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都心と呼ばれる一帯に、夜の帳が下りることはなかった。

夕暮れのあわやかな暗さをくぐりぬけると、街には昼よりも明るい不夜の火が灯る。

すでに時刻は20時を回っている。『副都心』と呼ばれるこの一帯は昼間よりも賑やかさを増して、注意せねば隣を歩く友人の声も聞きとれぬほどの喧騒に包まれている。

大通りはまともに進むこともままならなず……その混雑を嫌って裏通りに入り込んだもののそこでも状況は似たようなもので……小さな子供をつれたその中年男性は盛んに汗を拭きつつ腕時計を覗いた。


「…ああ、もうこんな時間か。母さんに怒られてしまうな」


八神ダイサク(33)はキョロキョロと周囲を見回して客待ちタクシーを発見すると、娘の手を引いて人の流れを横切って車道ぎわに出た。

が、目当てのタクシーはわずかの差で先客に奪われてしまった。


「…仕方がない。駅まで歩いて電車で帰ろうか」


大きくため息をついて、ダイサクは口数の少ない娘に諭すようにつぶやいた。


「帰るよ、レナ」


手を繋いだ俯きがちの娘……八神レナは、ほとんど何の反応も示さないまま地面を見下ろして歩き出そうとしない。


「あの店は前に来たとき気に入っていただろう? あんまり食べなかったし、今日はおいしくなかったかな」

「………」


問いに、ふるふると首を振る。

しかしそれでも顔を上げない娘に、父親は殻の混入した卵焼きでも食べたようなしわい顔をして、小さく吐き出すようにささやいた。


「…そんなに、ハルくんのことが好きなのかい」


反応は劇的だった。

ぱっと顔を跳ね上げた娘が見る見る赤面して「う、うん…」と可愛らしげに、しかしまっすぐにおのれの気持ちを表明するのを見て、父はその成長ぶりに目を細めつつも心のなかで男泣きしたのだった。

娘は幼稚園で一緒の男の子、野分ハルミという子供にぞっこんで、今日も夕方遅くまで家に帰ってこなかったから一緒に遊んでいるものだと思っていたのだが、世の中には常識では理解のできない世界があるらしく、なんとあの案内されたあの古いオフィスで電話受付の仕事をしていたというのだ。

たしかに年端もない幼児が会社を設立するとかありえない話が父兄の間から伝わってきていたのは事実である。しかしそんな話、常識ある大人なら鼻で笑って取り合いもしなかっただろう。実際、彼自身もそうだった。

娘に案内されてそのオフィスを覗いたときも、驚き半分疑い半分な感じだった。どうせあの金持ちの娘(テレビ局の社長令嬢だ!)が周りの大人を使ってリアルなおままごと遊びでもしているのだろうと、その程度に思っていた。

むろんいまでも彼はそれがリアルおままごとだと信じて疑ってはいない。ただおのれの愛娘が回りくどい『イジメ』を受けたのではとそれだけを心配していた。

自分でいうのもなんだが天真爛漫に育った我が家の天使は、比喩ではなく目に入れても絶対に痛くなかろうほどにかわいい。その自慢の娘が彼の目の届かないところで陰湿ないじめにあっていたのではと想像するだけで心が張り裂けそうだ。

家で元気のない娘の様子を見ていられなくて外に連れだしたのだが、外食程度ではいまどきの子供は喜んだりしないようだった。

動こうとしない娘をどうしたものかと思案していた父親は、そのとき何処かで起こった小さな叫び声に顔を上げた。

誰かか、何かの危険を警告するように叫ぶ。

それに反応した連鎖的な悲鳴がそこかしこで上がり始める。


「…なんだ」


そのときにわかに人々の喧騒すら吹き払うような爆音が接近してきて、居竦んだ人々の頭上を一瞬のうちにまたぎに越えていった。後頭部を叩かれるような騒音と閃光に思わず目を瞑る。

通り過ぎていった瞬間に、それが恐ろしいまでに低空を飛行するヘリだと気付いた。


「墜ちるぞ!」

「やべえぞ! ふせろ!」


呆然と見送るダイサクの目は、電線をかすめ、街路樹の若葉を乱暴に吹き散らしながら通りを驀進する危険すぎる飛行物体を捉えていた。映画の撮影か何かか? とか思ってしまうあたり、ダイサクもいい加減現代の安全神話のぬるま湯にどっぷりとつかっているのだろう。条件反射的にカメラの存在を捜して、彼の目は通りの先にある公園を発見する。

あそこが撮影現場か……そんなことをぼんやりと思い浮かべていた一瞬後に。

徐々に高度を下げ、公園に届く間際に街路樹の一部をローターのブレードでごっそりと削り取ったそれは、木々の向こうに姿を消して……至極当たり前のように墜落した。爆発の閃光で、一帯がつかの間昼間のように明るくなった。


「マジ墜落じゃん!」

「おい、見に行こうぜ!」


一瞬の硬直から再起動を果たした人々は、その場から逃げるもの、危機感もなく野次馬に向かうもの、最寄の警察に駆け込むものなどそれぞれに無秩序に動き出した。

幸いに頭上を通過したヘリに気付かなかったらしい娘はきょとんとしていたが、子を守るべき親としてはここは好奇心を振り払って避難保護を優先すべきであっただろう。

現実にダイサクはそのようにしようとしたし、娘を導くべく手を引っ張ったのだ。何も見なかったことにして、歩き出そうとした。

だがその手を娘が拒絶した。


「レナ!」


娘は父親のほうをまったく見てはいなかった。


「ハルくん…」


ぼんやりと車道のほうを見る娘の視線を追っていくと、そこにてけてけと短い手足で駆けている幼児の背中がある。

正直人垣で視界も狭かったし、幼児の小さな背丈などすぐに人々の影で埋もれてしまう。彼にはそれが娘の想い人であるかどうかなどまったく見分けがつかなかった。

だが娘の方は乙女の勘のようなもので確信を抱いたらしかった。

そのときふたりの横を、別の小さな子供たちが駆け抜けていった。その黒髪の少女には、ダイサクもいささか見覚えがあった。そのすぐあとを茶髪の女性が……暗くてはっきりとは分からなかったがファンタジーっぽいコスプレをした大人の女性が追うように走り、やや間をあけて今度は10人以上の子供たちが鬼ごっこでもするかのように集団で駆けて行った。

もはやここに至って、ダイサクも娘の直感の正しさを確信していた。


「あっ、そっちはダメだ! レナッ!」


手を放していたのがいけなかった。

娘は想い人の背中に吸い寄せられるように駆け出していた。焦って追いかけ始めたダイサクであったが、日頃の運動不足がここにきて祟ってしまった。


「レナや~!」


呼ばわっても、振り返ってもくれない。

どんどんと小さくなる娘の背中。娘が追っている子供たちは、なぜだか墜落したヘリの航跡をなぞるように一直線に公園を目指している。ダイサクは嫌な予感を覚えてポケットの携帯電話を探った。

娘を止めなければ。あの得体の知れぬ子供集団にかかわればきっとろくなことにはならない……良識ある一般人を自認しているダイサクは、あの子供たちが娘の情操教育上の敵であることをそのときほとんど自覚もなく確信に至っていた。

娘が不良になってしまう。

可愛いひとり娘がやさぐれたら八神家は家庭崩壊の危機だ!

額を玉のような汗が滴り落ちる。携帯を鳴らしているのに、娘は一向に出る様子がない。こうなったら彼自身が娘を救う最後の盾になるしかない……ダイサクは余分な肉を揺らしながら必死に走った。

走りながら、明日からダイエットにジョギングでも始めようと決心していた。


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