第九話 三.冷たい床の二足のわらじ
翌日の夕方近く、物語の舞台はあかりの故郷である大阪府の田舎町へと移る。
五浦空手道場の師範代として、歴史あるこの道場の看板を守り抜くために、あかりは敵対する道場の主との真剣勝負を目前に控えていた。
万全たる態勢を整えようと、すでに道場でもある実家に帰ってきていたあかり。そして彼女は帰宅するなり、道場主の父親と姉妹の真倉夜未の二人に、すべての事情を洗いざらい打ち明けていた。
勝負の時が刻一刻と近づく中、あかりは己の精神と肉体を磨き上げようと、帰ってきてから早々に、休む間もなく稽古で汗を流していた。
「それでは基本的な攻撃の一つ。正拳突きの練習をしましょうか。」
道場着を身に着けたあかりは、風を切るような素早い正拳突きを披露した。彼女のことを真剣な眼差しで見つめる練習生たちは、いつもの門下生たちではなく、まだあどけない顔をした少年少女たちであった。
この道場では定期的に、小学生の練習生を対象にした空手教室を実施していた。本来、ここで師範を務めるはずの夜未の負傷退場により、あかりが代役としてこの役目を仰せつかったというわけだ。
「そうそう、その調子よ。もっとお腹から声を出して。腰に力を入れながら拳を突きなさい。」
立派な師範代とはいえ、あかりはこれまで、門下生や練習生に教示することなど一度も経験がなかった。それでも、身振り手振りで熱血指導する彼女の姿は、傍目で見たら不格好でもなく、さらに本人もまんざらではなかったようだ。
そんな才能ある指導者のことを、道場の脇の廊下から眺めていた父親と夜未の二人。普段から笑顔を向け合うことが少ないこの親子、今日ばかりは口角を吊り上げて頬を緩めてしまうのだった。
「おい、夜未。このままやと、おまえの役目、取られるんとちゃうか?」
「これはあかん。うちより、あかりの方が子供受けしよるし。はよ復帰せなあかんな。」
つい最近まで入院していた夜未だが、傷こそ完全に癒えてはいないものの、ようやく退院するところまでこぎつけることができた。とはいえ、松葉杖や包帯とギプスといった医療用具と一緒の退院ではあったが。
師範に立つどころか、自身の稽古すらも励むことができない夜未。不甲斐なさと悔しさに唇を噛み締める思いながらも、姉妹のもう一人の勇敢な姿に、彼女の心は不思議とすがすがしくもあった。
「はい、では最後は腕や脚をしっかり伸ばして。ちゃんとやらないと、明日の朝、起きられなくなるぐらい手足が痛くなるからね。」
練習生たちの入念なストレッチングも済んで、本日の空手教室は順調なまでに終了となった。
少年少女たち一人一人の明るく、とてもさわやかなお礼の挨拶を受けるたびに、あかりの気持ちも穏やかな安らぎに満たされていく。黙々と漫画を描き続ける私生活だった彼女にしてみたら、このような体験はさぞ新鮮だったであろう。
練習生たちも去り、賑やかだった道場が水を打ったように静まり返った。それを見計らい、道場主ともう一人の師範代が、すり足であかりのもとへと近づいてくる。
「これはこれは、あかり先生。見事な教えっぷりやったな。」
「・・・茶化さんといて。言っておくけど、わたしの代役は今回限りやで。」
先生などとからかわれて、照れくさそうに不平不満を口にしたあかり。早く怪我を完治して、道場の師範代に復帰しなさいと、不敵に笑う夜未のことを説教っぽくそう諭していた。
道場主はそんな姉妹のやり取りを眺めて苦笑する。いつも厳つい面持ちで、腕組みしながら悠然と構えてはいても、二人の子供を持つ父親であることに相違ないのだ。
静寂に包まれた道場内が親子三人だけとなり、おのおのが、寒さで冷たくなった板場の床の上に正座した。先ほどまでの和やかさも失せて、道場内が張り詰めたような緊張感に包まれていく。
「どうや、あかり。士気は上がっておるか?」
「ええ。東京にいる時に比べたら、胸が異様なほど熱くて、気持ちも高ぶってる。」
父親である道場主の問いかけに、あかりは引き締まった表情で今の心境を語った。
あかりは決戦を間近に控えて、闘うことへの緊張感、そして未知なる敵と闘う恐怖心が入り交じり、自らの血がざわざわと騒いでいることを実感していた。
「勝機はあるんか?敵は強大やで。」
夜未からの問いかけには、自信満々にうなづこうとはしなかったあかり。ほぼ互角の実力を持つ夜未を撃沈させた男が相手だけに、そう易々と勝たせてはくれないと思うのが正論だ。
だからこそ、あかりはまず、闘うことへの姿勢作りからだと訴える。気持ちを落ち着かせて、心を研ぎ澄まし、宿敵に弱点を悟られない精神力を身に付けることだと。
「やるからには負けない。いや、負けるわけにはいかない。あの紅先剣三郎にも、この追い込まれた重圧にも、わたし絶対に負けるわけにはいかないんや。」
あかりの敗戦はすなわち、五浦空手道場の閉鎖を意味する。代々受け継できた由緒ある看板を死守すべく、そして、稽古に励んでいる門下生や幼い練習生たちのためにも、彼女はどんな苦境に立たされても決して負けるわけにはいかない。
その由々しき事態、無論だが、道場主の父親も師範代の夜未もそれは承知のこと。この二人にとって何物にも代え難い道場の運命を、ここにいるあかり一人に託すしかなかったのである。
「父さん。・・・それに、夜未。」
父親と夜未の名を小声でつぶやき、あかりは額を床に押し付けるように頭を下げる。
「ホンマにごめんなさい。わたしの自分勝手な判断で、道場の存続の危機を招いてしまって。・・・どんな処罰も受け入れる覚悟や。でも、それは勝負が終わるまで堪忍してほしい。」
人一倍責任感の強いあかりらしく、もう何度も謝罪をしたにも関わらず、道場の存亡をかけた一騎打ちを勝手に決めたことについて、彼女はしきりに自責の念を繰り返していた。
事態が事態だけに、気難しそうな表情をしている父親と夜未の二人。しかし二人の返事は尖ったものではなく、叱咤激励するような温情のある声色であった。
「紅先が道場の主になった時点で、いずれは闘う宿命だったんや。後悔などいつでもできる。今は勝つことだけに集中せえ。」
「そうや、気にすることやない。身勝手な行動なんか、うちも同罪やさかい。勝負が終わってから、姉妹二人で懲罰を受け入れようやないか。」
もう迷うことなどない。五浦空手道場の威信と底力をとことん見せつけてやれ。二人の励ましの言葉は、あかりの重圧を消し去るばかりか、眠れる闘志をさらに呼び覚まさんとしていた。
「ありがとう、二人とも。」
あかりは頭を起こしながら静かに瞳を閉じる。そして、小さい含み笑いを浮かべながら心の中でそっと囁く。
「・・・漫画家兼拳闘家というのも、そんなに悪くない肩書きかも知れないわね。」
凛とした道場で顔を向け合う三人は、その後も、敵と闘う心構えや戦術などをつぶさに話し合った。
敵対する道場の道場主、怨敵である紅先との決戦のその時まで、あかりは心が乱れぬよう精神統一し、英気を養うことだけに専念する。そして、道場のみんな、アパートにいるみんなのためにも、価値ある勝利をここに宣誓するのだった。




