06
「うあ~っ、どうしましょ」
狭い茶の間を右往左往するリツコが、窓際に止まっては眼下の道路を覗き見る。
「もしかしたらとか思ってたけど、ホントに電話かかってくるなんて! ど~しましょ!」
落ち着きのない母親が歩き回るのをうっとおしそうに、ハルミはちゃぶ台に突っ伏したままつけっぱなしのテレビに目をやっている。日曜日の昼前の微妙な時間帯、番組などどこに替えても微妙な内容ばかりだった。
なんとはなしに、ワイドショーにしてみたりする。いろいろな時事ニュースが俗っぽく取り上げられていたが、ハルミはどのニュースも初耳だった。社会ニュースなど幼児たちの間で話題になるわけもなく、自然ハルミもそちらの方面は縁が薄かった。
いままでは。
こうしてエナ・ティラカ・サラシュバティ・ウルリクとして目覚めてのち、初めて普通に迎えた日曜日。社会ニュースが洪水のように彼の耳に飛び込んできた。
世界的不況。
政界の汚職。
猟奇殺人。
世界各地で続く地域紛争…。
世紀末をまたいでもうずいぶんと時が過ぎたというのに、世界には暗雲のごとき重々しい末期感が漂っている。それは彼の王国、ルンも例外ではない。
近隣国の紛争の陰に隠れて目立ちはしないが、五年前に始まった軍政が国体を瀕死状態まで打ちのめしてしまっていることを知る。
銃器を手にした兵士におののく王都タクサの市民たち、復旧もままならないかつての彼の住居である王宮。隣国に流れ出す子連れの難民たち。
《チベットの奇跡》に手を出した愚か者たちは、そこに『何もなかった』ことを思い知ったはずである。宝物倉に蓄えられたあふれんばかりの財宝を想像していたであろう革命議会のやつらは、いきなり『破綻』した財政問題をどう処理したのか。
(な~にが《チベットの奇跡》なんだか、ぼく自身が笑っちゃうんだけどさ)
王家を滅ぼしたのちに、やつらは血走った目で王宮の宝物庫に飛び込んだことであろう。そうして顎をはずすぐらいに驚きあわてたはずだ。
(その様子はちょっと見てみたかったかも…)
いやいや、そんな場合じゃない。
ルン王国は、対外的に見ても『崩壊寸前』だった。
あのクイズ番組の問題が、三年前の統計をもとにしていたのはさいわいだった。いま現在の国民所得を取り上げれば、あの四国の中で問題なく最下位を記録していたであろう。
ぼんやりと、テレビの映像を眺め見る。
「『それでは渡航制限がかけられたルン王国の王宮前からお届けします。特派員の水島さん、状況はどんな感じなんでしょうか?』」
「『はいはい、水島です。たったいま銃を構えた兵士に禁止区域に入るなと警告を受けたところです。これ以上王宮には近づけそうもありません! さっきからいたるところで銃声が響いています! 正直、立っているだけで生きた心地がしません!』」
おそらくお隣の発展著しいI国かどこかの、海外支局詰めの人間なのだろう、いやならいやと断ればいいのに、社命に逆らう習慣の薄い国民性に従い、ルン王国にとばされたのに違いない。もしもここで本当にこの男性が死亡するようなことがあれば、会社としての非常識さを糾弾されることになるだろう。まあそのおかげで、ルンの内情をその目にすることが出来たのだけれど。
「『中継、ありがとうございました! …その内戦のさなかにあるルン王国政府は、ティメト国王の特使として、アジア諸国を歴訪中であったイリヤー第一王女が、明日特別便で来日する予定となっています。わが国に経済援助を求めるものとみられますが、首相官邸とその周辺では、早くも政府開発援助ODAを担保としたルン王国内の鉱区採掘権の獲得がささやかれ…』」
「イリヤー…姫?」
ぼけっと、ハルミはつぶやいた。
たしかルン王室は断絶されたんではなかっただろうか?
王政が否定されたのだから、王女なんて存在はありえないわけで……そもそも王族を根絶やしにしたのにルン『王国』とは悪い冗談である。
先日のテレビ収録からずっと胸の奥でしこっていた違和感の正体にいまさらながら気付く自分にもうんざりする。ルン『王国』の国民所得とはっきり言われていたのに、すぐにピンと来ないなんて、ホントどうかしていたんだろう。テレビカメラ向けられたぐらいで、おたおたするほどの初々しさがまだ自分に残っていたことに驚いてしまうよね。
「あっ! ホントにきちゃったわ!」
窓の外を眺めていたリツコが、頓狂な声をあげる。
今度はばたばたと、玄関のほうに移動する。郵便受けの隙間から外を覗くさまがまるで年端もない子供のようで、いっそほほえましくもある。
母親の挙動不審についつい見入って集中が途切れる。
ハルミは瞬きして、腕を伸ばすようにあくびをした。
とりあえず『王国』については、棚の上に置いておくとして。
ぽりぽりと頭を掻く。われながら今日という日は、バイオリズムがそのように作用したのか最低サイアクな気分だ。
「ごめんください」の声が聞こえた。
「は、はいっ…」
ちょっとしっかりしてくれと肩を叩きたくなるほど頼りないリツコの背中が近づいてくる。玄関からじりじりと後退してきたのだ。
玄関のドアが開き、来訪者が姿を現した。
その来訪者の背後から、なぜだかテレビカメラとレフ板がのぞいている。何を撮影してんだか。野分家では、まだ誰も家の中での撮影行為に許可なんて出してはいないんだけれど。
芸能界慣れしたあつかましさからか、何の遠慮もなくずかずかと入り込んでくる人々に、少しだけハルミの眉が動いた。
特段、反応らしい反応をみせていなかったハルミであったが、リツコが五歳児の背後に逃げ込むという非常に大人気ない行動に移ったことで、否応なく彼が矢面に立たされることになった。ちょっと待ってよ、母上!
「おう、まだ撃沈してたか、ぼうず」
来訪者の一人、あの番組のプロデューサー鷲塚エイジ(42)が、ハルミの頭をぐりぐりとかき回した。このプロデューサーに、ハルミはいたく気に入られてしまったようだった。
「賞金は少なくなっちまったが、それでも百万はお持ち帰りできたんだから、そうがっかりすんなって。なあ!」
ああ、人生の無常!
忘れえぬ悪夢、あのテレビ局でのラストシーンがまざまざと脳裏に浮かんで、ハルミはぷうっと頬を膨らませた。
「ありゃあ、サイコーにおいしい展開だったな! 台本があったってこうもうまくいくもんじゃないぜ。答え分かってんのに、ぼうずがもったい付けて間なんて作ろうとするから、あの嬢ちゃんがついつい色気出しちまったんだろう?」
そう。あの瞬間。
「『世界で最初に発酵パンがつくられた場所は』」という問題に対して、A・《メソポタミア》、B・《インド》、C・《エジプト》、D・《フランス》という四択が与えられた。
これは明白な引っ掛け問題で、『最古のパン』というならA・《メソポタミア》なのだが、発酵パン(膨らむパン)の発祥はC・《エジプト》というノリの問題であった。
最後の問題ということもあり、ハルミはついついその場の空気というものを読んでしまったのだ。
すぐに答えていいところではない。少しぐらい悩んだ振りをしないと…。
そう迷ってしまったのが運のつきだった。
「D・《フランス》!」
元気よく答えてしまった女性の方がおられましたとさ!
料理が得意だっただけに、パン=フランスパンな発想に到達してしまったのだろう。またそれを激烈に支持した保護者―ズに責任の一端は求めなくてはならなかったが。
答えを修正しようというハルミの動きは、番組スタッフにより封殺された!
「ラストアンサー?」
「「「ラストアンサーッ!」」」
必要以上に元気よく唱和してしまったお子さまたち!
その瞬間、ルン王国の経済復興プログラムは、大きく頓挫することになったのであった。
ハルミはその瞬間、崩れ落ちた…。
*****
「まあでもぼうずなら、こっちの世界でも十分にやっていけらぁ! なあ、とりあえず俺の番組に出てみねえか?」
ひとり盛り上がる鷲塚プロデューサーの横には、背広姿のぴっちりした紳士が椅子に腰を落ち着けると、持ち込んだカバンから書類の束をテーブルの上の並べ始める。
《ジャリタレ》事務所のスカウトか何かだろう。きっと日本銀行券に弱いリツコをとろとろにしてしまうような甘言を、イタリーの女たらしよろしく情熱的に吹きまくるつもりだろう。リツコひとりならば非常に危険な輩たちではあったが、幸運なことに、彼女の一人息子がそこには同席していた。
ぼくを篭絡するのは、骨が折れるよ、きっと。
大人たちのようすをじっと見つめていたハルミであったが、つと予想外の方向から袖を引っ張られて、もうひとりの『客』の存在に気付いた。
彼の袖を取ったまま、じっと立っている少女。
「お嬢さま! 車から降りてこられたんですか!」
タレント事務所の紳士が、驚いたように書類から顔を上げた。
所属交渉をするにも、あまりに場違いな同席人であっただろう。表情に乏しいその少女の瞳に、ハルミはたしかに何かを感じ取った!
(もしかして……ティシャか?)
(はい…)
(今生は女人か)
(そのようですね)
見つめあい、しっかりと手を握り合うハルミと少女。
唐突に芽生えた友情は、周囲からはおませな幼児の一目惚れフォーリンラブに見えたという。
「あ~っ! なにやってるのよ!」
玄関からばたばたと駆け込んでくる姿は、いつになく着飾ったこのアパートの大家の娘、藤倉マナミである。
手を握り合って放さないふたりの間にボディープレスを試みて、彼女の未来のだんな様(予定)の確保に成功する。
「きょうはマナミとデートするやくそくでしょ! ハルくんは!」
そういえばそんな約束もあったっけ。
割り込みに成功したマナミではあったけれども、油断だらけのその顔にすかさず逆襲がやってきた。
「ひっ、ひたい、ひたいよ!」
頬をぐいっと伸ばされたマナミの顔は、そこはかとなくハルミの中の笑いスイッチを軽押しした。わずかに吹き出したハルミが真顔を取り繕っても、ビンカンな年頃の乙女には悪魔の嘲笑に見えたのだろう。恋敵の少女? 加積ミユウ(5)の両腕を取って、がっぷりよつに組み合った!
(やめなよ、ティシャ…)
(いや、でもなんか負けるのも癪なので…)
「ハルくんは………ま、マナミのものなんだから!」
ドサクサの激しい愛の告白は、野次馬気分で見物していたリツコと玄関から様子を見ていた藤倉サヤコの目をキラキラとさせたという。
エナ・ティラカ・サラシュバティ・ウルリクのもとに、片翼とも頼む有能なスタッフが参上した!
ティシャ・クランウル近衛隊隊長は、国王守護の要であり、輔弼者であり、かけがえのないよき友人でもあった!