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先入観というものは人間としてあまりよろしくないものだが、すでに定年さえも見え始めた微妙な年頃の人間の中のかたくなな思い込みは、なかなかに排除が難しいものだ。
「…ギンさん」
「フィルターまでの寸止めが難しいんだから静かにしろい」
「そこまでシケモクを堪能しきるいじましいスキルはうらやましいっす……それよりもこの辺路上禁煙っすよ」
「老人の精神安定剤だと思え」
渋谷の雑踏の平均年齢のなんと低いことか。
この街が「若者の街」という固定観念は、別段個人的な主観というほどのものでなく一般的な認識ともいえたが、その場所に不幸にも張り付かねばならなくなった藪沢ギンジは、余所者的な居心地の悪さにに対して心のなかで哲学的な検証を試みていたが、若い相棒の心ない一言に精神的な足払いを食らわされて顔をしかめた。
「シブヤにギンさんて、正直似あわないッすね」
「うるせえよ。オレだってこんな息の詰まる場所になんざいたかねえよ」
人口の過密もここに極まれりという渋谷の街の雑踏は、バイタリティ不足の年配層にはいささか難易度が高い。眼が自然と人の少ない休憩エリアへと向けられるが、このスポットに人の少ないという空間はほとんど皆無だった。
「テロ組織の指定した場所がここだっていうから仕方なく張ってるだけだ。…それよりも油断するなよ。見張りはオレらこっきりなんだからな」
「…正直、自分も課長指示に従いたかった口なんすけど」
「あの行灯課長、嘘言ってるときに眼が泳ぎやがるからな。『王女は無事救出されたので捜査協力は中止する』とか抜かしやがったが、ありゃあ絶対でたらめだぞ」
「…なんか《雲の上》からの鶴のひと声っぽいっすよね。噂によるとE国大使館からの捜査依頼も取り下げられたらしいっすし、上のほうで政治的な妥結っていうやつがあったんじゃないっすか。…とりあえず裏取引でも何でも王女様が救出されるんなら、自分らもお役御免に」
「バカ言うんじゃねえ。テロ組織の約束事なんぞ信じられるかってんだ。…上のほうはともかく、オレらは姫さまを拉致った犯罪組織の足取りをつかんでる。オレらがその監禁場所を特定しておけば、やつらがいきなり約束を反故にしたときだって緊急の対応が出来るだろうが」
「そうっすけど…」
「分かってるならグダグダ言うんじゃねえよ。それでも刑事か」
なおも不服そうなユウタ刑事の気持ちも分からないではない。周囲を警戒しながらも自然と懐の拳銃に手をやらずにはいられない危機感は、平和慣れしたこの国の警察官には相当にストレスを与えることであろう。
この銃規制のいき渡った平和な国に、大量の銃火器を持ち込んで武装するテロリスト集団が潜んでいるというのだ。目の前を流れる無数の市民たちに向けてそれらが火を吹けば、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄が出来上がってしまうだろう。
彼らがこの渋谷の雑踏を接触場所に指定したのは、無言の警告であると見て間違いない。さらに言えば、彼らは一般市民を巻き込むことさえすでに想定済みであるともとれる。
「もうそろそろ指定の時間っすけど、こんな広い場所を二人だけで見張るなんて、ちょっと無茶っすよ。ただでさえ外人とかも多いとこですし」
「少しは頭を使え。…やつらは『誰』と接触しようとしてるんだ」
ギンジの問いに、ユウタ刑事が瞬きする。
そしてすぐに思い至って、
「子供を捜せばいいってことっすね!」
「そうだ。この時間のこの場所に、親も連れない子供なんざいるわきゃねえんだ。ちょろちょろ動き回るちんまいのをみつけりゃ、そいつが敵さんまで案内してくれるだろうさ」
えへんとばかりに胸を張るギンジをナチュラルにスルーして、ユウタ刑事は雑踏の観察をし始めた。
そうしてすぐに、不自然な子供たちの姿を探し当てた。
「いました! 歩道の向こうっす!」
駅の乗降客までフォローしようと道を渡った反対にいた二人は、いままさに駅の構内へと駆けていく幾人かの不審な幼児を発見して慌てて駆けだした。歩行信号が赤になったばかりだったが、強引に車を押しとどめて通りを渡る。クラクションの大合唱に一時周囲が騒然となった。
「なんか刑事ドラマみたいっすね!」
「バカヤロ! 暢気にしてんじゃねえ!」
駅前交番から巡査が飛び出してくるのが見える。刑事二人は身をかがめて人込みに紛れ込んだ。
無数に起こる通行人のすれ違い。
一期一会の精神でいけばそこには無数の出会いの可能性がシャッフルされ続けているわけであり、運命の女神様は非常に煩雑な想いを強いられていたことだろう。
そのときそこにも、無数の中のひとつ、小さなすれ違いがあった。
真っ赤な帽子を目深にかぶった小さな子供が、ふと何かに気付いたように石のベンチから立ち上がり、辺りを見回してから足元に転がった紙くずを拾い上げた。
違和感を覚えた通行人の姿は、もう雑踏の中に紛れ込んでしまっている。いま一度左右を油断なく見回してから、子供はその紙くずを静かに広げた。
その手元に落ちる顔のわずかに見える口元が、何かをささやくように動いている。
『…ミーマ04、対象と接触。《指示》を入手』
『こちらミーマ01、接触者はどうした』
『ミーマ04、接触者はロスト』
『その《指示》には何とかかれている』
『地下鉄F線にて移動せよ、と。…別の場所を指定されました。時間指定あと10分後です』
『…了解。総員行動開始』
大リーグのものらしき赤い帽子が人込みの中を素早く走り出す。その身長にいささか合わない大きなナップサックを背負っているというのに、ほとんど物音も立てていない。
「ずいぶんと慎重なこったな」
《ミーマ04》こと株式会社GEKKO警備部主任、相羽タケル(5)のぼやきの背後で、そのとき刑事たちの引き起こした盛大なクラクションが鳴り響いた。
「うわっ。いるいる! 小さいのがうじゃうじゃと」
いままでどこに潜んでいたのか、雑踏のなかを駆け抜けて行く小さな子供の姿がちらほら視界に飛び込んでくる。どの幼児も一様に荷物で膨らんだナップサックを背負っており、同じ年頃の子供が偶然居合わせたというには無理な状況である。
まず間違いなくあの会社がらみの子供たちだろう。
「あいつら地下鉄に乗るつもりっすよ! ギンさん早く!」
「くそったれ! すばしっこいガキどもだ!」
二人の刑事は乗降客の人込みを掻き分けながら改札へ向かったが、どうしても体積の関係上すばしっこい子供たちにはかなわない。しかも彼らの目の前で、小さな軍団は改札を神の速さで素通りしていった!
「うわっ、ズルッこだ! 切符も買わないで!」
「親同伴なら二人まで無料ルールだ。…駅員も前後に大人がいたら判別なんざできねえしな。ありゃ確信犯だな!」
二人がようやく改札にたどり着いたときには、子供たちの姿はすでに地下ホームへ続く階段に消えてしまっている。ギンジとユウタ刑事は有人改札を手帳提示で突破して、階段をあわただしく駆け下る。
すでにホームでは、到着列車が乗客を吸い込み始めていた。子供たちの集団も、ぞろぞろとそのなかに入っていくところだった。
間一髪、刑事二人は閉まりかけたドアの隙間から車内に飛び込んだ。周囲の乗客から嫌な顔をされるが、愛想笑いで誤魔化すのは後輩刑事の担当である。
「やばかったな」
「もう少し遅い時間だったら、行列でたぶん電車に触ることだってできなかったっすよ」
時間がややずれていたので帰宅ラッシュはまだそれほどひどくはない。先に乗った子供たちの姿も、乗客たちの体の隙間からすぐに見つけられた。
「なんですかね、あんなパンパンに膨れたリュックなんか背負って」
「まるで背嚢背負った行軍兵士みたいだな」
「たぶんお菓子とか入ってるんじゃないっすかね。バナナとか」
相棒の暢気な想像に鼻を鳴らしつつ、ギンジは愛用のコートの襟を立てた。
尾行などとうの昔にばれている予感はあるのだが、自身を目立たなくしようというしぐさは習性のようなものだ。
案の定、彼らの尾行はすでに察知されているのだが、むろんこのときの彼らが知る由もない。
「…どこまで行く気ですかね」
「そりゃあ指定された場所までだろう」
「この車両のどこかにも、テロリストが潜んでるんすかね、やっぱ」
「…まあ、そう考えといたほうが無難だろうな」
先輩刑事が襟を立てて顔を隠している理由に気付いて、ユウタ刑事も慌ててジャンパーの襟を引き寄せた。テロリストに顔を覚えられたくないだけなのだが、その様子が返って怪しさを増量サービスしていた。
「あっ、あいつら降りますよ」
「こっちのドアから降りるぞ。眼は追うな」
ホームに降りるや柱の影まで急いで移動して、ふたりしてそっと様子をうかがうと、いつの間にか幼児たちの集団が見えなくなっている。うろたえた刑事たちが視線を泳がせると、人々の流れの隙間に見え隠れする、赤い帽子の子供を発見する。ぽつんとひとりベンチに坐っているようだ。
焦って距離を縮めようとするユウタ刑事を押さえながら息を詰めていたギンジは、数人の通行人がよぎった瞬間に異変に気付いて短く声を上げた。
「何か受け取りやがった」
いつの間にか何かを渡されていた子供が、ちょこんと立ち上がり、そのままたたたっとホームを駆け始めた。その姿がホーム端の連絡階段へと飛び込むまでに、ふたたびどこから湧いたのか幼児集団が形成されていた。
またどこかへ移動させられるらしい。
悪態をつきつつ刑事たちの追跡が再開された…。
「…〇〇駅ね、ごくろうさま」
通話を切って物憂げに窓の外を見やったミユウは、少し思案するふうであったが、愛らしい面を振って運転手に行き先を告げた。
「〇〇駅。あそこの廃業したデパート跡に行って」
「かしこまりました」
不必要なことはなにも言わず、運転手は車を出した。
時計を見て、ミユウは携帯電話を手の中でもてあそぶ。おのれの主のタイムスケジュールを把握する有能な警備部部長は、報告を入れるべきタイミングを計って、静かに車に揺られていた。




