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照明ひとつないその室内は、本来漆黒の闇に包まれるべき小空間であった。

しかしその中は存外に明るい。部屋の主人を囲むように配されたモニター群が、世界のいたるところで起こる事象を映像としてとめどなく吐き出しているからである。

たちこめる電子臭が、この部屋の主人たる彼の精神を安定させる。

ここは、《神の間》だ。彼への面会を待っている有力者たちが、画面の向こうで見られているとも知らず側近たちと謀議している。視界の隅で流れ続ける各国の証券市場の表のデータと、《焔家》の力が晒しうる《裏》データが、めまぐるしい入出力で明滅する。

この一分一秒の間にも、焔家は刻々と肥え太り続けている。


「まもなく領海にさしかかります。《支配人》」

「そうか」


彼はC国では名の知れた錬鋼集団という会社の所有者であり、また富豪でもあったが、同時に《焔家》の頭角を現しつつ有能な使用人のひとりでもあった。

東北地区支配人。それがグループ内での彼の地位であり、有能でありすぎる彼はその地位ではむろん満足などしてはいなかった。


(まったく、なんで私がこんなことを…)


たまたまこっちのほうで商談中であったというだけで。

しかし《焔家》の大老が望むのなら、彼はおのれの忠誠心を示すためにたとえ飢えた獅子の檻にでも入って見せねばならない。《焔家》の大老にはむかうことは、おのれの一族すべての破滅と等しいからだ。

要人専用の執務室から足を踏み出すと、彼を包んでいた全能感が急速に薄らいでいく。


「それで、例の姫君の身柄は押さえたのか」


専用のエレベーターを降り、数段のステップを登ると、そこには巨大なタンカーの上層甲板が広がっていた。

《焔家》が所有するLNG船のひとつである。シベリアのガス田と渤海諸港を結ぶ定期船のなかに、まさか軍艦も鼻白むような非合法の武装艦が潜んでいることはむろんけして公にされることではない。


「それが他国の大使館に潜り込んでいるらしく……はい、E国大使館です。ルン王国外事部の引渡し要求に言葉を左右して応じようとしません」

「どうしてE国が…」


E国、と聞くと、欧州最大の資源メジャー《メルケル》を連想してしまう。世界各国で権益獲得を妨害されてきた憎憎しい敵手だが、最近は《焔家》の勢いが明らかに強まっている。資源ナショナリズムの高揚で北方R国で手ひどい目にあった《メルケル》は、そちらの火消しで手一杯で、《焔家》に嫌がらせをするような余裕はないはずだった。


「そうか、あの国王の絡みか…」


ルンの新王は、たしかE国で教鞭をとっていた経歴があったはずである。

元教え子などという便利なコネクションが、大使館がらみの有力なポジションにあるのかもしれない。

彼は日本の警察官僚数人にもそれなりに影響力を確保していたが、相手が外交官ともなると彼らの優秀な警察力も治外法権の壁に阻まれて無力となる。

甲板には、彼を乗せるヘリがローターを回転させ始めている。


「…部長につないでくれ。そうだ、駐日欧州委通商部のステファン・ヒュームに、《焔》の李陽文からだといえばいい」


全世界的な規模で計れば、彼は取るに足らぬ一企業人にしか過ぎなかったが、《焔家》の使用人としてならば国賓として遇す国さえ存在する。

話はすぐについた。外交官特権は非常にやりにくい力のひとつであったが、そういう場合の対処のしようは心得ていた。下が転ばぬなら、上の人間を転ばせればいいのだ。


「先に特別機で現地入りした者たちに、大使館の件はクリアになったと伝えろ。まずは姫君の身柄を確保だ。わたしにあまり無駄な時間は使わせるな」


《焔家》の東北地区支配人、李陽文(43)の口から出た続く言葉は、ヘリの爆音にかき消された。






「裏口に車を用意しました。お逃げください、プリンセス」


その落ち着いたバリトンの声音が、好きになりかけていた。

駐日E国大使ハミルトン卿は、高校時代の恩師の娘というだけで、格段の親切を示してくれた。彼の協力がなければ、もともとこの日本行も計画の段階から成立はしなかった。

小一時間ほど前に階下に騒々しい訪問客が来たことはわかっていた。E国大使館は一般にもよく公開され、それほど閉ざされた空間というわけではなかったが、階下から伝わってくる怒声は、無教養からくる一部の一般人の騒々しさとは別種のものだった。


「《彼ら》が来たのですね。…いままでお世話になりました。あのスコーンの焼き方を奥様から伝授していただこうと思ってたんですが……残念です」

「また次に日本にこられましたなら、いつでも。ここの扉は、プリンセスに対していつでも開いていますよ」

「今度はもっと腕によりをかけたウェールズ料理を用意するから」


大使とその夫人に体をぶつけるように抱きついてから、イリヤーは目に浮かんだ涙を指でこすった。


「わが国がもっと平和を取り戻せたなら、ぜひご招待差し上げますわ。ルンの伝統料理も、素朴ですがなかなか興味深い味わいがあって…」


廊下のすぐ近くにまで、押し問答する人の気配が近づいてきている。一階の公的な場所であるならまだしも、上階の住居にまで勝手に押し入ろうというのは相当に常識を逸脱している。

ルン王国の外事部一級書記官を名乗ったという。しかし外交官一人ならばまだしも、警護やら民間人までぞろぞろと従えて他国の大使館員と悶着を起こすなど、イリヤーの身が縮まるほどの醜聞である。

イリヤーが大使にかばわれるように廊下に出たときには、すでに闖入者はすぐそこまでやってきていた。イリヤーは顔を隠していたが、ルン国人たちはすぐさまそれを見咎めて、


「姫!」

「イリヤー王女殿下!」と口々に呼ばわった。


ちらりと恥知らずなルン国人を見たイリヤーは、そこにこの世でもっとも嫌悪する人物を発見して、怖気をふるった。

脂ぎっただんご鼻の男。

いつもいつも父王を責め立てて、王が本当に何も知らないと悟ったときあろうことか玉座の前につばを吐いた民間人。


「ダ、ダムサカ…」


ダムサカ・バディ。

《彼ら》の現地代理人としてルンのダイヤモンド鉱山を不正に買い取った売国奴。ダムサカ・マテリアルがダイヤ採掘の不良で経営が苦しくなっていると聞いたときにはイリヤーは自室でこっそり拍手喝采したものだった。


「イリヤー殿下!」


ダムサカの野太い怒声が上がったが、イリヤーは無視した。相手に奴がいるのなら、絶対に捕まってなどやらない。失策続きのあの男が、《彼ら》の不興を買って寒空に蹴りだされるのならこれほど愉快なことはない。

大使館は不測の事態に備えて、要人をひそかに脱出させる逃げ道を用意している。イリヤーはなんの障害もなく裏口に出ると、外交官特権という名の登録ナンバーをつけたベントレーが用意されていた。運転手がドアを開けて待っている。

さて、どこへ隠れようかしら。

ルン王国は、数年前まで東京に立派な大使館を持っていた。だが内戦が始まってからその維持が難しくなり、とうとう引き払ってしまった。

本当は彼女が連れ帰ろうと決心している前王ティラカのそばにいたいのだが、この暴漢と大差ないルン国人たちを引き連れていくのはさすがに呆れ返られるだろう。あの側近の少女がなんと言うか。

しかしイリヤーの前向きな思考は、そこでさえぎられた。

乗り込んだ車の中に、すでに先客がいたのだ。


「お待ちしておりましたよ、イリヤー姫」


閉められたドアの向こうで、ハミルトン卿が顔色をなして叫んでいる。

見れば、建物の脇に昏倒させられた大使館員たちが転がっている。

イリヤーは今度こそまじまじと、隣に座る老人を見た。

アジア人……いや、この老人がC国人以外である可能性はほとんどないと言っていい。焔家の代理人。


「《王大人》、どちらへ?」


運転席から、感情のこもらない低い声がした。


「《例の茶館》に行っておくれ」


閉じていた小柄な老人のまなざしが、初めてイリヤーに向けられた。


「この国で何をされていたのですかな、イリヤー姫」


イリヤーはドアレバーに取り付いたが、ドアはまったく開かない。ロックがかけられているのだ。

ちっ。

そのとき運転手が小さく舌打ちした。

見れば、フロントを仁王立ちして押さえようとしているイリヤーの近衛兵がいる。人の力で車を押しとどめるなど不可能だというのに。


「ゼッド!」


しかし彼の努力もむなしく、運転手が冷酷にアクセルを踏み込むと、巨漢の近衛兵といえど軽々と跳ね飛ばされた。

激しい怒りに駆られて、イリヤーは隣の老人を睨みつけたが、老人の温度の低い蛇のようなまなざしに返って気圧されてしまった。


「おいたが過ぎましたな、姫君。お国の要請どおりにおとなしく物乞い外交をしておればよかったものを。一国の姫君がこそこそと何をしておられたのか、この老人の好奇心を満足させていただけますかな」


ただの老人ではむろんありえない。

C国人は世界中にいる。《焔家》もまた彼らとともに世界中に偏在する。

イリヤーは最悪の事態さえそのとき覚悟した。



*****



「やはり、予想通りでしたね」

「もしかしたら、と思ってはいたけれど」


国は王とともに。

そういってティラカ王とその郎党は炎の中に命を捧げた。

そして王が命を受けた地により近く生まれること。それが彼らの当然の命題であったことは想定の範囲内にあった。

放映二日前に報道特集『騒乱のチベット~砕け散った奇跡のダイヤモンド』。そのスポンサーに割り込んだ《株式会社GEKKO》は、番組の前後に集中的にCMを流した。全国に一斉で放映するのに、見積り額四千二百万+消費税が提示されたが、強気の交渉と放送不況のおかげで、三千万ポッキリ(税込み)での契約に成功した!

CMの内容は、ルンの内戦を報せる戦場写真のスライドショーの後に、ルン語で書かれた広報をのせるというものだった。むろんルン語など、この国で読める人間など限られている。そのものずばり、この会社の所在地が書かれていたのだ。

で、結果として。


「隊長! お久しぶりです!」

「今生は女性であられましたか! これはまたお似合いですね!」腹を抱えて笑い転げる幼児たち。

「生まれ変わって、役立たずどもも少しはマシになったのかしらね?」板についた女性言葉で、平然と応じるミユウ。


元近衛隊の兵士たちが、ミユウを囲んでわいわいとやっている横で、


「じ、じいやは心配いたしましたぞ! ティラカさま!」

「同い年で『じいや』はないと思うよ、ナラク侍従長」


めそめそと泣きながら足に取りすがる幼児を鬱陶しそうにハルミが逃げ出そうとしている。しかしその彼を、元侍女シスターズが着せ替え人形にしようと待ち構えている。


「ティラカさま! そんなお幼児服など脱がれませ! こちらの衣装のほうがずうっと素敵でございますよ!」

「さすがはテレビの衣装係ですわ。なかなかのセンスでございます!」か


かえているのは、テレビ局からそのまま貰い受けた撮影用の衣装だった。局のほうもスポンサーからの提供品なので、気前よく譲ってくれるのだ。


「ハ、ハルくんは、マナミがお世話するから、あんたたちはあっち行っててよ!」


ふんっ、とハルミを背に仁王立ちするマナミであったが、幼児ゆえにあまり迫力はない。


「今生のお名前で呼ぶなんて不敬じゃありませんこと? ニヤ」

「転生したら、当代の名前で呼ぶのが決まりよ! あなたたち忘れちゃったの」


マナミは幼馴染みとして生を受けた自信から、先輩風を吹かしてみせた!

しかし双子の侍女シスターズもさるもの、転生者たち特有の非常に軽いノリで状況を受け入れた!


「じゃ、ハルミさま」

「ティシャさまみたく、ハルさまのほうが呼びやすくってよ。ナユ」

「それじゃ、ハルさまね。マユ」


春日ナユ・マユ(5)は、マナミを見て挑戦的に笑った。


「今生は同い年だから、あなたばっかりかわいがられはしなくってよ」

「う~ッ!」


《仮宮》はまさに幼児たちの楽園と化していた!

準備してあった茶菓子はてんで勝手に次々袋を破られ、ジュース類は無残に飲み散らかされた!

そうして、そのさまを入口から呆然と見つめるレナとリョウジの姿があった! ルン国人たちの秘密のアジトを暴き出したふたりであったが、そのカオスっぷりに言葉を失っていた。


「ど、どうなってんだ、これ…」

「キ、キケンなジョウキョウだわ」レナはハーレム状態のハルミを見て、表情をこわばらせた。






いっきに体をなし始めたルン王宮!

《株式会社GEKKO》は、このお子さまたちの菓子代をまかない続けられるのか!

近衛隊長ティシャ・クランウルの手によって、ルン王の近衛隊は武闘技の訓練を開始した!


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