第二話 四.人の気持ちがワカラナイ
それから数日過ぎたある日のこと。
物語の舞台はがらりと変わり、ここは、アパートの住人の七瀬川由依が通う「枝垂桜高等学校」である。
東京都でも選りすぐりの進学校であるこの学校。卒業生の大半が将来の目標を持ち、夢と希望を胸に大学へと進学していく。無論、卒業年次生である由依も例外ではなかった。
真新しい白い外壁に浮かび上がる教室の窓。その窓際の机に一人佇み、机の中にある教科書を黒いカバンに片付ける由依。本日の授業も終わり、彼女はこれから下校の支度をしようとしていた。
「あ、由依。まだいたんだね、よかったー。」
教室の出入口から入ってきた女生徒二人が、由依を見つけるなりパタパタと駆け寄ってくる。どうしたの?と尋ねる由依に、二人組はこれから寄り道しようと、乙女らしい課外活動へと誘ってきた。
学校の近くの公園で、アイスクリームの移動販売をやっているのだと、ワクワクドキドキしながら声を弾ませる女子高生たち。しかし、彼女たちと同じ年代だというのに、由依はいつもの通り冷静沈着のままであった。
「ごめんなさい。わたくし、早めに帰らないといけないの。せっかくのお誘いだけど、また次の機会にしてもらえると嬉しい。」
由依はお嬢様っぽく丁重にお断りを入れると、カバンの中へ教科書とノートを詰め込み始める。
友人のつれない態度に、女生徒二人がまたお勉強なの?と呆れ顔で問いかけると、由依はあっけらかんとコクンと冷淡にうなづくのだった。
「だいたい真面目過ぎるよ。あなたのあの成績なら、進学につまづくことなんてないでしょう?」
「そうだよ。むしろ、わたしたちの方が進学先見つからなくて、ヤバイって感じだもんね。」
そんな忠告などに耳を傾けることなく、由依は引き締めた表情で、初秋といえるこの時期が大切なのだと、遊び盛りの二人組を叱るようにそう窘めていた。
しまいには、愚痴のような小言までこぼし始める、勉学一本槍の生真面目な少女。これにはさすがのお友達も、肩をすぼめて深い吐息を漏らすばかりであった。
「あら、何かしら?」
引っ張り出した教科書に挟まっていたのか、由依の足元に真っ白い一通の手紙が落ちていた。それに気付くなり、椅子に座ったままその手紙を拾い上げる彼女。
由依は手紙の封を切って、仕舞われている便箋をそっと取り出してみる。そんな彼女のそばに忍び寄り、黒い文字が書かれた便箋を覗き込む、他人事ながらもそわそわする悪趣味な友人たち。
「ちょっと、由依!これってもしかして!?」
「間違いない、これ絶対ラブレターだよ!」
背後できゃいきゃいと沸き立つ彼女たちに、由依は困惑した顔をしながら口を尖らせる。
「もう、あなたたち、茶化したような言い方しないで。今のわたくしに、このようなものは不要なのに。」
ずっしりと重量感のある溜め息をつき、便箋に綴られた思いの丈に目を通す由依。その文章は紛れもなく、彼女に想いを寄せる男子学生の告白そのものであった。
その整った顔立ちと、おしとやかな性格のせいか、由依は目立つほどではないが、同級生の男子から憧憬の眼差しを向けられることもなくはない。いやむしろ、もてる部類に入るだろう。
そんな由依ではあるが、いざ告白されても、見てご覧の通り、彼女は戸惑うばかりで興味も関心も示すことはない。周囲からもったいない!と言われようが、彼女はいつも悪気のないままに、男子どもをことごとく袖にしてしまうのである。
「夕方4時15分に屋上で待ってます・・・ですか。はぁ、仕方がありませんね。」
帰る支度も二の次にして、由依は吐息をつきながら席を立つ。
恋する男子に会いに行こうとする由依を捕まえて、お友達二人はどうするの?どうするの?と興奮気味に問いかけてきた。果たして、彼女が口にする答えとはこれいかに・・・?
「わたくしの答えは一つ。お付き合いするつもりはありません。以上。」
それはもう、凍りつくような冷たい言葉を口にし、由依はたった一人で教室を後にする。彼女の向かうべき先は、机の中に手紙をこっそり忍ばせた男子が待つ屋上であった。
===== * * * * =====
校舎の大きな時計は午後4時を告げたばかり。空はにわかに赤らんできて、もう少しで背の高いビル同士の隙間に夕日が映る頃だろう。
ここは「枝垂桜高等学校」の教室棟の4階にあたる屋上。下校時間を過ぎた屋上では、生徒らしき姿もほとんど見当たらず、聞こえてくるのは巣へ帰るカラスの鳴く声だけであった。
スチール製のドアをこじ開けて、風の吹き抜ける屋上へとやってきた由依。彼女は髪の毛とスカートを手で押さえつつ、ここにいるべき男子生徒の存在を目で追っていく。
風に晒される手すりに手をつき、その風などお構いなしにじっとしている男子の姿。告白のために待つ彼の後ろ姿が、夕暮れに染まりつつある由依の小さな視界に映った。
「ああ、七瀬川。来てくれたんだね。よかったよ。」
由依が来てくれたことに、ホッと胸を撫で下ろしていた男子生徒。彼は彼になりに、手紙をちゃんと読んでもらえたか気が気でなかったのだろう。
襟元にたるみなく巻いたネクタイに、汚れのないブレザーを着衣した男子生徒の正体は、由依と同じクラスメイトであった。手紙に差出人が書かれていたため、彼女も彼の素性は当然わかっていた。
「お手紙をくれたことについては、とても嬉しいです。どうもありがとう。」
気持ちを便箋にしたためてくれたことを、由依は礼節に重んじて丁寧な口調で感謝を伝える。この前置きのようなフレーズは、彼女にとって、交際をお断りする枕詞のようなものであった。
そんなこととは露知らず、男子生徒はフーッと大きく息を吐き、気合とともに交際を申し込もうと意気込んだ。
「な、七瀬川ッ!オレと、このオレと、つ、付き合ってくれないか!」
男子はまさに男らしく、潔く、単刀直入の告白を披露した。夕焼けのせいか、それとも照れているせいか、彼の顔色は鮮やかな朱色に染まっていた。
そんな日本男児の心意気など、由依の前では吹き抜ける風と一緒。彼の熱意は彼女の心を動かすことなく、遠くの街並みへと飛んでいってしまった。
「わたくし、大学受験へ追い込みをかける大事な時期です。お気持ちはいただきますが、お付き合いについては丁重にお断りさせていただきます。」
「え、ええ!?そ、そんなに早くお断りぃ!?」
瞬時に振られてしまい、手すりに背中を押し当てて呆然とするしかない男子生徒。ちょっと待ってくれと、彼は由依に拒否する理由を問いただそうとした。
「いくらなんでもそれはないよ!オレのどこが気に入らないんだ!?直せるところがあるなら直すから、七瀬川、どうか教えてくれよ!」
大学受験を理由にする由依の淑やかな声と、そんなのは理由にならないと納得しない男子の荒々しい声が、他に誰もいない屋上の上で交錯しながらこだまする。
男子は気持ちの高ぶりから、訴える声の怒気をますます強めていく。由依はそれに怖さと焦りを覚えて、当惑の表情で困り果ててしまった。
「七瀬川!オレはこんなの、絶対に納得できないからな!」
「そ、そうおっしゃられても、わたくしにはどうすることも・・・。」
ちくしょー!と、男子生徒は悔しさの混じった怒号を轟かせた。彼は手すりにもたれかかったまま、顔をうつむかせて肩を震わせる。そして、目尻から悔し涙が流れるのに、それほど時間はかからなかった。
ここまでの事態を想定していなかった由依は、何とか男子の高揚を落ち着かせようと、申し訳ない気持ちをそのまま言葉に変えていく。しかし、彼女の一つ一つの慰めは、彼の気持ちをさらに激情させてしまうのだった。
「もういいよ!人の気持ちもろくに考えないヤツに、オレの気持ちがわかるもんかっ!」
男子生徒は腕で目を拭いながら、呆然としている由依の横を走り抜けていった。彼女は身動きを取ることができず、走り去っていく彼の後ろ姿に振り返ることすらできなかった。
一人残された由依の耳に、屋上の鉄製のドアが閉まる大きな音が鳴り響く。それでも彼女は、まだ1ミリたりとも全身を動かすことができずにいた。
「・・・人の気持ちも、ろくに考えないわたくし。」
由依の心の奥に、さっきの男子の捨て台詞が突き刺さっていた。それはとても深く刺さっており、気持ちの切り替えぐらいでは簡単に抜けそうにない。
本当に考えていないのだろうか・・・?いつもと同じように、丁重に交際を断っただけなのに・・・。由依は戸惑いながら自問自答する。しかし、その答えを導き出すことなどできるはずもなかった。
屋上に佇む一人の少女を、真っ赤な夕日がおぼろげながらに包み込んでいた。
===== * * * * =====
時刻は夕方5時を経過していた。
市街地に夕闇が迫っているせいか、アパートのリビングルームにはもう、煌々と室内照明が灯っていた。ということは、リビングルームはもぬけの殻ではないということだ。
リビングルームのテーブル席に腰掛けるのは、住人のジュリーとあかり。そして、つい最近、検査入院から退院したばかりの奈都美であった。
「今後はこれに懲りて、もうムチャはしないことネ。奈都美。」
「本当よ。プロスポーツ選手なんだから、体のケアはしっかりしないと。」
退院して早々、小言のように説教を受けていた奈都美。
奈都美は右足首をテーピングで固定しているものの、ある程度歩けるぐらいまでには回復していた。ただ、チームの練習に参加するには至らず、これから数回に渡り、病院にてリハビリを実施する予定である。
「わかってるよー。もうこんな痛い思いはうんざりだもん。」
テーピングしている足を揺すって、奈都美は顔をポリポリ掻きながら苦笑いしていた。
実のところ、奈都美が抱えている痛さは足の痛みだけではない。彼女にしてみたら、戦線離脱の間、試合にも練習にも参加できず、レギュラーの座から遠のいていくことの方が痛かったのだ。
とはいえ、焦っていても怪我が治るわけでもない。奈都美はそう割り切って、今は安静にしつつリハビリをこなしていこうと考えていた。
「もうすぐお楽しみ会があるのに。この足だからって、マサから見学するよう言われちゃった、残念。」
「ああ、ゲーム大会のことネ。」
もうすぐ10月も下旬になろうかとしている。そんな時期ともあり、次の日曜日、このアパートの恒例行事であるお楽しみ会が開催される予定なのだ。
そのお楽しみ会の内容は何とゲーム大会。もちろん、企画したのは管理人の真人である。
どのようなゲームで遊ぶのかなど、大会の詳細については、まだ真人の口から語られてはいない。当日までのお楽しみにしてくださいと、彼は住人たちに期待を持たせようとしていたわけだ。
「それにしても、管理人はどんなゲームを考えているのかしら?わたしたち女性でも、気軽にできるものだといいけど。」
「あ、それは問題ないって言ってた。マサが言うには、激しいアクションはないけど、ハラハラドキドキが連続するゲームだってさ。」
奈都美の説明を耳にしながら、いったいどんなゲームなのだろう?と、それぞれ首を捻るジュリーとあかりの二人であった。
その時、リビングルームのドアを開けて、ただいまの挨拶をする住人がいた。その人物とは、いつもより帰宅が遅くなってしまった勤勉学生の由依だ。
「あら、おかえりなさい、由依さん。」
「おかえり、由依。今日はずいぶん帰りが遅かったわネ。」
普段通りに微笑んで振る舞おうとする由依。しかし、人間観察に目ざとい他の住人たちは、彼女の曇りがちな表情に異変を感じ取っていた。
「由依ちゃん。何だか、元気がないみたいだけど。何かあったの?」
奈都美からの問いかけに、微笑しながら何もないと答える由依だが、彼女の顔には、明らかに精神的な動揺が表れていた。
帰宅が少しばかり遅かったこともあり、勉強に熱中し過ぎているのではないかと、他の住人たちは揃って由依の体調を気遣う。ただでさえ、華奢な体格で繊細な性格の持ち主だから尚更だ。
「本当に大丈夫です。勉強は適度に休憩を入れてますし。睡眠時間もしっかりとってますから。」
由依は頭を小さく横に振って、体調面に問題がないことをアピールした。
ジュリーにあかり、そして奈都美の三人は、それでも不安な思いを拭うことはできなかったが、由依本人が大丈夫と言い切る手前、あまり詮索するのも逆効果だろうと思い、それ以上追及しようとはしなかった。
「それでは、わたくしはお部屋へ行きますね。」
他の住人たちに向かって、礼儀正しくペコリとお辞儀する由依。最後まで三人に気遣われながら、彼女は静かな足つきでリビングルームを後にした。
自室のある二階へ向かうため、由依は一歩一歩重たくなった足を持ち上げる。疲労しているわけでもないのに、彼女の足取りはやけに重たかった。
「・・・人の気持ちを考えない。人のことが理解できないわたくし。だから、わたくしの演劇には、暖かみが感じられない、ということなの?」
交際を断った男子学生の言葉と、かつて、信頼する居太郎から指摘された言葉が、まるで走馬灯のように、由依の頭の中を幾度となくプレイバックしていく。
演劇という世界を目指し、創作という道を志す由依は、思い悩み、そして苦しみに戸惑う。その答えを勉学以外でどう習得したらよいのか、彼女は正直、道筋すら見出すことができなかった。
独り言を囁き、ボーっとしたまま階段を上り切った由依。そんな彼女を待っていたのは、二階の廊下から突然飛び出してきた人物との衝突であった。
「きゃっ!?」
「うわっ!?」
由依は衝突の勢いで、お尻から床に倒れ込んでしまった。持っていたカバンが宙を舞い、床の上に激しく叩きつけられる。
痛さのあまりお尻を擦りつつ、由依が片目を開けてみると、そこには、モップを手にした人物がびっくりした表情で立ち尽くしていた。
「由依さん、だ、大丈夫!?ごめん、足音が全然聞こえなかったもんだから。」
「管理人さん・・・。」
ぶつかった張本人の真人はすぐに手を差し伸べて、尻餅をついたままの由依をゆっくりと立ち上がらせる。申し訳ないと詫びる彼を前にして、彼女は自分の不注意がいけなかったからと、彼に負けないぐらいかしこまった謝罪を口にしていた。
床に落ちたカバンを恥らいながら拾う由依。彼女は気まずそうな顔をしながら、真人に一言挨拶だけ済ませて、自室へと駆け込んでいこうとする。
「あ、由依さん、ちょっと待って。」
いきなり呼び止められて、由依はビクッと全身を硬直させる。彼女がそろ~っと顔を振り向かせると、真人が声を掛けた理由について語り始める。
「次の日曜日なんだけど、月に一度のお楽しみ会を実施するつもりなんだ。由依さんも参加してくれるかな?他の住人たちには了解をもらってるんだよ。」
「・・・次の日曜日ですか。」
由依は学生であるため、日曜日に学校があるわけではない。友人ともあまり外出せず、アルバイトもしていない彼女にとって、日曜日は演劇台本を書いたりする貴重な休日でもあった。
だからといって、せっかくのお誘いを無碍に断ることができない由依。住人たちとの触れ合いも大切にしたいと思う彼女は、真人からの打診を快く受け入れることにした。
「よかった。それじゃあ、当日の時間と場所は後で教えるから。よろしくね。」
真人は荷が下りたのか、すっきりとした表情で階段を下りていった。
一方の由依はこの時、気持ちがすっきりと晴れることはなかった。それでも、お楽しみ会に参加する時ぐらいは、みんなと楽しい時間を共有したいと、心底からそう願う彼女なのであった。