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鼻についた臭いは、湿気と埃の臭い、そしてわずかなかび臭さだった。

国中が狂ったように無駄金を使ったバブル期より、浮揚することなく停滞し続けた国内景気は、多くの業種で破綻企業を生み続けた。

首都圏の好立地にありながら、企業本体の債務超過により経営破綻した某有名デパートは、いくつかのダミーカンパニーを介在して人知れずC国資本のものとなっていた。

営業再開の話も上がらないその真新しい廃屋のなかに、《茶館》はあった。

かつて専門店街と呼ばれたであろうフロアの一角、時代がかった民芸品で飾られたその《茶館》は、もともと中華料理の店舗か何かだったのだろう。複雑な形の飾り窓には曇りガラスのようにほこりが付着して、放置された時の長さを思い起こさせる。

イリヤーは出された茶にはまったく手をつけず、つまらなそうに前髪の枝毛探しを続けていた。

その彼女の右側の椅子で、さきほどからひとりの男が際限なくわめき続けている。


「この女、とりすましやがって」


茶器を乱暴に扱うたびに、皿が割れそうな危うい音を立てる。


「はやくこの女、痛めつけて白状させちまいましょう。どうせ帰国は特別機です。どんな二目と見られない顔になったからって、問題になんかなりゃしませんよ! さっさと拷問でも何でもして…」


ルンのダイヤを奪った男、ダムサカ・バディは血走った目をぎらぎらとさせてイリヤーを見据える。

この男は口にしたことを何の躊躇もなく実行できるサディストである。指先の震えを知られないように、イリヤーは髪いじりをやめない。絶対におびえていることを知られたくない。こんな男にそれを悟られたなら、かさにかかっていたぶられるのがオチである。父王がこの男に殴る蹴るの狼藉を働かれていることは王宮では知らぬ者とてない。

だれも父を助けない。王族の権威は泥水の中に浸ってしまった。

ダムサカは火の出るようなまなざしで彼女を睨みつけてくるが、掴みかかるような乱暴には及んでいない。それはダムサカと同席する《焔》の人間が、どちらもより上位者であったからだ。

彼女を連れ去った《王大人》と呼ばれる老人は、日本のC国人社会の実力者であるらしい。

《茶館》の中にはこの老人の手足となる恐ろしげな護衛が大勢控え、彼女の脱走に備えている。


「…この建物のなかはすでに完全なる《焔》の領土よ。所轄の警察にも鼻薬を利かせてあるしの、多少の荒事など気にせず心のままに使ってもらって構わん。なんなら死体処理も請け合うが……埋める場所はいくらでもあるしの」


老人の低い笑いが、イリヤーの背筋を寒からしめる。

言葉どおりに、ここで何人もの不幸な人間が不法にその存在を抹消されたのかもしれない。でも、絶対におびえてなんかやらない。それは一国の王女としての誇りであった。

しかし本当に恐ろしいのは、この席で彼女の向かいに座る《東北地区支配人》と名乗った男であった。東北、とはむろんこの国のそれではなく、大陸圏の広大な区割りのひとつを指している。

茶を飲んでいたその男、《李陽文》はどこかさわやかな新進経済人というふうにも見えたが、そのまなざしの奥にある闇は《王大人》に比肩しえるほどに深く澱んでいる。


「…われわれがまだ冷静なうちに質問に答えていただければ、別段乱暴な手段に訴えるというつもりもないのです。信じていただけないのかもしれませんが、われわれは王女殿下の御ためにも、交渉が理性的かつ紳士的に行われることを願っています。…ただ二点だけ考慮に入れていただきたいのは、わたしにあまり自由な時間がない、ということと、《大老》がたにすぐにでも調査結果をご報告差し上げなければならない、ということです。わたしはこの問題の可及的速やかな問題解決を強く望んでいます」


つまりいつまでも彼女の駄々に付き合う気はない。手間をかけるなら、実力行使に訴えるのになんらためらいはない、ということである。

《李陽文》は、スーツの内ポケットから小さなケースを取り出して、テーブルに置いた。


「これは最近R国で開発された、非常に効き目の強い『自白剤』です」


イリヤーの髪いじりが止まった。

彼女のなかの恐怖は、瞬く間にその男に読み取られた。


「どんなに薬剤耐性をつけたスパイでも、篭絡するのはたやすいそうです。…ただし、副作用が強いのが難点です」


ケースの中には、注射器と白濁した液体を詰めたアンプルが並んでいる。


「心が壊れてしまうこともあるそうですが、大丈夫でしょう。ルン王室があるかぎり、あなたを世話してくれる人間に困ることはないでしようから」


どうやってこの恐怖に打ち勝てというのだろう。

言っても言わなくても、結局薬ですぐに自白させられてしまう。

そうしてイリヤーの手が、力なく膝元に落ちた。



*****



「あの娘が、プロの尋問に落ちないはずがありません」


ミユウはそう言い切り、眉間にしわを寄せたハルミが難しい顔でそれに肯定を示した。

非常に重苦しい空気がそこにはあるのだが、いかんせん同席した大人たちにはそれ以前にヴィジュアル情報が笑いのツボをくすぐっていたようである。


「なんだ、このガキどもは。えらくムズカシイ言葉をしゃべるじゃねえか」

「…ギンさん、笑っちゃダメですよ」


会社の重役が座るような重厚な執務机に頬杖をつくのは五歳児で、彼らの反対側の椅子にちょこんと腰を据えるのも五歳児である。ミユウにひと睨みされて、ユウタ刑事は笑いの衝動を抑えかねて肩をひくつかせたが、『前国王』の前で非礼であると着席を遠慮したルン王国近衛隊副長は、ものを知らぬ警察官たちにどう伝えたものかと迷うように顔をしかめた。その横に立つ英国人看護士は、あれ以来ずっと魅入られたように執務机の幼児に目を釘付けにされている。

近衛隊副長を取り押さえた数分後に、非常階段の物陰に潜んでいたこの刑事たちは、ふたりもやすやすと取り押さえられた。ユウタ刑事に言わせれば『油断した』ということになるらしいが、ギンジは『油断したからって幼児に取り押さえられるのはやっぱりいかんだろう』と一刀両断であった。

まあ相手に本物の殺気があるかどうかぐらいは刑事たちにもすぐに知れた。拘束が解かれて茶菓子のひとつも出されると、すぐに大人が子供に対するとき無条件で持ちうるふてぶてしさを回復した。

ギンジは値踏みするように《株式会社GEKKO》代表取締役社長、野分ハルミ(5)を見据えた。


(天才児とかいうやつかもしれんが、底の知れんガキだな…)


アメリカとかであるなら、子供の起業家という話も聞かないではない。だがこのいい意味でも悪い意味でも保守的なこの国で、五歳児が起業などできるものなのか? そもそも会社を興したところで、こんな小さな子供が商談にやってきても誰もまともに取り合わないだろう。会社などやっていけるはずもない。


「たぶんイリヤー姫の命は安全だと思う。自白さえしてしまえば、仮にも一国の王女だから、そうそう無体なこともできないと思う。むしろぼくが危惧するのは…」


ブラインドの向こうで、不意に日差しが強くなった。わずかな雲の切れ間に、太陽が姿を現したのか。

そのときあふれる逆光の中で、ハルミの姿は人型のシルエットと化した。

凛、と。

幼児の姿が視界から消えて初めて、大人たちはハルミの持つ声の朗々とした毅さに気がついたようだった。


「姫をそのまま人質として、《彼ら》がなんらかの交渉をぼくたちに持ちかけてくること…」


ふたりの刑事は、目に見えぬ何かに打たれたように眼を見開いた。


「そしてここが法治国家であることを忘却して、《彼ら》が銃火器を乱用して付近住人に被害を及ぼしてしまうこと。…あのときぼくたちを虐殺してみせたときのようにね」


言葉が大人たちの胸にしみこむまでに、いくばくかの時間が必要だった。

ハルミの言葉が終わるのを待っていたように、外の日差しはゆっくりとに翳ってゆく。

回復した刑事たちの視界には、変わらず難しい顔をした愛らしい幼児がいるだけだった。

そのときひとりの幼児が、『社長室』のドアを叩いた。

電話機を抱えたマナミが姿を現した。


「あの、お電話です…」


会社にたった一つしかない外線電話。いまだどこにも公表していない番号であったが、《彼ら》は難なくこの番号を探し当てたらしい。

電話に出たミユウは、にべもなく、

「番号間違ってませんか?」と言い捨てて通話を切った。

しかし受話器から手を放す間もなく再び呼び鈴が鳴る。


『ばっ、話も聞かずに切るんじゃねえ!』


「はい、こちらライライ軒です。ラーメンいっちょうにチャーハン二人前ですか! ただいま混み合っててチョー待ってもらってます! ああ、待てない? じゃあ忙しいんで切ります!」


がちゃん!

表情ひとつ変えず、電話を切る。

ライライ軒はねえだろうというツッコミ視線をミユウはそよ風のように受け流す。間違い電話で済んでくれれば楽なのに。そんなミユウの呟きが聞こえたかのように、看護士がしのび笑いを漏らした。

相手もいささか混乱したのだろう、数瞬の沈黙があってから、再び勇を鼓したように電話が鳴り始める。

ワンコールで受話器を上げると、さすがに先方は言葉を荒げていた。


『こっちは例のお姫さまを預かってんだぞ! あんまりふざけてるとブチ殺すぞ!』


お怒りはごもっとも。

ようやく間違い電話では押し切れないと覚悟を決めたのか、ミユウは今度こそ先方の言い分を聞き分けよく聞いていた。

そして一方的な要求ばかりの通話が切れると、ミユウは淡々と会話の内容を報告した。


「会談場所を指定してまいりました。いかがなされますか?」


ハルミはふたりの刑事を見て、にっこりと笑って見せた。


「お姫様奪還のチャンスを差し上げますよ」


おまえたちがなにを調べていたのかはすっかりお見通しだというその顔に、刑事たちはやや鼻白む。もはやただの幼児などと軽く扱える空気はない。

もともと拘束されているわけではなかった刑事たちは、立ち上がるなりハルミの机に取り付いた。


「「テロリストどもが来るのはどこだ!」」

「お教えすることにはやぶさかではありませんが、大丈夫なのですか? 拳銃もまともに撃たせてもらえないこの国の警察官が、国際的な武装テロリストにどうやって対抗するつもりですか?」

「相手は武装してるのか…!」


ユウタ刑事が絶句する。国際テロリストたるもの、銃火器のひとつやふたつ持っていなくてどうする、というところだが、この国の警察というのはたいていこんな程度の認識なのだろう。


「まあ、自衛隊とはいいませんが、警察ご自慢の特殊部隊程度は連れて行ったほうがいいと忠告だけはしておきます。ここから先はあなた方の自己判断、自己責任でお願いいたします」

「むう…」


むろん現場の刑事程度に特殊部隊の投入判断などできようはずもない。

ミユウが会談場所を耳打ちすると、ふたりの刑事は挨拶もそこそこにばたばたと部屋を出て行った。

ミユウがハルミを見て、所見を述べた。


「この国の警察戦力はあてにしないほうがいいです。いたずらに騒ぎが大きくなるだけです」


大規模な銃撃戦に警察が関与したとなれば、世間を騒然とさせるニュースとなるだろう。そうなれば騒ぎに関わったとしてこのできたばかりのルン王国コミュニティが世間に露出してしまう危険性もある。そのリスクに対して、この国の警察がテロリストたちを一網打尽にできる可能性は極限までゼロに近い。むしろ発砲する間もなく全滅させられる可能性のほうがはるかに大きかった。


「どれだけ弱かろうと、彼らは国家権力の象徴なんだ。恐ろしいまでの闇を秘めた《彼ら》であっても、無視はできないはずだよ。《彼ら》は基本的に合法の側にいることを好むからね」


ハルミは執務机の下の引き出しから小さなケースを取り出して、天板の上に置いた。


「屋上に取り付けた通信機は、もうちょっと予算を出していいから出力を上げといたほうがいい。会話がなかなか聞き取れなくて、往生したよ」

「規制内では最大出力のものなんですが……連絡はついたのですね?」

「『例の鉱山』のめぼしい石を送ってもらった」


開けられたケースの中には、大きな無色透明の塊が収められていた。

それがダイヤの原石であることが分かると、立ち尽くしていた近衛隊副長が喜声を上げた。


「ルンのダイヤモンド…!」


それは世界最大クラスのダイヤの原石であった。四百、いや五百カラットはあるに違いない。そのクラックの少ない透明感の強さは、巨大な宝石を削りだせる可能性をありありと証明している。


「女王陛下の宝石よりも大きいかも…」


看護士は魅入られたようにその輝きに見とれている。


「こいつを現金化して、必要なものを早急に揃えよう。アントワープは《デの字》が牛耳ってるから、中東のモグリのところに流してみたらいい」


チベットの奇跡…。

その奇跡は、そうして意外とあっさり復活したのだった!






新生ルン王国は、『鉱山』の採掘を再開した!

劇的な財務基盤の回復により、新生ルン王国近衛隊のあらゆる装備が最新化されることとなった!


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