07
ふっ、ふっ。
自然と、息が上がる。
齢五十にして、いまだ天命にもお目にかかれず、不惑にさえいたらない。ずっと現場一筋であるのだから、そろそろなにかを悟ってもよさそうなものなのだが、いかんせんオレには欲が多すぎるのかもしれない。
藪沢ギンジ(57)は、大衆がかくあれと望む公僕の鏡のように、額に浮いた汗をぬぐいながらゆるい上り坂の街路を歩いていた。
途方もない金額の強盗事件を捜査して東奔西走したり、迷宮入りの難事件を人生かけてこつこつと捜査してみたり、政財界の闇に切り込んで世間を揺るがすような大汚職をあばいたりとか、そんなこんなを夢見てこの仕事を選んだのだが、いまだにこの身を投じるような大事件に恵まれたことはない。『恵まれなかった』とは、法の番人としてははなはだ不謹慎ではあるのだろうがね。
「どうして異国の姫君が、こんな市井に…」
走り回って体はしんどかったが、もしかしたら、という期待が胸に膨らんでくる。
とうとう生涯一度だけの、大事件にめぐり合わせたのか。
ルン王国。
アジアの小国とはいえ一国の妙齢の王女が、この国に入国した一夜のうちに、姿を消した。国同士の公式の訪問ではなかったが、ひそかに護衛をつけていた公安は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている。犬猿の仲の警備局(公安)の大失点にうちの上のほうは快哉を叫んでいたというが、結局公安だけでは短期間に見つけることが不可能との判断から、刑事局の捜査班も駆り出されることになったのだ。これで王女が見つからなかったら、公安だけでなく自分たちにまで批判が及ぶであろう。他人の失敗を笑った罰かもしれないが、王女は失踪してからすでに二日間、その所在が不明なままだった。
当初、犯罪組織による拉致誘拐の線を総出で洗っていたところに、別の可能性が浮上した。彼が個人的に首輪を付けている不良組織からタレコミがよこされたのだ。
都内の某テレビ局に、極秘裏に出没している外国人の女性がいるという。
いわく中央アジアの血が混ざっているというルン王室の姫君の風体は、藁色の長い髪に、碧眼、そして目鼻立ちも整った美少女であるという。刺繍の縫いこまれた民族衣装も身に着けているというから、目立たないはずもない。その目撃情報が錯誤している可能性はおよそ否定することができた。
「ここか。ひまわりテレビ…」
年間二千億を売り上げる全国局のひとつ。
国鉄の遊休地を再開発した本社屋は、高度成長時代に青春を過ごしたギンジの胸をときめかすだけの高さと威容を持っていた。
「アジア風の民族衣装……でございますか?」
無駄とは分かっていても、一流企業の受付嬢にはしゃべりかけてみたくなる。美貌はもちろん、こんなところに人形みたいに座っているのが腹立たしいほど有名大学出の才媛であったりする。
「申し訳ございません。見た記憶はございません」
「あ、いいよ。どうもね」
期待していたわけではないから、早々に話を切り上げて、上の人間に来てもらうことにする。わけもなく『報道関係者』を名乗って一般人を上から見下ろす風のある傲慢なテレビ局関係者でも、国家権力の前では多少愛想もよくなる。
別室に通され、コーヒーのひとつも出されたころに、『編成局次長』なる肩書きの人物が現われた。
「アジア風の風体をした美少女、ですか」
「こちらでお見かけしたものがいるんですよ。心当たりがおありなら、ぜひお教えいただきたいのです」
「その方が、なにか反社会的なことでも?」
「そいつは言えんのですわ。守秘義務というのがありましてね、察していただけると助かりますな」
もみあげと厚ぼったい唇が印象的なその局次長は、そうやってわがままな芸能人やら制作子会社やらを恫喝してきたであろう低い嗄れ声で、「K(警察)も耳が早いなぁ」とぼやいた。
「この女性ですかな」
局次長が懐から取り出した写真を見て、ギンジは口元をほころばせた。意外と簡単に事の真相に迫れそうだ。
「一応変装はしているようですが……この女性で、間違いないと思います」
「やっぱり例の《お姫さま》でしたか。某国大使館から大使のお身内の方が特別に見学にくると連絡を受けまして、よもやとは思いましたが」
「すまんねえ。あんたとこもいろいろとしがらみがあるんだろうが、この女性からは手を引いてもらえんかね? あんまりテレビ露出とかしていい類の女性ではないんでね。…で、この女性は、あんたとこに何を《見学》にやってきたのか、そいつを教えていただけませんでしょうかね?」
「ただ、番組収録を見学されただけですよ。日本観光のひとつぐらいに考えていたんじゃないですか」
「どんな番組で、出演者は…」
*****
《ハレノキ幼稚園》は、思いもかけぬ『スター誕生』に、その日の朝からざわめきが絶えなかった。
母親がカットしました! 的なぼっちゃんヘアであったハルミが、カリスマ美容師の手でまぶしいサラサラヘアに変身!
服こそ幼稚園指定の制服であったが、胸のスカーフや靴下などにそこはかとない変化を見て取ることができる。指定の赤色だが明らかに高級感の漂うブランド物……もしかしたら、制服自体も気付かないだけでオリジナル一点もの、という可能性さえあった。
「まあまあ! ハルくん、カッコ……かわゆくなっちゃって!」
サヨコ先生が揉み手せんばかりに萌え上がり、ほかの先生方もその奥底に眠っていたイケナイ腐女子魂をおおいに刺激されているようだった。
たしかに、野分ハルミは一夜にして別人のような印象をまとうようになっていた。
「主上はやはり、このくらいは身だしなみに気をつけていただきませんと」
少しだけ緩んだスカーフをきゅっきゅっと絞りなおして、今日転入したばかりの加積ミユウはハルミの隣に腰を下ろした。まだ幼いながらも、『上流階級』を意識せずにはいられない楚々とした物腰、日本人形のようなまっすぐな黒髪、そして漆器のように深い光をひそめる大きな瞳は、将来の輝かしい美しさを予感させずにはいない。
「『主上』はやめてよ。今生で与えられた『情況』を楽しんでいるところなんだから」
「…では、どうお呼びいたしましょう?」
「みんなと同じでいいよ。ハルくんとか好きに呼んでよ」
「それでは……ハルさま」
「いや……それもちょっと…」
ハルミがミユウと並んで座っているさまが、いけない大人たちの萌え心にガソリンを注いでバーニングさせた。
「しゃっ、写真よ!」
まだお遊戯中だというのに、携帯を取り出してぱしぱしとシャッターを切る保育士たちの姿は、けっして幼児たちの教育上よろしくなかったに違いない。
テレビ収録以来、いつかわが子にそっちの世界からお呼びがかかるに違いないと期待した保護者―ズは、ハルミの『勝ち組繰り上がり』を聞いておおいに落胆したという。その嘆きを聞かされる子供たちもたまったものではなかっただろうが、その日の弁当がゴージャス版から売れ残りメザシオンリーという時代錯誤版に転落したリョウジは、魂の炎を燃やしてテッケンジャー主役の座を譲らなかった。まあ、それでも力尽くでねじ伏せたけれど。
「ちくしょう! オレは泣かないぞ!」
もうめいっぱい泣いてるんだけど。
マナミとレナはというと、園のアイドルとなったハルミにつこうとする『悪いムシ』を駆除することに躍起になっている。むろんメインターゲットは加積ミユウであり、彼女に対抗するときは、なぜか一致団結して強力タッグを組むことが多い。
「ちょっ、ちょっとなれなれしいわよ!」
「あなたがハルくんに近づくことをキョカしたおぼえはないわ!」
ずいと迫られても、ミユウはほとんど表情も変えず、
「わたしとハルさまは、イッシンドウタイですから」
と言わなくていいことを言い放ったりするから、幼児抗争はいよいよ激化の一途をたどった。
さて、それだけでもずいぶんと波高な一日であるというのに、萌芽しようとしているルン王国宮廷にさらなる危機が迫ろうとしていた。
保育士の出払った職員室では、園長の遠藤ヨシロウ(48)が、受話器を片手に窓の外をうかがっていた。
「まだいるよ、あの人…」
《ハレノキ幼稚園》の玄関の物陰に、不審者の影があった。
顔半分で中の様子をうかがっているその人物に、「自分が不審者扱いされている」という自覚は毛ほどにもなさそうである。しかしいたいけな幼児を守らねばならない教育者のひとりとして、園長はためらいつつ一一〇を押そうとしていた。
しかし彼が判断を躊躇している間に、事態は次の段階へと進行してしまった。
意を決したようにその全身をあらわにした不審者は、普通なら一声かけてもよさそうな受付窓口には見向きもせず、あまつさえ靴さえも脱がずに施設内へと侵入した!
あわてた園長は、番号を押し間違えた!
「…こちら一一九番、消防署です。火事ですか、救急ですか!」
イタ電よろしく即切りした園長は、その不審人物を取り押さえるべく職員室から駆け出した。子供好きがこうじて幼稚園経営などに手を出した男であるから、荒事になどまったく適性を欠いてはいたが、相手がまだ若い女性であることが彼を奮起させた。
「だれだね、キミは!」
立ちはだかろうとして、難なくかわされる。
恐るべき俊敏さで、その不審者は運動場に面した廊下を駆けてゆく。
「だれか! ふっ、不審者…」
そこまで言いかけて、園長は突然事切れたように崩れ落ちた。
その背後には、黒尽くめのSPよろしく大柄な男が立っていた。太いその顎が、「ご武運を」とつぶやくように動いた。
「へっ、陛下!」
叫んだその不審者は!
編み上げた藁色の髪と、うすく緑がかった碧眼。すっと涼しく通った鼻梁の下には、紅い唇が喜悦をはじけさせていた。
白と藍を組み合わせた衣装には絢爛たる刺繍が施され、古代中国を思わせるような民族衣装が、保育士たちばかりでなく幼児たちまでをも唖然とさせた。
ティム・イリヤー・サラシュバティ・レクリア……お昼のワイドショーなどで相当な時間を費やして報道される、遠いルン王国という国からやってきた王女様であった!
ひとりとして、事実を誤認しなかったのは、日本のワイドショー文化の影響力を物語る証左であっただろう!
風雲急を告げる新生ルン王国…。
エナ・ティラカ・サラシュバティ・ウルリクは、その謁見希望者の姿が目に入らぬように無視を決め込んだが、まったくの無駄だった!