたまんないよ。なんで? なんで佐智子は普通にそんなこと話せんの? なんで春菜も貴子も普通に聞いてられんの?」
萌は涙を流しながら言った。
「なんで? やだよ。こんなのやだよ」
萌は流れ落ちる涙を拭うこともせず、泣きじゃくっている。気付けば私たちもみんな泣いていた。
周りの客や店員がチラチラとこっちを見ていたが、それをどうこう思う余裕は私たちにはなかった。
「萌」
春菜が手の甲で涙を拭いて言った。
「私だって辛いよ。佐智子だって貴子だって辛いはずだよ。でもね、1番辛いのは芽衣なんだよ。私たちが目をそらすわけにはいかないの。逃げちゃだめなんだよ」
「そうだよ。私だって芽衣がかわいそうでたまんない。なんで芽衣がって思う。けどそんなこと思ってるだけじゃ、何にもなんないと思うんだ」
私も涙を拭いて言った。佐智子が萌の肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
「私たちは仲間でしょ? 病気を5つに分けることはできないけど、辛い気持ちを分け合うことは、私たちならできると思わない?」
萌は鼻をすすって深呼吸した。
「分かった。いつもは芽衣がみんなを明るくしてくれてたけど、今度は私たちで頑張んないとね。続き、話して。もう大丈夫だから」
佐智子は頷いて話を再開した。
「転移はいろんなところにするらしいわ。子宮や卵管や、骨盤内の臓器に転移して、腸や腹膜にもだんだん転移していくんだって。腹水がたまるとお腹が膨れてくるって。もっと進行すると、肺とかにも転移してって胸水がたまって息苦しくなってくるんだって」
腹水がたまるとか胸水がたまるとか、私にはまったく想像もつかないことだったが、何となく恐ろしくて、私は思わず身震いした。
春菜は何かを考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「芽衣は当然そのこと知ってるよね」
「たぶんね。卵巣2つと子宮を取るって時点で、説明を受けてると思う」
「なのになんで芽衣はすぐ治るって言ったんだろ」
私は素朴な疑問を口にした。
「そうあって欲しいって長いと、私たちに心配させないでおこうって気持ちからじゃないかな」
「そんな、水くさいじゃない」
萌がほっぺを膨らませて言うと、春菜が言った。
「そうじゃなくて、芽衣のことだからきっと本当に治るって信じてるのよ。だから、私たちに余計な心配をかけないでおこうと思ったんじゃないかな。だから私たちも、そう信じようよ」
「そうだね。何も卵巣ガンが不治の病ってわけじゃないんだもんね。本当に手術したらすぐ治っちゃうかもしれないし」
「そうだよ! 芽衣はあんなにいい子なんだもん」
私たちは、卵巣ガンについて得た新しい情報については、知らないふりをしておこうと決めた。
病室のドアをノックすると、中から芽衣の母親が顔を覗かせた。
「こんにちは」
「あら、貴子ちゃん。来てくれたの? せっかく来てくれたのに悪いんだけど、今寝てるのよ」
母親がそう言うので帰ろうかと思っていると、奥から声が聞こえた。
「いいよ、入って」
「あら、起きたの?」
「起きるわよ。そんな大声で話されたら」
芽衣は笑いながら言った。
「そう? 小さい声で話したつもりだったんだけど、もともと大きいからねぇ」
「ちゃんと自覚してるんだ」
「してるわよ。ただねぇ、ちょっとボリュームが壊れてるみたいで、調整ができないのよね」
母親があっけらかんと言うので、私は笑ってしまった。
芽衣の明るさは母親譲りなのだ。高校時代に芽衣の家に遊びに行った時なんか、芽衣に追い出されるまで、私たちとしゃべっていたものだった。芽衣が1人暮らしを始めてからは滅多に会わなくなったが、相変わらずのようだった。
「どう? 調子は」
「まぁまぁね」
芽衣は母親にベットを起こしてもらいながら言った。
「寝たい時に寝て、好きなだけテレビを見られて、それなりに楽しんでたりもすんのよね」
「ほんと、あれしてこれしてって、子供に戻ったみたいなのよ」
母親がちょっと嬉しそうに苦笑いしながら言って、芽衣に顔を向けた。
「じゃ、お母さん、ちょっと買い物に行ってくるから。貴子ちゃん、ゆっくりしてってね」
「はい、行ってらっしゃい」
母親が出ていくと、私は手近な椅子を引き寄せて座った。
「あさってみんなで来る予定なんだけど、近くに用事があったから寄ってみたんだ」
「ありがと。でもほんっと入院って退屈よね」
「今は特に手術のあとだからじゃない?」
「それはそうだろうけど。毎日寝てばっかりなのよ。もし寝だめが本当にできるなら、退院したら1ヶ月くらい寝なくてもいいかも」
「そんなことだろうと思って、いいもの持ってきたの」
私は笑いながら、ポータブルDVDプレーヤーを鞄から出した。
「わぁ! どうしたの、それ」
芽衣が驚きと喜びの入り混じった声を上げた。
「実はね、お兄ちゃんからもらったの。『1人暮らしにはこれくらいがいいんだ』なんて言ってポータブルを買ったんだけどね、やっぱり大画面で見たくなってきたんだって」
「それで買い換えたの?」
「そ。それもホームシアターセットっていうの? そういうやつにしたの」
「すごい。あれって高いんじゃないの?」
「うん。私もあんまり詳しくないんだけど、少なくとも普通のデッキよりはかなり高いんじゃないかな」
「へぇ。それでポータブルをぽんと貴子にくれちゃうなんて、お兄ちゃん、太っ腹ね」
「ていうか、ちょっとバカなのよ。何かとはまりやすいのよね。ま、そのお陰でこれがもらえたんだからいいんだけど」
私が辛らつに言うものだから、芽衣は吹き出した。
「貴子ってば、ほんとお兄ちゃんには辛口よね。気の毒になっちゃう」
そう言いながら、芽衣は嬉しそうにプレーヤーをいじっている。
「今日は私の持ってるDVDから適当に選んで持ってきたけど、何かリクエストあったら言って。レンタルしてくるから」
「ありがと。でも貴子の持ってるのを順番に貸してくれたらいいよ。貴子は映画が好きだから、貴子が選んだのはハズレがないと思うし」
「うわぁ、そう言われるとプレッシャーだな。中には結構マニアックなものもあるからね」
「いいの、いいの。こういう時でないと、人が選んだものって見ないじゃない? 自分で選ぶとどうしても偏った選び方しちゃうけど、人に選んでもらったら、自分の意外な好みに気付いたりすると思うのよ」
「分かった。じゃ、私のお気に入りを何枚かまとめて持ってくるね」
私はプレーヤーとDVDを横の棚に置き、座りなおして聞いた。
「で、肝心な話をしてなかったけど、術後の経過はどうなの?」
「うん、順調よ。明日ね、先生から今後のことについての説明があるの。早く退院できるといいんだけど」
「こんなに元気なんだもん、きっとすぐよ。退院したらさ、みんなでお祝いしようよ。芽衣にはかなわないけど、頑張って料理するから」
「ほんと? 楽しみだな」
「そのためにも、今はしっかり休養をとって早く治さないとね」
私たちは、退院したら何をするかという相談をしながら過ごした。
2日後、私たちは揃って芽衣を見舞った。
「あら、今日はみんなで来てくれたの? ありがとうね」
また病室から顔を出した芽衣の母親が言った。
「ささ、入って」
母親に促されてぞろぞろと病室に入ると、芽衣が嬉しそうに言った。
「待ってたよ! 今日来てくれるって、この前貴子から聞いてたから、ずっと楽しみにしてたんだ」
「お花持ってきたんだけど、花瓶ある?」
春菜が花束を見せながら言うと、母親が手を出した。
「ナースステーションで借りてくるわ」
「あ、すいません。お願いします」
母親は花に顔を近づけて「いい香りねぇ」などとひとり言を言いながら病室を出て行った。
「みんなありがと。適当に座って」
私たちは芽衣のベッドを囲むようにして座った。
「貴子が貸してくれたDVD、さっそく見たよ」
「ほんと? 今日も何枚か持ってきたから、また暇つぶしにでもして」
「このプレーヤー、どうしたの?」
春菜が驚いて聞いたので、私はまた兄の話をした。
「貴子のお兄ちゃんらしいよね」
佐智子が笑いながら言う。
萌が私の袖を引っ張りながら聞いた。
「ね、ね。どんなDVD持ってきたの? 貴子って映画好きだから、おもしろいのいっぱいありそうだよね」
「とりあえず、いろんなタイプのを持ってきてみたんだ」
言いながら私がDVDを取り出すと、みんなはそれぞれ手に取った。あらすじを読んだりして熱中しているので、私は
「ちょっとおばさん手伝ってくるね」
と声をかけて、病室を出た。
「えーと、どこだろ。給湯室かな」
独り言を言いながら廊下を歩いていると、どこかからすすり泣く声が聞こえてきた。
「まさかこんな真っ昼間に幽霊じゃないわよね」
呟きながら、見つけた給湯室を覗くと、そこで泣いていたのは芽衣の母親だった。すぐに引き返そうとしたのだが、その途端、母親に気付かれてしまった。
「貴子ちゃん……」
「あの、ごめんなさい。何か手伝おうと思って来てみたんです」
私がしどろもどろになって言うと、母親は涙を拭いて弱々しく微笑んだ。
「ううん、いいのよ。でもこのことは芽衣には黙っておいてね」
「はい」
母親は花瓶に入れた花をいじりながら、なかなか動こうとしなかった。私は出ていくべきか、ここにいるべきかと迷いながら動けずにいた。
いつも明るい母親がこんな風に泣いているなんて、よっぽどのことがあったに違いない。私はそのことにショックを受けながら、嫌な予感がしていた。重くのしかかる沈黙が辛く、逃げ出してしまいたかった。
「無理だったの」
母親が唐突に口を開いた。私は何のことだか分からずに聞き返した。
「え?」
母親は、相変わらず花をいじりながら言った。
「手術はしたものの、もうあちこちに転移しててね。全部は取りきれなかったって」
「そんな……」
私は、普段は勘が鈍いのに今日だけ当たってしまった自分を呪った。前に佐智子が言っていた、『見つかった時にはかなり進行してることが多い』という言葉が頭をよぎった。
「それ、芽衣は知ってるんですか?」
私が聞くと、母親は静かに頷いた。
「昨日、先生から説明があったから」
「さっきはいつもと変わらない感じだったのに」
私が言うと、母親は泣き笑いのような顔で言った。
「あの子はちょっと強がりなところ、あるでしょ? あんな話聞いても、私たちの前では涙ひとつ見せないのよ。でもいつかポキッと折れてしまうんじゃないかと思うと心配で……」
母親はまた泣きそうになりながら続けた。
「貴子ちゃん。もしかしたらあの子、貴子ちゃんたちにはわがままを言ったりするかもしれない。みんな忙しいだろうけど、支えてやってね。お願いします」
母親が頭を下げるので、私は慌てて言った。
「やめて下さい、おばさん。大丈夫です。私たちもしっかり芽衣のこと支えますから」
「ありがとう。芽衣にはいい友達がいてよかったわ」
母親は一息つくと、気合を入れるように言った。
「さて、早く戻らないと変に思われちゃうわね。もう思われてるかもしれないけど」
ちょっと笑って、私たちは給湯室を出た。
「もう、お母さんも貴子も、どこ行ってたの?」
病室に入るなり、芽衣の呆れたような声が響いた。
「ごめん、ごめん。貴子ちゃんが手伝いに来てくれて、そのまま給湯室でおしゃべりしてたのよ」
母親がいつものように明るく話すので、私も調子を合わせた。
「そうなの。ついいつもの癖でね。ほら、みんなも会社でやってるでしょ?」
うまくごまかせたかどうか心配だったが、萌が素直に受け取ってくれた。
「貴子、そこまでOL生活にどっぷりなの? やだなぁ」
「なによ、フリーターに言われたくないわよ」
私は萌を軽くにらんでみせながら、ほっとしていた。そんな私を、芽衣はじっと見つめていたが、ぱっとみんなに顔を向けて言った。
「そうだ。今日は天気もよくて暖かいから、屋上に出ておしゃべりしない?」
「大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。少しは運動しないとね。それにいくら個室っていっても、病室じゃ騒ぎにくいでしょ」
芽衣がいたずらっぽく笑って言うので、私たちはそうすることにした。
みんなは「お菓子とジュース買ってく?」なんてワイワイ言っていたが、私は何となく、さっき芽衣の母親が言っていたことを芽衣は発表するつもりではないかと思った。芽衣の気持ちを考えると、胸が痛かった。
洗濯物がパタパタとはためく屋上には、私たちの他には誰もいなかった。
「貸切みたいだね!」
萌がはしゃいでベンチに走り寄る。その様子を見て、春菜は苦笑いした。
「まったく、子供じゃないんだから」
ひだまりのベンチに座ると心地よく、目を閉じると公園にでもいるような気分だった。
みんなでお茶を飲みながらまったりしていると、芽衣が口を開いた。
「あのさ、みんなに言っておかなきゃいけないことがあるの」
やっぱり、と私は思った。本当は聞きたくなかった。信じたくなかった。でも、逃げるわけにはいかなかった。
「私ね、もう長くはないみたいなの」
「何が? 退院まで?」
春菜が聞く。
「ううん、残りの命が」
「え……」
これには、母親の話を聞いていた私も驚いた。母親の話を聞いた時は、治療が長引くということだと思っていたのだ。
「手術して卵巣と子宮は取ったんだけど、もう既にあちこち転移してたらしくて、すべてのガン細胞を取りきることはできなかったって」
みんなが絶句している中、佐智子は自分が卵巣ガンについて調べた内容を思い出したようだった。
「つまり、見つかった時点で既に進行してたってこと?」
「そう。だから、今後も入院し続けて抗ガン剤治療をしなきゃいけないって。けど正直なところ、完治する見込みはないみたいなの。ただ、もっと長く生きられるようにするってだけのこと」
「そんなことって……。先生にはっきりそう言われたの?」
「ううん。先生も治らない、とは言いにくいんじゃない?」
「じゃ、ほんとに治るかもしれないじゃない。ううん、治るよ、きっと」
「治るわけないじゃない!」
思わず大声で言った芽衣は、深呼吸して言った。
「ごめん。でもね、そんなの先生やお母さんの様子見てたら分かるよ。それにもし治療しなかったら、あと1年くらいだって言われたの。それが抗ガン剤治療だけで完治するとは思えないし」
「……」
私たちは何も言えずにいた。何か言葉をかけられたらとは思うのだが、簡単な言葉は、逆に芽衣にとっても迷惑だろうとも思った。
「それでね、私考えたの。話を聞いた時はショックだったし、1人でこっそり泣いたりもしたけど、今後どうするのかってことは、私が決めるべきだって思ってね」
「今後どうするかって……。もちろん治療続けるんでしょ?」
佐智子がいぶかしげに聞くと、芽衣はきっぱりと首を振った。
「ううん。私、治療は続けないことにした」
「どうして!?」
私は思わず叫んだ。
「だって治療を続ければもっと長く生きられるんでしょ!? なのにどうして!? 自分の人生を早く終わらせてもいいの!?」
「人生かな」
芽衣が静かに呟く。
「え?」
「確かに『生きてる』って意味では人生だけど、何もできずに病院のベッドに縛り付けられてるような人生なら、私はいらない」
「……」
「たとえ短くなっても、私は満足して最期を迎えたいの。あれもしたかった、これもしたかったって思いながら死ぬのだけは嫌なの。残された時間が1年なら、その1年を思いっきり生きたいの」
「やだ! そんなこと言わないでよ、芽衣。もっと長く生きてよ。もっと私たちと一緒にいてよ」
萌が泣きながら芽衣の肩を揺さぶった。
それでも何も言わない芽衣を見て、春菜が言った。
「その決意はもう変わらないってことね」
芽衣は春菜をじっと見て頷いた。
「頭がくさるほど考えたの。後悔だけはしたくないから」
芽衣の真剣なまなざしを見て、その決意の強さを感じ取った春菜は頷いた。
「分かった。私たちが、芽衣の最後の1年を最高のものにしてあげる。後悔なんて絶対にさせない」
怒ったような顔で言いながら、春菜は泣いていた。みんなで抱き合いながら、私たちは大声で泣いた。泣かずにはいられなかった。「どうしてこんなことに……」たぶんみんながそう思っていた。
しばらくして、芽衣が涙を拭いて言った。
「みんな、ごめんね、わがまま言って。でもわがままついでにもう1つお願いがあるの」
「何?」
「泣くのは今日で最後にしてほしいの。いつも笑っててほしいの。限られた時間を泣いて過ごすのはもったいないから。だから約束して。笑って過ごすって」
「そんな難しいこと言わないでよ」
萌は情けない声で言ったが、芽衣に「お願い」ともう1度言われて黙ってしまった。
「分かった。じゃ、みんな。もう泣いちゃだめだよ」
春菜が言って、私と佐智子は頷いた。
「約束する」
「私も」
「……私も」
萌も渋々頷くと、芽衣は笑顔で言った。
「ありがとう!」
それはとても爽やかな笑顔で、余命1年を宣告された人とは到底思えなかった。その笑顔を見ていると、また鼻の奥がツンとしたが、空を見上げるフリをしてごまかした。
その日から、私たちの最後の季節が始まった。
芽衣の決断は、両親や主治医を混乱させたらしく、随分と説得に時間がかかったという。父親は怒り、母親は泣き、主治医は「そんなことは認められない」と、なかなか首を縦に振らなかったそうだ。それは当然だろう。私たちだって初めはそうだったのだから、血のつながった両親や医療のプロがすんなり認めるわけがない。
それでも芽衣は説得を続け、芽衣の『自分の人生は自分で決めたい』という思いに、ついに両親と主治医は折れた。
退院の日、主治医は何かを芽衣に手渡しながら言った。
「これを肌身離さず持っていなさい」
それは芽衣の病状や今までの治療の経緯などを細かく記入したものだった。
「先生……」
「これがどこかで役に立つようなことにはなってほしくないんだけどね」
「ありがとうございます」
芽衣は深々と頭を下げて、それを大切に鞄に入れた。
「先生、本当にお世話になりました。最後までご迷惑をお掛けして……」
迎えに来ていた母親も深々と頭を下げた。
主治医と看護士たちに見送られて病院を後にした芽衣は、内心きっと不安だったに違いない。怖くてたまらなかったはずだ。それでも芽衣の瞳は輝いていたと、後になって母親から聞いた時、私は芽衣の意志の強さとまっすぐさに感動したものだった。
3月の半ばになって、私たち5人は旅行に出掛けた。行き先は仙台・松島。私たちが高校の卒業旅行で行ったところだ。
あの頃私たちは、これからの大学生活に期待で胸を膨らませていた。それと同時に、3年間一緒に過ごした仲間と離れることの寂しさでいっぱいだった。
卒業式を間近に控えた頃、私たちは3年間の思い出の締めくくりに、旅に出た。
2泊3日の旅行中、私たちはいろんなことを語り合った。文化祭や体育祭の話、怖かった先生の話、修学旅行の話、好きだった男の子の話、そしてこれからのこと……。
3日間はあっという間に過ぎ去り、私たちはそれぞれの道を歩き出した。
その思い出の地に行きたいと、芽衣が言い出したのだ。
私たちは予定を合わせて、あの時とほぼ同じ行程で旅行することにした。
「おはよ」
私と芽衣と春菜が新幹線のホームで待っていると、佐智子が急いでやってきた。
「おはよ。珍しいね、1番のりじゃないなんて」
「途中で忘れ物を取りに戻ったの。萌は? 私もしかして最後?」
佐智子が心配そうに聞く。
「んなわけないでしょ」
「いつも通りよ」
「よかった〜」
佐智子が胸をなでおろしていると、春菜がおもしろそうに言った。
「そういえばさ、卒業旅行の時も萌は最後だったよね」
「そうそう!」
芽衣が手を叩きながら言った。
「新幹線の発車ギリギリに来てさ。指定席とってたから、みんなあせったよね」
「さすがの萌もあせってたみたいだったけどね」
それぞれがその時の様子を思い出して、くすくす笑っている。
「心配した反動でみんなめちゃめちゃ機嫌悪くなって、萌ったら泣きそうになって」
「で、何を思ったか、車内販売でアイスクリーム5つ買ったんだよね」
「私たちも『アイスでつるつもり?』なんて怒りながらも、食べてるうちに機嫌直っちゃって」
「結局つられてるよ、みたいな」
私たちは懐かしさと旅行のワクワク感でハイテンションになりながら大笑いしていた。
その時、私たちが乗る新幹線がホームに入ってきた。
「もしかしてまたぁ?」
春菜が眉間にしわを寄せながら言う。それでも少し余裕があるように見えるのは、ギリギリでも間に合うことが分かっているからかもしれなかった。いつも遅れてくる萌だが、最低のラインを過ぎたことはないのだ。それが分かったのも、これだけ長く付き合ってきたからに違いない。
「ごめん!」
そうこうしているうちに、萌が息を切らして走ってきた。
「ごめんじゃないわよ。もうすぐ発車なんだからね」
私たちは慌てて新幹線に乗り込んだ。ホームではもう発車のアナウンスをしている。
「まったく。いくら卒業旅行と同じ行程にするからって、ここまで同じにしなくてもいいんじゃない?」
佐智子が呆れたように言うと、萌は小さくなっていた。
「そんなつもりじゃないんだけど……」
「今回も……、分かってるよね?」
私が言うと、萌はぽかんとして聞いた。
「今回もって?」
「あ、来た来た」
芽衣が車両のドアを見て言った。
「すいません。アイスクリーム5つください」
芽衣が車内販売のお姉さんに言うと、萌はようやく思い出したようだった。
「それから、これとこれと……、あとこれもね」
春菜が言うと、萌が慌てて言った。
「ちょっとぉ、あの時はアイスだけだったじゃない」
「何言ってんの。2回目なんだから、同じペナルティでいいわけないでしょ。みんな、飲み物は?」
みんなが口々に注文すると、萌は渋々財布を出した。
「もう遅刻魔なんてやめる!」
萌はきっぱり言ったが、私たちは相手にしなかった。
「ほんと〜?」
「無理、無理」
「期待しないでおくわ」
「期待するだけ損だもんね」
私たちは顔を見合わせて笑った。萌も「もう」とふくれながら笑っていた。
東京から仙台までは、新幹線でわずか2時間弱だ。お菓子を食べたりおしゃべりしたりしていると、あっという間に到着した。
仙台に降り立った私たちは、市内を循環するバスに乗ってまわることにしていた。これは1日乗り放題で600円と、かなりお得なのだ。
レトロな雰囲気のバスに乗り込むと、7年前の私たちと同じような卒業旅行らしきグループがいた。私たちは懐かしいようなまぶしいような気持ちで眺めていた。
仙台は伊達政宗によって今日の基礎が築かれたということで、あちこちに伊達文化の跡が残っている。当然、観光スポットには伊達政宗に関するものが多い。
15分ほどバスに揺れると、まずは瑞鳳殿に到着する。ここには伊達政宗が葬られているという。黒を基調とした、華やかな門構えだ。副葬品などの展示もしているので、遠い昔に思いを馳せながら、ゆっくりと見てまわる。
続いて行った仙台市博物館と仙台城跡も伊達政宗にゆかりのあるところだ。仙台城跡の天守台跡には政宗騎馬像が建っていて、仙台市街を見下ろしている。
私は何となく、この像から目を離せなかった。これはただの像なのに、この中に政宗の魂が宿っているような気がしてしょうがなかったのだ。人は命が尽きても、思い出がある場所や自分が長く住んでいたところにいたり、大事にしていた人のそばにいたりするもんなんだろうかと思いながら、私は像を見上げていた。
「何を思ってるんだろうね」
気付くと隣に並んで立っていた芽衣が呟いた。一瞬自分のことを言われたのかと思ったのだが、違っていた。
「政宗は何を思いながら、ここから仙台の街を見てるんだろう」
芽衣も自分と似たようなことを考えているのだと思った。それが嬉しくもあり、けれど少し悲しくもあった。
以前はそんな風に考えたりはしなかったのに、今そんなことを考えるのは、きっと芽衣の命のカウントダウンが始まっているからに違いないからだ。私たちは何も言わず、ただ並んで、政宗を見上げていた。
「芽衣、貴子!」
後ろから呼ぶ萌の声にはっとする。顔を向けると、3人揃っている。
「そろそろ行かない?」
佐智子が言うので、私たちは政宗像に背を向けた。
「随分熱心に見てたね」
春菜に言われて答えに詰まった。像を見て考えていたことを話すのは、何となくはばかられた。
「うん。よくできてるなと思って」
不自然な答えだとは思ったが、春菜はそれ以上聞いてこなかった。
「けどさ、意外と楽しかったな」
萌が言った。
「卒業旅行の時はね、瑞鳳殿も博物館も仙台城跡も、正直言ってあんまりおもしろくなかったんだ」
「そうだったの?」
「うん、歴史が苦手だからかな。でも今回は結構楽しかったの。歴史が苦手なのには変わりないのに、なんでだろ」
「それってさ、子供の頃にはアンティークものを見ても興味なかったのに、大人になるにつれ、そのよさを感じてくるってのと似てるような気がしない?」
「それはあるかも。なんて言うか、知識とかはないから頭で考えてもよさはわかんないんだけど、直接心に響いてくるって感じ」
「それだけ私たちも年をとったってことか」
芽衣がおどけて言い、私たちは笑った。
次に立ち寄ったのは、東北大学理学部のキャンパスの一角にある自然史標本館だ。
ここでは、昔から理数系が得意だった佐智子が興味津々で見てまわっている。化石、鉱石、鉱物などの標本や、アジアの地図資料などが展示されているのだが、佐智子はひとつひとつ食い入るように見ていたので、思ったよりも時間がかかった。
ようやく佐智子が満足して次の宮城県美術館に着いた頃には、さすがに疲れてきていたので、館内のカフェでひと息つくことにした。
「ここ、ケーキが評判なんだって」
春菜がガイドブックを見ながら言ったので、私たちは早速注文した。
「お菓子食べたりケーキ食べたり、絶対太っちゃうよね」
「いいの、いいの。旅行ってのはそういうもんなんだから」
ワイワイ言いながらケーキを食べ、美術館を出た時には、閉館ギリギリの時間になっていた。
私たちは仙台駅まで行かずにバスを降り、お肉屋さんが直営しているという牛タン料理の店で夕食をとることにした。
ゆったりとした店内に足を踏み入れると、いい匂いに食欲をかきたてられる。仙台の味である牛タンを思う存分堪能した私たちは、ようやくホテルにチェックインした。
翌日、私たちは松島に行くことにしていた。
仙台から電車で本塩釜というところまで行って、そこから船で松島へ行くのだ。船と言ってもただの船ではない。牡蠣鍋クルーズだ。塩釜港から松島まで、約1時間かけてクルーズしながら牡蠣鍋をいただくのだ。
乗船の手続きをして、ワクワクしながら船を待っていると、船がやってきた。
「うわっ。龍だ!」
萌が子供のような声を上げた。
船に大きな龍がついていて、かなりのインパクトだ。
「前は孔雀じゃなかった?」
佐智子が言うので、私は頷いた。
「そうだったよね。普通のと牡蠣鍋付きのとは違うのかなぁ」
「他にもあるのかな。あるんなら見てみたいよね」
私たちは言い合いながら船に乗り込んだ。
船は1階が牡蠣鍋付き、2・3階が普通の客用になっていて、1階には既にコンロがセットされていた。
「見たら急にお腹すいてきちゃった」
「でも食べるのに夢中で景色を見てなかったなんてことにならないようにしなきゃね」
私たちはテーブルに貼られた名前通りに席に着いた。
松島は、天橋立、宮島とならんで日本三景の1つだ。湾内に無数の小島が点在する風景はとても美しく、松尾芭蕉も絶賛したと言われている。
私たちは牡蠣鍋と景色という、2つのごちそうを味わいながら、松島に到着した。
私たちはまず、観瀾亭松島博物館へ立ち寄った。そこは伏見桃山城の茶室を移築したもので、外観はとても簡素なものだ。それが1歩室内に入ると、障壁画が極彩色でなされていて目を奪われる。
目を奪われるのは障壁画だけではない。室内から見える自然の風景も素晴らしく、のんびりと眺めながら抹茶を飲んでいると、心が無になるような気がした。
観瀾亭に続いて円通院、瑞厳寺と見てまわり、私たちは参道にある茶店で休憩をした。
「ねぇ、ここって380年くらい前の民家を修復したお店なんだって」
春菜がだんごを頬ばりながら、ガイドブックを見て言う。
「380年!? すっご〜い」
「大切に住めばそれだけ長持ちするんだね」
「古い建物って、ただそれだけでいい雰囲気を醸しだしてるもんね。それはその建物の歴史が生み出してるのかもね」
「ほらまた。やっぱ年とったんだ〜」
また芽衣が言い、私たちは昨日のことを思い出して笑った。
ホテルに着くと、私たちはまず温泉に入った。松島の海を眺めながらのんびりつかり、手も足もしわくちゃになってようやく出た。
食事が終わると、おしゃべり大会が始まった。女の子同士の旅行といえば、これがつきものなのだ。メインと言っても過言ではないだろう。
「今晩は旅行最後の夜だし、盛り上がるわよ!」
春菜がそう言うと、私たちは「おー!」と拳を突き上げて笑った。
春菜の宣言通りおしゃべり大会は盛り上がり、お腹を抱えて大笑いしたり、昔の暴露話が飛び出したりした。隣の部屋の人はさぞかし迷惑だったろうと思うくらいだった。
それでも旅の疲れからか、1人、また1人とダウンしていき、最後には私と芽衣が残った。
「みんな寝ちゃったね」
芽衣は3人の布団を直して微笑んだ。
私たちは何となく、2人並んで膝を抱えて座った。
「ほんっと、楽しかったね」
芽衣が静かに呟く。私も頷いた。
「出会ってから10年、みんな確かに変わったけど、でも根本的にはあの頃のままだなって、この旅行ですごく思った。最高の仲間だなって」
私はまた頷いた。何か言うと泣いてしまいそうだったのだ。
芽衣は確実に、自分の最期に向かっている。そう感じた。
誰にでも最期はある。でもその最期を認識している人はそういないはずだ。
私たちだって、どれだけ芽衣のことを思っても、どれだけ芽衣の気持ちに寄り添っても、本当の意味で芽衣の気持ちを分かってあげることはできないのだ。そう思うとたまらなく悲しかった。情けなくて、切なかった。
何も言わない私の気持ちを知ってか知らずか、芽衣は私の膝をポンポンと軽く叩いて明るく言った。
「あと1日だけど、めーいっぱい楽しもうね!」
「うん、そうだね!」
私も精一杯明るく答え、私たちは布団にもぐりこんだ。
芽衣がどんな気持ちで今この時を過ごしているのかと思うと、私はなかなか寝付けなかった。たぶん芽衣もそうだったのだろう。真っ暗な部屋には、3人の寝息だけが響いていた。
翌朝早くから起きだした私たちは、また温泉に入りにいった。
2日間はずっと曇りだったのだが、最終日になってものすごくいい天気になった。朝日にキラキラしている水面は、まるで宝石箱のようだった。
「きれいだね〜」
芽衣がため息をつきながら外を見ている。
「ほんと、心が和むよね」
すると佐智子が1つの島を指差して言った。
「今日行く予定の島、あれじゃないかな」
「ほんとだ。橋でつながってるし、きっとあれだね」
「天気がいいから橋を渡るのも気持ちよさそうだなぁ」
私たちはそんなことを言い合いながら、またしわくちゃになるまでつかっていた。
その島、福浦島まではきれいな朱色に塗られた長い橋を渡っていく。気持ちのいい風に吹かれながら、私たちは島を目指した。
福浦島は自然植物園の指定を受けていて、たくさんの植物が自生している。散策道があるので、私たちはのんびり歩きながら島を1週することにした。
途中にある見晴台で、私たちは自然と足を止めた。そこは7年前に来た時にも散歩の途中で休憩したところだ。
「覚えてる? ここでみんなで将来の夢を叫んだんだよね」
「覚えてる、覚えてる。確か芽衣が言い出したんじゃなかった? 急に『そうだ!』って大声出して……」
「そうだ!」
みんなで休憩していると、芽衣が急に大声を出した。
「どうしたの?」
「ここでさ、海に向かって将来の夢を叫ぶってどう? 卒業旅行の記念にさ。なんか『青春!』って感じじゃない?」
「叫ぶの!? 観光船とか通るかもしんないのに恥ずかしいよ」
「何言ってんのよ。せっかく来たんだよ。それに逆に地元じゃできないでしょ」
「そりゃそうだけど」
結局、芽衣のおかしな理屈に何となく納得してしまった私たちは、順番に1人ずつ叫ぶことにした。
「じゃ、私からね」
芽衣が1歩前に出る。
「一生笑って過ごすぞー!」
私たちは吹き出した。
「何それ。将来の夢になってないじゃないない」
「いいの、いいの。トータル的な夢なんだから。次は誰?」
私が叫んだ。
「素敵な旦那さんと結婚するぞー!」
佐智子が叫んだ。
「研究者になりたーい!」
春菜が叫んだ。
「かっこいいスーツを着こなして、バリバリのキャリアウーマンになる!」
最後に萌が叫んだ。
「宝くじで1等を当てて!」
私たちは思い出して大笑いした。
「『宝くじで1等を当てて』なんて、完全に夢じゃなくて希望だもんね」
「ほんと。自分の決意を叫ぶはずが、お願いしちゃってんだから」
「だってぇ〜」
萌は照れ笑いしながら言った・
「あの時はそれしか思いつかなかったんだもん」
「いつか叶うといいね」
芽衣がからかうように言った。
『いつか』……。芽衣が何気なく言った一言が、私たちの胸に突き刺さった。
それは私たちにはあって芽衣にはないものだ。誰もそんな気持ちを口に出すことはなかったが、今だけでも忘れようとしている現実が、私たちの胸に重くのしかかる。
暗くなりそうな気持ちを吹き飛ばすように、春菜が言った。
「さて、そろそろ行こっか」
「うん! もう私、お腹すいてきちゃった」
萌もいつも通り飛び跳ねて賛成し、私たちは気持ちを切り替えて歩き出した。
旅行最後の食事は、海上レストランだ。新鮮な魚介と野菜を焼きながら食べるコースを選び、私たちはたらふく食べた。
「あ〜あ、もうこれで旅行は終わりなんだね」
「早いよね〜」
「食べてしゃべって観光して……」
「『食べて』が最初にくるんだ」
佐智子が言いながら笑う。
「帰ったら写真大会しようね」
こうして私たちの最後の旅が終わった。
その後も学生時代の恩師に会ったり思い出の場所をめぐったりと、何かと集まってはいたのだが、芽衣の体調は確実に悪化してきているようだった。それでも芽衣は、いつも明るかった。私たちもそんな芽衣に応えようと必死だった。




